第21話:【美空視点】新しい『女の影』を検知しました
楓とほとんど会話を交わさずに帰宅した私は、帰るなりベッドに倒れ込んだ。
暗い自室の中、スマートフォンの液晶画面だけが、私の顔を青白く照らしている。画面に表示されているのは、写真共有アプリのタイムライン。楓の友人である、あの『御堂臨』という派手な女子学生の公開アカウントだ。
彼女は誰に対してもオープンな性格のようで、一日に何度も大学生活の様子を投稿している。当然、そこには私の愛しい同居人――中道楓の姿も、頻繁に写り込んでいた。
画面をスクロールする私の指が、ある一枚の写真の前でピタリと止まる。
サークルの部室らしき場所。椅子に座ってギターを抱える楓と、その真後ろから、まるで背後霊のようにぴったりと身体を密着させている紫のグラデーションがかった黒髪のショートカットの女。
女の手は楓の小さな手に重ねられ、まるで後ろから抱きしめているかのような、極めて破廉恥で、距離感のおかしい姿勢をとっていた。
投稿のテキストには、ハートマーク混じりでこう書かれている。
『水科先輩のマンツーマン指導、頼もしすぎ! 超ときめく~!』
「……水科、先輩。水科先輩ね」
カチリ、と。脳の奥で、冷徹な理性のスイッチが切れる音がした。
スマートフォンの画面を、爪が割れそうなほどの強さで指先でなぞる。
写真の中の楓は、確かに耳まで真っ赤にして俯いていた。私の前で見せるような、恥ずかしさと困惑の入り混じった、あの世界で一番愛くるしい表情。
それを、私以外の、こんな得体の知れない女に向けている。
激しい嫉妬の炎が、内臓をドロドロに焼き尽くしていくような猛烈な不快感が私を襲った。
これまで、大学の男たちが楓に近づいてきた時は、何の脅威も感じなかった。新歓の時の茶髪の男も、楓にグループワークのLINEを送ってきた高橋とかいう男も、ゴミを排除するのと同じ感覚で、冷淡に撥ね退けることができた。
なぜなら私には、女同士のルームシェアという特権があり、何より『女の子同士の友達なんだから、距離が近くても普通でしょ?』という、無敵の免罪符があったからだ。
男相手なら、その言葉一つで完璧にマウントがとれた。楓だって「女の子同士だから」と、私との密着を最終的には受け入れてくれた。
けれど。相手が『女子』となると、話は完全に変わってくる。
(女の子同士だから、普通……?)
その、私が今まで散々都合よく使い回してきた最強の言い訳が、今度は鋭い刃となって、私自身の胸に突き刺さった。
相手が女なら、背後から抱きつくようにギターを教えても『女の子同士のスキンシップだから普通』になってしまう。
相手が女なら、楓の頭を何度も優しく撫で回しても『可愛い後輩を可愛がっているだけだから普通』になってしまう。
その『普通』という濁流の中で、あの女は、私の楓に合法的に触れ、私の知らない楓の笑顔を引き出し、私の知らない彼女の時間を奪っていくのだ。
「……嫌だ。絶対に、許さない」
暗闇の中で、私の声が低く呪詛のように響いた。胸の奥の独占欲が、狂気寸前の感情となって暴れ出す。
初めてあの女の存在の認識したのは昨夜のこと。御堂臨のSNSのアカウントを監視していた時だ。居ても立ってもいられなくなった私は、今日の放課後、自分の大学の講義が終わるや否や、位置情報アプリの画面だけを頼りに、楓の通う大学へと向かったのだ。
そして、正門の影に身を隠し――私は、見てしまった。
夕暮れ時の並木道。そのショートカットの女と、本当に楽しそうに、心からの笑顔を浮かべて笑い合う楓の姿を。
別れ際、名残惜しそうに何度も何度も手を振り返す楓。その瞳は、私が家の中でどれだけ彼女を揺さぶっても見せないような、純粋な『憧れ』の色を帯びていた。
あの瞬間、私の心臓は嫉妬と絶望で引き裂かれるかと思った。
だからこそ、私に気づいて駆け寄ってきた楓を、強く抱きしめ、自分の匂いで塗り潰さずにはいられなかったのだ。私を抱き返してくれた楓の体温だけが、私の壊れそうな心を辛うじて繋ぎ止めてくれた。
けれど、安心している場合ではない。
あの女は、明らかに楓を『そういう目』で見ている。同じ同性愛の、それも私の巨大すぎる感情とは違う、狡猾でスマートな捕食者の目をしていた。
「私の楓に、気安く触るんじゃない」
私はベッドから起き上がると、静かに自室を出て、薄暗いリビングへと向かった。
楓は気まずくなったのか自分の部屋に戻っているようだ。優しい楓のことだから夕飯時になれば出てきてくれるだろう。
テーブルの上には、一週間前に私が作成し、楓に渡したはずの『タイムスケジュール表』が置かれている。楓は「移動時間をあと十五分増やして」と言っていた。御堂臨と話すためと言っていたが、本当の目的はあの女だったのだろうか。
私はスケジュール表の横にある、楓の大学用ノートの隙間に挟まれていた、小さなメモ用紙を引っ張り出した。
そこには、楓の不器用な丸文字で、こう書き残されていた。
『土曜日:壬琴先輩と御茶ノ水の楽器屋(ギター選び)』
御茶ノ水。楽器屋。二人きりの、週末。
「……反吐が出る。デートの、つもり?」
メモを見つめる私の瞳から、完全に光が消え失せる。
ただのサークルの先輩後輩という建前を使いながら、あの女は、楓を私の手の届かない外の世界へと連れ出そうとしている。
フったのは私だ。その罪悪感は、今でも毎日私を苛んでいる。
けれど、手放すつもりなんて最初からない。女の子同士のルームシェアというこの歪な檻の中で、私は何度でも楓を侵略し、もう一度、私なしでは生きていけない身体にしてあげるのだから。
「行かせない。どうしても行くと言うなら――」
カレンダーの土曜日の欄をじっと見つめながら、私はスマートフォンの画面を御茶ノ水の地図へと切り替えた。
見慣れない土地の地図を眺めながらふと疑念がよぎる。
あの水科という女が、裏表のない誠実で実直な人間である可能性は万が一にもないのだろうか。
もしそうだったとしたら。
楓は、私なんかより優しくて素敵な先輩と一緒になった方が幸せなのではないだろうか。
そうだった時、私は――。
私は、身を引くべきなのだろうか。
いや、そんなはずがない。そんなことあっていいわけがない。
私は何度も頭を振り、その雑念を必死に頭の中から追い出した。




