プロローグ 暖かな声
熱のある夜、私はいつも、知らない声を聞く。
胸の奥のいちばん柔らかな場所へ、そっと沁み込んでくるような声音だった。
笑みを含んだその声は、絵本をめくる紙の音まで連れてくる。
――可愛い、可愛い、愛しい我が子。
――いつまでも、元気に生きていて。
陽だまりのような声だった。
今、此処で鈴を鳴らしても、誰も来ない。
たとえ来たとしても、『角なし』の私に、そんなふうに声をかける人はいない。
「……いつか、角は生えるのかな」
額に乗せていた布を、水桶へ戻す。
揺れた水面に、蜂蜜色の淡い髪と、薄い琥珀の瞳が崩れて映った。
いつか父様が見出した、私の“物珍しい見目”。
けれど、その物珍しさをいっそう奇妙にしているのは、額もこめかみも、今なお滑らかなままであることだった。
小さな出っ張りすらない。
指の腹でなぞっても、どこにも引っかからない。
この国で、角は価値だった。
額やこめかみに生える角は、私たち竜人の血筋を示す。
美しい角。枝分かれした大きな角。複雑な模様を宿す角。血の古さを示す色艶を持つ角。
それはただの個性ではない。
血の濃さであり、魔力の器であり、家同士を結ぶ婚姻の値札でもある。
角が強い者ほど、魔法をよく扱える。
角が美しい者ほど、良い家に望まれる。
角が大きい者ほど、祖先の竜に近い血を持つとされる。
だから、角のない私は、ただ息をしているだけでは足りなかった。
水面の私は、熱に濡れた目でこちらを見返している。
「……大丈夫」
声は水桶の縁に触れて、すぐに薄くなった。
このまま角が生えなくても、別の価値を作ればいい。
礼儀。刺繍。読み書き。茶の淹れ方。微笑み方。
客人の前で、余計なことを言わないこと。
家の役に立つ娘として、見苦しくない振る舞いを覚えること。
婚姻道具として、まだ使えるところを増やせばいい。
――大好きよ。
ふいに、胸の奥で、あの声がほどけた。
いつか、どこかで。
私はそんなふうに呼ばれていたのだろうか。
角がなくても。
価値がなくても。
何の役にも立たなくても。
ただ生きていてほしいと、誰かに願われていたのだろうか。
水桶の水面が、細く揺れる。
いつか誰かが、私を役に立つ娘だと認めてくれればいい。
そうすれば、この家に置いてもらえる。
迷惑にならずに済む。
誰かの損にならずに、生きていられる。
それで十分なはずだった。
それなのに、私を浮かす熱はいつもあの声の元へ誘う。
何かになれとも、役に立てとも言わない声。
ただ、元気に生きていて、と願う声。
その声に触れるたび、私は返事の仕方が分からなくなる。
だから布団の中へ身を沈めて、目を閉じた。
まるで眠ってしまえば、その願いを受け取らずに済むみたいに。




