第115話 兄に似ている
Sクラスの特別演習が終わった午前。
石造りの渡り廊下を、オルフェはレオンと並んで歩いていた。
高い窓から差し込んだ光が、床に細長く伸びている。
傍目には、いつも通りのレオン・ヴァレントだった。無駄なく整えられた横顔も、抑揚のない気配も、何ひとつ変わらないように見える。
だが、オルフェは横目でその顔を眺めながら感じていた。
様子がおかしい。
正確には、目が違った。
感情に荒れているわけではない。むしろ逆だ。余計なものを削ぎ落としすぎた刃のように、妙に澄み切っている。その澄み方の底にだけ、濁った殺意が沈んでいた。
ちょうどその時だった。
渡り廊下の先で、中庭を見下ろしていたジークとノアの声が耳に入る。
「また一緒にいるじゃん、あいつら」
「エリックとレナだろ? あの二人、最近ほんとよく見るよな」
「つーかエリック、もう完全にEクラス側じゃね?」
「わかる。馴染みすぎだろ、元Sのくせに」
軽い調子の、何気ない雑談。
だが、その名が出た瞬間、レオンの足取りは変わらないまま、視線の焦点だけが鋭く定まった。
ほんのわずかな変化だった。
呼吸一つ分にも満たない、刹那の反応。だが、オルフェにはそれで十分だった。
誰かが、この男の境界線を踏み越えた。
レナに関わる何かが、レオンの中に辛うじて残っていた許容を壊したのだ。
見えない場所で、何かが決定的にずれた。そう確信できるだけの色が、今の視線にはあった。
オルフェは何気ない顔のまま、視線だけを中庭へ落とす。
陽の下では、レナとエリックが並んでいた。
噴水のきらめきのそば、穏やかな昼の光景の中で、二人だけが切り取られたように見える。
なるほど、とオルフェは胸の内で呟いた。
興味は疼いた。切り開いて、内側を観察して、どこで壊れたのかを確かめたくなるほどに面白い変化だった。
だが、まだ観察の段階だ。
あの目は、何度か見たことがある。
レオンの兄に似ている。
いや――似てきている、というべきか。
その連想が浮かんだ瞬間だけ、紫の瞳にかすかな愉悦が差した。
紫の瞳の奥で、何かがひそやかに灯る。
それは興味とも、もっと別の渇きともつかぬ熱だった。
***
──同じ頃。
午前の授業が終わり、エリックはレナと学院中庭に来ていた。
噴水の水は陽を受けてきらめき、木々の葉はやわらかな風に揺れている。生徒たちの笑い声も遠くに混じり、どこを見ても、いつも通りの穏やかな昼休みだった。
そのいつも通りの中に、一人だけ異物が混じっていた。
レオン・ヴァレント。
エリックは、胸の奥に刺さった小さな棘の正体を、ようやくはっきり掴み始めていた。
空気が違う。
表情も、声も、振る舞いも、表面だけなら普段と変わらない。むしろ余計に静かで、余計に整っているくらいだ。
だが、気配の置き方が、決定的に違っていた。
近づいた瞬間、こちらの心拍が勝手に速くなる。
元Sクラスの体に染みついた感覚が、はっきりと告げていた。
あれは、獲物を見ている呼吸だ。
「ねえ、レナ」
エリックは平静を装って声をかけた。
すぐ横で、レナが小さく瞬きをする。
「最近のレオンさ……ちょっと怖すぎない?」
「え……そうなのかな」
レナは戸惑ったように目を伏せる。否定しきれない声だった。
彼女自身も、あの薄ら寒い気配を感じ取っているのだろう。
「あの目、いつもの冷たさとは違う。……もっと、こっちを獲物と見てる感じだ」
「そんなこと……」
か細く揺れる声。
その反応だけで、エリックの中の焦燥は、疑いではなく確信に変わった。
「何かあったら、すぐ言えよ」
いつになく真剣な声だった。
レナは不安げに頷く。
その瞬間だった。
空気が、音もなく凍りついた。
二階の渡り廊下。
石柱の影に、二つの人影が並んでいる。
一人は、白銀の髪を揺らすオルフェ。
そして、その隣に立つレオン・ヴァレント。
オルフェはただ面白そうに眺めているだけだった。
だが、レオンの青い瞳だけは、まっすぐにレナとエリックを射抜いていた。
エリックの背筋に、冷たいものが走る。
やっぱり、やばい。
ほとんど警鐘に近かった。
***
サラがバイトをしているバーの店内では、静かな音楽が流れていた。グラスの触れ合う小さな音と、低く交わされる客の話し声。
カウンターの内側でグラスを拭きながら、サラは胸の奥に澱のように残ったざわつきを振り払えずにいた。
何だろう、この感じ。
ここ数日ずっと、落ち着かない。
何かが少しずつ、けれど確実にずれていく気がしていた。目に見えない歯車が、いつの間にか噛み合わなくなっているような、そんな嫌な予感。
その時、扉が開いた。
涼しい夜風が流れ込み、遅れて見慣れた男の姿が現れる。
「いらっしゃい」
先に声をかけたのはマスターだった。
レオンは軽く頭を下げると、何事もない顔でカウンター席に腰を下ろし、酒を注文する。
サラは無言でボトルを取り、グラスに酒を落としながら、ちらりと彼の横顔を盗み見た。
以前より鋭い。目が、どこかおかしい。
ふと、首元に視線が吸い寄せられる。
灯りの下で、赤い石がかすかに揺れた。
「……あれ? そのペンダント……赤魔石じゃない?」
レオンがゆるく首を傾けた。
「ああ、そうだけど」
「やっぱりー! 実物ってケースの中でしか見たことないんだよね。すっごく綺麗」
サラは思わず声を弾ませ、グラスを置く。
それから、ふと思い出したように首をかしげた。
「そういえばこの前、エリックと話してたけど……すごい価値だよね、その石」
レオンの指先が、グラスの縁をなぞる。
「……そうかもな」
「エリックは、ファウレスはもう途絶えてるって言ってたけど……もし生き残りがいたら、こわいよね。普通には生きられないだろうし」
無邪気な声だった。
深い意味も、悪意もない。ただ耳にした噂を、そのまま口にしている。
レオンは目を細めた。笑っているようにも見えたが、その眼差しだけが、底の見えない水みたいに冷たかった。
「そうかもしれないな」
「うん……だって、そんな力があったら、普通には生きられなさそうだもん」
サラがそう言ったところで、
「サラ、あちらの席に追加でって」
マスターの声が飛ぶ。
「はーい」
テーブル席へ向かう彼女の背を、レオンは静かに見つめていた。
何を考えているのかは分からない。けれど、その視線だけがやけに重く、サラの胸のざわつきをまたひとつ深くした。




