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元カノと始める境界線迷子のルームシェア 〜『女の子同士だし、普通でしょ?』と迫る市之瀬美空の、重すぎる未練について〜  作者: すかいはい
第3章:過去の精算と復縁

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第40話:『元カノ』から『今カノ』へ

 窓の外には雲一つない青空が広がっていた。昨夜のあの猛烈な嵐が嘘のようだ。


 カーテンの隙間から差し込む眩しい朝の光が、リビングのフローリングをきらきらと照らしている。いつの間にか停電も復旧したようで、冷蔵庫が低く規則正しい駆動音を響かせていた。


 私はいつもの定位置――リビングのソファに腰掛け、まだ少し火照《ほて》っている身体を休めるように深く息を吐き出した。


 リビングのテーブルの上には、昨夜の修羅場が夢ではなかったことを証明するように、少し乱れたクッションが転がっている。


 本当に、とんでもない夜だった。


 まさか自分が、あの『氷の美女』をベッドに組み敷いて、大声を張り上げて宣戦布告するなんて。美空と深く結びついた一夜のことを思い出すと、それだけで顔から火が出そうになる。


 そんな私の羞恥心をさらに煽るように、個室のドアが開いた。


「……楓」


 現れた美空は、高校時代に私がプレゼントした、あのネイビーの大きめなパーカーを着ていた。素足にパーカーという、ルームシェア初日に私の理性を破壊し尽くしたあの格好だ。


 けれど、以前と決定的に違うのは、その表情だった。何を考えているか分からないクールなトーンなんて、もう微塵《みじん》も残っていない。潤んだ黒い瞳でじっと私を見つめ、一歩一歩、熱を孕《はら》んだ足取りで近づいてくる。


「起きたんだ、美空。朝ご飯、何がいい――」


 言いかけた私の言葉は、またしても遮《さえぎ》られた。美空はソファの前に来ると、躊躇《ためら》うことなく自分の身体を私の膝の上へと滑り込ませてきたのだ。


「ちょっと、美空!?」


 横に座るのではない。私の太ももの上に、完全に美空の体重が乗っている。お互いに向かい合ったまま抱きついている状態だ。


 美空は長い両腕を私の首筋にきつく巻き付け、私の胸元にその綺麗な顔をすり寄せた。サラサラとした黒髪から、昨夜、彼女の部屋で混ざり合ったあの甘い匂いがふわりと立ち上る。


「……もう、どこにも行かせない」


 美空は私の首元に唇を寄せ、低くて、甘くて、けれど鼓膜の奥まで震えるような重い声で呟いた。


「建前なんて、もう要らないんでしょ? ただの同居人じゃない。友達のフリもしない。……これからは毎日、起きてから寝るまで、楓の全ては私のものだから」


 巨大すぎる独占欲の、完全復活。


 いや、これまでは『元カノ』という遠慮がほんの僅《わず》かだけ残っていたけれど、今はそれすら消え失せていた。完全にブレーキの壊れた暴走状態へと進化している。


「あのね、美空。嬉しいけど……重い。物理的にも、感情的にも重い」


 私は呆れたように笑いながらも、美空の細い腰に、自分の両腕をそっと回した。いつもならルール違反だと大騒ぎして頭の中で絶叫していたはずなのに、不思議と今の私にはこの重苦しいほどの愛が、たまらなく心地よかった。


 世間の『普通』とか、将来の不安とか、そういう現実の壁はまだ何も解決していない。


 だけど、この美空の圧倒的な体温が私の腕の中にあるだけで、「まぁ、二人でめちゃくちゃになればいっか」と、本気で思えてしまうのだから、私も相当狂ってしまっている。


 美空は私の胸から顔を上げ、じっと私の目を覗き込んできた。


「重くたって関係ないでしょ。楓が私の人生をめちゃくちゃにするって言ったんだよ。責任、取ってもらうから」


 至近距離で見るその顔は、ほんのり赤くなっている。完璧な美貌の持ち主だというのにどこか隙だらけで、愛おしい。


「……本当に、ズルい元カノ」

「もう元カノじゃないよ」


 美空は不満そうに小さく唇を尖らせると、私の唇に、ちゅっ、と短いけれど明確な意思のこもったキスを落とした。


「これからは、私のこと『今カノ』って呼んでね」


 威張るようにそう言った美空の瞳が、少しだけ照れたように揺れる。


 そのギャップに、私の心臓がまたドクンと大きな音を立てた。高校の三学期のあの日、夕暮れの教室で失われてしまった私の『特別』が、今、完全に私の元へと帰ってきたのだ。


「……分かったよ、今カノさん」


 私がそう応じると、美空は本当に嬉しそうに蕩《とろ》けるような笑顔を浮かべ、私の胸に再び顔を埋めた。大学の男子学生たちが見たら、気絶するんじゃないかと思うほどの破壊力だ。


 私たちはしばらく、そのおかしな距離感のまま、ソファの上で静かに体温を分け合った。


 これまでのみっともないすれ違いや、気まずかった日々が、嘘のように愛おしい思い出として溶けていく。


「あ、そうだ。喉、乾かない? 何か飲もうよ」


 私が提案すると、美空は名残惜しそうにしながらも、私の膝の上からゆっくりと降りてくれた。


 私はキッチンへ向かい、冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出す。そして、食器棚に並ぶ『それ』に手を伸ばした。


 ルームシェアを始めた最初の週末に、二人でIKEAに行って、周りのカップルに混じりながら買った、あの色違いのペアマグカップ。


 美空の不在に怯えていた時も、親の手紙に絶望した時も、いつもこのリビングのテーブルの上で、私たちの不器用な距離感を見守り続けてくれていた、青とピンクのカップ。


 とくとく、とアイスコーヒーを注ぎ、私は青いカップを美空に手渡した。


 美空はそれを受け取ると、愛おしそうに両手で包み込む。その指先は今度はあの日のように震えてはいなかった。


 私はピンクのマグカップを自分の胸の前に掲げ、美空の目の前に差し出す。


「……長い迷子だったね、私たち」


 私の言葉に、美空は優しく微笑む。そして自分の青いマグカップを、私のピンクのマグカップへとカチン、と軽く合わせた。


 静かなリビングに、心地いい陶器の音が響く。


 境界線を見失い、お互いの愛の重さに怯《おび》え、のたうち回っていたルームシェア。その迷路の出口で、私たちはようやく、お互いの本当の居場所を見つけることができた。


 美空はマグカップを掲げたまま、世界で一番綺麗な、私だけの『今カノ』の顔で、真っ直ぐに私を見つめて言った。


「ただいま、私の楓《カノジョ》」

「おかえりなさい、私の美空《カノジョ》」


 二人の重なる笑顔と共に、色違いのマグカップが、朝の光を浴びて優しくきらめいていた。

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