第42話:新しいルールは『全面降伏』
リビングのテーブルの上に、一枚の少しヨレたルーズリーフが置かれている。そこに書かれているのは、上京した初日の夕方、私が意気揚々と書き連ねた『同居ルール』の数々だ。
一、私たちは既に別れた他人である。
二、お互いの私生活や人間関係(特に恋愛関係!)には一切干渉しないこと。
三、高校時代の思い出話、およびそれに類する接触は原則禁止。
「……ふふ。今見ると、これ、本当に傑作だね」
対面に座る美空が、頬杖をつきながらルーズリーフを指先でトントンと叩いた。その顔には、隠そうともしない意地の悪い、けれどどこか幸せそうな笑みが浮かんでいる。
私は、そんな美空をじっとりとした目つきで睨みつけた。
「うるさいなぁ。あの時はこっちだって必死だったの。初日から美空が無自覚な誘惑ばっかりしてくるから、そうでもしないと私の理性が保たないと思ったんだよ」
「無自覚なわけないじゃん。全部計算の上だよ」
「それはもう知ってる。本当にタチが悪い元カノ……じゃなくて、今カノさんだこと」
私が呆れたようにため息をつくと、美空は満足そうに目を細めた。
私はテーブルの上の紙を指差し、くすりと笑う。
「で? このルール、もう一ミリも意味を成してないよね?」
「うん。こんなもの、最初からただの紙切れだよ」
美空は言うが早いか、ルーズリーフを手に取り、迷いのない手つきで真っ二つに破り捨てた。それだけでは飽き足らず、さらに細かく引き裂いてゴミ箱へと放り捨てる。我が家の『初代・境界線防衛ルール』が、跡形もなく消滅した瞬間だった。
「うわぁ、やりやがった……」
「その代わりに、私が新しいルールを作ってきたから」
美空は発表用のレジュメのようなホチキス留めの用紙をどこからか取り出した。それを、したり顔で私の前に差し出す。
「まずは資料の一ページ目をご覧ください」
「ど、どれどれ……」
そこに書かれていた新たな『恋人としてのルール』に目を走らせた瞬間、私は盛大に吹き出しそうになった。
一、お互いの私室は絶対に鍵をかけないこと(いつでも自由に入っていいものとする)。
二、ハグとキスは必ず一日一回以上、性行為は週一回以上すること(※要相談)。
三、スマホの連絡先、およびスケジュールは完全に共有すること。
「……ちょっと待って、美空さん。何かとんでもないことが書いてあるんだけど?」
「うん、楓が疑問に思うのも分かるよ。私も悩んだし。ハグとキスが一日一回以上っていうのはさすがに少ないよね。えっちの回数も――」
悩ましげに頷く美空に対し、私は顔を真っ赤にして反論する。
「そうじゃなくて! こんなの、ただの独占欲全開の束縛ルールになってるでしょ!? し、しかも性行為がどうこう書いてあるし……!」
「別に恋人同士ならごく当たり前の健全なルールだと思うけど。これらのルールの根拠については二ページ目以降で――」
「説明しなくていい! こんなのどこが健全なのよ! どう考えてもセンシティブだし、プライバシーのプの字もないじゃん!!」
呆れきって抗議すると、美空からそれまでの勝ち誇ったような態度が掻き消えた。ソファの上でじりじりと私ににじり寄り、私の服の裾をきゅっと掴む。上目遣いで見上げてくるその黒い瞳は、微かに潤んでいた。
「……だって、もう我慢しなくていいんでしょ?」
「っ……」
「何ヶ月も離れて、この部屋に来てからも『ただの同居人』のフリをして、楓が他の誰かのものになっちゃうかもしれないって、私、ずっと毎日死にそうだったの。……だから、もう一秒だって遠慮したくない。ダメ、かな……?」
かつてのクールな『高嶺の花』はどこへやら、完全なる寂しがり屋モードで堂々と甘えてくる。
ズルい。こんな可愛い顔で、しかもあんな壮絶な修羅場を経た後に言われたら、反対できるわけがない。
「……ハグとキスは、人がいない家の中だけだからね。え、えっちなことは……要相談で……」
「ん。じゃあ、ルール承認ね」
美空はパッと花が咲くような笑顔を浮かべ、さっそく新ルール第二条を執行するべく、私の首元に嬉々として抱きついてきた。私の全面降伏だった。
――その日の夜。
自分の部屋のベッドに入り、目を閉じようとした時だった。コンコン、という形式ばかりの軽い音と同時に、ドアが静かに開く。
入ってきた美空は、案の定、自分の枕を小脇に抱えていた。
「……美空。新ルール第一条のおかげで鍵はかけてないけど、一応、入る前に返事を待つっていう慎み深さは持とうか」
気にしているわけではないけれど、とりあえず嗜めておこうと思ったのだ。しかし、美空は意に介する様子もない。
「そんな無駄な時間は必要ないよ」
当然のような顔で私のベッドの端に枕を置くと、美空はごく自然に私の布団の中へと潜り込んできた。狭いシングルベッドの中で、二人の身体がぴったりと密着する。
美空は私の正面から、その長い腕を私の腰に回し、胸元にすっぽりと顔を埋めてきた。
「あったかい……」
幸せそうに小さく呟く美空。
抱きしめられた私の胸の奥にも、言葉にできないほどの愛しさと、確かな満ち足りた気持ちが広がっていく。
もう、偽りの境界線に怯える必要はない。こうして手を伸ばせば、世界で一番大好きな女の子の体温が、いつでもそこにあるのだから。
「……もう、絶対に離さないからね、楓」
「うん。離れるって言っても、私が捕まえるから」
美空は満足そうに喉を鳴らし、私の腕の中で、本当に安らかな寝息を立て始めた。私はその愛おしい頭を優しく撫でながら、ゆっくりと意識を眠りへと沈めていった。
――翌朝。
アラームの音で目を覚まし、少し寝不足の頭を揺らしながら洗面所へと向かう。ドアを開けると、そこには既に身支度を始めている美空の姿があった。
狭い洗面台の鏡の前に、二人で並んで立つ。
「美空の大学は夏休みいつから?」
「今週の土曜日から」
「うちと一緒だ」
私が歯ブラシに歯磨き粉をつけて口に含むと、美空も同じようにハミガキを始める。シャカシャカという規則正しい音が、狭い空間に反響する。
上京したばかりの頃は、この狭い洗面所で肩が触れ合うだけで心臓がバクバクして破裂しそうになっていた。昔の記憶が溢れてきて、気まずくて仕方がなかったのだ。
けれど、今のこの距離は、酷く自然で、酷く愛おしい日常の一部だった。
ハミガキを終え、口をゆすいだ私は、寝癖を直そうと髪を濡らす。すると、美空がドライヤーを手に、私の髪を優しく撫で始めた。
「ありがと、美空」
「いいえ。これからは毎日、私がやってあげる」
美空は嬉しそうに私の髪を整えると、洗面台の端に置かれていた、私のリップクリームに目を留めた。美空は何でもないようにそれを手に取ると、キャップを外す。そして――私の目を、じっと、真っ直ぐに見つめながら、その淡いピンク色のリップを自分の唇へとゆっくりと滑らせた。
あの日。ルームシェアを始めたばかりの朝、同じことをされて間接キスだと焦る私に、美空は『女の子同士で何を気にしてるの?』と涼しい顔で牽制してきた。あの時の、どこか意地悪な境界線の狂わせ方。
美空の唇は、グロスを塗ったかのようにぷるぷると艶めいている。彼女は、悪戯が成功した子供のように最高にチャーミングに笑ってみせた。
「女の子同士だし、普通でしょ?」
かつての思わせぶりな牽制ではない。私のことが大好きで仕方がない今カノからの、特大の愛嬌としてのセリフだ。美空の笑顔とその言葉で愛おしさが溢れて堪らなくなる。
「っ……もう、本当に敵わないなぁ」
私は降伏の印として、小さく両手を上げて苦笑した。
そして、まだ少し恥ずかしさを残しながらも、一歩、美空との距離を詰める。驚いたように目を見張る美空の頬に、私はちゅ、と、自分から優しく唇を重ねた。
「楓……っ」
「うん。女の子同士だし、普通普通」
真っ赤になって耳まで染めていく美空を見て、私は意地悪に笑い返す。立場が逆転して照れまくる今カノの姿に、私の胸は、朝からの甘すぎる幸福感でいっぱいになっていた。
じきに夏休みだ。恋人同士に戻った美空と過ごす毎日が楽しみで仕方がない。




