第5話 予感
「リリアを診るというのか」
「はい」
「不要だ。アレは診なくていい」
「何故でしょうか」
「……アレを患者扱いする必要はない」
患者扱い。
その言葉が、シェルヴァの内側で乾いた音を立てた。
診るべき命ではない。
病の場に居合わせた少女ですらない。
この屋敷にとって彼女は、すでに帳簿の端へ押しやられた損失なのだろう。
「むしろ、こちらが迷惑を被っている。
大事な客人に病が出て、娘の祝いの席まで台無しになった。これ以上、あれに構っている暇はない」
「しかし、今夜の件に深く関わっている可能性があります」
「なら、なおさら遠ざけるべきだろう」
「遠ざけるにしても、何も分からないままでは判断を誤ります」
シェルヴァは、診察室で使う言葉だけを選んだ。
ここで感情を見せれば、目の前の男はそれを病ではなく、取引の気配として嗅ぎ取る。
怒りは、まだ処置の邪魔になる。
「角哭病は、恐れて隔離すれば済む病ではありません。
発露した時、何が近くにあったのか。何が刺激になったのか。確認する必要があります」
「つまり、あれが病の刺激になり得ると?」
「可能性の一つです」
「だったら危険ではないか。早々に追い出してしまわなくては」
追い出す。
処置でも、隔離でも、療養でもない。
病を遠ざけるための言葉ではなく、面倒な荷を屋敷の外へ投げるための言葉だった。
「危険かどうかを確かめるために診るのです」
当主は鼻を鳴らした。
夫人も頷くように、手にした扇子を軽く鳴らす。
「どちらにせよ、追い出せばいいだけですわよね?
元々、婚姻に使えるかもしれないと思って置いていただけの子ですもの。
角も生えず、魔力も見えず、今日のようなことまで起こすなら、これ以上抱えておく理由がありませんわ」
置いていただけ。
シェルヴァは、その一語を聞き流せなかった。
棚に飾る品のように。値がつく時期を待つ荷のように。
あの窓辺でこちらを見ていた少女は、この家でずっとそういう言葉の中に置かれていたのか。
ミーリア嬢も倣うように、よく巻かれた髪を揺らした。
「私の誕生日を台無しにしたのよ。早く出て行って野垂れ死ねばいいのよ」
それから、ひどく簡単に笑った。
「それが、正しいあの子の運命でしょ」
運命。其の言葉を彼女を迫害する為に軽々しく使うのか。
その単純さが、刃物よりも薄く肌を裂く。
シェルヴァは口を開かなかった。
今、言葉を選び損ねれば、医者ではない声が出る。
この屋敷の者にとって、リリアはすでに不要品なのだ。
名を持つ娘ではなく、値を失った品。
「……ですが、なおさら今のうちに診ておくべきです」
「しつこいな。何をそう拘ることがある」
当主の苛立ちが、声の端に滲んだ。
シェルヴァは、相手に通じる形へ言葉を削った。
「病に関わる疑いが残ったままでは、後々面倒になるでしょう?」
その一言で、当主の指が止まる。
やはり、そこなら届くのか。
損得。外聞。後日の面倒。
この男にとっては、命より軽いものが、世間の目より重くなる。
「今夜、彼女が発作の場にいたことは、客人たちも見ています。
もし噂になれば、何も分からないまま疑いのある娘を野に追い放った、という見られ方もするでしょう」
当主の視線が、わずかに横へ流れた。
不快な手応えだった。
「診察して異常なしと分かればそれで済みます。もし気になる点があれば、最低限の説明はできます」
「説明?」
「角哭病が、少なくともうつる類いではないこと。
彼女が病を広げたと決めつけるには早いこと。そうした説明です」
夫人が口元を押さえた。
「でも、あの子を診るというなら診察代がかかるのでしょう?」
「……無償で構いません」
客室が静かになった。
当主の目が、シェルヴァに留まる。
「……何だと?」
「彼女の診察代は不要です。私が必要だと思って申し出ています」
「何故そこまでする」
「竜医として、気になる点があるからです」
「それは、貴殿にとってアレに価値があるという意味か?」
価値。
また、その言葉だ。
シェルヴァは一度、薬箱の金具へ指を添えた。
冷たい金属の感触が、手袋越しにかすかに伝わる。
それを確かめてから、口を開いた。
「価値の話ではありません」
「だが、無償で診たいと言うほどだ」
「病に関わるかもしれない。今申し上げられるのは、それだけです」
当主は不満げに黙った。
だが、無償という言葉は大きかったのだろう。
損はない。
後で噂になった時も、医者に診せたという事実は言い訳になる。
その計算が、当主の目の奥で動くのが分かった。
やがて当主は、ふっと口元を緩めた。
「……まあ、無料なら好きに診るといい」
その声には、先ほどまでとは違う含みがあった。
当主は肘掛けに指を置いたまま、シェルヴァを探るように眺めている。
ただの診察にしては退かない。
ただの医者にしては、あの角なしへ向ける言葉が重い。
そう読んだのだろう。
当主の目に、商人らしい光が差した。
「それにしても、随分と気に掛けるのだな」
シェルヴァは答えなかった。
その沈黙を、当主は都合よく受け取ったらしい。
「まあ、アレでも一応は我が家で育てた娘だ。
手を掛け、食わせ、礼儀も教えた。
角が生えなかったのは誤算だったが……磨くには、それなりに金も掛かっている」
それは品を仕入れ、手入れし、売り場に出す者の語彙だった。
到底、娘に向ける言葉ではない。
この者は、それに気づいているのだろうか。
それとも、気づいた上で口にしているのか。
夫人が扇子の陰で口元を隠す。
ミーリアは退屈そうに爪先を揺らしていた。
当主は、隠すまでもなく明け透けに笑った。
「診るだけなら構わん。だが、もしそれ以上を望むなら話は別だ」
「……それ以上、とは」
自分の声が、思ったよりも硬く出た。
当主は気づいていないのか、機嫌の良さを隠しもしなかった。
「どこで見かけたのかは知らんが、気に入ったのなら身請けても構わんということだ」
一拍置いて、当主は肩を竦める。
「しかし、あれでも我が子だ。安くはない」
我が子。
その言葉の軽さに、喉の奥がひどく冷えた。
「持参金は、頂くがな?」
薬箱から、手を離していた。
シェルヴァは、その時になってようやく自分の人差し指が彼らへ向いていることに気づいた。
取り乱すな。
ここで崩れてどうする。
こうなった原因の一端は、自分にもある。
探し続けて、間に合わなかった。
見つける前に、彼女はこの家の中で値をつけられていた。
ならば今、怒りをぶつける資格などない。
少なくとも、彼女と出会うまでは。
「……患者に、手を出す医者はいませんよ」
短い返答に、当主の笑みが薄れた。
夫人が不快そうに顎を引く。
「触れるなら、後で手を清めてくださいませ。万一ということもありますから」
「……角哭病は、触れて移るものではありません」
「ですが、ご不安なら、診察後に手は清めます」
言葉だけは丁寧に整えた。
けれど、もう柔らかさまでは戻せなかった。
夫人は何か言い返そうとして、唇を閉じる。
「では、離れへ…おいお前、連れていけ」
案内役として呼ばれた使用人が、怯えたように頭を下げる。
「こちらです」
客室の扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、甘い香が薄くなった。
背後の扉の向こうには、まだあの者たちがいる。
娘を値踏みし、病を恐れ、外聞を数え、最後には持参金などと口にした者たち。
「……下衆共が」
声は、誰にも届かないほど小さかった。
使用人が振り返りかける。シェルヴァはその横を通り過ぎた。
「案内は不要です」
言い終える前に、足はすでに廊下の先へ向いていた。
本館を抜け、冷え切った庭へ出る。
夜気が肺に刺さった。
それでも、屋敷の甘い香よりはずっとましだった。
月明かりの下、離れの小さな窓で影が揺れている。
その窓を見上げた時、シェルヴァは一度足を止めた。
まだ、何も決めつけるべきではない。
そう分かっている。
だが、予感が鳴りやまない。
彼女は、自分が探し求め続けてきた『贄』であると。
そして彼女が今、こんな境遇に追いやられているのは、
探し出せなかった自分のせいでもあるのだと。




