第23話:冷え切ったリビング、不在の夜に思い知る元カノの重さ
最悪の喧嘩から明けた、翌朝。
リビングに足を踏み入れた瞬間、私は肌を刺すような冷気に身震いした。
「……おはよう、楓」
キッチンに立っていた美空が、感情の一切を削ぎ落とした声で私を呼ぶ。振り返った彼女の姿を見て、私は胸の奥がキュッと萎縮するのを感じた。
美空は、あのネイビーの大きなメンズパーカーを着ていなかった。代わりに身に纏っていたのは、上までしっかりとボタンが留められた、きっちりとしたシルクのパジャマ。スラリとした生足は完全に隠され、髪も端正にまとめられている。
家の中での彼女のトレードマークであり、私からのプレゼントだと愛おしそうにしていたあのパーカーを、彼女は自らクローゼットの奥へと封印してしまったのだ。
「朝食、置いておくから。私は大学の図書館に寄るから先に出るね」
テーブルに並べられたのは、いつもと変わらず丁寧に用意されたトーストとスープ。
けれど、そこに私への執着や、視線で侵略してくるような熱は一ミリも残っていなかった。最低限の、業務連絡のような挨拶だけだ。
美空は私と一度も目を合わせることなく、さっさと自分の部屋に戻っていく。そして、私服に着替えてカバンを持つと機械的な動作で玄関へと向かい、そのまま出ていってしまった。
――付き合っていた頃にも見たことのない、完璧な『氷の美女』の市之瀬美空が、そこにいた。
その冷え切った空気は、夜になっても、翌日になっても変わることはなかった。
「み、美空……あの、水道代の節約、なんだけど……。今日お風呂、一緒に……」
喧嘩から二日目の夜。
リビングの重苦しい沈黙に耐えかねて、私は脱衣所に向かおうとする美空の背中に、すがるような声をかけた。あんなに嫌がっていたはずの「一緒に入浴する」という口実を、自分から口にしていることに気づいて情けなくなる。
けれど、美空は立ち止まり、振り返ることさえせずに冷淡に言い放った。
「必要ない。これからはお互い、完全に時間をずらして入ることにしよう。私の分の光熱費は、月末に算出して正確に相殺するから」
「そんな……そこまで細かくしなくたって……」
「細かくするべきだよ」
美空はゆっくりと私の方を振り返った。その瞳は、あの日正門の影で私を睨んでいた時よりも遥かに深く、暗い闇に沈んでいる。
「私たちはもう付き合っていなくて、ただの同居人なんだから。楓の言う通り、これまで私のしていたことは全て『彼女面』をした理不尽な干渉だった。これからはルールを厳格に守って、正しい距離感を保つつもりだよ」
「美空……」
「それが、楓の望んだことでしょう?」
かつて、私が元カノである彼女との距離感を守るために作ったルール。私が彼女に突きつけた、防衛のための言葉。
それが今、何倍もの冷たさを持った刃となって、私の胸に突き刺さる。
フったのは美空だ。それは事実なのに。
建前を無くし、完全に他人としてのトーンで接してくる美空の前に、私は一言も反論できなくなってしまった。
――そして、喧嘩から三日が経った、金曜日の夜。
時計の針は、夜の十時半を回ろうとしていた。
いつもなら、美空がソファで大学の教科書を広げ、私の動向をそれとなく監視している時間。
けれど、リビングには私一人しかいなかった。
私の気づかないうちに帰宅しているのではないかと淡い期待を抱き、美空の部屋を覗いてみるが、もちろん中に人の気配はない。
位置情報アプリを開くと、彼女のアイコンは、彼女が通う大学の近くのとあるカフェの場所でぴたりと止まったまま動いていなかった。
二十一時までには必ず帰ってこいと私を厳しく縛り、一分でも遅れたら居酒屋に突入するとまで言っていたあの女が。
夜、家に帰ってこなくなった。
ぽつんと一人、静まり返ったリビングのソファに座る。
テレビをつけても、バラエティ番組の笑い声が虚しく響くだけで、少しも頭に入ってこない。
手元にあるのは、同居を始めた最初の週末に二人で買った、淡いピンク色のマグカップ。
向かい側のキッチンカウンターには、美空が使うはずのくすんだブルーのマグカップが、寂しそうに伏せられたまま並んでいる。
「……なんで、こんなに辛いの」
小さく溢した言葉は、エアコンの音にかき消された。
私は自分の使っているマグカップを流しで軽く洗うと、美空のマグカップの隣に置いた。せめて二つのマグカップを並べておきたかった。
苦しい。
美空の重すぎる束縛から解放されて、自由になれたはずなのに。
部屋の中に満ちる、圧倒的なまでの美空の『不在』の冷たさに、私の心はこれまでにないほど激しく、凍えそうになっていた。
――深夜十一時半。
カチ、カチ、とリビングの掛け時計が刻む音だけが、不気味なほど大きく部屋に響き渡っていた。
私は膝を抱えてソファの隅に丸まり、もう何度目か分からないスマートフォンの画面ロックを解除した。位置情報共有アプリの画面。そこに表示されている美空のアイコンは、大学の近くのエリアから一ミリも動いていない。
メッセージを送ろうとして、画面をタップする指が何度も止まる。
『今どこにいるの?』
『何時に帰ってくるの?』
そんな言葉、ただの同居人である私には送る資格がない。何より、数日前に「今更、彼女面しないでよ」と彼女を冷酷に突き放したのは、他ならぬ私自身なのだ。
スマホを裏返してソファに放り出すと、視界の端に、部屋のあちこちにある二人の生活の痕跡が嫌でも飛び込んできた。
キッチンカウンターに並ぶ、色違いのペアマグカップ。棚に綺麗に重ねられた、ピンクとブルーのお皿。
家具店で美空が「女の子同士だし普通でしょ」と強引にカートに詰め込んできた、お揃いの日用品たち。
つい一週間前までは、これらを見るたびに「完全に同棲じゃん……」と頭を抱えていたはずだった。美空のあからさまなマウンティングや独占欲に、困惑しながらもニヤニヤしてしまうような、そんな甘い温度がこの部屋には確かにあった。
それが、今はどうだろう。
美空がいないだけで、彼女が無理やり私とお揃いにした日用品たちが、まるで主を失った置き物のように冷え切って見える。
「なんか寒いな……」
思わず腕を擦る。七月の初めだというのに、エアコンの風がやけに冷たく感じられた。
それはきっと、部屋の気温のせいではない。私を全方位から包み込み、息が詰まるほどの熱量で満たしてくれていた、美空の巨大な感情が、この部屋から完全に消え失せてしまったからだ。
(私……美空に、依存してたんだな)
暗闇の中で、ぽつりと自覚した本音が、胸の奥に重く沈殿していく。
鬱陶しい、重すぎる、ルール違反だ、そうやって文句を言いながらも、私は美空に特別扱いされることに、誰よりも甘えていた。大学のキャンパスでどれだけ高嶺の花と持て囃されていようが、家では私だけの犬になって抱きついてくる美空に、傲慢なほどの優越感を抱いていたのだ。
その特権を、自分の手で粉々に叩き割って初めて、私は元カノの存在の重さを思い知っていた。
『……置いていかないで、楓』
ふと、新生活の疲れで風邪を引いて寝込んでいたあの夜、美空が枕元で消え入りそうな声で呟いた言葉が脳裏を過った。
あの時の美空は、今の私と同じだったのだろうか。
いや、きっと今の私なんかよりも、何倍も深い孤独と、何倍も恐ろしい恐怖に怯えていたはずだ。
高校の三学期のあの日、自分の手で私をフってしまったからこそ。もう二度と恋人としては触れられないのに、親の独断のせいで同じ部屋で暮らさなければいけないというこの地獄の中で。いつ私が自分を完全に過去のものにして、誰か別の人のところへ行ってしまうか、そのカウントダウンに毎日震えていたのだ。
美空が張り巡らせていたあの異常な『束縛』は、彼女の壊れそうな心を繋ぎ止めるための、血を吐くような悲鳴だった。
その本当の痛みが、美空のいない凍りついた部屋で、ようやく私の胸に刺さるようにして理解できた。
「ごめん、美空……私……何も分かってなかった……」
溢れそうになった涙を堪えるように、私は膝に顔を埋めた。
日付が変わる直前、静寂に包まれた玄関から、微かな金属音が聞こえた。
心臓が跳ね上がる。私は弾かれたようにソファから立ち上がり、廊下へと走った。
「美空……!」
ドアを開けて入ってきた美空は、いつもの完璧なトーンの私服姿のままだった。けれど、その肩は心なしか小さく落ちていて、白い肌は玄関の照明の光に照らされて酷く青白く見えた。
その瞳には、私を睨みつけるような覇気すら残っていなかった。
「あ……お帰りなさい。遅かったから、心配、して……」
声をかける私と、美空の視線が一瞬だけ交差する。
美空の瞳は、掠れたガラスのように濁っていて、私を映した瞬間に、きつく痛そうに細められた。
「ね、ねえ、美空。今日は一緒に寝ない……? す、少しくらいなら、ちゅーしたっていいし……」
私は、弱々しく声をかける。
美空はすぐに視線を床へと落とすと、私を避けるようにして、静かに一歩距離を置いた。
「……ごめん。疲れてるから。おやすみ、楓」
それだけだった。
引き止める隙も与えないほどに冷淡な、けれど今にも消えてしまいそうな掠れた声。
美空は私の横を通り過ぎると、廊下の電気をつけることもなく、そのまま自分の部屋へと入っていった。
冷たく閉まったドアの向こうから、彼女の気配はもう伝わってこない。
私は一人、薄暗い廊下に立ち尽くしながら、戻ってきたはずの同居人との間にできた、埋めようのない深い溝を見つめることしかできなかった。




