第41話:私たちはもう迷わない
壬琴先輩からの告白にちゃんと返事をできていなかったことが私はずっと心に引っかかっていた。この機会に先輩にもしっかり報告をしておきたい。そう決心した私は、サークルの部室の裏で壬琴先輩と向き合っていた。
「壬琴先輩、あの……この前のことなんですけど」
放課後、ギターのケースを肩にかけた先輩は、私の緊張した面持ちを察したのか、いつも通りの優しい笑みを浮かべて小首を傾げた。ただ、その笑顔がどことなく引きつっているように見えたのは私の気のせいだろうか。
「ど、どうしたの、楓ちゃん」
「私……大切な、恋人ができたんです。だから、先輩の気持ちには、お応えできません。ごめんなさい!」
深く、頭を下げる。壬琴先輩は一瞬だけ驚いたように目を見張ったけれど、すぐに合点がいったように苦笑した。
「ああ、分かってるよ。あの長い髪の子だよね……」
「……はい。色々あって、一度は別れちゃったんですけど、やっぱり私、あの子じゃないとダメみたいで」
「そっか。全然いいよ。本当に大丈夫だから気にしないでね。私じゃあ、あの子には勝ち目はなさそうだし……」
いつもならこのまま撫でられる流れかと思い、しばらく頭を下げたままにしていた。しかし、一向にその様子はない。不思議に思って顔を上げると先輩の手は空中で不自然に固まったまま静止していた。本当にどうしてしまったんだろう。
「こっちこそ楓ちゃんに変なちょっかいかけてごめんね。あの長い髪の子にも私が謝ってたって伝えておいて欲しいな。……先輩として楓ちゃんの恋を応援してるよ。お幸せに」
「……っ、ありがとうございます!」
壬琴先輩の優しさに胸を締め付けられながらも、私は自分の足で、一つの大きなケジメをつけられたことに、確かな心の成長を感じていた。
ただ、私が立ち去ろうとすると、壬琴先輩はその場で脱力したようにへたり込んでしまった。体調でも悪かったのだろうか。そんな時に無理させてしまって申し訳なかったなと思う。
――そして、その日の夜。
「本当に水科先輩に報告してきたんだ。律儀だね」
リビングのソファに座った瞬間、キッチンから現れた美空に、後ろから抱きつかれた。もちろん、いつものネイビーのパーカー姿だ。
「有耶無耶になっちゃってたのは美空のせいでしょ。ちゃんと『恋人ができた』って言ってきたから。でも、壬琴先輩、なんか様子が変だったなぁ。……美空、まさか壬琴先輩に何かしたりしてないよね?」
私は美空に訝しむような視線を向けた。だが、彼女はいつもの冷静な表情を浮かべたままだ。
「何もしてないよ。たまたま会う機会があったから『これからも楓の良い先輩でいてあげてくださいね』ってお願いしただけ」
「そ、そう。だったらいいんだけどさ……」
「うん、楓の気にしすぎだよ。……でも、ちゃんと話ができて偉かったと思う。本当にお疲れ様」
美空は満足そうに目を細めると、ご褒美でもあげるように私の頬にちゅっ、と小さなキスをした。本当に、この今カノさんは躊躇というものを知らない。
私は美空の手を握り、自分の隣に座らせた。色違いのペアマグカップには、温かいココアが湯気を立てている。
「美空は実家のお見合いの件は……大丈夫だった?」
私が尋ねると、美空はココアを一口飲み、少しだけ困ったように眉を下げた。
「うん。お母さんには、きっぱりと『好きな人がいるから、他の方とお会いする気は一切ありません』って伝えた。ものすごく問い詰められて、小言もたくさん言われたけど……もう、迷わないって決めたから」
美空は私の手をきゅっと握りしめ、その綺麗な黒い瞳を真っ直ぐに私に向けた。
「これから先もたくさん嘘をつかなきゃいけないと思う。おばさんにも、私のお母さんにも、まだしばらくは『仲良しの女子二人のルームシェア』って、カモフラージュを続けなきゃいけない。普通の男の人と付き合って、普通に結婚して、っていう親の願いを、私たちは裏切り続けることになる……」
美空の言葉は現実的で、そして少しだけ切なかった。
いつかランチの時に友人たちが話していた、世間の『普通』という大きな壁。女の子同士で生きるということの険しさは、恋人に戻ったからといって、魔法のように消えてなくなるわけではない。
未来への恐怖や不安は、今でもきっと、お互いの胸の奥に小さく残っている。
だけど。
「……いいよ」
私は微笑み、美空の手を両手で優しく包み込んだ。
「まだ親には言えないし、友達にも秘密だけどさ。……いつかは、ちゃんと話そう。二人で一緒に実家に帰って、お母さんたちに向き合おう。それまでは、この部屋で二人、最強の同居人としてカモフラージュを完璧にこなせばいいじゃん」
「楓……」
「未来が怖いのは、私も同じ。でもね、今の私には、美空の大きな未練と愛がついてるから。二人で一緒なら、どんな壁だって乗り越えられるって、本気で信じてるよ」
私の真っ直ぐな言葉に、美空の瞳がじわりと潤んだ。けれど、今度の涙は自暴自棄になった悲しみの涙じゃない。純粋な幸福の涙だ。
「うん。……約束ね、楓。何があっても、もう絶対に手を離さないから」
「こっちのセリフだよ、独占欲の塊の今カノさん」
私たちはくすりと笑い合い、お揃いのマグカップを重ねて、温かいココアを飲み干した。
未来の険しさは変わらない。けれど、私たちの胸には、あの日失ってしまったお互いへの絶対的な信頼感が、何倍にも大きくなって満ち溢れていた。
――深夜。私の部屋のベッドの中。
当然のようにノックすら省略して、部屋のドアが開く。静かに近づいてきた美空が私の布団に潜り込んできた。
私も自然と甘く優しい声が出る。
「どうしたの、美空」
「楓と一緒に寝たい」
「どうぞ」
ルームシェア初日の夜は「外の物音がうるさいから」なんて可愛い言い訳をしていたけれど、今はもう、ただ「私の隣がいいから」という理由だけで、堂々と私の背中に抱きついてくる。
一つの毛布の中で、私たちは静かに足を絡め合い、お互いの体温を分かち合う。
窓の外には、静かで穏やかな東京の夜空が広がっていた。
かつてあんなに怖かった都会の夜の気配も、今の私にとっては、美空との聖域を守る優しい闇に思えた。
美空にフられた瞬間から始まった、長くて、もどかしくて、境界線を見失い続けた、私たちのルームシェア。
その長い迷子の日々は、今度こそ、完全に幕を閉じた。私たちはもう、どこへ行くべきか迷わない。
優しく私の背中を撫でる、美空の温かい手。
うとうとと眠気の波が押し寄せる中、私の耳元で、世界で一番愛おしい今カノの、蕩けるような甘い声が優しく囁かれた。
「大好きだよ、楓。……おやすみなさい、私の運命の人」
「運命だなんて大袈裟すぎ。……うん。おやすみ、美空」
心地よい愛の呪縛に囚われながら、私は幸せな夢の底へと、ゆっくりと沈んでいった。
(『第3章:過去の精算と復縁』・完/『最終章:境界線迷子の、その先で』へ続く)




