第31話:『友達』の肩書きを失った、リビングの体温
――嘘の友達のフリをするのは、もうやめる。私は、今でも楓のことが大好きだから。
昨夜、ソファに並んで腰掛けながら元カノが放った言葉。
その鼓膜にこびりついて離れないセリフのせいで、私は完全に深刻な睡眠不足に陥っていた。
「……バカ、美空のバカ」
薄暗い自室のベッドの中、枕に顔を埋めて本日何度目か分からない悪態を吐く。
あれだけ激しく感情をぶつけ合って、お互いにまだ『大好きで仕方がない』という特大の爆弾を答え合わせしてしまったのだ。それに、その前夜に私たちは身体を重ねてもいる。
自身の下腹部にそっと触れる。そんなはずはないのだが、まだ身体が火照っているような気がした。
「……気持ちよかったな」
美空の肌の柔らかさと指の感触を思い出し、独り言が漏れる。
別の部屋にはその元カノがいるのだ。こんな状態で眠れるわけがない。
時計を見ると、時刻は朝の七時になろうとしていた。いくら悶々としたところで、お腹は空くし大学にも行かねばならない。私は諦めてベッドから這い出し、重い足取りでリビングへと向かった。
美空の部屋のドアはまだ閉まっている。いつもなら、私が先に起きて朝食を作るのがこの家のルーティンだ。
「……よし、落ち着こう。いつも通り、いつも通り」
深呼吸をして、冷蔵庫から卵とウインナーを取り出す。
フライパンを火にかけ、パチパチと小気味いい音が響き始めた頃だった。
パタン、と静かにドアが開く音がした。
振り返らなくても分かる。心臓が跳ね上がった。スリッパを鳴らす音がキッチンへと近づいてきて、私のすぐ後ろで止まる。
「……おはよう、楓」
背後からかけられた声は、驚くほどいつも通りの、低くて心地いい美空のトーンだった。
彼女はいつも通りだ。こちらだけ身構えて損をしたような気になる。ほっと胸を撫でおろし、フライパンのウインナーをひっくり返しながら声を返す。
「おはよう、美空。今朝はトーストを焼いて、目玉焼きとウインナーでいい――」
言いかけた言葉は、最後まで紡がれなかった。
ふわり、と。私の大好きな、けれど昨夜からずっと私の脳内を狂わせている、あの甘い匂いが鼻腔をくすぐった。美空の匂い。
次の瞬間、私の背中に、柔らかくて温かい『体温』が容赦なく押し付けられる。
「……え?」
美空の両腕が、私の脇の下をすり抜けて、お腹の前できゅっと回された。完璧なバックハグ。それだけじゃない。美空は私の肩口にその小さな顎を乗せ、わざとらしい吐息を私の首筋に吹きかけてきたのだ。
「ひゃっ!? ちょっと、美空!?」
変な声が出た。背筋に電流が走る。
慌てて逃げようとする私を、美空はさらに強い力で抱きしめ、逃がしてくれない。
「何、朝から……! ルールはどうしたのよ、干渉しないって――」
「破り捨てたでしょ。昨日の夜、二人で」
耳元で、美空がくすくすと意地の悪い、けれどどこか艶っぽい声で囁く。
「だって、もう『友達』じゃないんでしょ? だったら、これくらい遠慮する必要ないよね?」
「限度ってものがあるでしょ!? 火を使ってるんだから危ないって!」
「じゃあ、火を止めればいい?」
美空は私の手から菜箸を奪い取ると、カチリ、とガスコンロのツマミを回して火を消した。おい、私たちの朝食。
自由になった美空の手が、今度は私の頬に触れ、そのままじわじわと首筋をなぞり始める。冷たい指先が、私の体温の上がった肌に触れるたび、頭がどうにかなりそうになる。
高校時代、付き合っていた頃だって、美空はこんなに大胆じゃなかった。いつも私の方から手を繋いで、私の方からキスをして、美空はそれを少し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに受け入れる側だったのに。
「美空、離して……本気で心臓に悪いから……」
「嫌。……土曜日に他の女の匂いをさせてこの家に帰ってきた罰」
壬琴先輩のことだ。例の件はもう決着がついたはずなのに相変わらず拗ねたような声を出している。首筋に触れる指先が、ほんの少しだけ震えていることに私は気づいてしまった。
「っ……」
美空の顔を、私は強引に振り返って見つめる。
視線が交差する。
大学で高嶺の花として扱われている、完璧な美貌。けれど、その黒い瞳の奥にあるのは、余裕なんてどこにもない必死な光だった。まるで、今こうして触れていないと、私がどこか遠くへ消えてしまうと怯えているような。
一昨日の夜、ボロボロに泣き崩れた未練の塊のような姿が、そこにはまだ残っていた。
(……ズルいよ。そんな目で見られたら、怒れるわけないじゃん)
私は小さくため息をつき、お腹に回された美空の手の上に、自分の手を重ねた。
「……ウインナー、冷めちゃうから。朝ご飯食べたら、ちゃんとお話しよ?」
「……うん」
美空は少しだけ名残惜しそうに、けれど満足そうに腕の力を緩めた。
どこかぎこちない静けさの中で、二人並んで食べる朝食。メニューはいつも通りなのに、空気の密度が明らかに違う。
お互いに視線が合うたびに、美空は微かに口角を上げ、私は気まずくなってコーヒーに逃げる。昨日までの『ただの同居人』という免罪符を失った私たちは、お互いの一挙手一投足に、明確な意味を見出してしまっていた。
食後、食器を片付け終えた私がリビングのソファに腰を下ろすと、待ってましたと言わんばかりに美空が隣に滑り込んできた。
ただ隣に座るだけじゃない。距離感が、完全におかしい。肩と太ももが隙間なく密着している。
「あのね、美空。私たちは確かに、ただの友達のフリをするのはやめた。……けど、まだちゃんと付き合うって決まったわけじゃないでしょ?」
私は姿勢を正し、あえて真面目なトーンで切り出した。美空の巨大すぎる感情は痛いほど分かった。私の未練も、もう隠しようがない。だけど、高校の三学期のあの日に美空が私をフった『本当の理由』を、私はまだ聞いていないのだ。そこを有耶無耶にしたまま、ただの流されやすい元カノになるわけにはいかない。
しかし、美空は私の小言なんて耳に入っていない様子だった。
「……楓」
鈴の鳴るような声で、私の名前を呼ぶ。気づけば、美空はソファの上で私の体を挟み込むように、両手を私の背後の背もたれについた。ソファの上で壁ドンされているような姿勢。ソファドンだ。
「な、何……っ?」
逃げ場をなくされ、私の背中がソファのクッションに沈む。上から見下ろしてくる美空の黒髪がサラリと揺れて、私の頬を撫でた。
美空の綺麗な顔が、じりじりと近づいてくる。その瞳は、獲物をハメ殺そうとする肉食獣のそれであり、同時に、愛を乞う迷子の子犬のようでもあった。
「ねえ、答えて。楓」
美空の長い指先が、私の前髪を優しく払う。そのまま、親指が私の唇をゆっくりと、愛おしそうになぞった。
「友達っていう嘘の肩書きが消えた今――これからは、私のことをどういう目で見る?」
「ど、どうって……。か、顔がめちゃくちゃ好みで……最高にスタイルの良い元カノ……?」
震える声でそう答えると、美空はくすりと笑う。
「ごめん、言い方が回りくどかったかな。もっとストレートに言うね。……変な建前もなくなったし、これからは楓の好きなようにしていいんだよ。顔が好みでスタイルの良い元カノを」
妖艶に歪められた美空の唇から、逃げられない問いかけが放たれる。
「楓、今日の講義は二コマ目からだよね。まだ一時間くらいは余裕あるけど……どうする?」
美空の手が私の手を優しく掴み、彼女の太ももへと導く。細くて引き締まった感触。至近距離から浴びせられる元カノの色気に、私の理性の堤防は、朝から早くも決壊寸前だった。
今朝から――いや、なんなら昨夜からずっと悶々としていたのだ。このとんでもない誘惑を前に理性が屈しそうになる。
だが、ここで流されてはいけない。必死にそう自分に言い聞かせる。
「さ、さすがに朝っぱらからそういうことするのはどうかと思うし……。せ、せめて……」
私は羞恥に頬を染めながら視線を逸らした。
「せめて……ちゅー、だけにしよう……?」
その言葉を聞くと美空は勝ち誇ったように冷徹な笑みを浮かべる。
「分かった。じゃあ、口開けて?」
「ん……」
私は、おずおずと唇を開き、小さな舌を差し出した。以前は抵抗していたはずなのにすっかり言われるがままだ。
美空は私をソファに押し倒すようにして唇を重ねてくる。朝のリビングに水音が響く。
舌を絡められると頭がぼうっとしてくる。何かもっと大切なことを考えていたはずなのにそれすらもどうでもよくなってしまう。
(……あれ。これ、私また流されてる? ちょっとマズいかな?)
あらゆる建前を失ったこの状態は、ひょっとすると今までよりもよほど危険なのではないだろうか。元カノに口内を犯されながら、私はようやくそのことに気づき始めていた。




