高き枝に実る幸せ
いらっしゃいませ。
その日は、目覚めが良くなかった。
決して悪夢を見て、などということではない。
昨日の出来事があまりにも心残りだったからだ。
「………………」
もちろん、眠いことには眠い。
できるなら二度寝してしまいたい。
だが…………そんなことをしたらさらにやばいことになるのは決まっている。
というのも
『すごいぐらいに玄関の方から圧を感じる』からだ。
起きた瞬間に(もしかしたら寝ている間もかもしれないが)訳のわからない圧を感じた。つーっと背筋を冷たい汗がなぞり……。
本当に、人生で一番心臓に悪い朝だ…
と、こんなことを考えている時間もない。
ベッドから飛び降り、遅刻しそうなときよりも早く制服に着替える。
ドアの側に置いてある鞄をひっつかみ、机の上に開かれていたノートと筆箱とをとりあえず詰め込む。
そのままドアを勢い良く開け、階段に足をかけ…
「あっ」
右足が一つ下の段を捉えきれず滑り落ちる。
とっさに左足を踏ん張るが、フローリングと靴下の相性が悪すぎる。
左足もろとも身体が滑った。
こんなので死ぬのか……?
「階段から落ちて死んだ」なんて嫌すぎる。死後いくら恥じても恥じきれないだろう。
その瞬間、思考を介さずして右手がばっと動き、かろうじて階段の手すりを掴んだ。
右手を中心として身体が階段の上を転がる。
全身を階段の角が打つ。
その勢いのまま壁に打ち付けられ、意識が飛びかけた。
「………う……うぅ………」
痛みに悶えていると上でドアがバタン、と開く音と共に人が走り寄ってくる音がする。
「……何してんの…?」
階段の上を見ると、寝巻き姿の妹が呆れたような目でこちらを見ていた。
「………うるせぇ」
「うるさいのはお兄だろ、ドタバタドタバタしやがって、幼稚園児かよ!」
「ぐぅ」
その通りすぎる。まったく的確なところばかりついてくる嫌な妹だ。
「……はぁ、最悪の目覚めなんだけど」
「……ごめんって」
俺が落ちた音で起こされたらしい妹は不機嫌そうにしながら、そのまま部屋に戻っていった。
「………まじでいてぇ…」
全身を打撲したのではないかと錯覚するほどの痛みだったが、不幸中の幸いというべきかさっきまでの焦りでアドレナリンが出ていたらしく動けないほどではない。
そろそろと足を階段に乗せ、ゆっくりと降りる。
ようやく一階に着いて、一息をつこうとして……再び玄関から圧を感じた。
「ひぃっ!?」
恐怖が痛みに打ち勝つ。
猫のような素早さでダイニングテーブルの上にある袋から食パンを一枚とり、それをくわえて玄関に走る。
靴を履こうとするも靴の縁がかかとに引っかかるが、お構いなしに玄関の扉を押し開ける。
「行ってきまーーーす!!」
振り返りもせずにそのまま家を出ると、門の前に人がぽつん、と立っている。
「ごめーーん!!お待たせ…」
走り寄ると、顔がぱっと明るくなる。
「ゆーちゃん!!」
しかしすぐさま可愛らしい頬をぷくっと膨らませ、「もー、可愛い女の子を待たせるなんて…」と言った。
いや、確かに可愛いが、可愛いのだが…
「…うーん、それはごめんだけど…なんか壁を貫通する圧をかけてくるのやめて?」
水帆はそれを聞くなりわざらしいほどにきょとんとした顔で首を傾げた。
「…えー?あたしそんなことしてないよー?」
「わざとらしすぎだろ」
「えー?」
少し目が笑っている。
幼なじみだからかもしれないが、水帆の感情の変化は見ればすぐにわかる。
そのままその目をじーっと見ていると、目線がふるふるとブレ始めた。
恥ずかしいのだろう。
だが言っておくが、決して俺は恥ずかしくないわけではない。
今だって顔から火が出そうな程に恥ずかしい。
しかし俺の表情にはほとんど出ていない。
はたから見れば真顔だろう。
それはなぜか。
それは自分の中に仮の自分を作れてしまうからだ。
芸術、特に音楽に幼い頃から触れてきたせいだろうか、無意識のうちにその音楽にあった感情をもつ仮面を構築するようになってしまっている。本当はその音楽に沈み、その通りの感情になって演奏する、というのが定石だし、一番良いのだが。
そのせいで、かつて審査コメントに「感情表現に虚飾が多すぎる」と書かれることもあった。
だがその後もその癖は治らず、ただ虚飾が上手くなっただけだった。
しかしそんな自分の仮面を貫通してくる人間がいる。
そう、『水帆』だ。
前も言ったが、水帆は俺の感情や考えていることを的確に見抜いている。
プロの芸術家や面接官でもわからないような、俺のかすかな癖や挙動だけでこちらの心情を推し量ってくるのだ。
例え自分が全力を以てしても敵わないだろう。
「…恥ずかしいくせに意地張っちゃって」
「…」
暴かれた瞬間、偽りの仮面は内側から崩壊する。
瞬間、ぼっ、と音が出るのではないかというほどの勢いで顔が真っ赤になった。
「あー!ほらやっぱそうじゃん!」
人に照れ隠しをバレるほど恥ずかしいことはない。
「……うっせーよ」
「照れちゃってー、このー、このー!」
水帆がうりゃうりゃ、と小突いてくるが、その顔は赤い。
「お互い様だろ?」
「ふぇっ?!そ、そそんなことないし?!」
誰がどう聞いても強がりであることは明白だ。
「…あ、そうだ、話は変わるけど、今日入学課題の提出らしいぞ?」
「本当に唐突に話変わるね…?提出でしょ?うん持ってきてるよ」
そういって手に持っていたスクール鞄の中を漁る。
ふと中を流し見ると、失礼かもしれないが、意外にも綺麗だった。
「———あった!」
水帆は一枚のファイルを取り出し、高々と掲げる。
「珍しいな」
「はぁっ?!珍しくないし!!てかゆーちゃんこそちゃんと持ってきたわけ??」
「…持ってきてないと思うか?」
「うん」
「めっちゃ即答だな」
「そりゃそうでしょ」
「……そして正解なのがまたムカつくな」
宿題があったことは知っているし、提出が今日なのも知っていたが…普通に面倒くさかったのでやらなかった。
「ゆーちゃんって中学校の時陰でなんて言われてたか知ってる?」
「…は?うーん…知らないけど」
「『黒いヤギ』だよ」
「…???」
「先生が印刷して配布してる宿題プリントとか課題プリントとか一度も全部先生の手元に戻ってきたことがないって聞いたけど」
「…まあ食べてたわけじゃないんだがな」
自分では一度も聞いたことがないが…まさかそんな不名誉なあだ名がついていたとは。
「…というか、少し気になったんだが」
「ん?」
「なんか鞄の中身妙に綺麗だな」
「…ふぇっ?!」
ようやく火照りが消えかけていた水帆の顔が再び真っ赤に染まった。
「…そんなに恥ずかしいことか…?」
「……あ、え、ひ、他人の鞄の中を勝手に見るなんて…っ」
「…あー、まあ確かに…」
「…う、うんうん!そうだよ!」
水帆は恥ずかしさを隠すためなのかどうなのか、必死にこちらを非難している。
「…で、なんでそんなに中身綺麗なの?」
「ゔ…」
「……そんなに隠すことか?」
「……そ、それは、や、野暮な質問…だよ?」
水帆は赤らんだ頬を精一杯膨らませ不満を示す。
「あー…はいはい」
とてもとても気になったが、訊かないで欲しいと明言されてしまっては押すのも気が引けた。
とその時、ふと背後から突き刺すような視線を感じた。
「?!」
驚いて振り返ると、我が家の二階の窓から妹がじとーっとした目でこちらを見ていた。
水帆も後ろであ、と短く声をあげる。
「………行くか」
「そ、そうだね」
窓からジト目でこちらを見ている妹に気づかなかったかのように振る舞ってそそくさとその場を離れるが、窓からの死角に入るまで背中をちくちくと刺されていた。
「……妹ちゃんに見られちゃったね」
「…」
あんな妹だが、学業は飛び抜けていて、妹の自習範囲の方が俺の学校の授業範囲を追い越していたことに気づいたのはもう2年前だ。
とはいっても兄である自分への敬意の欠片もないので気に食わないのと…あと絶望的に運動ができない。
運動ができない、といえば水帆もあまりできなかったような…
「…今失礼なこと考えてたでしょ」
水帆から肩に軽いチョップを喰らう。
「…うーんそんなことないぞ??」
「うそつけー」
「本当だが?」
水帆がぱたぱたと小走りして俺の前に出たかと思うと、ぐるっとこちらに振り返って「とおせんぼ」の体勢をとった。
「……何してんの…?」
「ゆーちゃんが本当のこと言うまでここは通しません!!」
「…はぁ」
水帆は目をらんらんと光らせ、絶対に通すまいとしている。
いくら水帆が運動神経が悪いといっても、身体能力でゴリ押すわけにはいかない。
女子に手荒なことをしていい訳はないし、もし路肩を思いっきり走り抜けて、水帆の腕に当たって怪我でもさせたりしたら末代までの恥だ。
ならば。
「…後ろの人の邪魔になってるよ?」
「ふぇっ?!」
水帆は焦りながら腕をたたみ後ろを振り向く。
だがそこには誰もいない。
「え?」
その隙をついて背後から手を回す。
「ひゃあっ?!…ま、前見えないってば!」
「…この手を外してほしければ『失礼なこと』の内容を教えて欲しいな〜?」
「むーっ…」
水帆は小さく手をバタバタさせているが、意外にも抵抗する気はないらしい。
「…で、答えてくれるかな?」
「……内容まではわかんないよ」
「…答えてもらえるかな?」
「わかんな…」
「答えてもらえるかな?」
「…………運動神経が悪い…こと」
水帆は不満を声ににじませながら言った。
「…ふーん、自覚はあったんだ?」
「…は、はぁっ?!ないし!どうせそんなことだろうと思っただけだし!」
「はいはい」
「その勝ち誇ったような返事やめて?!」
水帆がバタバタしながら言う。
「っていうか早く手を………ん?」
「どうした?」
「……ゆーちゃん…今自分のやってることを俯瞰してみたら?」
「…?」
「…女子高校生に後ろから男子高校生が手を伸ばしてるんだよ?」
「!」
今になって気づいた。
流石に「手を伸ばしている」という表現は悪意があるが、それは置いといてもかなり危うい。
「つまりここであたしが……やっぱなんでもない」
「ん?」
どこか引っかかる物言いだったが、それはともかく手を引っ込める。
「………」
「じゃあ行くか」
こちらに向き直った水帆はなぜかもじもじとしている。
「……どうした?」
「…あ、ご、ごめん、行こっか」
二人並んでしばらく歩くと、大きな道に出る。
「…ね」
「ん?」
「……ゆーちゃんって将来の夢は決まってる?」
「夢…か」
高校になると、「将来なりたい人/やりたい仕事」などなど考えさせられる機会が格段に増える。
進路だとかなんだとか……面倒なことだ。
「……まだ決まってない」
「ピアノは?」
水帆が的確に痛いところを突いてくる。
「……まあ、おいおい決めるさ」
「そっか…でもちょっと早めに決めてね?」
「…え?なんで?」
「一緒のとこ行きたいじゃん」
「!?」
理性という理性が吹き飛びかけた。
なんという破壊力か。
「……あ、ああ」
思わぬ言葉にからかうことを忘れる。
「…そういうすいはどうなんだよ」
「あたし?」
水帆はふと顔を上げ、思案する。
「…うーん…」
浮かぶ雲を眺めるような遠い目には、希望があるようにも見えて。
「……あたしは……文学の研究をしたいんだよね」
「…文学?」
確かによく小説を読んでいるな、とは思っていたが…
文学を研究したいなど今まで聞いたこともなかった。
「そう、文学。ゆーちゃんは『君に捧げる幻』っていう小説知ってる?」
「…さぁ、聞いたことないかも」
「まあそうだよね、結構古い本だからね…。天月れゐっていう人が書いた…なんだろうね、叙情文?っていうのかな、まあそういう本なんだけど…」
「ほぉ」
叙情文、というのは『自分の感情を表した文』と言われることが多い。
つまり、ただの説明的な文と比べてより人間味のある感情表現や情景描写が魅力であるということだ。
「この小説を読んで文学の魅力に気づいたんだよね。」
「なるほどな、そういうのって大事だよな…。ちなみに内容は?」
「うーん…切ない初恋と憎悪に塗れた(まみれた)愛情のお話…かな?」
「…えぐい本読んでるな…」
『憎悪に塗れた(まみれた)愛情』なんていう言葉は生涯一度使うかどうか、というようなものだ。
まあその内容の善悪はさておき、水帆がそういう自らの思考や将来を左右する作品を持っていることを無意識に羨ましく思った。
「…ゆーちゃんはないの?」
「え?」
「そういう…心に残ってる作品」
心を読まれているかのような問いに一瞬思考が停止する。
正直に言えば………………………ない。
今までだって、きっとこれからだってないだろう。
作品の感情を把握してはいても、決してその感情自体を理解してこなかったからこそ、その作品に心を惹かれたことがない。
そんななのになぜピアノを続けているのか、と訊かれると耳が痛いが…………昔から続けているから、というのがもっともしっくりくる答えだろうか。
ピアノをやめたら、「自分」が「自分」でなくなっていくような気がした。
上っ面の「暁音結希」は残るかもしれないが、それは夏の虚蝉と同じだ。空っぽで、実態はなにもない。
何はともあれ、ここはいつも通り無難な曲でも出しておくとしようか。
「……革命……かな」
水帆は何も言わない。
ただこちらをじっと見つめている。
その瞳は全てを見透かしているかのように澄んでいた。
水帆が口を開く。
「…………うそ」
そのたった一言に、全ての気持ちがのっている気がした。
「…………そ、うだな…ごめん」
心の中はあっという間におりがらみのようになった。
今まで積もり積もった気持ちの澱が、あっという間に心の中に広がっていく。
「…………幼馴染のお前にでさえ……嘘をつくなんてな」
水帆は少し目を伏せ、しかしまたすぐに目を大きく見開き、言った。
「…私の前では……ありのままでいてね」
「…」
その言葉は、深々と心に刺さった。
その切実な願いが、自らの愚かな行いの成したものだと思うと、心底自分に嫌気がさした。
でも、こんな自分を認めてくれる人もいるのだ、自らの身はもはや自分のみのものではない。
大事な人の、その期待に応えなくては。
「……わかった」
「…ふふ」
水帆はその瞳をしばたきながら、満足そうに微笑んだ。
更新遅れてしまいました!申し訳ありません!
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ぜひご感想やご評価もお願いいたします!
それではまた次もよろしくお願いいたしますー。




