第40話:『元カノ』から『今カノ』へ
窓の外には雲一つない青空が広がっていた。昨夜のあの猛烈な嵐が嘘のようだ。
カーテンの隙間から差し込む眩しい朝の光が、リビングのフローリングをきらきらと照らしている。いつの間にか停電も復旧したようで、冷蔵庫が低く規則正しい駆動音を響かせていた。
私はいつもの定位置――リビングのソファに腰掛け、まだ少し火照っている身体を休めるように深く息を吐き出した。
リビングのテーブルの上には、昨夜の修羅場が夢ではなかったことを証明するように、少し乱れたクッションが転がっている。
本当に、とんでもない夜だった。
まさか自分が、あの『氷の美女』をベッドに組み敷いて、大声を張り上げて宣戦布告するなんて。美空と深く結びついた一夜のことを思い出すと、それだけで顔から火が出そうになる。
そんな私の羞恥心をさらに煽るように、個室のドアが開いた。
「……楓」
現れた美空は、高校時代に私がプレゼントした、あのネイビーの大きめなパーカーを着ていた。素足にパーカーという、ルームシェア初日に私の理性を破壊し尽くしたあの格好だ。
けれど、以前と決定的に違うのは、その表情だった。何を考えているか分からないクールなトーンなんて、もう微塵も残っていない。潤んだ黒い瞳でじっと私を見つめ、一歩一歩、熱を孕んだ足取りで近づいてくる。
「起きたんだ、美空。朝ご飯、何がいい――」
言いかけた私の言葉は、またしても遮られた。美空はソファの前に来ると、躊躇うことなく自分の身体を私の膝の上へと滑り込ませてきたのだ。
「ちょっと、美空!?」
横に座るのではない。私の太ももの上に、完全に美空の体重が乗っている。お互いに向かい合ったまま抱きついている状態だ。
美空は長い両腕を私の首筋にきつく巻き付け、私の胸元にその綺麗な顔をすり寄せた。サラサラとした黒髪から、昨夜、彼女の部屋で混ざり合ったあの甘い匂いがふわりと立ち上る。
「……もう、どこにも行かせない」
美空は私の首元に唇を寄せ、低くて、甘くて、けれど鼓膜の奥まで震えるような重い声で呟いた。
「建前なんて、もう要らないんでしょ? ただの同居人じゃない。友達のフリもしない。……これからは毎日、起きてから寝るまで、楓の全ては私のものだから」
巨大すぎる独占欲の、完全復活。
いや、これまでは『元カノ』という遠慮がほんの僅かだけ残っていたけれど、今はそれすら消え失せていた。完全にブレーキの壊れた暴走状態へと進化している。
「あのね、美空。嬉しいけど……重い。物理的にも、感情的にも重い」
私は呆れたように笑いながらも、美空の細い腰に、自分の両腕をそっと回した。いつもならルール違反だと大騒ぎして頭の中で絶叫していたはずなのに、不思議と今の私にはこの重苦しいほどの愛が、たまらなく心地よかった。
世間の『普通』とか、将来の不安とか、そういう現実の壁はまだ何も解決していない。
だけど、この美空の圧倒的な体温が私の腕の中にあるだけで、「まぁ、二人でめちゃくちゃになればいっか」と、本気で思えてしまうのだから、私も相当狂ってしまっている。
美空は私の胸から顔を上げ、じっと私の目を覗き込んできた。
「重くたって関係ないでしょ。楓が私の人生をめちゃくちゃにするって言ったんだよ。責任、取ってもらうから」
至近距離で見るその顔は、ほんのり赤くなっている。完璧な美貌の持ち主だというのにどこか隙だらけで、愛おしい。
「……本当に、ズルい元カノ」
「もう元カノじゃないよ」
美空は不満そうに小さく唇を尖らせると、私の唇に、ちゅっ、と短いけれど明確な意思のこもったキスを落とした。
「これからは、私のこと『今カノ』って呼んでね」
威張るようにそう言った美空の瞳が、少しだけ照れたように揺れる。
そのギャップに、私の心臓がまたドクンと大きな音を立てた。高校の三学期のあの日、夕暮れの教室で失われてしまった私の『特別』が、今、完全に私の元へと帰ってきたのだ。
「……分かったよ、今カノさん」
私がそう応じると、美空は本当に嬉しそうに蕩けるような笑顔を浮かべ、私の胸に再び顔を埋めた。大学の男子学生たちが見たら、気絶するんじゃないかと思うほどの破壊力だ。
私たちはしばらく、そのおかしな距離感のまま、ソファの上で静かに体温を分け合った。
これまでのみっともないすれ違いや、気まずかった日々が、嘘のように愛おしい思い出として溶けていく。
「あ、そうだ。喉、乾かない? 何か飲もうよ」
私が提案すると、美空は名残惜しそうにしながらも、私の膝の上からゆっくりと降りてくれた。
私はキッチンへ向かい、冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出す。そして、食器棚に並ぶ『それ』に手を伸ばした。
ルームシェアを始めた最初の週末に、二人でIKEAに行って、周りのカップルに混じりながら買った、あの色違いのペアマグカップ。
美空の不在に怯えていた時も、親の手紙に絶望した時も、いつもこのリビングのテーブルの上で、私たちの不器用な距離感を見守り続けてくれていた、青とピンクのカップ。
とくとく、とアイスコーヒーを注ぎ、私は青いカップを美空に手渡した。
美空はそれを受け取ると、愛おしそうに両手で包み込む。その指先は今度はあの日のように震えてはいなかった。
私はピンクのマグカップを自分の胸の前に掲げ、美空の目の前に差し出す。
「……長い迷子だったね、私たち」
私の言葉に、美空は優しく微笑む。そして自分の青いマグカップを、私のピンクのマグカップへとカチン、と軽く合わせた。
静かなリビングに、心地いい陶器の音が響く。
境界線を見失い、お互いの愛の重さに怯え、のたうち回っていたルームシェア。その迷路の出口で、私たちはようやく、お互いの本当の居場所を見つけることができた。
美空はマグカップを掲げたまま、世界で一番綺麗な、私だけの『今カノ』の顔で、真っ直ぐに私を見つめて言った。
「ただいま、私の楓」
「おかえりなさい、私の美空」
二人の重なる笑顔と共に、色違いのマグカップが、朝の光を浴びて優しくきらめいていた。




