第34話:迫り来る周囲の現実、男の影と結婚の話
実家から届いたあの手紙の余韻を引きずったまま、新しい週が始まった。
家の中では、美空がいつも通りに振る舞おうとしてくれている。私の大学まで迎えに来てくれたり、朝に後ろから抱きついてきたり。けれど、あのペアマグカップを握りしめて震えていた美空の背中が、私の脳裏から離れてくれなかった。
そんな私の憂鬱を知る由もない大学の友人たちは、今日もいつも通りに賑やかだった。
「やっぱここのランチセット、コスパ最強だよね。今時、千円でデザートまで付いてくるってあり得なくない!?」
お昼休み。大学の近くにあるカジュアルなイタリアンレストランで、サークル仲間の臨と、同じ学部の女子である涼花と三人でランチをしていた。
臨は、鈴原涼花という彼女の姓名の頭を取って『すずすず』とあだ名で呼んでいた。相手の懐に遠慮なく飛び込んでいける彼女の人柄が少しだけ羨ましい。
フォークにトマトパスタを巻き付けながら、臨は大げさにため息をつく。
「っていうかさ、もうすぐ夏休みじゃん? みんな予定どうするの? 私、そろそろ真面目にインターンとか考えなきゃいけなくてガチ鬱だわ」
「えっ、臨ってもうそんなこと考えてるの? 一年生でインターンは早くない!?」
「早くないって、すずすず!うちらも二年後には就活しなきゃなんだよ? 就職のこと考えたら、今のうちに動いとかないと詰むって先輩が言ってたもん」
臨と涼花が、就職や将来についての現実的な話を始める。
普段は恋愛や服の話ばかりしている彼女たちが、急に大人の階段を上り始めているような気がして、私は少しだけ焦りを感じながらサラダを口に運んだ。
「でもさ、就職も大事だけど、私はやっぱり結婚のこともちょっと意識しちゃうな」
涼花が少し照れ臭そうに笑いながら、スプーンでスープをすする。
「結婚? すずすず、もうそんなこと考えてるの?」
「だって、お姉ちゃんが二十六で結婚したんだけど、すっごい幸せそうでさ。私もできれば二十代後半には結婚して、子供は二人くらい欲しいなって。そうなると、就職して何年かで良い人見つけなきゃいけないから、逆算したらあんまり時間ないんだよね」
「分かる。普通の企業に就職して、二十代のうちに結婚して家庭を持つって、なんだかんだ一番安心できるルートだよね」
普通の企業に就職して、二十代のうちに結婚して、子供を産んで、家庭を持つ。臨の言う一番安心できるルート。それが、この世の大多数の人が疑いもなく信じている、ごく一般的な『幸せの形』なのだ。
そこに、悪意なんてこれっぽっちもない。けれど、二人の言葉を聞けば聞くほど、私の胸の奥がキリキリと締め付けられていく。
「そういえばさ、楓っちは?」
不意に、臨が私に矛先を向けてきた。
「えっ、私?」
「そう。楓っちって普段からあんまりそういう話しないしさ。どんな人がタイプなの? サークルの男の先輩とか、結構楓っちのこと可愛いって言ってるよ?」
「いや、私はそんな……全然、今は恋愛とか考えてなくて……」
思わず言葉を濁してしまう。本当は考えていないわけがない。毎日、家で元カノに脳を破壊されるような生活を送っているのだから。けれど、そんなことは口が裂けても言えない。
「楓っち、せっかく可愛いのにもったいないなぁ。あ、そうだ! 楓っちって、地元の友達の女の子とルームシェアしてるんだよね。ほら、美空さん!」
「う、うん。美空がどうしたの……?」
「美空さんに、男の人を紹介してもらったりしないの? 東京の大学に通ってるなら、男友達とかいるでしょ。ダブルデートとかしたら絶対楽しいじゃん!」
「っ……」
喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
美空に、男を紹介してもらう。もしそんなことを彼女に言おうものなら、あの狂おしいほどの独占欲の塊がどんな顔をするか、想像するだけで恐ろしい。
いや、それ以前に。
(……私は、何を隠してるんだろう)
目の前で、楽しそうに「将来の旦那さんの年収」や「理想の結婚式」について語り合う臨と涼花。
彼女たちの見据える未来には、当然のように男性が存在している。女は、男と結婚する。その考えは私たちの地元に限った話ではないのだ。それがこの世界の当たり前で、親が望む姿で、世間が祝福してくれる道なのだろう。
それに対して、私が今、歩もうとしている道はどうだ。
嘘の友達のフリをやめて、美空の気持ちを受け入れて、もう一度恋人に戻ったとして。その先に、臨たちが言うような『安心できるルート』なんてあるのだろうか。
親にはカモフラージュを続けなければいけない。友達にも本当の関係は秘密。
街中で堂々と手を繋いだら道行く人から白い目で見られるかもしれない。
いつか来るかもしれない『結婚』の二文字からも、目を背け続けなければならない。
女の子同士で付き合うということの、特別さと、それ以上に圧倒的な険しさ。
世間の『普通』という濁流が、私と美空の小さな部屋の防壁を容赦なく削り取っていくような、強烈な現実味を突きつけられていた。
「楓っち? どうしたの、パスタ冷めちゃうよ?」
「あっ、ごめん! なんか、将来のこと考えてたら、ちょっと考え込んじゃって……」
「楓っちは真面目だね。まあ、うちらの未来はこれからだし、焦らず良い人探そうよ! 今時はマチアプとかもあるしさ!」
臨が明るく笑って、私の肩をぽんと叩く。その手の温かさが、今の私には酷く切なかった。
――その日の帰り道。
夕暮れ時の東京の街を、私は一人、トボトボと歩いていた。オレンジ色に染まるビル群の隙間から、冷たい夜の気配が忍び寄ってくる。
スマートフォンの画面を見る。美空から可愛いスタンプ付きのLINEが届いていた。
『今、講義終わったよ。早く楓に会いたいな』
画面越しの美空の言葉に胸がキュンとする。その一方で、ランチでの臨たちの会話がリフレインしていた。
美空が高校の三学期のあの日、「怖かった」と言って私をフった理由。
実家の母親が手紙に書いた「良い男の子を見つけなさいね」という願い。
そして、周囲の友人たちが当たり前のように選んでいく、普通の幸せのレール。
なんとなく全てが繋がったような気がした。
美空は、気づいていたのだ。高校生の時点で、女の子同士で一緒にいることの未来の重さに。だから、私をフって、私に『普通の幸せ』を掴ませようとした。
「……私は、美空とどうなりたいんだろう」
ぽつりと、誰もいない夜道に疑問が溢れた。
ただ、今のイチャイチャした時間が楽しいから、未練があるからという理由だけで、復縁を選んでいいのだろうか。美空の巨大な感情を受け止めるということは、彼女の人生の、そして私の人生の『普通』を全て投げ捨てる覚悟をするということだ。
「私は……私は、美空が好きだ」
美空のことが好き。美空を愛している。それはもう間違いない。
だけど、迫り来る現実の壁を前にして、私の心は、激しい未来への葛藤の嵐に飲み込まれようとしていた。




