第25話:雨上がりの楽器街、向けられる特別な視線
午前中まで降っていた激しい雨は、昼過ぎには嘘のように上がり、雲の隙間から柔らかな陽光が差し込み始めていた。
「お待たせ、楓ちゃん。雨、晴れてよかったね」
「壬琴先輩! お疲れ様です!」
御茶ノ水駅の改札前。人混みの中から軽やかな足取りで現れた壬琴先輩は、今日もメンズライクな薄手のジャケットをさらりと羽織っていた。相変わらず目が眩むほどの格好良さだ。
雨上がりのアスファルト特有の匂いが漂う楽器街を、私たちは並んで歩き出す。道路の両脇には、色とりどりのギターがガラス越しにズラリと並ぶ楽器店がひしめき合っていた。
「ここ、私が高校生の頃から通ってるショップなんだ。初心者用でも、すごく状態の良いアコギを置いてるから」
壬琴先輩に連れられて入った店内は、木の温もりと新品の楽器の匂いで満ちていた。
ビルが丸ごと楽器店になっているようで、目当てのアコースティックギター売り場があるのは地下一階だった。先輩は私の予算や好みの色を丁寧に聞き出すと、店員さんと親しげに話しながら、何本ものギターをピックアップしてくれる。
「ほら、これなんてどう? 小ぶりだから、楓ちゃんの小さな手でもネックが握りやすいと思うよ」
「わあ……! 淡いピンク色ですごく綺麗……」
「楓ちゃんっぽくて可愛い色だよね」
壬琴先輩のその言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
淡いピンク色。それは、あのリビングにある、美空が強引にペアで買い揃えた私のマグカップと全く同じ色だった。
もしかすると今この瞬間にも美空から連絡が来ていたりはしないだろうか。マグカップのことを思い出したのがきっかけで、ふとそう考えた。
さりげなくスマートフォンを取り出してみるが、売り場が地下にあるせいか上手く電波が入らない。それだけで妙な焦燥感に駆られる。
自分が苛立っているのに気づいた瞬間、私は嫌気が差して頭を振った。こんなところに来てまで美空のことばかり考えるのはやめよう。さすがに先輩に失礼だ。
「楓ちゃん、ちょっと試奏してみようか。はい、持ってみて」
そう言われ、慌ててスマートフォンをしまう。壬琴先輩はそんな私に対しても優しく笑いかけ、ギターを私の腕の中へと収めてくれた。
そして、後ろからではなく、今度は私の目の前に屈み込んで、私の指先を優しく弦へと誘導する。
「うん、やっぱりサイズ感ぴったりだね。私が代わりにコードを押さえるから、楓ちゃんはストロークしてみて」
弦を軽く弾くと、乾いた心地いい音が店内に響く。
美空との冷戦で疲弊していた私の心が、壬琴先輩の真っ直ぐな優しさと、温かい音楽の力によって、じわじわと解きほぐされていくのが分かった。ここにいる間だけは、あの重苦しいリビングのことを忘れられるような気がした。
◆ ◆ ◆
私は一時間かけて無事に一本の相棒を決めた。予算は少しオーバーしていたけれど、結局あのピンク色のギターにした。足りない分のお金は壬琴先輩が出してくれたのだ。恐縮して断ろうとしたが、結局最後には彼女に甘えてしまった。壬琴先輩には本当にお世話になりっぱなしだ。
「たくさん歩いちゃったね。少し休もうか」
その後、私たちは楽器店のすぐ近くにあるお洒落なカフェへと足を運んだ。
店内は全面ガラス張りになっており、外を行き交う御茶ノ水の賑やかな人混みがよく見える。
私たちは窓際の席に座り、冷たいカフェラテを注文した。
「壬琴先輩、今日は本当にありがとうございました。先輩がいてくれなかったら、どれを選べばいいか全然分からなかったです。お金まで出してもらっちゃってすみません」
「全然気にしないで。楓ちゃんもいつか後輩ができた時に同じようにしてくれれば、それでいいから。私もすごく楽しかったし」
壬琴先輩はギターのピックを指先で弄びながら、悪戯っぽく微笑んだ。
その爽やかな笑顔に、私は純粋な憧れと好意を抱いていた。美空のあのドロドロとした執着とは違う、健全で、居心地の良い関係。これが、私が求めていた『普通の大学生活』なのだと、自分に言い聞かせようとする。
けれど。
「……ねえ、楓ちゃん」
不意に、壬琴先輩が手元のピックを置き、真剣な目を私に向けてきた。
いつもより少しだけ低く、ハスキーな声。
先輩はテーブルの上に置かれていた私の右手を、自分の両手で、下から包み込むようにしてそっと握りしめた。
「――っ!?」
驚いて身体が強張る。
重ねられた壬琴先輩の手のひらは、細くて温かくて、けれど明らかに『ただの先輩後輩』の域を超えた熱を帯びていた。
「壬琴先輩……あの、手が……」
「ごめんね、驚かせちゃって。でも、どうしても今日、伝えたくて」
壬琴先輩は私の手を握ったまま、真っ直ぐに、逃げ場を無くすような強い視線で私を射抜いた。
その瞳にあるのは、臨が言っていたような冗談などではない。本気の、熱い情熱の色だった。
「私さ……サークルの新歓の時から、ずっと楓ちゃんのことばかり見ちゃうんだ。一生懸命で、素直で、守ってあげたくなるくらい可愛くて。……ただの『可愛い後輩』以上に、思っちゃいそうなんだよね」
「あ……」
ストレートな、好意の告白。
頭の中が真っ白になる。女の子から、こんなにも真っ直ぐに特別な感情をぶつけられたのは、高校時代に美空と付き合い始めた時以来だった。
どうしよう、なんて返せばいいのだろう。
壬琴先輩は素敵で、一緒にいて楽しくて、私にとても良くしてくれる。
なのに、どうして。私の心臓は、こんなにドキドキしているのに。胸の奥にあるのは高揚感なんかじゃなくて――あの家に残してきた、寂しがり屋の元カノへの、どうしようもない罪悪感ばかりなのだろう。
『私の知らない楓が、外の世界にたくさん増えていく。私は、それが、死ぬほど怖くて、おかしくなりそうなの……っ!』
あの夜、泣きながら私を押し倒してきた美空の言葉が、頭の中で大音量でリフレインする。
「あの、私は……」
返事に窮し、息が詰まりそうになりながら、私は現実から逃げるように、カフェの大きなガラス窓の向こうへと視線を彷徨わせた。雨上がりの街を行き交う、たくさんの傘を持った人々。
その、人混みの雑踏の中に。私は、見てしまった。
「――っ!!」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
カフェのガラス窓のすぐ向こう。駅へと続く横断歩道の手前。通り過ぎる人々が誰もが振り返るほど、圧倒的に美しい、けれど圧倒的に不穏なオーラを纏った黒髪の少女が、そこに立っていた。
美空だった。
家を出る時、御茶ノ水の地図を表示したタブレット端末を密かに傍らに置いて強がっていたあの元カノが、今、そこにいた。
きれいめのシアージャケットは激しく乱れ、肩を大きく上下させながら息を切らしている。
私のスマートフォンに入っているGPSのマークだけを頼りに、この広い御茶ノ水の街を、狂ったように走り回って私を探していたのだろう。
私が楽器店の地下にいる間は位置情報だってまともに機能していなかったはずなのに。それでもずっと私を見つけようとしていたのだ。
美空は、ガラス越しの特等席で、壬琴先輩に両手を優しく包み込まれている私の姿を――。
ハイライトの完全に消え去った、怒りと、絶望と、底知れない執念に満ちた暗黒の瞳で、じっと凝視していた。




