第37話:嵐の夜の宣戦布告、二人の境界線が決壊する
部屋の中に美空を引っ張り込み、灯りをつけると背中で勢いよくドアを閉める。鍵をかける音が、静かな室内にやけに大きく響いた。
「楓……何をするつもり?」
手首を掴まれたままの美空が、眉をひそめて私を見下ろしてくる。その声はまだ、冷徹なトーンを必死に維持しようとしていた。
「逃がさないって言ったでしょ」
私は掴んでいた美空の手首をさらに強く引き、そのまま彼女の身体をベッドへと押し込んだ。
「っ……!?」
不意を突かれた美空の身体が、柔らかいマットレスの上に倒れ込む。
いつもなら、美空が私をソファやベッドに押し潰して、その巨大な独占欲で私をフリーズさせていた。だけど、今この瞬間、その構図は完璧に逆転していた。
ベッドに倒れた美空の身体を閉じ込めるように、私はその上に跨って、両手を美空の肩の横についた。
美空の長い黒髪が、ベッドシーツの上に乱雑に広がる。
「……楓、あなた正気?」
美空の瞳が、今度こそ明らかな動揺で揺れた。
冷たい仮面を保とうとする唇が、微かに戦慄いている。
「正気よ。正気も正気。こんなことでもしないと、美空はまた私の前から綺麗に消えようとするでしょ」
上から見下ろす私の視線に、美空は居心地が悪そうに顔を背けようとした。けれど、私はそれを許さない。美空の細い顎を右手で強引に掴み、無理やり私の方を向かせた。
「離して。こんなの、楓らしくない。女の子同士で、こんな乱暴な――」
「うるさい。『ただの同居人』に戻るのは明日からだって言ってたわよね。だったら、今日のうちなら別にこれくらいしたっていいでしょ?」
美空がよく使っていたような免罪符を、今度は私がそっくりそのまま叩きつけてやる。美空の身体を組み敷いたまま、私は一歩も退かずに、彼女の黒い瞳の奥をじっと見つめ続けた。
「さっきからずっとそう。急に冷たくなって、また私を突き放して……。美空、あんた私のこと大好きなくせに、なんでそんな矛盾したことばっかりするのよ」
「それは……」
「私の将来を守るため? お母さんの手紙を見たから? 私に『普通の幸せ』を掴ませるために、自分がまた悪者になって身を引けばいいって、そんなバカなこと考えてるんでしょ!」
私の直球すぎる核心への一撃に、美空は息を呑んだ。顎を掴まれたまま、彼女はまるで正体を暴かれた怪物のようにおののき、そして、酷く悲しげに目を細めた。
「……分かっているなら、尚更だよ」
美空の声から、ようやく氷のトーンが剥がれ落ちた。代わりに溢れ出てきたのは、ボロボロに擦り切れた、悲痛な本音だった。
「私は、あなたをフった側なの。あなたの心をめちゃくちゃにして、大失恋の傷を負わせた大罪人なのよ。そんな私が、またあなたの傍にいて、あなたの『普通』を奪っていいわけがない。おばさんだって、あんなにあなたの幸せを願っているのに……!」
美空の両手が、私のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。突き放したいのに、触れていたい。そんな矛盾した美空の指先が、痛いほどに震えている。
「私と一緒にいたら、楓は普通の女の子のルートから外れてしまう。世間から隠れて、親に嘘をつき続けて、誰も祝福してくれない道を歩くことになるんだよ? そんなの……そんなの、私が耐えられない。私があなたを愛せば愛するほど、あなたを不幸にしてしまうのが、死ぬほど怖いの……!」
美空の瞳の奥に、じわリ、と涙が溜まっていく。大学の高嶺の花が、家での独占欲の塊が、今や私の下で、ただの怯えた迷子のように泣きそうになっていた。
その美しい自滅の理由が、あまりにも切なくて、あまりにも愛おしくて。それと同時に、一人で勝手に絶望しているこの元カノに対して、私の胸の奥から熱いものが一気に込み上げてきた。
美空の顎を掴んでいた手を離し、私は美空の胸元に両手を強く押し当てた。私の視界も、いつの間にか涙で激しく滲んでいる。
「全部、話しなさい」
ポロポロと目から涙を溢れさせながら、私は声を絞り出した。
「私をフッたあの日から、美空が一人で抱え込んできたこと。美空の頭の中にある、そのくだらない『恐怖』の正体を……! 隠さず、全部私にぶつけなさい!」
「楓……」
涙目で真っ直ぐに迫る私を前にして、美空はついに、決壊の瞬間を迎えようとしていた。
窓の外では風が強くなっている。窓ガラスを激しく叩きつける風の音が、私たちのいる狭い部屋をせせら笑うように包み込んでいた。
予報されていた大型の台風は、深夜になってその勢力をさらに増し、まるで世界の終わりを告げるかのように東京の街を荒らし回っている。
稲光がカーテンの隙間から時折走り、ベッドの上の私たちを白く不気味に照らし出した。
「……時間はいくらでもある。ゆっくりでいいから話して」
私の涙ながらの要求が、嵐の音にかき消されそうになりながらも、美空の胸へと真っ直ぐに突き刺さる。
美空は怯えたように唇を震わせ、何かを言いかけ――。
バチン、という音。その瞬間、唐突に部屋の明かりが全て消えた。
エアコンの稼働音も、タブレット端末の微かな充電の光も、一瞬にして途絶える。
「あ……」
停電だ。視界が完全な闇に塗り潰される。外の激しい雨音だけが、耳元でやけに大きく響き始めた。
暗闇の中で、美空が私の下から逃れようと、シーツを擦らせてもがいた。
「楓、もうやめて……! 離して、お願いだから……!」
目に見えない暗闇の中で、美空の手が私の肩を強く押し返してくる。その拒絶は、これまでのどんな冷淡な態度よりも必死で、そして悲しかった。ここで手を離したら、美空は本当に心の奥底、誰も手が届かない深海へと沈んでいってしまう。そんな強い予感があった。
「絶対に離さない……!」
私は押し返してくる美空の手を無視して、その細い身体を、壊れてしまうのではないかと思うほどの力で強く、強く抱きしめた。
「っ、楓……!?」
ベッドの上で、二人の身体が深く重なり合う。
美空の柔らかな胸の鼓動が、私の胸に直に伝わってくる。早鐘のように打つその心臓は、彼女が今、どれほど限界を迎えているかの証明だった。
抱きしめた美空の背中は、驚くほど細くて、小さかった。
大学で誰にも隙を見せない氷の美女が、家で私の理性をめちゃくちゃに破壊してくる独占欲の塊が、こんなにも脆くて、今にも消えてしまいそうな女の子だったなんて。
「どうして一人で抱え込むの……!? 私のために悪者になって、私のために自滅して……そんなの、私が一番傷つくって、どうして分からないのよ!」
美空の首筋に顔を埋め、私は涙を流しながら叫んだ。すると、私の腕の中で強張っていた美空の身体から、ふっと力が抜けた。
「……だって、怖かったの」
暗闇の向こうから、美空の、今にも壊れそうな掠れた声が聞こえた。
それは、何ヶ月も彼女が胸の奥底でずっと温め続け、そして彼女自身の心を蝕み続けてきた毒の正体だった。
「あの手紙が、最初じゃない。……私、高校の時、学校の廊下でおばさんが先生と話しているのを、偶然聞いちゃったの。楓には素敵な男の子を見つけて、普通の幸せを掴んでほしいって。親としては、それが一番安心だからって……」
「お母さん、が……?」
「そうだよ。おばさんは何も悪くない。私のことも、いつも実の娘みたいに可愛がってくれた。だからこそ、分かっちゃったんだ。私があなたを愛し続けたら、私はおばさんの願いを、あなたの『普通』を、全部奪い去ってしまうことになるんだって」
美空の手が、私の背中のシャツを、引きちぎらんばかりの強さでギュッと掴んできた。熱い涙が、私の鎖骨のあたりにポタポタと、激しく零れ落ちていく。
「女の子同士で付き合うなんて、この世界では『普通』じゃない。誰にも言えなくて、親にも嘘をつき続けて、いつか限界が来る。もし私のせいで、あなたが大好きな親を裏切ることになったら? もし私のせいで、あなたが世間から後ろ指を指されて、不幸になったら……? 私、そんなの耐えられない! あなたを愛せば愛するほど、私があなたの人生をめちゃくちゃにする呪いになっていくのが、死ぬほど怖かったの……!」
嵐の音が、一段と激しさを増す。暗闇の中で、美空の悲痛な慟哭が、部屋の空気を激しく震わせていた。
「だから、三学期のあの日にあなたをフったの。どうでもよくなったって嘘をついて、私が悪者になれば、あなたは傷ついても、いつか普通のレールに戻れると思ったから……! 東京で再会した時も、あなたの近くにいるだけで満足してただの他人でいるべきだった。なのに、あなたの顔を見たら、私の汚い独占欲が全部決壊しちゃって……ルームシェアなんて卑怯な方法で、またあなたを縛り付けちゃった……!」
美空は私の腕の中で、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「私は、あなたを不幸にする化け物なんだよ……! 私と一緒にいたら、楓は普通の、綺麗な世界にいられなくなるの!」
それが、美空が抱えていたトラウマの、本当の核心だった。
愛しすぎるがゆえに、相手の『普通』を縛るのが怖かった。自分の重すぎる愛が、相手を泥沼に引きずり込むのではないかと、怯え続けていたのだ。
美空は私の胸を弱々しく叩きながら、最後の、引き裂かれるような悲鳴を上げた。
「だから、もう私に優しくしないで……! これ以上、私を好きにならないで、楓……っ!」
暗闇の中で、元カノの悲壮な宣戦布告が響き渡る。その言葉を聞いた瞬間、私は自分のこめかみに青筋が浮き上がるのが分かった。
「はぁ? それ、本気で言ってんの……?」
――こっちはもう手遅れなくらいあんたのことが好きなんだっつうの。それに、人の初めてを奪っておいて何言ってんだ。
私は、震える手を血が滲むほど強く握った。
私たちの間にあった境界線は、この嵐の夜の闇の中で、今度こそ完全に、跡形もなく決壊していた。




