第116話 奇妙なお茶会 前編
リゼは部屋の窓辺で、ワイングラスをゆっくり傾けていた。
夜の街は静まり返り、遠くに学院の尖塔が突き刺さるようにそびえている。
(あの子……本当に、面白い)
清楚で、素直で、疑うことを知らない瞳。
生活力のない暮らし。見た目も冴えない。
取引材料にすらならない、どこにでもいる平凡な少女。
──そのはずなのに。
(あなたの表情を崩した、あのレオンの顔。あれは見逃せないわ)
怒り。焦り。否認。執着。
どれでもない、もっと根の深い、感情。
リゼはグラスを回す。
赤い液体が蠱惑的に揺れ、光を反射した。
「レオン。あなた、自覚してる? もう昔のあなたじゃないって」
あの男は、弱さを持たないはずだった。
持つ必要がなかった。
切り捨て、奪い、壊して、生き延びてきた。
なのに今は、違う。
(感情は鎖よ。力では断ち切れない種類の)
リゼの視線が机の上へ落ちる。
そこにはレナの資料が整然と並んでいた。
行動記録、出席状況、交友関係、生活状況。
一枚の写真が目に止まる。
学院の中庭で友人と笑い合う、ごく普通の少女。
リゼはその写真を爪先で軽く弾いた。
「価値のない子に価値を与えたのは、あなた自身よ。ねえレオン──弱点って、一番嫌ってたじゃない」
彼女の声は低く、甘く、毒のようだった。
ふと、レオンが身につけていた赤いネックレスを思い出す。
「……ところで。あの赤い魔石の、最近よく見かけるわね。
どこで拾ってきたのかしら」
リゼは笑みを深めた。
興味は少女から、もっと危険な領域へ滑り込んでいく。
(赤い魔石。あの血の色。……面白くなってきた)
***
昼休み、中庭の隅に置かれた丸テーブル。
落ち葉がかすかに揺れ、陽光が水面のようにきらきらと揺れている。
そこに、三人分の菓子と湯気の立つカップが並んでいた。
「……また視線だ」
最初に呟いたのはエリックだった。
菓子を摘まみながら、露骨にため息を落とす。
「視線?」
レナが首を傾げる。
「ほら、あそこ。木陰。……またオルフェが君を見てる」
サラもちらりと視線を送って目を丸くした。
「ほんとだ。なんであの人、ずっとレナのほう見てるの? あれ、ストーカーって言わない?」
レナは困ったように笑う。
「え、だって……何もされてないし」
「何か起きてからじゃ遅いんだよ!」
二人同時の鋭いツッコミが飛んだ。
レナは肩をすくめ、視線を膝に落とす。
「……でも、この前オルフェ助けてくれたんだよ」
「あいつが?」
エリックの顔が露骨に引きつった。
「人助け……? 観察じゃなくて……? そんな、天地がひっくり返る奇跡みたいなこと、ある?」
「あるんだよ。実際助けられたし」
レナが言うと、エリックは頭を抱えた。
「いやいやいや……信じられない。
あいつが利害以外で動くなんて……」
「ねえ、お礼したいし……ここに呼んでもいいかな?」
レナのその一言に、エリックの反応は瞬発的だった。
「えええええ!? あいつを!?
無理無理無理! 俺あいつ大嫌いなんだけど!!」
ほぼ椅子から跳ね上がる勢い。
サラは菓子の袋を閉じながら、慎重に言葉を選んだ。
「まあ……でも、校内で暴れるような人でもないでしょ。
変なことはしないと思うけど……」
「だって……」レナは少し言い淀む。
「あの人、すごく一人っぽかったし」
その言葉に、サラとエリックは一瞬だけ黙った。
たしかに──孤独、という語がこれほど似合う生徒はいない。
「……はあ。レナが言うなら、止めないよ」
エリックは諦めた顔で手を挙げた。
「でも俺は距離とるからな? 絶対とるからな?」
「それでいいよ。……じゃあ、呼んでくるね」
レナが立ち上がる。
その背を見送りながら、エリックは呟いた。
「……あいつ、絶対まともにお茶飲むタイプじゃないと思うんだけど」
サラは苦笑する。
「でも、レナが普通に接するっていうのは、逆に一番効くのかもね」
レナは中庭の影へ歩いていった。
足元に落ちる光が細かく揺れて、そこだけ空気がひんやりしている。
木の影には、やはり彼がいた。
白銀の髪。
風に溶けるような佇まい。
人を見ているのに人として扱っていない視線。
それでもレナは怖がらなかった。
ただ小さく息を吸って、歩み寄る。
「ねえ、お茶会してるんだけど……一緒にどう?」
オルフェは、ゆっくりと瞬きをした。
その表情は、反応というより“処理”に近い。
理解の回路を探しているような、微妙な沈黙。
「……お茶会?」
「うん。サラとエリックもいるよ。この前のことのお礼もしたかったし……よかったら、どうかな」
風が少しだけ吹き抜け、オルフェの銀髪が揺れた。
彼の目が、ほんのわずかだけ柔らかくなる。
けれど、それは気配でしか分からない程度の変化だった。
「……君は、変わってるね」
「変わってる?」
「君が俺を誘う理由は、恩義か礼儀か……それともただの善意か。いずれにせよ……普通じゃない」
その声はどこか嬉しそうにも聞こえる。
レナは戸惑いながら首を傾げた。
「来てくれない?」
「……いいだろう」
オルフェは立ち上がる。
動作は静かで、影が剥がれ落ちるように軽い。
そのままレナの横に並ぶ。
「ただし、期待はしないでくれ。お茶会という文化を理解しているわけじゃない」
「大丈夫だよ。座ってくれるだけで」
オルフェは視線を横に滑らせ、レナの横顔を観察するように見つめる。
「……君のその無警戒さは、いつか命取りになる」
言葉は冷たいのに、不思議と責める響きはなかった。
レナが苦笑した瞬間──
「レナ!」
中庭の向こうから、エリックの悲鳴に近い声が飛ぶ。
「嘘だろ……ほんとに連れてきた……」
「うわ、来るんだ……!」
サラも固まっている。
オルフェは一歩、日向に踏み出す。
銀髪に光が落ち、紫の瞳がふっと細められた。
「……さて。人との会話というのを、試してみるとしようか」
その声は、興味と実験精神と、微かな愉悦が混ざり合っていた。
レナは少しだけ緊張しながら、それでも笑顔を浮かべて言った。
「うん、行こう」
二人は並んで中庭のテーブルへ向かった。
その背中を見て、エリックは絶望のため息を吐いた。
「……今日、絶対に胃薬いるわ」




