第2話 適応
水をかけられたのは、母様と兄様を待っていた夕食前のことだった。
義姉様が、手元の水杯を私の方へ倒したのだ。
冷えた水は髪を伝い、襟元を濡らし、膝に置いていた刺繍布へ広がっていく。
「ごめんなさいね、手が滑ったの」
義姉様の口元には、謝罪にしては明るすぎる笑みが残っていた。
それでも私は、見て見ぬふりをした。
濡れた刺繍布をそっと畳み、スカートの中へしまう。
「……何も持たずに話しかけられないからって、用意したけど」
心の中だけで呟く。
義姉様がお好きな物語を真似て縫った、竜と花の刺繍だった。
淡い水色の糸は滲み、花弁の形も、竜の尾の線も、もう分からない。
話しかけるための理由は、すっかり水を吸って重くなっていた。
「だけど、貴女が悪いのよね?」
義姉様は椅子の背に凭れ、唇を尖らせる。
「私の誕生日パーティーに、みなしごのくせに参加するだなんて、あり得ないわ。ねえ、パパ。何とかしてよ」
父様は困ったように笑った。
けれど、その目は義姉様ではなく、私へ向いていた。
濡れた髪でも、滲んだ刺繍でもなく、そこに置かれた扱いづらい品を測るような目だった。
「そう怒らないでくれ、ミーリア。あの席には色々な貴族が来る。誰か一人くらい、物珍しさでこれを貰ってくれるかもしれないだろう」
これ。
父様が私を呼ぶ時、時々そうなる。
娘でも、リリアでもなく、これ。
物を指すのと同じ距離で、私が呼ばれる。
「角の発達が遅れているとでも言えばいい。年頃になってから伸びる家系も、ないわけではないからな。そこで厄介払いできなければ……まあ、その時は家から出せばいい」
厄介払い。
その言葉は、水よりも冷たく胸に落ちた。
けれど、顔に出してはいけない。
役に立つ前から傷ついた顔をしていたら、余計に扱いづらい娘になる。
「……ふん。だったら、うんと豪勢にしてよね」
義姉様の機嫌は、濡れた布よりも早く戻った。
彼女は私を見下ろしたまま、フォークの先をこちらへ向ける。
「アンタも、せめて役に立たないなら、引き立て役として役に立ちなさいよ」
「……ごめんなさい」
謝ると、義姉様の目が少しだけ細くなった。
溜飲が下がってくれたのだろう。
それなら、よかった。
濡れた髪を軽く絞ると、雫が床板へ落ちた。
すると傍にいた使用人が、鬱陶しげに布を押しつけてくる。
「此処でやらないでくださいませ。掃除したばかりですので」
「……ごめんなさい」
頭を下げ、片手で髪を押さえながら裏口へ向かった。
今夜も、食事は一緒に取れないだろう。
「スープでも、パンの一切れでも、余っているといいな」
そう思えたので、まだ大丈夫だった。
欲しがるものを小さくすれば、失望も小さく済む。
外へ出ると、夜風が濡れた襟元へ入り込んだ。
肌に残った水の筋が、細く冷えていく。
けれど、これも適応しなくてはならない。
室内に戻って床を濡らせば迷惑になる。
部屋へ戻って寝台を湿らせれば、洗濯物が増える。
ならば、外で乾かした方がいい。
理由を並べれば、惨めなことも少しだけ手順になる。
庭の隅に置かれた小さな燭台に火をつけた。
炎は頼りなく揺れ、濡れた髪の先だけを淡く照らす。
両手で髪を絞ると、蜂蜜色の淡い束から、水がぽたぽたと落ちた。
この髪が、この瞳が、父様が私を拾った理由だ。
私は、山で倒れていたところをこの商家に拾われたらしい。
その時の記憶も、それより前の記憶もない。
残っているのは、絵本をめくる紙の音。
誰かの、暖かな声だけ。
けれど、この家の者たちが語る私の始まりは、もっと乾いていた。
山道に倒れていた、物珍しい子供。
竜人にしては色が淡く、高貴な竜たちの濃やかな色とは違う、どこか異国めいた見目の子供。
「磨けば、貴族との婚姻に使えるかもしれない」
父様は母様の反対を押し切って、私を迎えたらしい。
だから父様と呼んではいるけれど、私たちの血は繋がっていない。
この家は、先代の頃に大きく商いを広げ、当代でようやく貴族の端に名を連ねた新興の竜商家だ。
古い貴族たちは、陰でこの家を笑う。
商人の鱗に爵位を貼りつけたような家。
金で角を磨こうとしている家。
血筋より帳簿を信じる家。
そう囁かれるたび、父様の背は少しずつ固くなった。
もっと高い家と結びたい。
もっと古い血筋へ食い込みたい。
商いだけでは届かない場所へ、婚姻で手を伸ばしたい。
そのために、私は拾われた。
婚姻用の娘。
そう嘲られても、それを不幸とは数えなかった。
役割があるのは良いことだ。
使い道があるのは、もっと良いことだ。
何のために此処にいるのか分かるなら、その形に合わせればいい。
合わせられるうちは、まだ置いてもらえる。
けれど、父様には大きな誤算が生じてしまった。
竜の子供たちの額に小さな角が芽吹き始めても、私の額だけは滑らかなままだったこと。
十歳になった今でも、気配ひとつないこと。
初めは、遅れているだけだと片づけられた。
次に、拾い子だから血が薄いのだろうと囁かれた。
それから、何か病なのではないかと目を逸らされた。
最後には、誰もあまり口にしなくなった。
口にしない方が、失敗は小さく見える。
期待しない方が、損も少なく済む。
角のない娘に、高い縁談は望めない。
魔力のない血を、名家は欲しがらない。
まして、この家が欲しがっているのは、成り上がるための婚姻だ。
とどのつまり、私はその梯子にはなれなかった。
庭の向こう、屋敷の窓から灯りが漏れている。
姉様の部屋だろう。
今夜は、パーティー用のドレスの仮縫いがあるはずだ。
姉様には、白磁に金を刷いたような角がある。
まだ幼いのに枝分かれの兆しがあって、父様はそれを見るたび満足そうに目を細める。
私の額を見る時とは違う顔で。
濡れた髪を絞り終え、燭台の火に手をかざした。
冷えた指先へ、少しずつ熱が戻る。
「……大丈夫」
夜気に触れた声は、炎の揺れにまぎれた。
角がないなら、他の価値を作ればいい。
婚姻に使えないなら、礼儀で。
血筋を売れないなら、働きで。
美しい角を持てないなら、せめて見苦しくない娘でいることで。
そうやって、私は此処に適応する。
そうすれば、いつか父様も認めてくれるかもしれない。
役に立つ娘だと。
「明日はいよいよ、姉様の誕生日パーティー」
口の中だけで確かめる。
「風邪なんて引いたら、大変だわ」
大変なのは、私の体ではない。
用意された服が着られなくなること。
人前で咳をすること。
父様の計算を、またひとつ狂わせてしまうこと。
火を消す前に、夜風がひときわ冷たく吹いた。
小さく震える肩を自分で抱き、私は本館から切り離されたように建つ私室へ向かった。




