第4話 発露
エルディオが病室へ運ばれてから、屋敷の空気はすっかり変わっていた。
ミーリアの誕生日を祝うはずだった広間では、楽師たちが黙って楽器を片づけ、使用人たちが落ちた杯や、踏み荒らされた花を拾っている。
白い花も、磨かれた銀器も、甘い香を焚いた燭台も、少し前までの華やぎを置き去りにして、ひどく余所余所しい装いになっていた。
客人たちはすでに多くが帰された。
残っているのは、エルディオの家の者と、屋敷の主だった一族だけ。
そして今、当主夫妻とミーリアは客室に集まっていた。
厚い絨毯が敷かれ、壁には先代が買い集めた祖先の竜の絵が飾られている。
調度も、香炉も、壁際に並ぶ銀細工も、当主の趣味と見栄が隅々まで行き届いた客室だった。
だが、そこに座る者たちの顔色は冴えない。
ミーリアは泣き腫らした目で、まだ不満そうに唇を尖らせていた。
「最悪だわ……私の誕生日だったのに」
夫人がその肩を抱く。
「可哀想なミーリア。まさかこんなことになるなんて」
当主は二人を宥めるでもなく、肘掛けを指先で叩いていた。
こつ、こつ、と乾いた音が鳴る。
エルディオ様は、古い血筋を持つ伯爵家の子息だ。
まだ婚約には早いが、顔を繋いでおいて損はない相手だった。
その子息が、自分の家の祝いの席で病を発した。
それだけでも十分に面倒だ。
まして、その直前に話していたのが、あの角なしの拾い子だというなら。
呪いなどあるわけがない。
理屈では分かっている。
あの娘が何をしたと決まったわけでもない。
それでも、発作を起こしたエルディオが、あれを貪るように見つめていた姿は、どうにも目に残っていた。
あの角なしもまた、その視線を拒むどころか、吸い寄せられるように立ち尽くしていた。
まるで、広間にいる誰にも分からない何かを、二人だけで分かち合うように。
その光景を思い出すたび、当主の胸には説明のつかない不快感が広がった。
口元に、苦々しさが滲む。
やがて、客室の扉が叩かれた。
「入れ」
扉が開き、銀灰色の髪を持つ竜医が入ってくる。
シェルヴァ。
角哭病を診られると評判の若い医者だ。
彼は黒い薬箱を手に、静かに一礼した。
銀灰色の髪は後ろで緩く結ばれ、白い手袋には薄く薬の匂いが染みている。
「それで、エルディオ様のご容態は」
当主は、シェルヴァを席に座らせることもなく問いかけた。
ミーリアが小さく息を呑む。
若い竜医の整った顔立ちに目を奪われたような、そのわずかな反応だけで、当主の苛立ちはまたひとつ増した。
いくら可愛い娘であろうと、庶民の医者などに現を抜かしてもらっては困る。
「今は落ち着いています。角の罅も浅く、発作も長くは続いていません。今夜ただちに命に関わる状態ではないでしょう」
重苦しかった客室の空気が、わずかに緩む。
最悪はどうやら免れた。夫人の肩からも、細い息が抜けた。
「では、もう治ったのか?」
「治った、とまでは申し上げられません」
シェルヴァの声は静かだった。
「一時的に落ち着いた、というところです。
しばらくは安静に。熱と角の状態を見て、必要なら改めて診療を受けるべきでしょう」
「ふん……なら、再発する恐れは未だ残ったままか」
当主の指が、また肘掛けを叩いた。
「ねえ、あなた」
夫人がミーリアの肩を抱いたまま、口を挟む。
「その病ですが、移るものではありませんの? 最近、王都でも噂になっているでしょう。同じ広間にいたのですから、ミーリアに何かあっては困ります」
ミーリアは慌てて、自分の白磁の角に触れた。
シェルヴァはその仕草を一瞥した。
薬箱を握る指に、わずかに力が入る。
「確かに、近頃は流行り病のように扱われています」
それでも、声は変わらず淡々としていた。
「ですが少なくとも、触れた、同じ部屋にいた、同じ空気を吸った、というだけで次々に広がる病ではないと見ています」
「見ています?」
当主の眉が動く。
「原因が分からない以上、絶対とは申し上げられません。
ですが、一般的な熱病や咳病とは性質が違います」
シェルヴァは一度、薬箱の持ち手へ指を添え直した。
「角哭病は、竜人の角に罅が入り、割れた角の奥から泣き声のような音が聞こえる病です。
そのため、角が哭く病、角哭病と呼ばれています」
「その泣き声の正体も、病そのものの原因も、未だ確かなことは分かっておりません。
感染という概念があるのか、何か媒体があるのかすら、断言できないのです」
シェルヴァは、そこで言葉を切った。
当主は眉間に深く皺を刻み、勢いよくソファから立ち上がった。
「分からないことばかりではないか!」
「はい」
シェルヴァは否定しなかった。
「ただ、分かっていることもあります。
治る者もいれば、治らない者もいる。一度発露したからといって、必ずまた発病するとは限らない」
そこで、わずかに声が低くなる。
「ですが、何度も発病を繰り返せば角の罅は深くなり、熱も強くなる。重い例では、魔力を制御できず、衰弱して死に至ります」
客室に、再び重い沈黙が落ちた。
「これは、私が間近で診てきた経験則です」
その静けさは、長くは続かなかった。
「あぁもう、御託はいい!」
当主の怒号が、客室を打つ。
「何も分からんのだろう! それよりあれだ。角なしの、あの娘だ」
当主はシェルヴァを睨み据えた。
「あれは呪いなんかじゃないんだよな?」
言質を取るような問いだった。
呪いではない。
そう医者の口から言わせれば、少なくともエルディオの家へは言い訳が立つ。
逆に、少しでも疑わしいと言うなら、あの角なしを切り捨てる理由になる。
どちらにせよ、当主に必要なのは病の真実ではなかった。
後で責められた時に差し出せる、都合のいい言葉だった。
シェルヴァは、その問いだけを静かに避けた。
「……病に対しては、まず休息が何より大事です」
「答えになっていない」
「空気の澄んだ場所に移し、熱を下げ、余計な刺激を与えない。
少なくとも、エルディオ様は今夜それで落ち着いています」
シェルヴァの睫毛が、わずかに伏せられた。
「元々、病の兆しがあった可能性もあります。
角の内側に罅の兆候があっても、外からは見えないことがある。
熱や気分の悪さも、幼い竜なら緊張や疲れと区別がつきにくい」
そこで一拍置く。
「いつ、何がきっかけで発露したのかは、まだ分かりません」
シェルヴァは当主の視線を受け止めたまま、静かに続けた。
「ですから、発露の直前に患者と話していた方がいるなら、その方からも話を伺いたく存じます」




