第39話:境界線迷子の終わり、涙の復縁(後編)
今夜、私たちは『元カノ』という長すぎた境界線を完全に踏み越える。
いつもみたいに翻弄されるのではなく、自分の手で美空を愛してあげたいという熱い衝動に、心臓が爆発しそうなほど高鳴っていた。
徐々に暗闇に慣れてきた瞳が月明かりなしでも彼女の輪郭を捉える。乱れたパジャマ姿が痛々しいほど無防備で、頬を染めて俯く姿が途方もなく愛らしい。
「じゃあ……す、するね?」
私が促すと、美空は従順に身体を横たえた。枕に黒髪を広げ、私に全てを委ねるように小さく身を縮める。
「大丈夫だよ、美空。私、初めてだけど頑張るから」
私は美空の隣に寄り添い、その華奢な肩をそっと抱き寄せた。まずは心臓がある場所、左胸に手を当てる。激しく波打つ鼓動が手のひら全体に伝わってきた。
「美空のここ、ドキドキしてる」
「だって……楓が触ってくれてるから……」
潤んだ瞳で見上げてくる美空に微笑みかけ、私は指先で彼女の鎖骨をなぞった。ひくり、と小さく身体が震える。そのまま肩口から鎖骨、そしてゆっくりと首筋へと指を滑らせた。
「ん……っ」
美空が小さく吐息を漏らす。私は彼女の白い喉元にそっと唇を寄せた。柔らかな肌に吸い付きながら、片方の手でパジャマのボタンを一つ外していく。
徐々に露わになっていく素肌。二つ目のボタンに手をかけると、美空の手が私の手の上に重ねられた。
「じれったいよ……早く……」
切なげな声。私は正直いっぱいいっぱいだったが、強がって微笑んでみせる。
「……焦らないで、美空」
そう言って三つ目のボタンに手をかけると同時に、首筋から耳朶へと舌を這わせた。
「ふぁ……っ!」
甲高い嬌声が響き、美空の身体が弓なりにしなる。彼女の反応に私の支配欲が煽られていく。
全てのボタンが外れ、パジャマの隙間から淡いピンク色のブラジャーに包まれた豊かな膨らみが顔を覗かせた。パジャマの前をそっと開き、ブラジャーのストラップを肩から外す。ゆっくりとカップを下げると、恥ずかしげに尖った美しい双丘が現れる。私は、その柔らかな双丘へ手を滑り込ませた。
「あっ……!」
一際高い声が上がって、美空がビクンと大きく跳ねた。
感じてくれている。嬉しい。もっと与えたい。私は赤子のように夢中で舌を這わせながら、左手で彼女の肋骨を撫で上げる。汗ばんだ肌が吸い付くようで、私の指先に過剰な刺激となって伝わってくる。
「んっ……ふ…楓、ちょっと……待って……」
不意に、息が弾むような美空の声が降ってきた。
「……なぁに?」
私は胸元に埋めていた顔を少しだけ持ち上げた。すると暗闇の中で美空の腕が伸びてきて、私の腰を誘うように絡め取った。
「……何これ。さっきから焦らしてる?」
低く、どこか拗ねたようなトーンが鼓膜を打つ。
「えっ。いや、だって、美空のこと気持ちよくさせたくて……」
「気持ちは嬉しいけど。……そうじゃないよ」
突然、絡みついた美空の足に力がこもり、ぐいと引き寄せられた。体勢が崩れかける。
「私のここは……ずっと準備できてたのに」
そう言いながら、美空は私の右手を掴み取って自らの中心部へと導いた。美空のパジャマのズボンの中。薄布越しに感じる熱く湿った感触。
「……え。すご」
驚いて声を上げた私に構わず、美空は身をよじるようにしてズボンをずらしながら私の指をそこへと強く押し付けた。
「ね? もうこんななのに……楓があんなゆっくり焦らすから……」
切羽詰まったような掠れ声で訴えかけられる。いつも冷静で優等生然としている美空が、 私の下手っぴな愛撫一つでこんなに昂ってしまっている事実に、背筋がゾクゾクと快感に似た興奮で粟立った。
「ご、ごめん……私、自分からするの初めてだし……」
「謝らないで……。すごく気持ちよかったから……。だから……早く楓をちょうだい。もう我慢できない……」
懇願するような声と共に、私の腕が力強く引かれる。バランスを崩した私はそのまま美空の上に覆いかぶさりそうになる。その隙を美空は逃さなかった。
「きゃ……っ!?」
視界が再び反転する。次の瞬間には、私は再び仰向けに組み敷かれていた。今度はさっきよりもずっと深い角度で、美空の体重が伸し掛かる。頭上からは、抑えきれない劣情を滲ませた美空の甘い吐息が降り注ぐ。
「言ったでしょう? どうなっても知らないって……」
私の太ももに押し付けられた熱。荒い呼吸。
「全部受け止めてもらうから。一緒にめちゃくちゃになろう?」
至近距離で見る彼女の顔は赤く染まり、潤んだ瞳は焦点が合っていないのに、ギラギラと輝いていた。獲物を前にした肉食獣のような鋭い光。それを見た瞬間、私は一気に青ざめた。
――あ、ヤバイ。これ、犯られる。
暗闇の中、美空の長く伸びた影が私に覆い被さり、密着した部分から伝わる熱と湿度がどんどん高まっていく。
「あ、あの、美空さん? 今日こそは私が気持ちよくしてあげようって思ってたんですけど……?」
「私もそのつもりだったんだけど。スイッチ入っちゃった」
暗闇の中で美空の熱が私の肌を灼く。シャツが完全にたくし上げられ、ブラジャーまでずらされる。ショートパンツを強引に下ろされ、裸になった腹部に彼女の汗ばんだ胸が押しつけられた。
荒い呼吸が首筋にかかり、私はただその予感に身を硬くした。
「……楓が焚きつけたんだからね」
低く掠れた囁き。
そんなつもりじゃなかった、と。そう否定しようとした私の唇は、彼女の指先に塞がれた。
「もう遅いよ?」
囁くような声が耳朶に染み渡る。
熱い吐息が胸元にかかり、柔らかな舌先がゆっくりと輪郭をなぞっていく。同時に美空の脚が私の太ももに絡まり、湿った布越しに互いの中心が微かに擦れ合った。
「んっ……」
思わず漏れた声に、美空の動きが一瞬止まった。
「まだ怖い?」
「ううん……」
否定と共に私の腰が無意識に動いてしまい、今度はより明確な圧力を感じる。
「……もっと」
私のその一言を合図に美空が大胆に動いた。微笑んだ彼女は脱ぎかけだった自らの衣服を取り去っていく。衣擦れの音と共に落ちる服が、まるで過去の仮面が剥がれ落ちていくようだった。最後に残ったショーツ一枚で膝立ちになった美空は、躊躇なく私のショーツに手を掛ける。
「……いいよね?」
息を詰めながら頷くと、美空の指がゴム部分に食い込んだ。ゆっくりと引き下ろされる布地が太ももを撫で、足首から抜き取られる。
覆いかぶさるように私を見下ろす美空は、今度は自分のショーツに手をかけた。躊躇いなくそれを膝まで降ろし、脚を使って床に落とす。その一連の動作があまりに自然で色っぽく、私は釘付けになった。
互いに下着すら纏っていない状態になると、夜の空気が素肌を刺すほどに感じられた。しかし次の瞬間、美空の熱い身体が私を覆い尽くす。肌と肌が直接触れる感触は、布越しなど比べ物にならないほど鮮烈だった。
「あっ……」
互いの胸が重なり合う。軽く動いただけでも鋭い快感が全身を貫いた。
「気持ちいい?」
美空の問いに答えられないまま喘ぐと、彼女は私の腰を強く引き寄せる。脚と脚が絡み合い、互いの中心が触れ合う。ぬるりとした熱さが直接伝わり、頭の中が白く霞んだ。
「私も、楓の身体でちゃんと気持ちよくなるから……」
美空の声が掠れている。
「……だから、安心してね。楓」
何も安心できない。私は美空を気持ちよくさせてあげたかったのであって、美空が勝手に私の身体を使って気持ちよくなるのでは全然意味が違う。そう抗議しようとしたのだが、押し寄せる快楽の奔流によって全く言葉にならない。
美空の指が私の膝裏にかかり、強引に脚を持ち上げる。彼女の細い腰が動き出した。水音が部屋中に響く。擦れ合う度に火花のような快感が駆け巡った。
「や……すごい……っ」
美空の髪が頬を打つ。
「楓……どう? 感じる?」
「もう……わけ分かんない……」
律動が速まる。時折押し寄せる波のような締め付けに息が詰まりそうになる。反射的に繋いだ指と指が汗で滑りながらも離れまいと絡み合った。
「もっと強く……お願い……」
懇願する声とともに美空が角度を変える。核心に触れる鋭敏な刺激が全身を貫き、思考が溶けていく。
激しい収縮と弛緩が連続し、ついに頂点に達した瞬間――。
互いの体内で脈打つ鼓動を確かめ合うように抱き締め合う。荒い呼吸の合間からこぼれる嗚咽混じりの声が暗闇に溶けていった。
嵐の轟音さえも遠く感じる静寂の中、繋がったままの体が微かな震えを伝える。
脳が融けそうだ。心臓が痛い。
圧倒的な充足感と安心感で全身が満たされてく。
(あぁ……これだ、これなんだ……)
壬琴先輩に近づかれた時とも、まるで違う。友人たちの言う『安心できるルート』の何千倍も不穏で、険しくて、だけど――私の魂が、身体が、世界で一番求めていたのは、この重すぎる元カノの腕の中だけだった。
ここが、美空の腕の中が、私という女のいるべき場所なのだ。これからもずっとこの人のものでありたい。この人に支配されていたい。
結局、美空に主導権を握られていいようにされてしまったのだけは少し悔しいけれど。絶対にいつかリベンジはしてやる。そう、固く誓っていると――。
美空は私の耳元で荒い息を吐きながら、呪いのような愛の言葉を囁いた。
「もう……どこにも行かないで……。私だけのものになって、楓……」
その瞳は、暗闇の中でも、獲物を絶対に離さない確信に満ちて爛々と輝いている。
「行かないよ……。私は、美空のものだし……美空が逃げたって、私が何回でも捕まえてあげるから……っ」
私は美空の首筋に両腕を回し、彼女の背中を強く抱きしめ返した。
外では、激しい嵐が相変わらず窓を叩きつけている。けれど、私たちのいるこのベッドの上だけは、世間のどんな濁流も届かない、二人だけの完璧な聖域になっていた。
長い、本当に長い迷子の日々だった。
高校三年生の三学期、夕暮れの教室で引き裂かれたあの日から。
東京のマンションで、『ただの同居人』という偽りの境界線に惑わされ、お互いの距離感にのたうち回っていたあの日々まで。
けれど、その境界線迷子の季節は、今、この嵐の夜の闇の中で、完全に終わりを迎えた。
何かが完璧に噛み合う音が、胸の奥で聞こえた気がした。
美空にフられたあの日から始まった、もどかしくて、苦しくて、重すぎた『元カノ』という関係。その長い冬の時代が終わりを告げ――私たちは、本当の意味で、あの日以上の熱量を持って、『恋人』へと戻ったのだった。




