第30話:【間章】堕ちた狩人
あの御茶ノ水での騒動から数日。
夜の大学の裏路地。冷たい湿気を含んだ空気が漂う敷地の片隅で、水科壬琴は全身の血が凍りつくような恐怖に竦んでいた。
「本気じゃないと思われるのも嫌なのでちゃんと証拠を持ってきましたよ、水科先輩」
目の前に立ち塞がるのは、市之瀬美空。街灯の光すら届かない路地の暗がりの中で、その黒髪の美女は氷よりも冷徹な瞳で水科を見下ろしていた。
「『あなたの秘密を知っている』って。そう言いましたよね、私」
あの日、水科の耳元で囁いた言葉。あの瞬間にはただのハッタリに過ぎなかった。楓との大喧嘩のせいで精神的余裕を失っていたあの時点の美空には水科の身辺まで調べ上げることなどできていなかった。
だが、ハッタリを聞かされた瞬間の水科の反応。あの極端な怯え方。あれで確信に変わった。
どうやら、秘密も後ろ暗いところもあるようだ。ならば、後はそこを突けばいい。
「これはあなたの裏のアカウントと、非公開のストレージサーバーのバックアップデータです」
美空の手元にあるスマートフォンに映し出されていたのは、水科がこれまで言葉巧みに弄び、隠し撮りしてきた後輩女子たちの画像やメッセージの膨大な記録だった。
美空の法学的な知見と、手段を選ばない徹底的な裏調査によって、水科の『狩人』としての秘密はこの数日をかけて完膚なきまでに暴き出されていた。
「大学への告発、サークル内での拡散、警察への相談……どれからでも始められますよ。あなたの親やその勤務先に、このデータを送ってあげるっていうのもいいですね」
美空の声には感情が一切籠もっていなかった。だが、その背後に渦巻く圧倒的な漆黒の情念と、触れれば命を落とすと直感させる狂気。水科の膝が激しく震え、カチカチと歯の根が合わなくなる。
「何が……何が望みなの……!?」
美空は呆れたようにため息をつく。
「望みなんてありませんよ。今まで通り楓の良い先輩でいてあげてください。あなたが急にいなくなったりしたら楓が驚きますから。ただ――」
美空は静かに微笑んだ。
「――少しでもおかしなことをしたら、あなたの人生を終わらせるからね」
耳元で囁かれたその言葉で、水科の『狩人』としての牙は完全に叩き折られた。彼女は生まれて初めて、自分など足元にも及ばない本物の化け物と出会ってしまったのだ。
◆ ◆ ◆
数週間後。サークルの部室やキャンパスのあちこちで、水科が何か変わったという噂が立ち始めていた。
かつてのスマートで余裕のある立ち振る舞いは、完全に影を潜めていた。街中で黒髪ロングの女性とすれ違うだけで激しい動悸と冷や汗に襲われ、まともに目すら合わせられない。
壊れた自尊心を取り戻そうと、別の下級生に声をかけようとしても、「どこかで美空に見られているのではないか」という極度のパラノイアから手が震え、言葉が詰まり、挙動不審になってしまう。
「水科先輩、最近なんか焦ってて余裕ないし、正直気持ち悪い……」
「前はカッコいいと思ってたけど、ただの痛い人だったんだね」
メッキがボロボロと剥がれ落ちた水科から、今まで取り巻いていた女子たちは一人、また一人と離れていった。
◆ ◆ ◆
狭く散らかったワンルームマンションの部屋。遮光カーテンの隙間から、仄暗い夕暮れの光が差し込んでいる。
水科はソファの上で、かつて『都合のいいキープ』としてぞんざいに扱っていたお人好しの女友達の膝に顔を埋めていた。
「お願い……どこにも行かないで。私を捨てないで……」
「バイトあるって言ってるのに……本当にしょうがないなぁ」
泣きじゃくりながら縋り付く水科。その頭を、女友達はため息をつきつつもどこか満足そうに撫でる。
「壬琴は私がいないとダメなんだから」
かつてのスマートで高慢な姿は見る影もない。震える手で相手の服の裾を強く握りしめ、懇願するような瞳で相手を見上げる。
「ねぇ……もっと触って……私を見捨てないで……っ」
水科は自ら顔を近づけ、縋り付くように唇を重ねた。かつて女子を巧みに翻弄していた手慣れたキスなどそこにはなく、ただ目の前の温もりにしがみつくような、余裕のない拙い口づけだった。
「本当にどうしたの、壬琴。前はこんなんじゃなかったのにね」
女友達はどこか歪んだ優越感を瞳に宿しながら、水科の髪を優しく撫で、その首筋から背中へと指先を這わせていく。薄い服越しに与えられる愛撫に、水科の身体がビクッと跳ね、切ない吐息が零れた。
首筋から胸元へと滑り落ちる指先の熱に、頭の奥で疼く『美空への恐怖』が少しずつ薄らいでいく。水科は快感に身体を震わせながら、女友達の手に自ら擦り寄り、熱い感触を貪るように受け入れた。
「ん……っ、もっと……強く……抱きしめて……お願い……」
腰を撫で上げられる感触に熱い吐息を漏らし、瞳をうるませて恍惚とした表情を浮かべる。かつて他人の心を弄んでいた『狩人』は、今や一筋の愛撫と甘やかしを与えられるだけで喜ぶ、哀れなペットへと成り下がっていた。
「大丈夫だよ、壬琴。私がずっと一緒にいてあげるからね。ほら、怖くない、怖くない」
何度も唇を重ねられ、身体を甘く撫で回されるたびに、水科は情けないほど素直な歓喜の声を漏らし、目の前の温もりにどこまでも溶けていった。
かつて女子を意のままに操り、「チョロい」と見下していた面影はどこにもない。あの夜、暗闇の中で刻まれた死の恐怖。自分の全てを簡単に破壊してみせた市之瀬美空の黒い影に永遠に怯えながら、水科壬琴は二度と戻らない過去の栄光にすがり、怯え続けるのだった。




