第29話:偽物の『友達』が死んだ日
激しい修羅場の一夜が明けた、日曜日の朝。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、昨日までの雨が嘘だったかのように澄み切っていた。
リビングに漂う空気は、この一週間続いていた凍りつくような冷戦状態とは、明らかに違っていた。
「……おはよう、楓」
「うん、おはよう……美空」
キッチンで顔を合わせた私たちの間に、かつてのような『ただの同居人』を装うための、不自然な挨拶はもうなかった。
お互いに少しだけ視線を逸らし、頬を微かに赤らめる。
昨夜、ベッドの上で形振り構わずワンワンと泣きじゃくり、私への狂おしいほどの愛を爆発させた美空。そして、そんな彼女の重すぎる愛を、どうしようもない愛おしさと共に受け入れた私。
私たちの関係は、都合のいい『友達』でも、冷え切った『他人』でもない。
お互いが今でも深く、狂いそうなほどに愛し合っていることを完全に自覚してしまった――張り詰めた、けれど確かな熱を持った状態へと変化していた。
美空は、あのきっちりとしたパジャマではなく、いつの間にか例のメンズサイズのネイビーのパーカーを着直していた。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
スマホを見ると、壬琴先輩から一通のメッセージが届いていた。
『楓ちゃん、昨日はごめんなさい。あんなに狂おしく愛されてる君の隣に、私が割り込む隙なんて最初からなかったって、嫌でも分からされちゃったよ。本当にごめん。許してほしい。あの黒髪の子にも私が謝っていたって伝えてほしい。お願いします』
壬琴先輩は、美空のあの命がけの独占欲に圧倒され、スマートに身を引いてくれたようだった。なぜだか妙に平謝りしているのが気になりはしたが、これで私たちのもとから『新しい女の影』という脅威は完全に去ったことになる。
けれど。
(……これで、元通り……ってわけには、いかないんだよね)
私はトーストを齧りながら、目の前で静かにコーヒーを飲む美空の横顔を見つめた。
お互いの気持ちは、もう痛いほど分かっている。
けれど、私たちが高校時代のあの幸せな『恋人同士』に戻るためには、まだ超えなければならない、高くて暗い壁が残されていた。
『フりたくてフったわけじゃない……楓の将来が、怖かったの……』
昨夜、美空が涙ながらに溢した、あの日の行動の裏側。
世間の目や女の子同士の恋愛という未来の不安なんかじゃない、もっと取り返しのつかない本当のトラウマ。美空が核心を口にしようとした瞬間に言葉を詰まらせ、激しい恐怖に怯えていたあの瞳が、今でも頭から離れない。
美空をそこまで追い詰め、大好きな私をフるという選択をさせた『あの日の市之瀬美空の謎』を解き明かさない限り、私たちは本当の意味で結ばれることはないのだ。
――その日の夜。
「はい、美空。これ、熱いから気をつけてね」
「……ありがとう、楓」
夕食の後、私は温かいココアを二つのマグカップに注ぎ、リビングのテーブルへと運んだ。
私の手元には淡いピンク、美空の手元にはくすんだブルー。
一度は冷え切ってバラバラになりかけた、私たちのためのペアのマグカップ。そこから、甘くて優しい湯気がふわりと立ち上る。
美空はマグカップを両手で包み込み、しばらくの間、揺れるココアの表面をじっと見つめていた。
彼女の長い睫毛が、リビングの明かりに照らされて微かに揺れる。
やがて、美空は深く息を吸い込むと、意を決したようにゆっくりと顔を上げた。
彼女の大きな瞳は、昨夜のように泣きじゃくる子供のものではなく、全てを受け止める覚悟を決めた、大人の、そして『私だけの元カノ』としての強い光を宿していた。
「楓」
美空は私の目を、まっすぐに、一切の揺らぎもなく見つめてきた。
「あなたを傷つけた過去も、私の胸の中にある醜い独占欲も、全部隠さずに、これからは楓と正面から向き合いたい。……私が、あの日、どうしてあなたの手を離してしまったのか。その本当の理由も……気持ちの整理ができたら全部ちゃんと話すつもりだから」
その言葉に、私の心臓がドクン、と大きく跳ね上がる。
「うん、分かった。美空が話してくれるの待ってるね。……そ、それとさ」
微かに頬を赤らめ、躊躇いがちに言う。
「私たち、ここまで来たらさすがにただの同居人、ただの友達っていうのは無理があるよね……。やること、やっちゃったわけだし……」
美空は、小さく頷いた。
「そうだね。嘘の友達のフリをするのは、もうやめる。――私は、今でも楓のことが大好きだから」
その直球すぎる言葉に、私の顔は瞬く間に真っ赤になった。
――ああ、やっぱり私も美空のことが好きだ。
早く気持ちの整理を済ませて私をフッた理由を話してよ、だなんて。そんな酷いこと、言えるはずがないけれど。
私、一秒でも早く美空の恋人に戻りたいよ。
別れの日の真実。美空の心を縛り付ける、本当のトラウマ。その全ての謎が明かされる、私たちの恋の本当のやり直しへ向けて――。
私たちの拗れに拗れたルームシェア生活は、ついに全ての問題の核心へと迫っていくのだった。
(『第2章:新しい女の影』・完/『第3章:過去の精算と復縁』へ続く)




