第38話:境界線迷子の終わり、涙の復縁(前編)
暗闇の中で響いた、美空の引き裂かれるような悲鳴。私の胸を弱々しく叩くその手は、冷たくて、あまりにも痛々しかった。
『これ以上、私を好きにならないで』
『私と一緒にいたら、普通の綺麗な世界にいられなくなる』
私のために悪者になって、私のために何ヶ月も一人で地獄の底を這うような思いをして、挙句の果てにこれ以上自分を嫌いにならないでくれと、そう泣き叫ぶ元カノ。
――その瞬間、私の頭の中で、何かが完全にキレた。
未練だとか、葛藤だとか、世間の『普通』への恐怖だとか。そんな生温かいものが、一瞬で怒りの業火に焼き尽くされる。
「ふざけないでよ……っ!!」
私は美空の弱々しい手を力任せに掴み取り、彼女の身体をマットレスに力強く押し付けた。
どさり、と激しい音が暗闇に響く。
「楓……っ、あ――」
「何が『普通の幸せ』よ! 何が『綺麗な世界』よ! そんなもの、美空がいないなら私にとってはただの地獄だよ……っ!!」
喉が張り裂けんばかりに、私は叫んでいた。目から溢れ出る涙が、美空の頬に、首筋に、雨のように降り注ぐ。
「お母さんの願いだからって、何で美空が諦めるの!? 確かに私は美空にとっては常識人で現実主義に見えてるのかもしれない。周りの人たちの言う『普通の人生ルート』に、少しは怯えたかもしれない! でもね、美空!!」
美空の肩を強く掴み、顔を限界まで近づける。見えなくても分かる。美空が息を呑み、涙に濡れた瞳で私を見上げているのが。
「あんたのいない毎日は私にはただの苦痛だった! 新しい恋をしようとしても、誰の顔を見ても、頭に浮かぶのはあんたの顔だけだった! 私をコテンパンにフった、世界で一番大嫌いで、世界で一番大好きな元カノのことだけだったんだよ……っ!」
激しい嵐の音が、まるで私たちの感情を煽るように部屋を揺らす。けれど、今の私にはそんな外の世界の脅威なんて、一切目に入らなかった。
「世間にろくでもない目で見られたって、親に嘘をつき続けることになったって、そんなのどうだっていい! 私はね、このマンションだって出ていこうと思えばいつでも出ていけた! それでも私が選んだのは、東京のこの狭い部屋で、毎日あんたに理性を崩壊させられる生活なんだよ! あんたが私の境界線をバグらせたんだから、今更綺麗に身を引こうなんて絶対に許さないんだから!!」
美空の身体が、私の怒号と覚悟の強さに、小さく、けれど激しく震えていた。掴んでいる彼女の肩から伝わってくるその感触は、彼女の悲壮な防衛線がガラガラと崩れていくかのようだ。
「楓。でも、私はあなたの人生を……」
まだ、美空は消え入りそうな声で、自分に言い聞かせるように呟こうとした。自分は化け物だから、あなたを不幸にするから、と。
「だったら、めちゃくちゃにしてみせなさいよ!!」
美空の言葉を、私は最大の声量で塗り潰した。
「女の子同士のルームシェアだとか、ただの同居人だとか、そんなヌルい建前はもう全部お終い! あんた、さっき言ったよね……!? 私を愛せば愛すほど、私の人生をめちゃくちゃにしちゃうんだって!」
「っ……」
「受けて立ってあげるわよ! あんたが私の人生をめちゃくちゃにする代わりに、私もあんたの人生をめちゃくちゃにしてあげる!!」
それは、常識人の皮を被り続けていた私が、生まれて初めて世間の『普通』に対して叩きつけた、傲慢で、狂おしいほどの宣戦布告だった。世の中が喧嘩を売ってくるというなら私が買ってやる。本気でそう思った。
「誰にも祝福されなくたっていい。普通のレールから外れたっていい。美空と一緒に泥沼に沈むなら、私は本望だよ! だから……もう一人で勝手に逃げるな!!」
掴んでいた美空の肩から手を離し、私はそのまま、美空の首元に強く腕を回して、彼女を窒息しそうなほどの力で抱きしめた。
「私の人生に、これ以上、市之瀬美空以外の人間を立ち入らせないで……。あんたの重すぎる未練ごと、私が全部、一生かけて背負ってあげるから……っ!」
暗闇の中、私の規格外の覚悟が、言葉が、美空の胸の奥底へと容赦なく流れていく。
美空が何ヶ月もの間、必死に築き上げてきた『中道楓の幸せのために悪者になる』という、強固で悲壮なトラウマの壁。それが、私の放った感情の暴力を前にして、今、音を立てて跡形もなく木端微塵に粉砕されようとしていた。
私の腕の中で、美空の身体が大きな痙攣を起こしたように激しく跳ねた。抱きしめる私の両腕に、彼女の涙が、体温が、何ヶ月も堰き止められていた全ての感情の質量が、直に伝わってくる。
「楓、あ……、ぁ……っ」
美空の喉から、言葉にならない、掠れた小さな悲鳴のような音が漏れた。
それは、彼女が『完璧な優等生』として、そして『中道楓のために悪者になる元カノ』として、必死に保ち続けていた理性の最後の破片が砕け散る音だった。
どれほどの恐怖と戦っていたのだろう。どれほどの孤独の中に、自分を閉じ込めていたのだろう。
私の『普通』を守るためだけに、自分自身の恋心を、独占欲を、真っ黒な未練に変えて胸の奥底に押し込めようとしていた美空。
だけど、もうその必要はない。私がその手を引いて、泥沼だろうが奈落の底だろうが、一緒に落ちてやると決めたのだから。
「……もう、知らない」
暗闇の中、美空の声が、これまで聞いたどんなトーンよりも低く、熱く、そして狂おしいほどの情念を孕んで響いた。
「どうなっても知らないから……。楓がそう言ったんだからね。私のせいだなんて、後から泣いたって、絶対に絶対に、離してあげないんだから……っ!!」
次の瞬間、美空の身体が弾けた。押し付けられていたマットレスを蹴り上げるようにして、美空が下から私に激しく飛びついてきたのだ。
「っ、きゃ……っ!?」
今度は私がベッドの上に仰向けに押し倒される形になった。
暗闇の中で、美空の長い黒髪が私の顔や首筋にはらはらと降り注ぎ、彼女の圧倒的な体温が私を完全に包み込む。痛いくらいに、美空の両腕が私の背中に回され、骨が軋むほどの力で抱きしめられた。
細い身体のどこにこんな力があるのだろう。これが、建前も、嘘の友達という肩書きも全て脱ぎ捨てた、市之瀬美空の本当の姿なのだ。
「美空、んっ……」
言葉を紡ごうとした私の唇は、即座に、貪るような熱い質量によって塞がれた。お互いの唇が激しく衝突する。
それは、高校時代に放課後の教室や図書室の片隅で交わしていたような、触れるだけの甘酸っぱいキスなんかじゃ、到底なかった。
何ヶ月もお互いを想いながらもすれ違い続けた絶望。
東京の新居のドアを開けたあの日の、心臓が千切れるほどの気まずさと、本当は跳ね上がるほど嬉しかった歓喜。
女の子同士だし普通でしょ、とズルい言い訳をしながら迫ってきた美空の、狂おしいほどの未練。
そして、それに毎日毎日、脳をめちゃくちゃに破壊されながらも、元カノを諦めきれなかった私の、全ての愛。
その何もかもをぶつけ合うように、私たちは激しく唇を重ねた。
「んぅ……、ふぁ、楓……っ、楓……っ!」
一度唇が離れても、美空は息を整える間すら惜しむように、何度も、何度も私に口づけを落としてくる。
涙の味がした。美空の涙なのか、私の涙なのかも分からない。ただ、お互いの水分が、体温が、暗闇の中でドロドロに溶け合って混ざり合っていく。
美空の舌が、私の口内を容赦なく蹂躙していく。拒絶なんて微塵も考えていない、私を自分の色だけで塗り潰そうとするような、傲慢で、けれどたまらなく愛おしい抱擁。
「んん……っ、あ……っ」
嵐のようなキスの応酬の中、美空の腰が私の太ももあたりでいやらしく擦れる。高校生の頃とは違う、もっと直接的な欲求が、触れ合う肌と肌を通して痛いほど伝わってくる。
襲い来る快楽の嵐の中で私はうっすらとした焦燥を抱いていた。
――このままじゃダメだ。
美空の熱烈な想いに押し流されるだけでは、今までと何も変わらない。今日こそは。今日この夜だけは。
私は最後の力を振り絞って、美空の唇から顔を逸らした。
「はぁ……っ、はぁ……っ、ちょ、ちょっと待って……、美空……っ」
激しい呼吸を繰り返しながら制止の言葉をかけると、すぐさま美空が不満げに抗議してきた。
「なんで……っ! もうやだ、嫌だよ……っ! ずっと我慢してたのに、なんでまた止めるの!? 言ったでしょう!? 私は楓のこと誰にも渡したくない! もう二度と離したりしないんだから……っ!」
再び顔を近づけてこようとする美空の肩を、私はそっと掴んで押し留めた。
「違うの……! 止めたいんじゃない……っ! だから聞いてよ……!」
荒い息遣いの合間に、必死に言葉を紡ぐ。暗闇の中、至近距離にあるであろう美空の潤んだ瞳を見据えて。
「私だって……美空にめちゃくちゃにされたいよ。いっぱい気持ち良くなりたい。でも……それ以上に今は……」
「え……?」
「いつもみたいに美空に一方的にされるのは……もう終わりにしたいの。今日は……今日だけは……私が……」
一拍置いて、覚悟を決めてはっきりと宣言した。
「私が、美空を気持ち良くしてあげたい。美空のことをいっぱい可愛がってあげたいの。ダメ……かな……?」
美空の動きがぴたりと止まった。暗闇の中で、彼女が大きく目を見開いているのが気配だけで分かる。
数秒間の沈黙。
先に動いたのは美空の方だった。ゆっくりと顔を上げて私の表情を伺うと、信じられないものを見るようにぽつりと呟いた。
「本当に……?」
声が震えている。期待と不安がないまぜになったような、か細い声。
「うん、本当だよ。だって……ズルいじゃない。美空はいつも『私の方が大好きだから』って余裕ぶった態度してるけど……私だって同じくらい、ううん……きっとそれ以上に美空のことが大好きなんだから……。たまには私に……させてほしいな」
少し拗ねたように言うと、美空は私の胸元に額を埋めるようにして、静かに頷いた。
「嬉しい。すごく……嬉しい。楓に……触ってもらえるなんて……夢みたい」
その声は幸せに満ち溢れているのに、どこかまだ信じ切れないような危うさも含んでいた。私は優しく美空の黒髪を撫でる。
「夢じゃないよ。美空のことちゃんと愛してあげるから」
そう囁くと同時に、今度は私からそっと唇を寄せた。激しいキスではない。触れ合うだけの、けれど確かな誓いを込めたキス。美空の緊張が少しずつ解けていくのが分かった。
『女の子同士だし、普通でしょ?』
あんなズルい言葉で私の脳を壊し続けてきた元カノに、今夜は私から返しきれないほどの愛を返してあげる番だ。そう決心して得意げに微笑む。
――この直後あっさり主導権を奪い返されて泣きを見る羽目になるとは、この時の私は知る由もなかったのだが。




