第33話:実家からのダンボールと、優しい『普通』の凶器
美空のスマートフォンが鳴らしたあの警告音のような着信から、数日が経った。
あの夜、美空は震える手で通話ボタンを押し、生返事と素っ気ない相槌をひたすら繰り返して電話を切った。何を話したのか、私がそれ以上深く問い詰めることはできなかった。
そんな張り詰めた空気をほぐすように、土曜日の午前中、我が家に一つの大きな荷物が届いた。
「わっ、重い……!」
宅配便のドライバーさんから受け取ったのは、ずっしりと重みのあるダンボール箱だ。送り主の欄には、見慣れた私の母親の名前が書かれている。定期的に実家から送られてくる仕送りだ。
リビングの床にダンボールを置き、カッターでテープを剥がしていく。自分の部屋にいた美空も、箱が開く音に引き寄せられるようにしてリビングに現れた。
「楓、おばさんから荷物?」
「うん。お米と、あと地元の野菜とかレトルト食品だって。あ、お煎餅も入ってる。これ、美空の好きなやつだよね」
「えっ。別にそこまで好きじゃないよ……?」
そう言いつつも美空の目は分かりやすく輝いていた。先ほどまでの、どこか影のある表情が一瞬で消え去り、子供のように箱の横にしゃがみこむ。
「……まあ、嫌いなわけじゃないからあれば食べるけど」
「それくらいの好きさ加減なんだ。うちのお母さん、美空はこのお煎餅が大好物なんだって思ってるよ。うちに来た時に美空が『美味しい』って言って食べてたって」
「そんなことあったっけ……。小学生の時?」
「たぶんそう。母親ってなんかそういうことばっかり覚えてるよね」
「分かる。何なんだろうね、あれ」
そう言って美空と笑い合う。
ダンボール箱からお煎餅の袋を取り出し、愛おしそうに見つめる美空。地元の懐かしい匂いと、実家の親の圧倒的な生活感。それらが詰まったダンボールのおかげで、私たちの間に流れる空気は、一瞬だけ高校時代の優しかった頃へと巻き戻されたような気がした。
これこそが、この部屋で唯一、私たちが拗れた関係を気にせずに心から笑い合える時間だった。
「あ、手紙も入ってる」
野菜の隙間に挟まれていた、一枚の便箋を見つける。折り畳まれた紙を開くと、相変わらずの私の母親の、少し丸っこくて雑な文字が並んでいた。
「なんて書いてあるの?」
美空が私の肩にそっと顎を乗せ、背後から覗き込んできた。
当たり前のように密着してくる美空の体温を感じながら、私は手紙の文字を小さく声に出して読み上げる。
「えっと……『楓、元気にしていますか。東京の生活には慣れましたか。美空ちゃんとは仲良くやっていますか。美空ちゃんはしっかりしている子だから、楓が迷惑をかけていないかお母さんは心配です。ちゃんと二人で協力して、ご飯を食べて、風邪をひかないようにしなさいね』……だって。もう、相変わらず過保護なんだから」
「ふふ、おばさんらしいね。私のことまで気遣ってくれて、嬉しい」
美空が嬉しそうに目を細め、私の首筋にすり寄るように顔を近づけてくる。
母親の純粋な善意。地元の友達同士、女の子二人旅の延長のようなルームシェアを、親たちは心から応援してくれている。
その温かさに胸がいっぱいになりながら、私は手紙の最後の行へと視線を落とした。
けれど。
そこに書かれていた続きを目にした瞬間、私の心臓が、冷たい氷水をぶっかけられたように凍りついた。
『追伸。あんたたちも、もう立派な大学生なんだから、東京で素敵な男の子でも見つけなさいね。今度帰省した時に、良い報告が聞けるのを楽しみにしています』
「っ……」
声が、途切れた。
私の肩に乗っていた美空の身体が、一瞬で強張るのが分かった。
リビングに、痛いほどの静寂が満ちていく。
ついさっきまで部屋を包んでいた、実家の温かい空気や地元の懐かしい匂いが、一瞬にして全て、鋭利な刃物へと変貌を遂げていた。
私たちの地元では、家父長制のような意識がいまだに強く残っている。田舎だから、というのもあるのだろう。男は働いて家族を養い、女は家庭に入って家事や子育てをする。地元では皆がそう思っているし、上の世代になればなるほどその思想は根深い。
だから、母親にも悪意なんて全くない。100%の善意。100%の愛情。娘の幸せを願う、親としての、ごく当たり前の『普通』の言葉。
けれど、その『普通』こそが、今の私たちにとっては、どんな罵詈雑言よりも深く心を抉る、残酷な凶器だった。
「……ごめん、楓。私、素敵な男の子じゃないや。良い報告はさせてあげられない」
美空が、ゆっくりと私の肩から顎を離した。
そのまま静かに立ち上がり、リビングのキッチンカウンターへ歩いていく。美空は、私たちが一緒にIKEAで選んだ、あのお揃いの色違いのペアマグカップに、アイスコーヒーを注いだ。とくとく、と虚しい音だけがリビングに響く。
「美空、あの、これはお母さんが勝手に言ってるだけで……!」
私は慌てて便箋を隠すように折り畳み、美空の背中に向かって声を絞り出した。
弁解しなければいけないと思った。でも、何を言えばいいのか分からなかった。
私は、美空の親の人となりを知っている。私の親だけでなく、美空の親だって、同じことを考えているということが私には分かってしまっていた。だからこそ、咄嗟に何も言うことができなかったのだ。
美空は振り返らないまま、くすんだ青色のペアマグカップを両手で包み込むようにして握りしめた。その指先は、白くなるほど強く力が入っている。
「……大丈夫。分かってたことだから」
ぽつりと、美空の口から零れ落ちた声は、掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。
「……やっぱり、おばさんは、今でもそう望んでるよね。楓には、普通に男の人と付き合って、普通に結婚して、普通の幸せを掴んでほしいって……。それが、親としての『普通』だもんね」
自嘲気味に、歪に口角を上げて呟く美空。
その背中は、大学での高嶺の花の威厳なんてどこにもなく、今にも崩れ落ちそうなほどに小さく、孤独に震えていた。
高校の三学期のあの日、美空が私の手を振り払って逃げ出した景色が、ほんの少しだけ、この冷え切ったリビングの空気に重なったような気がした。




