第35話:高嶺の花の縁談、自滅しようとする元カノ
周囲の『普通』に押し潰されそうになったあの日から、リビングの空気はどこか、硝子細工のように繊細で、壊れやすいものに変わっていた。
ここ数日の天候もそれに拍車をかけるようだ。テレビでは、朝から台風のニュースばかり流れている。
テレビの向こうでは、東京から何百キロも離れた町の道路が茶色い水に沈み、レポーターが風に押されながら何かを叫んでいた。画面の隅には、見慣れない地名と『記録的な大雨』という文字が赤く表示されている。
ベランダの外は、まだ静かだ。雨は降っていない。窓ガラスにも一滴の水滴もついていない。それなのに空は朝から一度も明るくならず、灰色の雲が低いところまで垂れ込めている。向かいのマンションも、その向こうのビルも、いつもより少し色を失って見えた。
エアコンの音に混じって、ときおり窓の隙間が微かに鳴る。風が出てきたのだろう。
ニュースキャスターは、今日の深夜から未明にかけて台風が関東へ近づく可能性があると言っていた。
まだ何も起きていない。
その『まだ』が、部屋の中に薄く積もっているようだった。
大学が終わり、夜。お風呂上がりのリビング。
いつもなら、私がソファに座った瞬間に待ってましたと言わんばかりに膝の上に滑り込んでくる美空が、この時に限ってなぜだか少し離れたダイニングチェアに腰掛けていた。
手元にあるスマートフォンをじっと見つめる美空の横顔は、大学で見せる『氷の美女』そのもので、声をかけるのすら躊躇われるほどに冷え切っている。
「……美空?」
私が恐る恐る名前を呼ぶと、美空はハッと弾かれたように顔を上げた。
私と視線が合った瞬間、その瞳にいつもの、私にだけ見せる柔らかい熱が灯る。けれど、無理に作ったような笑みが、彼女の心の余裕のなさを物語っていた。
「どうしたの、そんな怖い顔して。また、おばさんから何か言われた?」
私が尋ねると、美空は小さくため息をつき、スマートフォンをテーブルの上に裏返して置いた。
「……うん。お母さんから、連絡が来てたんだ。来週末、実家に戻ってきなさいって」
「また急だね。夏休みじゃダメなんだ。……何かあったの?」
「何かあったというか……食事会をセッティングしたから、出席しろって。相手は、お父さんの仕事関係の知り合いの息子さん。……今年、大手の商社に入社した人なんだって」
「えっ……」
食事会。大手の商社。その単語が意味するものが、恋愛に疎い私にも一瞬で理解できた。実質的な、お見合いだ。
「大丈夫。行く気はないから」
美空は、私の顔色が変わるよりも早く、冷徹なトーンできっぱりと言い放った。
「さっき断りのメールを送ったよ。体調が悪いとか、大学の試験が近いとか、適当に理由をつけた。だから、楓が気にするようなことじゃない。私は食事会なんかには行かない」
美空は私を安心させるように微笑んでみせる。けれど、その言葉とは裏腹に、テーブルの上のスマートフォンが再び短く震えた。美空はそれに目を向けようともしない。
私は知っている。市之瀬美空という女の子が、どれだけ実家からの期待を背負っているかを。
美空の家は、地元でも有名なお堅い家柄だ。お父さんは厳格で、お母さんも世間体を何より重んじる人。そんな家で、美空は幼い頃から『完璧な優等生』であることを求められてきた。
現に、彼女は今も難関と言われる私立大学の法学部でトップクラスの成績を維持しているようだ。それは彼女が聡明だからというだけでなく、親の期待に応えなければいけないという、目に見えない重圧と戦い続けている証拠でもあった。
「断ったって……そんな簡単にいくの? おじさんもおばさんも怒るんじゃ……」
「怒らせておけばいいよ。私の人生だもん。誰と会うかくらい、自分で決める」
強気なセリフ。だけど、美空の膝の上でぎゅっと握りしめられた拳は、微かに震えていた。
その痛々しい姿を見て、私の胸に、鋭い痛みが走る。
(美空は、戦ってるんだ……。一人で、周りの全てと)
ランチの時に臨たちが言っていた安心できるルート。美空の親が用意した食事会は、まさにそのルートの入り口だ。商社マンの男の人と出会い、親に祝福され、世間に認められる『普通の幸せ』。美空ほどの美貌と知性があれば、そんな未来を手に入れるのは容易なはずだった。
それなのに、美空はその全てを、迷いなくドブに捨てようとしている。
誰のために?
私のためだ。
私への重すぎる未練を貫くため。私ともう一度、恋人に戻るため。
美空は親との関係にヒビが入ることも、自分の将来の安定も、全てを犠牲にして、この狭いルームシェアの部屋にしがみつこうとしている。
「……ねえ、美空。本当に、行かなくていいの?」
気づけば、私はそんな言葉を口にしていた。
「何を言ってるの、楓。私が行くわけないでしょ。私は楓以外の誰の隣にも――」
「分かってる。美空の気持ちは、分かってるよ!」
私は遮るように声を上げた。切なくて、苦しくて、涙が出そうになるのを必死で堪える。
「でも……私のせいで、美空が親と喧嘩したり、自分の将来をめちゃくちゃにしたりするのは、違うよ。私、そんなの求めてない。美空には、ちゃんと幸せになってほしいのに……!」
私の言葉に、美空は息を呑んだ。完璧だった高嶺の花の表情が、悲しげに、歪んでいく。
「楓……どうして、そんなこと言うの?」
美空が椅子から立ち上がり、ゆっくりと私に近づいてくる。いつものように押し倒すような勢いはどこにもない。今にも消えてしまいそうな、儚い足取りだった。
私の前に立ち止まった美空は、床に膝をつき、ソファに座る私の手を、下から両手で包み込むようにして握りしめた。その手は、驚くほど冷たかった。
「幸せって何……? 私の幸せは、楓と一緒にいることだけだよ。あの日、楓をフってから、私の世界は絶望に満ちた灰色だった。楓のいない未来に、どんな価値があるの?」
黒い瞳から、ぽろぽろと涙が零れ、私の手の甲に落ちる。
「親の期待なんて、どうでもいい。世間の普通なんて、知ったことじゃない。私は、楓さえいれば……楓が私を好きでいてくれるなら、他の全てを失ったって、ちっとも怖くない」
狂おしいほどの、純粋で重い愛の告白。けれど、その愛の深さが、今の私にはあまりにも悲痛に思えた。美空は私のためだけに自分自身の全てを投げ打とうとしている。
私が美空の手を握り返そうとした、その時。美空は、ふっと自嘲するような、酷く寂しげな笑みを浮かべた。
「……ごめんなさい。こんなこと言うべきじゃなかった。また、重いことを言って、楓を困らせちゃったね」
美空は私の手をそっと離し、床から立ち上がった。
涙を拭い、先ほどまでの激しい感情を無理やり心の奥底に閉じ込めるように、すとん、と表情を消す。
「……やっぱりこんなルームシェアなんてするべきじゃなかったんだよね」
美空は自分の部屋のドアを見つめながら、ぽつりと呟いた。その声は、どこか遠くの世界から響いているようだった。
「……私はどうなったっていい。でも、これ以上、私のせいで楓を巻き込むわけにはいかない。楓には、おばさんの言う通り、普通の綺麗な世界で笑っていてほしいから」
そう言って、美空は私に背を向け、自分の部屋へと歩き出してしまった。
「楓。明日からはまた、ただの同居人に戻ろう」
「美空!? ちょっと、何言って――」
私が何か言うよりも早く、ドアが閉まる。
高校の三学期のあの日に、私の手を振り払って走り去った美空の姿が、完全に重なった。
美空はまた、私を守るという大義名分のために、一人で勝手に傷つき、自分の中に殻を作って閉じこもろうとしている。
取り残されたリビングで、私はただ、激しい焦燥感に駆られて立ち尽くすことしかできなかった。
「何なのよ、一体……!」
拳を強く握り締める。以前の喧嘩の時とは、明らかに空気が違っていた。
あの時は、壬琴先輩への嫉妬や、私の言葉に傷ついたことに拗ねていたのだと思う。だからこそ、美空の態度にはどこか子供っぽい未練が透けて見えていた。
だけど、今回は違う。
今の美空から感じるのは、もっと静かで、もっと冷徹な、哀しいほどの決意だった。
もしもここで彼女を放っておいたらどうなるだろう。
きっと明日からはまた他人行儀な態度を取り始め、帰宅時間も遅くしてなるべく私と顔を合わせないようにするのだろう。それも全て私のためだ。
私を愛しているからこそ、私の『普通の幸せ』の邪魔にならないように、自ら身を引かなければならない。自分が悪者になって、このルームシェアの境界線を元通りに修復し、他人としての距離に戻らなければいけない――そんな、美空の悲壮な自己犠牲の匂いが感じられた。
分かっている。長い付き合いだし、もう何ヶ月もルームシェアをしているのだ。それくらいの行動は予想がつく。
「バカじゃないの……。本当に、大バカ者だよ……」
親からの縁談が来たからって、実家の母親から手紙が届いたからって。どうしてそうやって、全部一人で背負い込んで、勝手に諦めて、綺麗に消えようとするの。
高校の三学期のあの日も、きっとそうだったのだ。
あの日の美空の突飛な拒絶も、今のこの痛々しい姿も、きっと根っこは同じ。
そう気づいた瞬間、私の胸の奥から、美空への切ない愛しさと同時に、言葉にできないほどの激しい『怒り』が爆発しそうになった。
彼女の手を離すなんて、もう絶対に嫌だ。
あの日、夕暮れの教室で、走り去る美空の背中を追いかけられなかったことを、私は今でも死ぬほど後悔しているのだから。これ以上、彼女とすれ違うのは御免だ。
私は、顔を上げると美空の部屋の前に立った。部屋のドアを数度ノックする。
「美空。ちゃんと話しよう!」
ドアの向こうから美空の掠れた声が返ってくる。
「……ごめん、疲れてるから。おやすみ」
その態度にさらなる怒りが湧いてくる。美空の声を無視してドアノブに手をかけるが、中から鍵がかかっているようだった。
「なんかバンプにこういう曲あったよね。アコギサークルでちょっとだけ練習したんだよな。なんて曲だっけ……」
苛立たしげに呟きながら部屋のドアを睨みつける。
「――よし。このドア、ぶち破るか」
深く息を吸う。そして、部屋のドアを目掛けて拳を振りかぶった。




