第44話:彼女シャツは「今カノ」の特権
柔らかな陽光が差し込む夏休みの朝。
私はリビングのローテーブルでノートパソコンを開き、ひたすらキーボードを叩いていた。前期で必修単位の一つを落としてしまい、その救済措置としてレポートの提出を義務付けられていたのだ。
夏休みだというのになぜこんなことをしなければならないのかとは思う。だが、そもそも私の期末試験の成績が壊滅的だったのが悪いのだから言い訳のしようもない。講義はいつも真面目に出席していたからと温情をかけてくれた教授にむしろ感謝しなければならないくらいだ。
レポートの提出期限は来週の水曜日。今日のうちに骨組みだけでも完成させておかなければ、夏季休暇の間のサークルや美空とのデートの予定が崩れてしまう。
「うーん……。ここ、もう少し表現を変えた方がいいかな……」
ノートパソコンとにらめっこしながら画面をスクロールしていると、廊下を歩く足音が聞こえてきた。
「……楓、もう起きてたんだ」
目をこすりながら自室から出てきたのは、美空だった。
寝起き特有の少し掠れた声と、ふんわりと乱れた黒髪。そして――その身に纏っている服を見た瞬間、私の思考は完全にフリーズした。
「えっ……ろ……」
美空が着ていたのは、私が部屋着兼パジャマとして愛用しているオーバーサイズのTシャツだった。ダボっとしたシルエットのせいで襟元が大きく崩れ、綺麗な鎖骨と華奢な肩が剥き出しになっている。腕も肩も本当に細い。同じものを食べているはずなのにどうしてあんなにほっそりしているのだろう。
おまけにTシャツの丈が長すぎるせいか、下に履いているショートパンツがすっぽりと隠れてしまい、スラリと伸びた白い生脚がそのまま露わになっていた。
端的に言って可愛すぎる。あまりにも目の毒な彼女シャツスタイルだ。
「ち、ちょっと、美空!? なんで私の服を着てるの!?」
「別にいいでしょ。これ、すごく着心地がいいよ」
「着心地がいい、じゃなくって……! 着崩しすぎだし、目のやり場に困るんだけど!」
顔を真っ赤にして抗議する私に、美空はフッと悪戯っぽく口角を上げた。
――思い返せば、ルームシェアを始めたばかりの頃の彼女は違った。
あの梅雨の休日、衣替えの最中に私のカーディガンを羽織った美空は、「楓の匂いがして落ち着く」なんて、どこか申し訳なさそうに、遠慮がちに呟いていたのだ。
だが、今の美空にそんな遠慮は一欠片も残っていない。
「何を言ってるの。楓の服は、全部私の服でしょ?」
美空は当然と言わんばかりの顔で自分の胸元を指差し、ドヤ顔で言い放った。
「そ、そんなわけないでしょ! どういう理屈よ、それ!」
「だって私、楓の『今カノ』なんだから。これくらい、彼女の特権でしょ」
「と、特権って……」
「文句があるなら、楓も私の服を着ればいいよ。……まあ、楓にはちょっと大きすぎるかもしれないけど」
「う……っ」
身長差を理由にいじられ、私は言葉を詰まらせるしかなかった。復縁して『今カノ』に戻ってからの美空は、氷の美女の仮面を完全に脱ぎ捨て、こうして堂々と私の所有権を主張してくるのだ。
これ以上付き合っているとペースを乱されると思い、私は再びパソコンの画面へと視線を戻した。
「はぁ……もういいや。私は課題の続きやるから」
ところが、作業を再開しようとした直後。横から忍び寄ってきた美空が、私の正面――つまり、私とローテーブルのわずかな隙間に割り込んできた。
「ちょっと、美空!?」
美空は私の焦りなど意に介さず、膝の間にすっぽりと自分の体を収めると、そのまま体重を預けるように背中を私の胸に預けてきた。
「……うん。収まりがいいね」
「良くないよ! 狭いし、めちゃくちゃ作業しづらいんだけど!」
完全に抱っこするような体勢になってしまっている。私の腕の間に美空の肩があり、膝の上には美空の太ももが乗っている状態だ。美空の背中を通して伝わってくる体温と、黒髪から香る甘いシャンプーの匂いに、私の心臓がバクバクと警報を鳴らし始める。
「美空、お願いだから自分の席に行って! これじゃ集中できない!」
抗議する私に対し、美空は首だけをくるりと振り向かせ、涼しい顔で私の目を覗き込んできた。
「ダメ。私もゼミの課題をやりに来たんだから」
「だったら自分のクッションのところでやればいいでしょ!?」
「私は楓の匂いに包まれてないと、頭が回らないんだよね。効率を上げるための正当な理由だよ。だから楓は気にせずレポートをやっていて」
「どんな理屈よ……っ!」
絶対に動かないという強い意志を感じさせる瞳だった。
「じゃ、邪魔すぎる……」
結局、私は美空を膝の間に抱え込んだまま、姿勢を無理やり伸ばしてキーボードを叩くハメになった。美空の背中を通して伝わってくる柔らかい体温と、目の前で掲げられた彼女のタブレット端末の画面。集中できるはずもなく、私のタイピング速度は普段の三分の一以下まで低下していた。
――静かなタイピング音だけがリビングに響く。
美空も先ほどから真剣な表情でタブレット端末を操作していた。何やら小難しい法学の専門用語を画面に打ち込んでいるように見える。
しかし、密着状態が始まってから、わずか十分後。ピタリ、と美空の指が止まった。
「……ふぅ」
美空は小さく吐息を漏らすと、画面に何行かだけ打ち込んだ状態のタブレット端末を容赦なく閉じた。
「え、美空? もう終わったの?」
「ううん。飽きた」
「早すぎるでしょ!?」
法学部トップクラスの成績を誇り、大学でも教授から一目置かれているという市之瀬美空が、開始十分でレポートを放棄したのだ。
驚く私を余所に、美空は膝の上でぐるりと身体を反転させた。
「きゃっ……!?」
美空は私の太ももの上に正面から跨るような体勢になり、私を上から見下ろしてくる。
ダボっとしたTシャツの裾が捲れ上がり、美空の細くて真っ白な太ももが私の腰の両脇に密着する。あまりにも大胆で無防備なポーズに、私の理性が限界を迎えそうになった。
「ねえ、楓」
美空は私の首元にぎゅっと両腕を回すと、そのまま顔を私の首筋に埋めてきた。
「……んっ、くすぐったいって……」
「ねえ……もう勉強やめて、私とイチャイチャして?」
耳元で囁かれた、甘くて蕩けるようなおねだり。
一流私立大学の秀才の面影などどこにもない。目の前にいるのは、大好きな彼女に甘えたくてたまらない、ただの恋する女の子だった。
「だ、ダメだって! 私はまだレポート半分も終わってないんだから……! これに必修単位がかかってるの! 課題を終わらせないと、今週のデートも行けなくなっちゃうよ!?」
必死に理性を保ち、諭そうとする私。だが、美空は私のTシャツの袖をキュッと掴みながら、上目遣いで私を見つめてきた。その瞳は微かに潤んでおり、あまりにも卑怯な破壊力を秘めている。
「レポートなんて、後で私が全部書いてあげるから……。だから今は、私を甘やかしてよ、楓」
「うぐ……っ!」
自分の大学の課題すら投げ出した人間が言うセリフではない。だが、そのストレートすぎる言葉に、私の最後の防衛線は呆気なく粉砕された。
――ごめんなさい、教授。せっかく救済措置をくださったのに。私は、今から課題を捨ててこの女とイチャイチャします。
「……レポート。本当に、書いてくれるんだよね?」
「もちろん。今やってたレポートだったら、私なら一時間で終わるよ」
「……約束だよ? 絶対だからね?」
「じゃあ、交渉成立だね」
美空は満足そうに口角を上げると、さらに強く私に抱きついてきた。
「……はぁ、本当に美空には勝てないなぁ」
降伏を宣言してノートパソコンの画面を閉じると、美空は私の膝の上で心の底から幸せそうに微笑んだ。彼女は私の手を取り、それを自分の腰へと誘導する。
「ちゃんと抱きしめて」
「はいはい……」
促されるまま、美空の腰に手を回す。Tシャツ越しに伝わる細い腰のくびれと、確かな体温。
あの梅雨の衣替えの日、自分の服を着た美空を見て遠巻きにもどかしさを抱えるしかなかった私は、もういない。今の私は、こうして堂々と彼女を抱きしめる権利を持っているのだ。
美空は私の胸に顔を寄せると、自分が着ている私のTシャツの裾をクイッと引っ張り、挑発するように私を見上げてきた。
「言っておくけどね、楓」
「なに?」
「このTシャツも、この匂いも……それから、楓のこの身体も。全部、私のものだからね」
「……はいはい。全部美空のものです」
「なんか分かってなさそうな返事じゃない?」
「そんなことないよ。分かってるってば」
私の曖昧な返答に、美空の瞳が細くなった。獲物を定めた肉食獣のような鋭さが宿る。
「口だけで分かったフリされてもね。……本気で教えてあげよっか」
次の瞬間、私の後頭部に美空の左手が回され、グイッと引き寄せられる。逃げる暇もない。もう一方の手が私の顎を押し上げ、反射的に唇が薄く開いた。――そこを狙い澄ましたかのように、美空の瑞々しい唇が覆いかぶさってくる。
「んっ……!?」
最初は啄むようなキス。しかし、それはほんの数秒だった。
すぐに熱い舌が私の歯列を割って侵入してくる。ぬるりとした感触と共に、美空の吐息が口腔内に流れ込む。それは信じられないほど甘く、濃厚で、クラクラと眩暈がした。
「ふっ……ん…っ、みそら……っ」
抵抗しようと舌を引っ込めようとしても、絡みつく美空の舌がそれを許さない。逆に絡め取られ、吸われ、擦り合わされる。唾液が混ざり合い、淫靡な水音が室内に響いた。
「……っふ……あ…っ」
息継ぎすらままならない。酸素不足で頭がぼうっとし始めると同時に、背筋を這い上がる快感が止めどなく湧き上がってくる。美空の右手は私の腰をしっかりと押さえつけ、左手は私の髪を梳くように撫でながらも、その手の強さは逃走を許さない意思を伝えている。
「……ん…っ……は…」
角度を変えながら何度も唇を貪られ、舌の裏側まで舐め尽くされる。ぞくぞくと背中を駆け抜ける愉悦に、身体中の力が抜けていく。膝の上の美空の体重すら支えきれなくなりそうだ。
「……ぷはっ……! や……待って……美空……っ!」
ようやく解放された唇から漏れるのは懇願の声だけだった。喉はカラカラに乾き、頬は燃えるように熱い。生理的な涙が目尻に滲むのを感じる。
荒い呼吸を整えようとする私の額に、美空がちゅっと軽いキスを落とす。
「どう? 分かった?」
美空は私の濡れた唇を指先でなぞりながら尋ねた。その表情は恍惚としていて、瞳の奥には独占欲の炎が揺れている。
「何度でも言うね。楓は私のものなんだよ。この可愛い声も、震える唇も……全部」
言葉を区切るように、再び唇が近づく。
今度は優しく、けれど拒絶を受け付ける気など毛頭ない深い口づけ。舌先が上顎を丁寧に撫でるたび、甘い痺れが全身を支配していく。美空の腰がわずかに動くことで密着度が増し、互いの体温と鼓動が痛いほど感じられる。
もう何も考えられない。ただ美空の与える刺激を受け止めるだけの人形のようだ。
長い口づけが終わり、名残惜しげに唇が離れる。銀色の糸が二人をつなぎ、ぷつりと途切れた。
美空は私の汗ばんだ頬に自分の頬を寄せながら、囁く。
「……質問。楓は誰のもの?」
私は、荒いままの呼吸とともに声を漏らす。
「……私は……美空のもの……です」
やっと絞り出した肯定の言葉。
「うん、よくできました」
満足げな笑みと共に、美空は私の首筋に顔を埋める。ちゅっ、と吸いつく音と共に、甘い痛みが刻まれていった。
「楓の自覚が足りないと思ったら、いつでもこうやって『分からせて』あげるからね」
その独占欲に満ちた宣告は、恐怖ではなく奇妙な安堵感を私にもたらした。レポートのことなどとっくに頭の中から滑り落ち、こうやって美空に『分からされる』のも悪くないと思ってしまう自分が確かにそこにいた。
膝の上に乗った『重すぎる未練の塊』だった元カノ――いや、世界で一番愛おしい今カノの重みを感じながら、私は諦めたように彼女の柔らかい黒髪を弱々しく撫で続けた。
窓から差し込む陽光が、甘くて重くて少しだけ爛れた二人の時間を、どこまでも穏やかに照らしていた。




