第43話:解禁された手繋ぎと、恋人アクセサリーデート
夏休み初日の朝。少しだけ時間をかけて淹れたコーヒーの香りが、リビングいっぱいに漂っている。
私はダイニングテーブルでコーヒーを一口飲み、渋い顔をすると砂糖とミルクを追加した。
「確かにドリップコーヒーの方がいつものインスタントコーヒーよりなんとなく美味しい気はする。気はするけど……よく分からん……」
お気に入りのマグカップを何気なく持ち上げる。淡いピンク色。色違いで買ったペアマグの片方だ。
これを買った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
あの頃の私たちは、『ただの女友達』という苦しい建前で自分たちを縛りつけていた。私はお揃いの物を買うことすら気まずくて、そんな私を翻弄しようとする美空がこのペアマグカップを一方的にカートに放り込んできたのだ。それが今となっては二人の思い出の品になっているのだから不思議なものである。
「何を黄昏れてるの、楓」
不意に後ろから肩を突つかれ、振り返る。
そこに立っていたのは、気合の入ったお出かけ着を身に纏った美空だった。
綺麗なボディラインを上品に際立たせるノースリーブの黒ワンピースに、繊細なデザインをしたネックレス。艶やかに流れる黒髪からは、微かにフローラル系の香水が漂っている。
「……何、その格好。めちゃくちゃ気合入ってない?」
「当たり前でしょ。今日は特別な日なんだから」
美空はくすんだ青色のマグカップを手にとり、私の隣に腰掛けた。そして、ふっと頬をゆるめて私の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「今日は渋谷に行くよ。正真正銘、私たちの『初デート』なんだから」
「は、初デート……っ!?」
元カノから今カノへと関係が塗り替わってから、初めての休日。堂々と放たれたその言葉に、私の心臓が跳ね上がった。
「き、聞いてないんだけど! 私、何を着ていくかとかも決めてないし、全然準備してないよ!?」
「大丈夫。楓はどんな格好でも可愛いよ」
「そういう問題じゃない! 美空の隣を歩くなら私だってオシャレな格好してちょっとでも可愛い自分でいたいの!」
「……楓、そんなに私のことを想ってくれてるんだ。嬉しい」
頬を赤らめながら抱きついてこようとする美空を腕で押し留める。この女、恋人同士に戻ってからというもの愛情表現にまるで遠慮というものがない。
それにしても初デート。渋谷とは言っていたが、いったいどこへ行くつもりなのだろう。
◇
ハチ公前広場を抜けると、渋谷の街は休日を楽しむ大勢の人々で溢れかえっていた。
「うわ、すごい人……。はぐれないようにしないと――」
人波に押し流されそうになり、私が美空の方を振り返ろうとした、その瞬間だった。
ぎゅっ、と手が繋がれた。
「え……っ!?」
右手の指の隙間に、美空の指が滑り込んできたのだ。一切の隙間を残さない、完璧な『恋人繋ぎ』である。
しかも、それだけでは終わらなかった。美空はさらに距離を詰めると、私の右腕に自分の両腕をキュッと絡め、体重を預けるように抱きついてきたのだ。
「み、美空!? ちょっと、何してるの!?」
「何って、はぐれないようにしてるんだけど。文句ある?」
「文句というか! 繋ぎ方が密着しすぎだし、腕まで組まれたら歩きづらいっていうか……何より、目立ってるから!」
私の焦りも無理はなかった。
美空の圧倒的なビジュアルは、ただでさえ街中で視線を集める。そんなモデルのごとき美女が、ボブカットの冴えない女子――悲しいながら私のことだ――の腕にデレデレと抱きついて歩いているのだ。すれ違う若者やカップルたちが、あからさまに二度見していく。
「美空、お願いだから離して! 大学の知り合いにでも見られたらどうするの!?」
顔から火が出そうなほど真っ赤になりながら必死に訴えかける私。
だが、美空は恥ずかしがるどころか、むしろどこか満足そうな表情を浮かべて、私の頬に自分の頬をすり寄せてきた。
「見られたら『私の可愛い彼女だよ』って胸を張って紹介するだけだけど?」
「な、なに言って――」
「だって私、楓の『今カノ』でしょ? 大好きな恋人と手を繋いでデートして、何が悪いの?」
悪びれる様子も一切なく、むしろ誇らしげに言い放つ美空。
大学で男子学生からのアプローチを氷のような一瞥で踏みにじっていた冷酷な高嶺の花の面影は、どこを探しても見当たらない。目の前にいるのは、ただただ私への甘い執着と独占欲を隠そうともしない、恋する乙女だった。
「……ズルい。そんな顔で言われたら、何も言えないじゃん」
「分かってくれたならいいよ。じゃあ、今日は一日、絶対に手を離さないから」
美空の指がさらに強く私の指を締め上げる。私は溜め息をつきながらも、その温かさを拒むことができなかった。
「そういえば今日って結局どこ行くの? 私、何も聞かされてないんだけど」
「ジュエリーショップ。渋谷に良いお店があるらしくて」
「じ、ジュエリーショップ……? なんで?」
「楓とお揃いの指輪がしたくて」
「お、お揃いの指輪!?」
思わず大きな声が出てしまう。周りの視線を感じ、私は慌てて声を潜めた。
「な、なんでいきなりペアリングなんて……」
「……もしかして嫌だった?」
美空の表情に影が差すのを感じ、私は全力で否定した。
「い、嫌じゃないよ! むしろ嬉しい! でも、こういう時は事前に相談してくれると助かるな!」
「うん、分かった。次からはそうする」
美鈴はまたパッと笑顔になると私の腕に抱きつき直す。恋人同士に戻ったというのにそれでも私はこの女に振り回されっぱなしだ。
◇
賑やかなメインストリートから一本入った、静かな路地裏。美空に連れられてやってきたのは、落ち着いた雰囲気が漂う小さなジュエリーショップだった。
店内に足を踏み入れると、ガラスケースの中には光を反射する煌びやかなアクセサリーたちが並んでいる。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
上品な店員さんに声をかけられ、私は思わず狼狽えてしてしまう。
「あ、えっと、その……女子二人で着けるような、ちょっとした……」
昔からの癖で、つい誤魔化そうとしてしまう。そんな私を制するように、美空が私の前にすっと進み出た。
「はい。二人の大切な記念になるような、ペアリングを見せていただけますか?」
堂々としたその態度に、店員さんも微笑み、いくつかのリングトレイを運んできてくれた。
美空は真剣な目つきで指輪を選び始める。
「楓、これなんてどう? デザインはシンプルだけど、内側に刻印が入れられるんだって」
「……あ、可愛い。普段使いしやすそう」
選んだのは、シルバーの細身なリング。派手すぎず、けれど上品な光沢を放つデザインだ。内側には、二人だけのイニシャルを刻んでもらえるという。
美空と一緒にいくつかのサンプルの中から刻印を選んだ。
『M to K』
『K to M』
美空のMと楓のK。互いの頭文字を交わし合うその印に、指輪の持つ本当の意味が込められている気がした。
「じゃあ、これでお願いします」
注文を終え、店員さんがサイズを確認するために仮のリングを私たちの薬指にはめてくれた。互いの左手の薬指に輝く、お揃いのシルバーリング。
「……似合ってるよ、楓」
「美空も。……なんか、すごく『恋人』って感じがするね」
「『感じ』じゃないよ。本当に恋人なんだから」
美空は嬉しそうに自分の薬指を見つめ、それから私の指に触れて、愛おしそうに撫でた。もう『友達のフリ』をする必要なんて、どこにもないのだ。
◇
買い物を終えて店を出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。
夕暮れのキャットストリートは昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、街灯が一つ、また一つと灯り始めている。
新しく左手の薬指に収まったリングの感触を確かめるように歩いていると、突然、美空が足を止めた。
「美空……?」
振り返ると、美空は繋いだ手に視線を落としたまま、じっと動かずにいた。
「……ねえ、楓」
「うん?」
「……高校の時はね」
ポツリと、美空の口から小さな声が漏れる。
「誰かに見つかるのが怖くて。……外では手を繋ぐことも、隣に並んで歩くことすら、避けてたでしょ?」
「……うん」
「あの頃の私は、楓と一緒にいられるだけで幸せなはずなのにずっと怯えてた。いつかこの手が離れてしまうんじゃないかって」
美空の長い睫毛が揺れ、持ち上げられた瞳には、夕日を反射した透明な涙がうっすらと浮かんでいた。
だが、その表情は少しも暗くない。世界で一番優しく、幸せそうな光を宿していた。
「……でも今、こうやって楓の手を握って、堂々と街を歩けてる。……私、今、死んじゃいたいくらい幸せ」
「美空……」
「もう、絶対に放さないから。楓が呆れても、重いって嫌がられても、絶対に」
美空はそう呟くと、私の手をさらに強く握り締め、ぐっと肩を寄せてきた。そして、人通りの途切れた夕暮れの影の中で。
ちゅっ、と。
「ん……っ!?」
柔らかくて温かい感触が、私の頬に落ちる。ほんの少しだけ唇の端に触れるような、甘くて、不器用なキス。
「み、美空……! 外っ、ここ外だから……!」
一瞬で頭が沸騰し、顔から湯気が出そうになる私を見て、美空は満足そうに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「誰も見てないから大丈夫。……それに、減るものじゃないんだから、いいでしょ?」
「そういう問題じゃなくて……っ!」
「さ、帰ろ。……今日はお外でたくさん我慢したんだから、おうちに着いたら、もっとイチャイチャしてもらうからね?」
言うなり、美空は真っ赤になって立ち尽くす私の手を引き、弾むような足取りで歩き出した。
左手の指輪が、夕闇の中で小さくキラリと光る。
もう、どこへ行くべきか迷うことはない。私たちは手を繋いだまま、二人の愛しい我が家へと向かって歩き続けた。




