第36話:【美空視点】私があなたをフった理由
自室のベッドに倒れ込み、薄暗い天井を見つめる。隣のリビングからは、もう何の音も聞こえてこない。
『私のせいで、美空が親と喧嘩したり、自分の将来をめちゃくちゃにしたりするのは、違うよ』
泣きそうな顔でそう言った、楓の痛切な声が、耳の奥で何度も何度もリフレインしていた。
「……バカだな、楓は。何も分かってない」
シーツをシワが寄るほど強く握りしめ、私は小さく呪詛のように呟いた。
私の将来なんて、とっくの昔にめちゃくちゃになっている。高校の三学期のあの日、私が自分の手で、この先の人生の設計図を全て、ズタズタに引き裂いたのだから。
――思い出すのは、半年ほど前。まだ高校生だった頃、学校の廊下でのことだ。
あの頃の私たちは、誰の目から見ても『ただの仲が良い友人同士』だった。
付き合っていることは両親や友人たちにも打ち明けていなかったし、人前でも関係を隠そうとお互いの距離が近くならないよう気を付けていた。
そんな私たちにとって放課後の教室や図書室の隅だけが絶対的な聖域だった。
教室のカーテンの裏。それから図書館の一番奥の書架の陰。
死角になるような場所で、誰も来ないのを見計らってこっそり手を繋ぐ。顔を真っ赤にしながら、触れるだけの短いキスを交わす。
何週間かに一度、どちらかの両親が不在の時には相手の家に行くこともあった。そんな時には普段できないような深い口付けをしたり、お互いの肌に触れ合ったりするのだ。
たったそれだけで、私は世界中の何よりも満たされていたし、このままずっと、この優しくて甘い時間が続いていくのだと、愚かにも信じ込んでいた。
――あの日、学校の廊下で、楓の母親が担任の先生と三者面談の帰りに立ち話をしているのを、偶然耳にするまでは。
その日、楓から三者面談が終わったら一緒に帰ろうと誘われた私は図書室で待っていた。最初のうちは勉強をして時間を潰していたのだが、次第に待ちきれなくなって楓の教室まで様子を見に行くことにしたのだ。
教室の近くまで来ると楓の母親が担任の先生と一緒にいるのが見えた。楓の姿はない。どうやら入れ違いになってしまったようだ。慌てて引き返そうとした時、二人の話し声が聞こえてきた。
そこで立ち止まってしまったのが全ての間違いだった。
『先生、うちの楓、高校三年生にもなっていまだに彼氏の一人もできたことないんですよ。仲の良い男子がいるって話も聞かないですし。大丈夫なんですかねぇ』
廊下の陰で息を潜めていた私の耳に、おばさんの不安そうな声が届いた。
おばさんはいつも私に優しかった。最近は両親がいる時にはあまり相手の家に行かないようにしていたから顔を合わせる機会も減ったけれど、会うと必ず可愛がってくれた。私は、楓の母親が作ってくれるホットケーキが大好きだったのだ。
だからこそ、その後に続いたおばさんたちの会話は、私の胸に鋭利な楔となって突き刺さった。
『楓ちゃんのお母さん、そんなに心配しなくていいですよ。女の子って親の知らないところで彼氏を作ってたりしますから。そのうち急に男の子を家に連れてきたりしますよ。うちの娘もそうでしたから』
『そんなものですかねぇ。……まあ、でも、楓は東京の大学に行くって言ってますからね。東京に行ったら、楓にも素敵な男の子の恋人でもできて、普通の幸せを掴んでほしいって思ってるんです。親としては、やっぱりそれが一番安心ですから。女友達と遊んでばかりいるのも高校までですよねぇ』
普通の幸せ。
女友達と遊んでばかりいるのは、高校まで。
悪意なんて、どこにもなかった。ただただ、娘の将来を案じる、母親としての、ごく当たり前の、正当な願いだった。
その瞬間、私は頭を殴られたような衝撃と共に、冷酷な現実に引きずり降ろされた。
(あぁ、そうか……。私たちは、間違っているんだ)
私が楓を愛し続ければ、楓をこの腕に繋ぎ止め続ければ、私は楓から『母親の祝福』を奪うことになる。周囲の友人たちが当たり前に手に入れる『普通の家庭』や『安心できる未来』を、彼女から永遠に剥奪してしまう。
怖かった。
何よりも、大好きな楓が、私のせいで世間から後ろ指を指され、不幸になる未来が、死ぬほど怖かった。
私は、楓を愛しすぎていた。
愛しすぎているからこそ、私の存在が楓の人生を縛り付ける呪いになっていくことに、耐えられなかった。
学校から帰った私は、自分の母親に聞いてみた。私に将来どうなって欲しいか、と。
せめて誰か一人でも私と楓の未来を祝福してくれる人がいはしないだろうかと、一縷の望みをかけたのだ。
答えは酷くあっさりしていた。
『大学や仕事はちゃんとしたところならどこでもいいけど。結婚相手の男だけは立派な人を選んでちょうだいね』
その瞬間に悟った。この世界には、私と楓が結ばれることを望んでいる人なんて誰もいないのだと。
夜。私は、自宅のトイレで吐いた。
――私が、悪者になるしかない。何度もえずきながら、そう結論づけた。
楓に私のことを徹底的に嫌わせれば、楓は傷つきながらも、前を向いて『普通』のレールに戻れるはずだ。
そして、三学期のある日の放課後、私は楓から夕暮れの教室に呼び出された。
楓は、私が地元の国立大学の推薦入試に受かったことを改めて祝うと、それから照れ臭そうに話し始めた。彼女のその表情があまりに愛らしくて胸が痛んだ。
『大学では離れ離れになっちゃうけど、それでも美空とずっと一緒に隣にいたいんだ。遠恋になっちゃうけどこれからもよろしくね』
チャンスは今しかない。そう確信した私は、心にもない言葉を並べ立てた。
『私たち、もう終わりにしよう。……高校を卒業する前に、整理しておきたかったんだ。大学の四年間も遠距離恋愛をするなんて無理があるし。それに、女の子同士で付き合うなんて、ただの高校生の一時的な迷いだったって、気づいちゃったから』
ボロボロと大粒の涙を流して崩れ落ちる楓の姿に、私の心も同じように引き裂かれていた。今すぐ抱きしめて「嘘だよ」と言いたかった。
けれど、私は冷徹な仮面を張り付けたまま、楓の手を振り払って走り去った。
私が悪者になって、楓が普通の幸せを掴めるなら、私の人生なんてどうなっても構わない。
――結局その決意は一ヶ月も保たなかったのだけれど。
楓と離れ離れになった直後から、私の涙ぐましい決意は、瞬く間に崩壊していった。
心が悲痛な叫びをあげていた。楓のいない人生なんて耐えられない。自分勝手なのは分かっていてもどうしても楓のことを諦めたくなかった。
楓が東京でのルームシェア相手を探していると知った時、私は自分の持てる全てを使って策略を巡らせた。親を動かし、条件を整え、偶然を装ってこの部屋を用意した。もう一度、嫌われてもいいから彼女の隣に居座るために、たくさんの計算と嘘を重ねてきた。
例え愛し合う関係に戻れなかったとしてもせめて彼女の傍にいたい。本気でそう思っていたはずだった。
だが、東京のマンションのドアが開いて、楓の顔を見た時、その思いは一瞬で消し飛んだ。
私とのことを忘れるために新しい恋をしようとしていたという、少し大人びた楓。彼女を見つめているだけで胸の奥から愛おしさや切なさが一気に溢れ出してきた。
嫌だ。誰にも渡したくない。
他の誰かと笑い合うくらいなら、私の手でぐちゃぐちゃにしてしまいたい。
一度決壊した独占欲の化け物は、もう誰にも止められなかった。
女の子同士だし普通でしょ、という卑怯な免罪符を使って、毎日毎日、楓の境界線を狂わせにいった。もう一度、私なしではいられない身体にしてやろうと、確信犯で迫り続けた。
「……なのに、どうして……っ」
私はベッドの中で、自分の頭を抱え込んだ。
楓は、私の重すぎる愛も受け入れてくれた。あと少しで、あの頃のような関係に戻れるかもしれなかったのだ。
だというのに、また迫ってくる。
親からの縁談。周囲の『普通』という現実。
「楓まで地獄に落とすわけにはいかない……」
手放したくない。けれど、巻き込みたくない。
嘘の友達という肩書きを失った今、私の心は、狂おしいほどの愛と、それを上回るほどの激しい罪悪感のジレンマに引き裂かれていた。
「やっぱり……私が悪者になるしかないんだ……」
私が一人で勝手に作った殻の中に引きこもろうと、夜の闇にじっと身を潜めていると。
――コンコン、と。
静まり返った部屋に、私の世界の全てである女の子の、少し怒ったようなノックの音が響いた。
「美空。ちゃんと話しよう!」
私は、顔も上げずドア越しに返事をする。
「……ごめん、疲れてるから。おやすみ」
これでいいのだ。明日の朝になったらまた他人同士に戻ろう。私のせいで楓を傷つけた。何度も何度も迷惑をかけた。でも、これで終わりだ。
楓もきっと清々《せいせい》することだろう。私のような重い女と離れることができて。
楓は優しくて素敵な人だからすぐに新しい恋も見つかるはずだ。
そうしたらこのルームシェアも解消しよう。
この数ヶ月は楽しい夢だったのだ。最後に楓と思い出を作ることができてよかった。
――楓、知ってるかな。私を見つめる時の楓の真っ直ぐな表情が、私は大好きだったんだよ。楓が綺麗だって言ってくれるのが嬉しくて。楓の見惚れるような顔をずっと見ていたくて。私、スキンケアもダイエットも一生懸命、頑張ってたんだよ。
そう、考えていた時。
突然、激しい音が響いた。
ガン、と。部屋のドアに何かが打ち付けられるような音。
「な、何……?」
驚いて身を起こす。呆然としながら部屋のドアを見つめているとまた大きな音がした。
ガン。ガン、と。
「美空! 開けてくれないならこのドア、壊すから!」
ドア越しに楓の声が響く。
「は、はぁ……!? 何考えてるの、楓!?」
「しょうがないでしょ! 美空がドア開けてくれないんだから!」
もう一度大きな音が鳴る。
本気なのか。本気で楓はドアを破ろうとしているのか。
「ま、待って、待って……!」
私は、慌てて起き上がると部屋のドアへと駆け出した。
「何してるの、ここ賃貸だよ……!」
鍵を外し、ドアを開けると光が差し込む。その瞬間、私の細い手首を、楓は痛いくらいの強さで掴んできた。
「捕まえた。もう逃がさないから」
「っ……!? 楓……?」
驚きに瞳を大きく見開く。いつもなら、強引に腕を引いたり、ソファに押し倒したりするのは私の方だったのに。
私の手首を掴んだ楓の手は、力任せにドアを叩きすぎたせいで少し赤くなっていた。震えるその手からは怒りと悲しさが伝わってくる。
私は懸命に平静を装おうとするが、楓は私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「またあの日と同じように、一人で勝手に決めて逃げるつもり?」
「何を言ってるの……」
「私をフッた時もそうでしょ! 今もそうでしょ! 私が何も気づいてないと思ったら大間違いだからね!?」
彼女の叫びのような言葉に、私の顔から余裕が消え去った。氷の仮面が、ガタガタと音を立ててひび割れていく。
「離して、楓。あなたには関係ない――」
「関係あるに決まってるでしょ! 私の人生……ううん。私たちの人生なんだから!」
私は身をよじって逃げようとするが、楓はその手を離そうとしない。彼女の瞳には、強い決意が宿っていた。
「部屋、入るよ」
楓は私の腕を強く引いた。
抵抗しようとする私を力任せに引きずるようにして、楓は私の部屋の中へ押し入ってきたのだった。




