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元カノと始める境界線迷子のルームシェア 〜『女の子同士だし、普通でしょ?』と迫る市之瀬美空の、重すぎる未練について〜  作者: すかいはい
第2章:新しい女の影

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第26話:楓はあんな人には指一本触れさせない

 ガラス窓の向こうに、その姿を捉《とら》えた瞬間。私の頭の中で、全ての思考が凍りつく音がした。


 人混みの雑踏の中で、じっとこちらを凝視している美空。


 見間違いであってほしかった。けれど、あの夜の闇よりも深い黒髪も、私を捉えて離さない狂気的なまでの眼差しも、間違いなく私の元カノのものだった。


 心のどこかで迎えに来てほしいとは思っていたけれど、あまりにタイミングが悪すぎる。


 美空は、壬琴《みこと》先輩に両手を包み込まれている私の手元をじっと見つめ、それからゆっくりとカフェの入り口の方へ向かって歩き出した。


「……あ、あの、壬琴先輩、手が……!」


 私はパニックになりながら、壬琴先輩に握られていた右手を強引に引き抜いた。


「え? 楓ちゃん……?」


 突然の私の動揺に、壬琴先輩が不思議そうに眉をひそめる。しかし、私が言い訳を口にするよりも早く、カフェの自動ドアが、乱暴な音を立てて勢いよく開け放たれた。


 入り口のベルがけたたましく鳴り響く。お洒落で静かだったカフェの空間に、場違いなほどの圧倒的な拒絶のオーラを纏った美空が突入してきた。


「――っ」


 間近で見る美空の姿に、私は思わず息を呑んだ。家を出る時、大真面目な顔で本に視線を落としていたあの姿はどこにもない。きっちりとしたブラウスの襟元は微かに歪み、いつも完璧に整えられている艶やかな黒髪は、風と汗のせいで少しだけ乱れて頬に張り付いている。


 自宅マンションからGPSの画面だけを頼りに、一刻も早く私に追いつくために電車に飛び乗り、御茶ノ水駅に降り立ってからは、人混みでひしめく楽器街を、狂ったように全力で走り回って私を探していたのだろう。


 小さく肩を上下させながら、激しい息を刻んでいる。その必死すぎる姿に、彼女がどれだけの執念で私を追いかけてきたかが痛いほど伝わってきて、背筋に強烈な戦慄が走った。


 美空は、私たちが座る窓際の席へと、一直線に迷いのない足取りで歩み寄ってきた。


 彼女のヒールが床を叩く音が、まるで処刑台へ向かうカウントダウンのように私の鼓膜へ突き刺さる。


「……み、美空……どうして、ここに……」


 私が蚊の鳴くような声で呟いても、美空は私に視線を合わせようとはしなかった。彼女の瞳の矛先は、私の目の前に座る壬琴先輩へと、真っ直ぐに向けられていた。カフェの店内の空気が、一瞬で氷点下へと叩き落とされる。


 周囲の客たちも、その異様な三人の雰囲気に気づいたのか、ひそひそと声を潜め始めていた。まるで、張り詰めた修羅場の中心に、今にも細い針が落ちるかのような、息の詰まる緊張感が満ちていく。


 状況を飲み込めない壬琴先輩は、椅子に深く腰掛けたまま、不快そうに小さく眉をひそめた。それでも、年上としてのプライドがあるのか、壬琴先輩は美空の放つ圧倒的なプレッシャーに怯《ひる》むことなく、その綺麗な切れ長の瞳で美空を見上げ、低く問いかけた。


「……えっと。どちら様ですか?」


 壬琴先輩の声には、明らかに不審者を警戒するような棘が含まれていた。


 女の子同士だし普通でしょ、という建前を事情も何も知らない壬琴先輩が受け入れるはずもない。


 しかし、美空はその問いかけに答えることすら、時間の無駄だと切り捨てるかのように、壬琴先輩を冷酷に一瞥《いちべつ》しただけだった。


 美空はそのまま、テーブルを回り込んで私のすぐ隣に立つ。


「――帰るよ、楓」


 感情の一切を排した、地底から響くような声。言うが早いか、美空は私の右手首を、骨が軋《きし》むのではないかと思うほどの強さで、痛いくらいに掴《つか》み取った。


「ひゃうっ……! み、美空、痛いってば……っ!」


 私が抵抗しようとしても、彼女の指先は万力のように固く、私の細い手首を締め付けて離さない。ガタガタと震える美空の手のひらからは、尋常ではないほどの熱と、私を絶対に誰にも渡さないという、底知れない狂気が伝わってくる。


 美空は私を座席から強引に立ち上がらせると、再び、驚きの表情を浮かべる壬琴先輩へとその冷たい視線を向けた。


 周囲の視線が完全に私たちに集中する。静まり返ったカフェの店内で、美空は私の手首を掴んだまま、誰もが身震いするほどの、冷徹で容赦のない声を響かせた。


「……この子を、連れて帰ります」


 そこには、もはや何の建前も言い訳もない。ただの同居人という偽物の防衛線は、今度こそ跡形もなく決壊した。


「ちょっと、美空……! 引っ張らないで、痛いって……!」


 美空に手首を掴まれたまま、私は半ば引きずられるようにしてカフェの外へと連れ出された。


 雨上がりの生温かい風が肌を掠《かす》める。楽器街の歩道は、先ほど買ったばかりのピンクのギターケースを肩に担いだ私と、怒りと焦燥で完全に周囲が見えなくなっている美空のせいで、異様な空気に包まれていた。


「待ちなよ、君」


 背後から、低く鋭い声が響いた。


 振り返ると、カフェの入り口から壬琴先輩が足早に追いかけてきて、私たちの前に立ち塞がった。その端正な顔は、完全に不快感と敵意に満ちている。


「壬琴先輩……」

「楓ちゃん、大丈夫? その子、手を離してくれないみたいだけど」


 壬琴先輩は私を庇《かば》うように一歩前に出ると、私の手首を掴んでいる美空の手を冷たい目で見下ろした。


 美空は足を止め、壬琴先輩の視線を受け流すように、再びハイライトの消えた瞳を向けた。二人の視線が交差した瞬間、バチバチと激しい火花が散るのが見えるようだった。


「用件は店内で済ませたはずです。私たちは急いでいるので、道を空けてください」

「済んでないよ。いきなり入ってきて、人の後輩を強引に連れ去ろうなんて、どういうつもり?」


 壬琴先輩は腕を組み、美空を真っ向から睨《にら》みつけた。サークルの頼れる先輩としての威厳と、大人の余裕がそこにはあった。


「君、楓ちゃんのルームメイトでしょ? 臨《りん》ちゃんから聞いてるよ。親同士が勝手に決めた同居人だって。……友達の癖に、ちょっと束縛しすぎじゃない? 彼女の交友関係を制限する権利なんて、君にはないはずだけど」


 正論だった。ぐうの音も出ないほどの、完璧な正論。


 私たちは別れた他人であり、ただの同居人。私がどこで誰と会おうが、美空に口出しされる筋合いなんてない。


 私は二人の間でオロオロと視線を彷徨《さまよ》わせるしかなかった。美空の手を振り払うべきなのに、彼女の指先から伝わってくる、壊れそうなほどの激しい震えのせいで、どうしても力が力が入らない。


 壬琴先輩の容赦のない正論を浴びせられた美空は、微かに奥歯を噛み締めた。


 しかし、彼女の優秀な頭脳は、この極限状態の修羅場においてすら、ボロボロに擦り切れた『建前』を必死に繰り出して応戦する。


「……友達、だからです」


 美空は、声が震えるのを必死に抑え込むようにして、冷徹なトーンを維持しようとした。


「楓は田舎から出てきたばかりで、東京の環境に慣れていません。知らない土地でも、相手の意図も分からずに二人きりでついていってしまうような隙だらけの子なんです。同居人として、親友として、私にはこの子を悪い虫から守る義務があります。……ですから、これは正当な防衛行為です」

「美空、何言ってるのよ……!」


 あまりにも無理のある、ボロボロの詭弁。


 東京に慣れていないから守るだの、悪い虫から守る義務があるだの。そんなの、ただの嫉妬まみれの独占欲を隠すための、薄っぺらな盾に過ぎない。


 壬琴先輩は、美空のその必死で歪んだ言い訳を聞いて、呆れたようにふっと鼻で笑った。そして、美空の張り巡らせた『友達』という脆い防衛線を、一瞬で粉砕するような、最悪の挑発を口にした。


「へえ……友達、ねえ」


 壬琴先輩は一歩、美空の方へと距離を詰めた。その切れ長の瞳に、確かな勝ち誇ったような光を宿しながら、美空の心を完全にへし折るための言葉を叩きつける。


「じゃあさ――ただの友達なら、私が楓ちゃんと付き合っても文句ないよね?」

「――っ」

「私、さっきカフェで楓ちゃんに告白したんだ。ただの後輩以上に思ってるって。君がただの友達で、守る義務だなんだと言い張るなら……私がこれから、楓ちゃんの特別な人になって、君以上に大切に守ってあげる。……それでいいでしょ?」


 壬琴先輩の言葉が、雨上がりの街路に響き渡る。


 その瞬間。私の手首を掴んでいた美空の手の力が、一瞬だけ、完全に抜けた。


「あ……」


 美空の顔から、完全に表情が消え失せる。


 それは、怒りでも焦燥でもない。自分の世界の全てだった『中道楓《わたし》』という存在が、目の前の知らない女によって、完全に上書きされ、奪い去られようとしていることへの――本気の、狂気的なまでの拒絶反応だった。


 カチリ、と。美空の頭の中で、残されていた最期の理性の箍《たが》が、音を立てて完全に消し飛んだ。


 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


 その瞳には、もう涙も、強がりも、知性も、一ミリすら残っていなかった。ただ、目の前の敵を完全に圧殺するためだけの、底知れない『暗黒の独占欲』だけが、ドロドロと渦巻いていた。


「……水科壬琴さんって言いましたっけ」


 美空の薄い唇から、周囲の人間が思わず足を止めるほどの、低く、冷酷極まりない声が漏れ出た。


「あなたは、どれだけ楓のことを愛してるんですか?」

「それはもちろん本気で楓ちゃんのことを――」


 美空はその言葉を遮り、一歩詰め寄った。


「もしもあなたが楓を想う気持ちに嘘偽りがないというのなら、私は別に身を引いたって構いませんよ。た(・)だ(・)の(・)友(・)達(・)、ですから。でも、その後であなたにほんの少しでもやましい気持ちがあると分かったら、その時は……」


 美空はゆらりと壬琴先輩の顔を覗《のぞ》き込んだ。


「その時は、私は、どんな手段を使ってでもあなたを破滅させます」


 壬琴先輩を殺気すら感じるほどの視線で睨みつける。


「楓は、私の大切な友達です。そんな楓を傷つけた相手のことなんて許していいはずがないですよね。私が、必ず、生まれてきたことを後悔するような目に遭わせてあげますから。……その覚悟があるなら、どうぞ。楓の手を取ってください」


 低く、地の底から響くような声だった。


「さあ。どうなんですか、水科壬琴さん」


 壬琴先輩は小さく息を飲むと、気まずそうに視線を逸らした。


 てっきり冷静に反論すると思っていたのだが、壬琴先輩は黙り込んだままだ。


 まさか本当にやましい気持ちがあったのだろうか。――いや、壬琴先輩に限ってそんなことがあるはずがない。きっと美空のあまりの迫力に怯《おび》えているだけだ。


 私がそんな風に考えていると美空が急に笑い出した。


「やっぱり即答できないか。……これで答え合わせは終わりです。ああ、安心した。あなたが私の思っていた通りの人でよかったですよ、水科先輩。私もあなたとお近づきになりたいので、これからゆっくりとあなたのことを調べさせてもらいますね」


 美空の指先が壬琴先輩の頬を撫でる。彼女の身体がびくりと震えた。


 わけが分からなかった。目の前でいったい何が起きているのだろう。


 困惑を隠せずにいる私をよそに美空はゆっくりと壬琴先輩の耳元に顔を近づけた。美空の唇が静かに動き、何やら囁《ささや》く。


 その途端、壬琴先輩の目が大きく見開かれる。ひきつった悲鳴を漏らした彼女は猛烈な勢いでガタガタと震え出した。


「行こう、楓。楓はあんな人には指一本触れさせない……っ!! 」


 美空は私の手首を再び痛いくらいの強さで掴み直すと、そのまま私を強引に引きずって駅前のタクシー乗り場へと走り出した。


 本当に何がなんだか分からない。二人のやり取りは何だったのだろう。


 しかし、そんなわずかな戸惑いは残っていたけれど。


 美空に引きずられながら、私の胸を包み込んでいたのは途方もない安堵感だった。


 壬琴先輩には申し訳ないけれど。


 美空がこうして迎えに来てくれたことが嬉しくて。


 これほどの独占欲を発揮して他の女から私を奪い取ってくれたことが愛おしくて堪《たま》らなかった。


 胸の奥がきゅんとする。


 ――なんて愛されているのだろう。そう思ってしまった私はやはり美空に毒されているのだ。


 もしかすると、私はもうとっくに手遅れなのかもしれない。美空の手をそっと握り返しながら、そう思った。

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