第28話:残された、あの日の謎
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中、私たちの間には、穏やかな沈黙が横たわっていた。
ベッドの上で私に抱きついたまま、まだ荒いままの呼吸を整えている美空。彼女の艶やかな黒髪にそっと触れ、その細い背中に回した腕に、ぎゅっと力を込める。
地肌を通して直に伝わってくる美空の心臓の鼓動は、信じられないほど早くて、今にも壊れてしまいそうだった。
今なら、聞ける。
お互いの嘘の建前が全て死に絶え、裸のままお互いの巨大な感情をぶつけ合っている今この瞬間なら。ずっと聞きたくて、でも怖くて聞けなかった『あの日の真実』に触れられるかもしれない。
私は髪を撫でる手を止め、胸の中の愛しい元カノに向けて、ずっと胸の奥の暗闇に仕舞い込んでいた、最大の疑問を静かにぶつけた。
「ねえ、美空。……どうして?」
「……え?」
「こんなに私のことが好きで、他の誰にも渡したくなくて、私がいなきゃ死にそうな顔をして泣くくらいなら……」
私は美空の細い肩をそっと押し、彼女の涙で濡れた瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「――どうして高校の三学期のあの日、あんたは私をフったの?」
別れた理由が、ずっと分からなかった。
美空に嫌われたのだとばかり思っていた。けれど、この数ヶ月間の同居生活で見せつけられたのは、嫌悪どころか、底の抜けた狂気的なまでの未練の数々だ。
フったのは美空の方なのに、どうしてこんなことになっているのか。
張り詰めた空気の中、私たちの関係の根底にある『最大の謎』の扉が、ついに開かれようとしていた。
「……答えてよ、美空」
私は彼女の耳元で、静かに、けれど逃げ道を塞ぐように問い詰めた。
「どうして……どうしてそんなに私に執着するの? 他の誰にも渡したくないって、私がいなきゃ生きていけないって、そんな風に泣くくらいなら……。三学期のあの日、私をフったのは美空の方じゃない」
その言葉が部屋の空気に溶けた瞬間、美空の身体がビクリと強張った。
ずっと避けてきた。触れてはいけないと、お互いに心の奥底に封印していた過去の傷。
上京してからのこの三ヶ月と少しの間、私たちは「女の子の友達だから普通」「ただの同居人としてのルール」という、都合のいい偽物の建前を盾にして、その傷から必死に目を背けてきた。
美空は執着という名の甘えで私の領域を侵略し、私はそれに流されることで、傷つくことから逃げていたのだ。
けれど、そんな偽物の防衛線は、水科先輩への激しい嫉妬と、今この部屋に流れている美空の大量の涙によって、跡形もなく完全に死滅していた。
深い口付けはしない、などという私が勝手に決めた一線どころの話ではない。
私たちは、もっと深い関係を持った。世間一般的に見てもこれは完全にアウトだろう。
もう、友達のフリなんてできない。ただの同居人だなんて、口が裂けても言えない。
私たちは、お互いを狂おしいほどに求め合い、そしてお互いの存在に狂わされている『元恋人同士』なのだと、認めざるを得なかった。
「……楓」
美空がゆっくりと私の胸から顔を上げた。
涙で濡れた睫毛、赤くなった目元。いつもなら完璧に整えられている彼女の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには酷く不器用で、傷ついた一人の少女の素顔があった。
美空は掠れた声を絞り出すようにして、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「フりたくて……フったわけじゃない」
「え……?」
「あの日の朝も、その前の日も、私は楓のことが死ぬほど好きだった。世界中の誰よりも、愛していた。別れよう、もう終わりにしようって言ったあの瞬間だって、胸が引き裂かれそうで、頭がおかしくなりそうだった……っ」
美空の瞳から、新たな涙が溢れて彼女の白い頬を伝う。
「じゃあ、なんで……?」
「――怖かったの」
美空は私の肩を、爪が食い込むほどの強さでぎゅっと握りしめた。痛かったけれど、この痛みは受け止めなければいけない痛みだと思った。
「楓の……楓の『将来』が、怖かったの。私と一緒にいることで、楓の未来が、全部めちゃくちゃになってしまうんじゃないかって……。そう思ったら、恐怖で夜も眠れなくなったの……っ」
「私の、将来……?」
予想もしなかった言葉に、私は息を呑んだ。
美空は、私の未来を奪うことを恐れていたというのだろうか。女の子同士で付き合っているということ。その現実が、これから大学へ進学し、大人の社会へと出ていく私の足を引っ張るのではないかと、そんな風に一人で思い悩んでいたというのだろうか。
大学で誰よりも優秀で、男の告白なんて一瞬で切り捨てる氷の美女が。その裏側で、私との恋のせいで私が傷つくことを、そこまで怯えていたなんて。
「美空……あんた、そんなことのために、あんな冷たい嘘をついて私をフったの? 一人で勝手に抱え込んで、諦めたっていうの……!?」
私は美空の肩を揺さぶった。怒りと、それ以上の愛おしさが胸の中で爆発する。
どうして言ってくれなかったのか。二人で悩めばよかったのに。私は、高校三年の三学期に美空にフラれてから卒業までの間ずっと苦しくて泣き明かしたのだ。打ち明けてくれていれば、そんな数ヶ月の時間なんて、なくて済んだのに。
「だったら、なんで『何が怖かったのか』をちゃんと言ってくれなかったのよ! 私の将来の、何がそんなに怖かったの!? 美空と一緒にいられるなら、私はなんだって――」
「違うの、楓……っ!」
美空は激しく首を振って、私の言葉を遮った。
彼女の瞳に、先ほどまでの悲しみとは違う、もっと根深い、底知れない『恐怖』の色彩が走る。
「世間の目とか、未来の選択肢とか、確かにそういうのもあるけど。私が本当に怖かったのは、もっと――」
美空はそこまで言うと、ハッと息を呑んで言葉を失った。彼女の薄い唇が、ガタガタと激しく震え始める。
一番核心となる「なぜ怖かったのか」の理由。その正体を口にしようとした瞬間、美空はまるで、目に見えない何かに喉を締め付けられたかのように、完全に言葉を詰まらせてしまった。
美空の瞳の奥にある、深い、深い闇。
それは、高校時代の彼女からは想像もつかないような、何か決定的な『トラウマ』を抱えているかのような、歪んだ怯えの色だった。
「美空……?」
私が問いかけても、美空はもう何も答えず、ただ怯えた目で私を見つめ、私の胸元に再び顔を埋めて、激しく呼吸を乱すことしかできなかった。
カーテンの隙間から、夜の暗闇が静かに部屋へと侵入してくる。
一線を越え、偽物の『友達』という関係が死んだこの日。私たちは、お互いの愛の深さを知りながらも、別れの引き金となった『本当の理由』の重さに、再び足元をすくわれようとしていた。




