第27話:鍵をかけられた部屋、限界突破の涙
御茶ノ水から自宅のあるマンションまでのタクシーの車内は、死のような静寂に包まれていた。
美空は私の手首を掴んだまま、一言も発しない。運転手さんがバックミラー越しに何度も怯えた視線を送ってくるほど、美空の放つ殺気は凄まじかった。彼女の横顔は、まるで感情を無くした精巧な人形のように強張っていた。
私も、彼女になんと声をかけていいか分からず黙り込むしかなかった。
マンションの前に到着し、機械的に料金を支払った美空に腕を引かれ、エレベーターを上がって我が家の前に辿り着く。
ガチャリ、と鍵を開けて部屋に入った、その瞬間だった。美空は乱暴な音を立てて玄関のドアを閉めると、すぐに鍵を回し、チェーンロックまで狂ったような手つきで締め直した。
「み、美空……? ちょっと、怖いってば……」
怯える私を振り返ることもなく、美空は私の腕を掴んだまま廊下を突き進み、私の自室のドアを蹴り開けるようにして中に押し入った。
そのまま、勢いよくベッドの上へと私を突き飛ばす。
「きゃっ……!?」
柔らかいマットレスの上に倒れ込む。肩に担いでいたピンクのギターケースが重い音を立てて床に転がった。
慌てて身を起こそうとしたけれど、それよりも早く、美空のしなやかな身体が上から降ってきて、私の両肩をベッドに縫い付けるように強く押し倒した。
「み……美空、離して……っ!」
見上げる美空の顔。その瞬間、私は言葉を失った。
美空の目からは、もう大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。ポロポロと、私の頬やシーツの上に冷たい雫がいくつも落ちていく。
その瞳にあるのは、これまでのクールな拒絶でも、一流私立大学の学生としての理性の壁でもない。プライドも、ルールも、これまで必死に使い回してきた「女の子の友達だから普通」なんて建前も、全てを自ら粉々に踏み潰して、ただただ感情の濁流に溺れている一人の少女の姿だった。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ、嫌だ……っ!!」
美空は私の両肩を掴む手に血の気が引くほど力を込めながら、子供のように激しく首を振って叫んだ。
「他の女に、楓を触らせたくない……! あの女が楓の特別な人になるなんて、そんなの絶対に嫌……! 楓の初めてのギターを、私以外の誰かと一緒に選ぶだけでも気が狂いそうだったのに……これ以上、私の知らない場所にいかないで……! 楓の初めては全部私じゃなきゃ嫌なの……っ!」
「美空……」
「私の知らないところで、他の誰かと付き合って、他の誰かと笑い合って、私の知らない誰かと幸せにならないで……!!」
美空は叫ぶようにそう吐き出すと、崩れ落ちるようにして、私の胸元へと自分の顔を深く、深く埋めてきた。
そのまま、美空は私の胸に顔を押し当てたまま、声をあげてワンワンと号泣し始めた。
「う、うああん……っ! 楓……楓ぇ……っ!!」
耳元で響く、元カノの限界突破した泣き声。
大学の誰もが憧れ、誰もが近づけないと噂する高嶺の花の市之瀬美空が、今、私の胸の中で、形振り構わず、みっともないほどに涙と鼻水で顔をグシャグシャにして泣きじゃくっている。
美空の細い両腕が、私の背中に回され、折れそうなほどの強さで私を抱きしめる。胸元に伝わる美空の激しい呼吸の熱さと、彼女の流す大量の涙の冷たさが、私のサマーニットを濡らして肌にまで染み込んでくる。
(あぁ……本当に、この女は……)
頭の芯が、痺れるように熱くなっていく。
重い。病んでいるし、狂っている。
けれど、どうしてだろう。他の誰の目にも触れさせたくないと、私をこの部屋に閉じ込めるようにして泣き叫ぶ元カノの異様なまでの愛の重さが、私の胸の奥を、どうしようもないほどの歓喜と切なさで満たしていく。
私もまた、美空のこの狂気的な愛がなければ、もう生きていけない身体にされていたのだ。
どれだけの時間、美空は私の胸で泣き続けていただろう。
激しかった泣き声が、やがて、ひっく、ひっく、という小さなしゃくり上げに変わっていく。私の背中に回された彼女の指先は、相変わらず私の服の生地をぎゅっと強く握りしめたままだ。
薄暗くなり始めた部屋の中で、私は美空のサラサラとした黒髪を、愛おしさを込めてそっと優しく撫でた。
「美空」
「……う、ん……」
私の胸に顔を埋めたまま、美空が小さく鼻を鳴らす。
「私、ずっと謝りたかった。美空に酷いこと言ってごめんね。美空とすれ違ってようやく分かったんだ。私にとって美空がどれだけ大切な存在なのか。美空が、私のことをどれだけ大切に想ってくれてるのか」
「楓……?」
彼女の瞳が小さく揺れる。
「ねえ、美空。お願いがあるんだ。私、美空みたいに頭も良くないし、すぐフラフラしちゃうからさ、美空の手で私に教え込んでよ」
私は、苦しげに呟く。
「……私は、美空のものだってこと。私がどこにもいく気にならないように。私の身体に刻み込んで」
美空の息遣いが一瞬止まった。
私の胸元に押し付けられていた彼女の顔がゆっくりと持ち上がり、潤んだ瞳が至近距離で私を見つめる。涙で濡れた睫毛が光を宿し、震える唇が言葉を紡げずに開いては閉じる。
「……本気なの?」
絞り出された声は掠れていた。先程までの嵐のような激情は鎮まり、代わりに深い戸惑いと、それを必死に押さえつけようとする葛藤が美空の表情に浮かんでいた。
「……冗談なら怒るよ」
美空の頬に手を添え、指先で涙の跡をそっと拭う。
「冗談なんかじゃないよ。たぶん私の人生で美空以上に私のことを大切に想ってくれる人なんて現れないと思う。だから――」
絞り出すようにして発した私の声は、自分で思っていた以上にせつない響きを孕んでいた。
「――私の初めて、美空に全部あげるよ」
私が言い終わるや否や。美空の身体がビクリと震え、次の瞬間にはもうその美しい顔が私の視界いっぱいに広がっていた。荒々しいキスではない。啄むような、確かめるような口づけが雨のように降ってくる。額に、瞼に、頬に、そして唇に。触れるたびに美空の熱い息がかかり、その震える唇が私の名を呼ぶのが聞こえた。
「楓……楓……っ」
その声には、どこか危険な甘さが含まれていた。
今度は、美空の唇が私のそれに噛みつくように重なる。先ほどまでのキスとは比較にならないほどの激しさだ。
柔らかな唇は私の口全体を覆い尽くし、熱く濡れた舌が強引に割り込んでくる。抵抗する余裕などなかった。美空の舌は私の口の中を隅々まで這い回り、逃げる私の舌を探し出し、執拗に絡みついて吸い上げる。唾液が混ざり合い、粘膜が擦れ合う淫靡な音が耳の奥に直接響いた。
「んっ……ふぅ……みそら……っ」
やがて唇が離れる。美空は、二人の間に銀色の細い橋が架かる様子をうっとりとした表情で見つめると、私の唇の端を白い指先で撫でた。
「全部……楓の全部、私のものにするから……」
その言葉に、あの夜の記憶が呼び起こされる。飲み会から帰ったあの日、美空から受けたお仕置きのこと。
私は自らおねだりをするように恐る恐る小さく口を開き、赤い舌先を覗かせる。
その瞬間、彼女の黒曜石のような瞳が揺らめき、まるで飢えた獣が獲物を見つけた時のようにギラついた光を放った。
「楓……」
美空の濡れた唇が私の名を呼びながら震えている。
「嬉しい……楓が自分から求めてくれるなんて……」
そう低く囁いた次の瞬間には、再び彼女の唇が私の唇を貪るように覆っていた
彼女の柔らかく湿った唇が私の舌全体を包み込み、引き抜くように吸い上げられる。それだけでも腰が砕けそうになったのに、次の瞬間には熱く滑るものが私の口内に侵入し、隅々まで蹂躙し始めた。
「んっ……ふぅっ……んんっ……!」
くぐもった喘ぎが漏れる。互いの唾液が混ざり合い、どちらのものか分からない液体が顎を伝って滴り落ちていく。美空の舌は私の舌を捕らえて離さず、執拗に裏側をくすぐったり、舌先を軽く噛んだりして翻弄する。
息ができない。でも離れたくない。この濃厚で窒息しそうな接吻こそが、私たちの歪んだ愛の形なのだと体中が理解していた。
息継ぎをする暇さえ与えられない深いキスに溺れそうになった時、美空の白い指が私のサマーニットの裾から滑り込んできた。肌の表面を撫でる手つきは驚くほど繊細で、しかし明確な意図を持っていた。
指先が胸の膨らみにたどり着くと、下着の上からその柔らかさを確かめるように揉みしだく。思わず漏れた私の吐息に応えるように、美空の唇が私の喉元へと移動し、熱いキスマークを残しながら鎖骨へと這っていく。
「ここも……ここも……全部私のものだから」
囁く美空の声は掠れていた。彼女は一度体を起こすと、自らのシンプルなブラウスのボタンを性急に外し始めた。一つ一つ外される度に覗く白い肌と、控えめなデザインの下着。そして最後のボタンが外れると同時に、そのブラウスは脱ぎ捨てられ、床に落ちた。
次いでキャミソールも躊躇なく脱ぎ去る。細身だが引き締まった彼女の上半身が露わになり、その胸元には先ほどの激情の名残で淡い朱色がさしていた。
私も美空に促されるように起き上がり、互いに衣類を脱がせ合う。美空の指が私のニットをたくし上げる時に軽く爪が肌を引っ掻き、ゾクリとする刺激が走った。ロングスカートもあっという間に取り除かれ、お互いが下着だけの姿になる。美空の視線が私の身体を這うように巡るその感覚に、全身が火照った。
再びベッドに沈み込むと、美空は私の胸の谷間に顔を埋めた。熱い舌がゆっくりと動き、時折チロチロと肌を舐める。一方で手は腰のラインを撫でながら徐々に下へ降りていき、太ももの内側へと侵入する。その手の動きには計算された焦らしがあり、一番敏感な場所には触れず、周辺を円を描くように刺激し続ける。
「あっ……ん…美空……そこ……」
思わず漏れた声に美空がピクリと反応する。私の嬌声が嬉しかったのかそれとも安心したのか、動きは更に大胆になり始めた。片方の手で私の体の線をなぞりながら、もう一方の手で自分自身も同じように弄っているのが分かる。同時に感じる奇妙な連帯感――二人とも未知への恐怖と期待で一杯だった。
「痛かったら言って。すぐ止める」
美空の声はいつもの冷徹さとは全く違った温かさを帯びている。小さく頷くと、再び身体が重なり合う。唇が鎖骨を辿り、腹へと移動していく。くすぐったさと何か得体の知れない期待感が入り混じる中、突然強い刺激が走った。
「ひゃ……!?」
足元から脳天へ突き抜ける鋭い快感に腰が跳ね上がる。美空の口が最も敏感な部分を捉えていた。あまりにも突然で強烈な感覚に戸惑いを隠せず声が裏返ってしまう。
「ちょ……っ…まって……!」
制止の言葉が届かないのか、あるいは聞こえていないフリなのか。美空の舌は容赦なく動き続ける。自分が何を求めているのか分からないまま反射的に腰を引こうとするも、しっかりと押さえつけられて逃げ場はない。逆に抵抗すればするほど舌の動きは執拗になり、頭の中が真っ白になる感覚に襲われる。
「や……だ…っ……ああっ!」
我慢しきれず初めての大きな声が出てしまった。美空の肩に爪が食い込むほど強く握り締めてしまう。
その時、初めて気づいた。――私は今、美空によって完全に支配されているということに。理屈ではなく本能レベルで理解させられる所有者と所有物の関係。恐ろしいほどの快感と同時に奇妙な解放感が全身を駆け巡る。
ようやく美空の口が離れると、下半身から止めどなく溢れるものが自分の意思では制御できないことに気づく。羞恥心と混乱が入り交じり顔を背けてしまうが、美空はその様子を見て安堵したように小さく息を吐いていた。
「よかった……楓、気持ちよくなってくれてる」
そう呟くと美空は自分の下着も脱ぎ捨てていた。月明かりのように淡いシルエットで浮かび上がる彼女の身体は美しい曲線を描いている。その姿を見るだけで胸が高鳴った。
「……辛かったら絶対に言うんだよ?」
真剣な眼差しで確認する美空に大きく頷く。実際問題として恐怖心はあるものの、それ以上に彼女を受け入れたい気持ちの方が強かった。きっとこれは単なる性的欲求ではなく、もっと深いところでの繋がりなのだ。
「力、抜いて……楓」
囁く美空の声が甘く耳朶を打つ。私は言われた通り深呼吸をして身体の力を抜こうとするが、震える太ももを美空の手がそっと撫でると緊張が走る。
「大丈夫。優しくするから」
美空が身体を絡ませてくる。彼女の手が、私の大切なところに伸びる。
――そうして、私は市之瀬美空に全てを捧げた。
最初は異物感しか感じなかったし、怖くて泣きそうになるほどだった。けれど徐々に痛みが和らいでいく不思議な感覚があった。ついには中から温かいものが湧き上がってくる感覚と共に新たな波が訪れ始める。
「み……そら……っ!」
頭の中で弾ける火花のような快楽が一気に襲ってきて思わず美空の名前を叫んでしまう。名前を呼ぶと同時に全身が弓なりに仰け反った。ほとんど同時くらいに美空も低い呻き声を上げており、どうやらお互い頂点を迎えたらしい。
しばらく余韻に浸りながら天井を見つめていた。体内に残るズキズキとした疼痛は現実感を与える一方で幸福感も伴っている。ゆっくりと頭を傾けると美空も放心状態で息を整えており、二人の額から汗が滴り落ちている様子が滑稽なくらいだった。
「楓……ごめん……痛かったよね? 私、優しくするって言ったのにちっとも加減できなくて……」
申し訳なさそうに問いかける美空に対し首を横に振る。
「ううん……全然……痛いだけじゃなかったよ」
実際痛みは確かにあったがそれ以上に大切なものを共有できた達成感があった。美空がホッとしつつもどこか気まずそうに微笑んだ。
「それと……ごめん。シーツ、汚しちゃった」
その声に視線を下げると確かに赤い滴がシーツに落ちていた。私の破瓜の証拠。本当に戻れない一線を越えてしまったのだと思うと、逆に清々しさすら覚えた。
「……洗濯、手伝ってよね」
「うん」
朦朧とした意識の中で視線を向けると、瞳の端に涙を湛えながら微笑む美空が見えた。彼女の白い太ももにも私の血がついている。その事実が妙に淫靡で陶酔感を誘った。
「楓の全部、もらっちゃった。……これで本当に私のものだよ」
そう呟くと美空は私の額にキスを落とす。痛みはまだ確実にあるはずなのに不思議と喜びで胸が満たされる。これで本当の意味で美空のものになれたという実感だけが残った。
汗ばんだ肌同士が触れ合いながらしばらく放心状態が続いた後、美空が小声で尋ねてきた。
「楓、怒ってない? 私、酷いことしちゃったよね。あの人とのお出かけも台無しにしちゃったし……」
「先輩のこと? ……気にしてないよ。むしろ美空が迎えに来てくれて嬉しかった」
弱々しく首を振ると美空の表情が明るくなる。その仕草があまりにも幼くて可愛いので思わず微笑んでしまう。こうして狂おしいまでの愛を受け入れることが出来て本当に良かったと思えた。
シーツを汚した痕跡と、身体中に残る痛みが今日の出来事が夢ではないことの証左だ。ここ一週間の美空との大喧嘩のことすら気にならなくなるほどの充実した瞬間だった。




