第32話:甘い生殺しと、触れられない核心
あの心臓が爆発しそうなソファの攻防戦から、数日が経過した。
現在の私たちの関係を一言で表すなら、間違いなく『極上の生殺し』だ。お互いの好意は100%、いや美空に関しては120%剥き出しになっている。なのに、まだ正式に復縁して恋人に戻ったわけではない。
なぜなら、私が美空の怒涛のスキンシップに流されまいと、必死に最後の防衛線を死守しているからだ。高校の三学期のあの日の謎を解き明かさない限り、簡単に流されてなるものかという、フられた側としてのささやかなプライドでもあった。
ここ数日の間、毎日のようにキスはしてしまっているし、軽いスキンシップも繰り返してはいた。だが、そこまではまだギリギリ許容範囲だと私は自分に言い聞かせている。触れ合っている最中に気が緩むとつい美空に身体を許しそうになるが、それだけは必死に理性を働かせて踏みとどまっていたのだ。
したいけれど。本当はすごくしたいけれど。泥沼のような快楽に溺れ、なし崩し的によりを戻してしまうのだけは是が非でも避けねばならない。
けれど、当の美空はというと――。
「ねえ、楓。今日の講義が終わったら駅前で待ち合わせして、一緒に買い物して帰らない?」
「美空、近い。あと大学の敷地内。誰が見てるか分からないでしょ」
お昼休み。私の通う大学のキャンパスの隅で、美空は当たり前のように私の腕に自分の腕を絡めていた。
美空の通う大学のキャンパスはうちの大学から電車を使って二十分ほどの距離にある。だというのに、彼女は午後一の講義がない日には必ずお昼休みにこちらの大学まで遠征してくるのだ。交通費がもったいないからやめてくれと言っても聞きやしない。
しかも美空と一緒にいると通りすがる学生たちが、驚いたように私たちを見てくるのだから気が気ではない。それもそのはずだ。この市之瀬美空という女は、そもそもがとんでもなく美人なのだ。そんな見慣れない美人がキャンパス内にいたら男子学生たちが注目するのも無理はない。
さっきも、私と合流する直前に男子学生から声をかけられていたようだったが、美空は冷徹な表情で切り捨てていた。それなのに、私と二人きりになった瞬間、この通りベタベタと甘えてくる。
「もうちょい距離を離してよ、美空……」
「別にいいでしょ。誰も気に留めてないよ。それより、今日の晩ご飯は何にする? 私、楓の作ったハンバーグがいいな」
「……はいはい。じゃあ、ひき肉買って帰るから、駅前に十八時ね」
「うん、約束」
嬉しそうに目を細めて、私の肩に頭をこつんと預けてくる。
大学での高嶺の花の姿を知っているからこそ、家の中だけでなく、外でも自分にだけ見せるこの無防備な甘えっぷりは、私の独占欲をこれでもかと刺激してくる。
正直、めちゃくちゃ可愛いと思ってしまう。脳の破壊が止まらない。プライドを捨てて今すぐにでも押し倒したくなる。
けれど、そんな甘い空気は、家に帰ってから一変することになった。
――その日の夜。
約束通りハンバーグを作り、二人で並んで夕食を済ませた後のリビング。
美空は当然のようにソファに座る私の膝の上に頭を乗せ、嬉々として膝枕を要求していた。
サラサラとした黒髪が私の太ももをくすぐる。美空は私の手を自分の頭に導き、「撫でて」と無言で催促してくる。完全に飼い主に甘える大型犬のそれだ。
私は美空の柔らかい髪に指を預け、優しく梳かしながら、ずっと胸の奥で燻っていた疑問を口にすることにした。
今なら、美空も落ち着いた気持ちで本音を話してくれるかもしれない。そう思ったからだ。
「ねえ、美空」
「なあに、楓」
美空は目を閉じたまま、心地よさそうに声を返す。
「この間……美空、言ったよね。高校の三学期のあの日、私の将来が『怖かった』からフったって」
ピタリ、と。美空の身体が、一瞬で強張るのが伝わってきた。
「それって、どういう意味? 何がそんなに怖かったの? 私、あの時、美空と離れたくなくて、ずっと一緒にいたいって本気で思ってたんだよ。なのに、どうして……」
私の問いかけに、美空はゆっくりと目を開けた。けれど、その瞳には、さっきまでの甘やかな光は一切消え失せていた。
美空は私の膝から頭を上げ、ソファの上に端座する。そして、何も考えていないかのような完璧な笑顔を貼り付けた。
「何のこと? あの時は私、ちょっと取り乱しちゃってたから、自分でも何を言ったかよく覚えてないんだよね」
「……嘘。覚えてないわけないじゃん」
私は美空の目をじっと見つめる。美空の笑顔は、大学で見せる氷の仮面とは違う。私を傷つけないように、そして自分自身を守るために懸命に作った、あまりにも不自然で綺麗な偽物の笑顔だ。
「楓は気にしなくていいよ。もう終わったことだし、今こうして一緒にいるんだから、それで十分でしょ」
「何も終わってないし、全然十分じゃないよ! 私は――」
言葉を重ねようとした、その瞬間。美空の手が伸びてきて私の頬を撫でた。
「そんなことよりさ、今日はどうする?」
思わず身体がびくりと震える。
「最近ずっとキスだけだよね。楓、満足してる? してあげよっか?」
美空の甘い声が囁く。彼女の手が鎖骨をなぞり、胸元へ下りてくる。布地越しに感じる美空の手のひらの温もりと確かな感触。
「ち、ちょっと、美空……!」
思わず漏れた私の小さな悲鳴にも似た声に反応して、美空の動きがさらに大胆になる。彼女の手が離れたかと思うと、指先がゆっくりとTシャツの裾から入り込んでくる。美空の細くてしなやかな指がブラジャーのカップの中に滑り込み、直接的に私の肌に触れてきた。
「……っ!」
彼女の指先が敏感な部分を捉えるたびに、私の身体は勝手に弓なりに反ってしまう。
「楓の可愛いところ、もっと見たいな」
美空の声に勝ち誇った響きがあった。襲い来る快感に身を委ねてしまいそうになる。
過去のことなんて全て忘れてこのままドロドロに蕩けてしまった方が幸せなのかもしれない。そんな考えすら脳裏をよぎる。
だが、涙の滲む瞳をうっすらと開けた時、私は見てしまった。美空の表情に怯えのような影が差しているのを。
その瞬間、私は察した。
さては、この女。気持ちの整理ができたら全てを打ち明けると言ったはいいものの、後から怖気づいたのではないだろうか。
それで、私が流されやすいのをいいことにキスやそういうスキンシップで有耶無耶にしようとしているのだ。
だとすれば、なんとしてもここで言いなりになるわけにはいかない。
漏れそうになる吐息を必死に堪えながら、私は彼女の手を優しく掴んだ。
「美空。聞いてよ――」
その時だった。リビングのテーブルの上で、美空のスマートフォンが激しく震え、けたたましい電子音を鳴り響かせた。
ビクッ、と美空の肩が大きく跳ねる。
開いた画面に表示されていたのは、登録された名前。
『お母さん』
実家の、美空の母親からの着信だった。
親同士が仲が良いこともあり、私たちのルームシェアを完璧な善意で仕組んだ張本人。いつもなら、地元の天気や仕送りの話をするだけの、なんてことのない普通の電話のはずだ。
なのに。
「……あ」
スマートフォンを見つめる美空の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
差し出された美空の白い手が、宙で凍りついた。その手は、まるで極寒の地に放り出されたかのように、小刻みに、けれど明確に震えている。
画面の向こうから迫る、優しい現実の足音。
私は、乱れた息を整えながら問いかける。
「で、出なくて大丈夫……?」
「……分かってる。出るよ」
美空のその異常な怯え方を見た時、私は彼女が抱える恐怖の正体が、想像以上に根深く、そして私たち二人を引き裂くほどの鋭利な刃物であることに、まだ気づいていなかった。




