第22話:壊れかけた防衛線、サークルの先輩なだけなのに
大学の正門の影で、美空が私をじっと見つめていたあの放課後から、数時間が経っていた。
我が家のリビングは、夕食の後だというのに、息が詰まるほどの静寂に包まれていた。テレビの音もなく、ただエアコンの微かな稼働音だけが響く。
私はお気に入りのピンクのマグカップを両手で包み、ぬるくなった麦茶を見つめていた。
向かい側のソファでは、美空が法学の教科書を広げている。けれど、さっきから彼女の指は、一ページも前に進んでいない。
静寂を引き裂くように、美空が本を閉じた。彼女はメガネをゆっくりと外してテーブルに置くと、ハイライトの消えた冷淡な瞳をまっすぐに私へと向けた。
「……楓。今度の土曜日、あの人と出かけるの?」
氷のように冷たい、けれどどこか焦燥を含んだ声。『あの人』が誰を指しているのか、聞くまでもなかった。サークルの、壬琴先輩のことだ。美空は私のノートの隙間に挟んでいたメモを見たのか、あるいは最初から全て把握していたのか。
「……うん。壬琴先輩と、御茶ノ水の楽器屋さんに行くよ。私、まだ自分のギター持ってないから、先輩が一緒に選んでくれるって言ってくれたの」
なるべく普通を装って答える。ただのサークルの先輩後輩としての、健全なイベントなのだと自分に言い聞かせるように。
「断って」
美空は遮るように、短く言い放った。
「な……なんでよ。何で断らなきゃいけないの? 先輩は初心者の私を親切に手伝ってくれようとしてるだけなのに」
「親切なんかじゃない」
美空はソファから立ち上がり、テーブルを回って私の目の前へと歩み寄ってきた。
彼女の影が私を上から包み込む。その綺麗な顔は、いつもの冷静さを完全に失い、ドロドロとした嫉妬と切迫感で歪んでいた。
「あの正門前での見送り方、あの部室での身体の密着させ方……どう見ても異常だよ」
「部室でって……美空はそんなの知らないはずでしょ!?」
「臨さんのインスタを見た。……楓は気づいていないかもしれないけれど、あの人は、楓をそんな『ただの後輩』としての目では見ていない」
美空は私の肩を掴もうとして、その手を空中で微かに震わせた。
「あの人は、楓をそういう目――恋愛対象として見てる。手遅れになる前に、連絡先をブロックして、あのサークルも辞めて。……お願いだから、行かないで、楓」
懇願するような、今にも泣き出しそうな美空の声。
いつもなら、その震える瞳を見て、私は胸を締め付けられて流されていただろう。
分かったよ、と言って彼女の重すぎる愛を受け入れてしまっていただろう。
けれど、今日だけは違った。
壬琴先輩のカラッとした優しさに触れて、自分がどれほど美空の『異常な距離感』に飼い慣らされていたかを自覚してしまったばかりだった。
このまま美空の言う通りにしていたら、私は一生この狭いルームシェアという鳥籠の中から抜け出せなくなってしまう。胸の奥から、熱いドロドロとした感情が、一気に堰を切って溢れ出した。
「――いい加減にしてよ!!」
バン、とテーブルを叩いて私は勢いよく立ち上がった。
美空が驚いたように一歩、後ずさりする。
「なんなのよ、さっきから! 男の人ならダメ、女の人でもダメ、私のやることに全部ケチをつけて、監視して、束縛して……! 壬琴先輩は、ただのサークルの親切な先輩だよ! 私にギターを教えてくれる、素敵な人だよ!」
「楓、私はただあなたが心配で――」
「心配なんて言い訳、もう聞き飽きたわよ!!」
私は叫んでいた。
言いたくなかった。ずっと胸の奥に仕舞い込んで、気づかないフリをしていた、一番鋭利で、お互いを深く傷つけるナイフ。それを、私はついに、目の前の元カノに向けて全力で振り下ろしてしまった。
「美空にそんなこと言う権利、どこにあるのよ!? 私たち、もう付き合ってないんだよ!? 高三の三学期のあの日に、私をフって『もう終わりにしよう』って言ったのは、美空の方じゃない……!!」
「あ……」
美空の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「お互いの生活には一切干渉しない。そうやって、ただの同居人として新生活を始めるって、ルールを決めたのは私たちでしょ!? なのに、女の子同士だから普通なんて都合のいい言い訳ばっかり使って、私の世界を全部美空の色で塗り潰そうとして……!」
私は肩を激しく上下させながら、涙で歪む視線のなかで、美空を睨みつけた。
「フったのはそっちなのに……今更、彼女面しないでよ……っ!!」
リビングに、私の悲痛な叫びの残響だけが虚しく響き渡る。
言ってしまった。
絶対に口にしてはいけなかった、私たちの根本的な決裂の事実。
ハッと我に返り、目の前の美空の顔を見た瞬間、私は自分の心臓が凍りつくのを感じた。
「……っ」
美空は、まるで透明なガラスが、目の前で粉々に打ち砕かれたかのような――そんな、見ていられないほどに衝撃を受けた顔をしていた。
唇を微かに震わせ、何かを言おうとするけれど、声にならない。
いつもなら「女の子同士なんだから普通でしょ」と即座に返してくるはずの彼女の鋭い理性が、私の放った『別れた』という冷酷な事実の前に、なす術もなく完全に叩き潰されていた。
美空の瞳から、光が、感情が、完全に消え去っていく。
彼女は、自分の胸元をぎゅっときつく握りしめ、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように立ち尽くしていた。
「ち、違うの……み、美空、私は……」
言い過ぎた、と後悔して手を伸ばそうとしたけれど、それよりも早く。
美空は力なく視線を床へと落とすと、そのまま一言も喋らなくなり、幽鬼のような足取りで、自室の方へと静かに歩き去っていった。
重苦しい音を立てて、美空の部屋のドアが閉まる。
いつもならすぐに私を追いかけてくるはずの彼女の気配は、その夜、二度とリビングに戻ってくることはなかった。
静まり返った部屋の中で、私は自分の両手を見つめ、激しい自己嫌悪と、今までに感じたことのないような恐ろしい孤独感に、ただ震えることしかできなかった。




