第24話:週末の誘い、引き裂かれる心
ついに、壬琴先輩と約束した土曜日がやってきてしまった。
「……はぁ」
鏡の前で、私は何度目かも分からないため息をついた。
お出かけのための服選び。いつもなら、臨たちと遊びに行く時はもう少し明るい色の服を選ぶのに、今日選んだのは、首元が完全に隠れるハイネックのサマーニットに、落ち着いたロングスカート。
美空に付けられた首元の痕はもうすっかり消えていた。けれど、心のどこかで「他の男や女の目に触れさせたくない」と言っていたあの女の独占欲を、未だに引きずっている自分がいる。
サークルの素敵な先輩と、初めて二人きりでお出かけ。
普通の大学新入生なら、もっと浮き足立って、ワクワクした気持ちで準備をするはずだ。なのに、今の私の心は、この一週間ずっと部屋の中に居座り続けている『冷戦状態』のせいで、梅雨空よりもどんよりと重く沈んでいた。
髪を軽く整え、小さなショルダーバッグを肩にかける。
覚悟を決めて自室のドアを開け、リビングへと向かった。
リビングのソファには、既に着替えを済ませた美空が座っていた。
きっちりとしたブラウスに身を包んだ彼女は、テーブルの上に視線を落とし、熱心に法学部の分厚い専門書を読み進めている。
部屋の中に、私のスリッパが廊下を歩く軽い足音が響く。
美空はぴくりとも動かない。私の方を見ようともせず、ただ静かにページをめくる指先だけが動いていた。
「……美空。私、そろそろ行くね」
玄関で靴を履きながら、私はリビングに向かって声をかけた。
本当は、もう声をかけるのすら怖かった。他人を冷淡に突き放すようなトーンで「おやすみ」と言われた昨夜のことが、胸の奥でトラウマのように燻っている。
美空は、本から目を離さないまま、感情を一切排した声で短く答えた。
「行ってらっしゃい」
「……うん」
それだけだった。
引き留める言葉も、どこに行くのかという問い詰めも、何時に帰ってくるのかという厳しい束縛も、何一つとしてない。
玄関のドアノブを掴んだ私の胸の奥に、ふつふつと、酷く身勝手な不満と寂しさが込み上げてくる。
(……何よ、それ。本当に、何も言わないんだ)
男の学友からLINEが来た時はあんなに激しく目を据わらせて怒った癖に。私が飲み会に行く時は「二十一時に帰れ」ってあんなに過保護に条件を出してきた癖に。
相手が『女子の先輩』になった途端、美空は本当に、ただの物分りのいい同居人のフリをして、私をスルーしてしまうのだ。
彼女面しないでと言ったのは私だ。美空の束縛を重いと撥ね退けたのも私だ。
なのに、本当に自由を手に入れてみると、どうしてこんなに胸が痛いのだろう。本当は、「行かないで」って、あの夜みたいに泣きそうな顔で私の服の裾をギュッと掴んで引き留めてほしいのに。そんな最低なワガママを抱えている自分自身に、激しい嫌悪感が押し寄せる。
「じゃあ、行ってくるから」
私は美空への当てつけのように少しだけ声を尖らせると、マンションのドアを開けようとする。
その直前。どうしても諦めきれなくて、私は部屋に舞い戻った。
「ハンカチ忘れちゃった」
本当はしっかりバッグの中に入っている。ハンカチなんてただの口実だ。
リビングでハンカチを手に取ると、わざとらしく美空のすぐそばを通って玄関に向かおうとする。
しかし、それでも彼女が声をかけてくることはなかった。少し悲しくなる。
美空は相変わらず、ソファに座って専門書に目を落としたままだ。微動だにせず、文字を追っているように見える。
けれど。
何気なく美空を視線で捉えた、まさにその瞬間。
私は、自分の目が一瞬おかしくなったのかと思った。
(……え?)
美空のすぐ傍らに置かれたタブレット端末。その画面には地図アプリが表示されていた。私が壬琴先輩と出かけることになっている御茶ノ水の地図だ。
迷わないように自分でも何度も地図を確認したのだから間違いようがない。
美空は、大真面目な顔をして分厚い専門書を凝視しながら、震える手でそのタブレット端末の画面をなぞり続けていた。
地図の上を滑る指先はガタガタと震えていて、知性的な法学部生としての面影なんてどこにもない。手元の本の文字なんて一ミリも頭に入っていないどころか、私が家を出るというその事実に、脳内が完全に大パニックを起こしているポンコツな元カノの姿が、そこにはあった。
「あ……」
声を上げそうになったけれど、そのまま立ち止まることもできずにふらふらとした足取りで玄関にたどり着いてしまう。
マンションのドアを開け、美空の方を振り返る。
声をかけてよ。何か声をかけなきゃ。相反する二つの思考が頭の中で駆け巡る。
美空に酷いこと言ってごめん。本当はあんなこと言うつもりじゃなかった。
引き留めてよ。迎えに来て。私を、他の誰かに渡さないで。
私、美空のこと――。
その前にパタン、と、無情にも防音性の高いマンションの重いドアが完全に閉まってしまった。自動で鍵が閉まる音が響く。
私は一人、薄暗い共有廊下に立ち尽くしながら、自分の不甲斐なさを恥じ、酷い自己嫌悪に陥る。
同時に、限界まで張り詰め、不器用にも強がっていた元カノの姿を思い返し、胸の奥がキュンと、激しく締め付けられるのを感じていた。
◆ ◆ ◆
その頃、閉め切られたリビングのソファの上。
ドアが閉まった瞬間の音が部屋に響いたのと、同時に。
美空は手に持っていた専門書を、まるで用済みの瓦礫のようにテーブルの上へと放り出した。
ドサッ、と重い音が響く。
美空はそのまま、自分の長い黒髪を両手で激しくクシャクシャとかきむしると、ソファの上に突っ伏して、小さく呻き声を漏らした。
「……無理。こんなの耐えられるわけがない……っ」
彼女の薄い唇から、一週間分の我慢の限界を迎えた、悲痛な本音が漏れ出る。
正しい距離感、ただの同居人、そんな綺麗事の限界は、楓が家を出た瞬間に完全に決壊していた。
この数日間、楓への異常な執着と独占欲を頭から無理やり追い出すために、深夜まで大学の図書館にこもったり、家庭教師のアルバイトを限界まで詰め込んだりしていた。
本来ならばあの水科壬琴という女のことを徹底的に調べ尽くし、今日という日に備えるつもりでいた。だが、楓とちょっとしたトラブル――喧嘩とは呼びたくない、あれはちょっとしたトラブルだ――があったおかげでそれどころではなくなってしまった。
自分の気持ちを辛うじて平静に保つだけで精一杯。でなければ自分がどんな狂気じみた行動に出てしまうか自身でも予想がつかなかった。
だが――それも、もう限界だ。
美空はポケットから、自分のスマートフォンを素早い手つきで取り出した。
画面ロックを一瞬で解除し、迷いのない指さばきで、あの『位置情報共有アプリ』の画面を起動する。
暗い液晶画面のなかに、ゆっくりと表示される東京の地図。
その中心で、ピンク色の丸いアイコン――『楓』の現在地を示すマークが、マンションの敷地を出て、駅の方へとゆっくりと動き始める。
美空は、その動き出すピンクのアイコンを、ハイライトの完全に消え去った、けれど執念と狂気的なまでの愛の炎を宿した瞳で、じっと見つめ続けた。
「……御茶ノ水」
美空の細い指先が、画面の中の楓のマークを、壊れ物を扱うようにそっと愛おしそうになぞる。そして、傍らに置いたタブレット端末の画面上の地図を憎々しげに一瞥した。
恋のブレーキなど最初から粉々に砕け散っているのだ。
美空は静かに立ち上がると、シアージャケットを羽織って玄関へと向かった。
「何日も寂しい思いをさせてごめんね、楓。すぐにまた私だけのものにしてあげるから」
楓の後を追うための、彼女の追跡劇の幕が、ついに静かに切って落とされたのだった。




