血の理由
中国から『崑崙』の統括責任者である劉凱一少佐がやってきたのは、太陽の沈みきる少し前のことだった。
黄昏色に染まった滑走路に、久しぶりにライトが点っている。
この一年、シミュレーションでしか操縦桿を握れなかったパイロットたちは、その機体――大型給油機を、きっと食い入るような目で見つめているのだろう。
もし本当に航空燃料が運ばれてきたのなら、内陸部のシェルターにも完全抗体サンプルを届けられる可能性が生まれる。
そして劉の言葉通り、『カグヤ』にも大型タンカーが二隻送られたのであれば、その希望は加速度的に広まるだろう。
給油機が静止する。
そして、タラップから下りてきた中国人民解放軍の将校は、無骨なジェラルミンケースを携えていた。
滑走路脇に待機させていた四輪で彼を執務室まで招いた宇賀は、型どおりの挨拶を済ませるなり本題に入る。
「劉少佐。先ほど『バエル』から、今回の貴殿からの要請についての回答がありました。――『崑崙』へのフェンリル派遣、直ちに受けさせていただきます」
劉は、まだ二十代の若者にも見える、涼やかな風貌の持ち主だった。
人民解放軍の制服などより、凜と華やかな宮廷衣装の方がよほど似合いそうである。
虫も殺さぬような顔をしているが、彼はつい数時間前に己の上官の首を文字通り飛ばしているのだ。
『ラオデキア』が、即座にフェンリル派遣要請を受けるとは思っていなかったのだろうか。
束の間目を見開いた彼は、すぐに深々と頭を下げる。
「……ありがとう、ございます」
「感謝ならば、どうぞ『バエル』に。あの給油機の中身は、こちらの輸送機で使用させていただく。準備が整い次第『ワダツミ』で待機中のフェンリル及び彼の専属護衛チームを回収、そのまま『崑崙』へ向かいます。それで、よろしいでしょうか?」
劉は、はいとうなずいた。
『崑崙』は、中国で『西王母』に次ぐ規模と戦力を誇るシェルターだ。
おそらく、所属するハルファスも相当数いるだろう。
なのに彼は、ハルファスどころか一般兵の護衛すらつけていない。
宇賀の背後に控えていた三隅が不思議に思っていると、彼は膝に抱えていたジェラルミンケースを丁寧な手つきで持ち上げた。
「先日、我々がアメリカの『スミルナ』からロシア経由で入手した、ヴァルキューレの完全抗体サンプルと、その臨床データです」
予想通りとはいえ、実際にそれが目の前にあるといわれて、同席していた研究員たちが小さく息を呑む。
この日本において、ヴァルキューレの完全抗体を必要とする人々はごく少数だ。
だが、だからといって切り捨てるには重すぎるものでもある。
それは、人の命の数なのだから。
宇賀が静かな声で礼を述べる。
「貴重な贈り物を、ありがとうございます。こちらでも、フェンリルの完全抗体サンプル及び臨床データを用意いたしました。現在準備中の輸送機に、すでに搬入しております」
中国側にも、フェンリルの完全抗体を必要とする人々は数多い。
劉の指先がぴくりと震える。
それを見た宇賀は、軽く両手の指を組んだ。
「……もしや、貴官が感染しているウイルスは、フェンリルの完全抗体に合致する型でしたかな?」
劉が、己の無意識の反応を恥じたように目を伏せる。
「今は、そんなことは――」
「はっきり答えていただきたい。これから貴官が行動をともにするのは、決して失われてはならない『人類の希望』なのです。不安要素は、可能な限り排除するのが我々の義務でしょう」
たとえ阻害剤を投与していても、体内のウイルスはいつどんなきっかけで宿主の肉体を食い破るかわからない。
砂と変じるならまだしも、万が一輸送機の中で発症されては取り返しのつかないことになる。
宇賀の鋭い口調に、劉の若い顔が歪んだ。
苦しげに眉根を寄せ、首肯する。
「申し訳、ありません。自分……は」
その声が、不自然に途切れた。
震える指で額に触れながら、彼は唇を震わせる。
「上官を……人を、殺しました」
低く、掠れた声だった。
「後悔は、しておりません。ただ、忘れられないのです。自分は――彼らを、敬愛していた。なのに、駄目だと思いました。彼らには、もう……誰も救えない。このままでは、すべての人民がネフィリムどもに喰われてしまうと」
だから、殺した。
より多くの人々を救うために、自ら敬愛する人間を。
「自分は……自分の行動を、美談にはしたくない。自分は、上官殺しの罪人。大恩ある先達を殺し、貴重なヴァルキューレの完全抗体サンプルと物資を、己の一存で他国に売り渡した売国奴。そう、呼ばれるべき人間です」
己の罪を吐露した彼に、宇賀はなるほど、とうなずいた。
「犯した罪は、自分ひとりで負う。だから、護衛のひとりもつけずにここにいると? ……劉少佐。あなたは、まだお若い。かつての世界で、あなた方の世代が国の上層部から教え込まれた反日感情は、我々も存じています。その上でのあなたの選択は、さぞ苦渋のものだったろうと想像するに余りある。――ですが」
宇賀の声が、一段低くなる。
「ここまで来ておきながら、今更我々を失望させないでいただきたい。『バエル』の判断によるものとはいえ、我々はあなたの要請を受け、フェンリル派遣を決定した。あなた自身を貶めることは、我々への侮辱だ。『人類の希望』は、それほど安いものではない」
劉が目を見開く。
「あなたの抱える罪悪感など、我々の知ったことではないのですよ。今後二度と、そのような甘ったれた感傷は口にしないでいただきたい。あなたにはもう、祖国の英雄となる道しか許されていないのですから」
「……は?」
ますます目を丸くした劉に、宇賀は続ける。
「ラファエルタイプの発生から最も迅速に、かつ的確に動いたからこそ、あなたは今ここにいるのでしょう。理解しなさい。すでにあなたの肩には、中国人民すべての命が委ねられている。怖じ気づいて逃げ出すのも、罪悪感に潰され赤子のように泣きわめくのも、もはや許されないのです」
そう言って、宇賀は控えていた研究員のひとりに目を向けた。
彼の意を受けた研究員は、足下の保冷ケースを手に劉へ歩み寄る。
のろりと顔を上げた劉に、研究員はぎこちなくほほえんだ。
「あなたの勇気と行動に、心からの賞賛と敬意を。フェンリルの完全抗体を投与します。――腕を、出していただけますか?」
「自分……は……」
劉が言葉を詰まらせる。
そんな彼に、宇賀は告げた。
「きれいごとでは、誰も救えない。あなたの行動は、確かに美しいものではなかった。ですが――」
息子のような年の相手に、穏やかに。
「――あなたが祖国の人々を救おうとした心を、我々は否定する権利を持ちません。劉凱一少佐。……生きなさい。あなたは、祖国の英雄となるべき人間だ」
わずかな沈黙ののち、はいと答えた青年の声は情けなく揺らいでいたが、決して弱々しいものではなかった。
実際のところ、彼の強引すぎる行動に対する非難の声は、決して小さなものではなかったという。
『西王母』陥落に乗じてのクーデターだとわめいた者、こんなときに人間同士で争うなど何を考えていると詰る者、次に殺されるのは自分ではないかと疑心暗鬼に陥って怯える者、そして――人殺しという最大の禁忌を犯した劉に、まるでネフィリムと同じおぞましい化け物を見るかのような目を向ける者。
劉は、ぽつりと低く言った。
「自分は……彼らが自分を恐れてくれるなら、それでいいと思いました。恐怖ほど、人々の行動を統制するのに効果的なものはありませんから」
それは、ネフィリムの出現が人類をシェルターの奥に閉じこめたように。
彼は、上官たちの命を利用し尽くした。
彼らの首を晒し、死者の尊厳を踏みにじり、その存在を己の意思を貫き通すための道具にまで堕としたのだ。
もしかしたら、ほかに方法があったのかもしれない。
彼らの命を奪うことなく、ほんの少し時間はかかったかもしれないけれど、誰の血も涙も流さず希望に手を伸ばす道を見つけられたかもしれない。
……だが、その『ほんの少しの時間』が、許されなかった。
今この瞬間にも、中国本土はラファエルタイプの群れに蹂躙されているのだろう。
それを知っているのは、実際に群れに襲われている者たちだけ。
そして、知ったときにはすでに終わっているのだ。
何もかも、すべてが。
うなだれる劉に、宇賀は問うた。
「劉少佐。実際にあなたの上官たちの首を取ったのは、あなた直属のハルファスですか?」
くっと、劉が息を呑む。
彼は少しの間のあと、うなずいた。
「……はい。半ばパニック状態に陥っていた同胞たちは、すべて自分の仕業だと思いこんでくれたようですが」
そう言って、皮肉げに小さく笑う。
「ネイティブの自分にできるのは、彼らの心臓に銃弾を撃ちこむことくらいです。一刀で首を刎ねるなど、とてもできません。……彼には、ひどいことをさせてしまいました」
「その彼は、今どこに?」
宇賀の問いに、劉は淡々と応じる。
「彼――楊柊は、『崑崙』最高のハルファスです。しかし、あちらに残してきては、万が一彼の行動が周囲に知られた場合、抑圧された不満の発散対象にされかねません。給油機のパイロットとして、こちらに連れて参りました。『崑崙』への輸送機に、彼の席も用意していただけますか?」
「……なるほど、了解いたしました。日本ではハルファスたちに、航空機の操縦技術までは学ばせていないもので。我々の航空部隊から通訳の要請が上がっていないということは、彼も日本語をマスターしているのですね」
劉は、はじめて小さく笑みを浮かべた。
「いえ。『崑崙』でも、航空機の操縦技術と日本語をマスターしているのは楊柊だけです。一年前から、自分が命じて学ばせました」
こんな日がきたときのために、と。
そこでふと口をつぐんだ劉は、顔をうつむけた。
再び額に手を当て、すみませんと掠れた声でつぶやく。
宇賀は、ラファエルタイプ出現から今まで、おそらく一睡もせずに極限まで気を張り詰めていたのだろう相手をじっと見つめた。
――彼の行動は、間違ってはいないがかなり極端だ。
実際に話をしてみるまで、宇賀は彼をさぞ才気煥発で自信に満ちあふれた人間なのだろうと想像していた。
確かに、彼の知性の高さと冷徹な決断力、そして揺るぎない実行力は目を瞠るものがある。
周囲の反感を無理に抑えるのではなく、己に対する恐怖さえも利用し、すべてを貫き通した芯の強さは感嘆に値した。
しかし、今目の前にいる彼は自信に満ちているどころか、ひどく自省が強く、初対面の相手の前で迷いを隠すことさえできない、ごく普通の弱さを持つ人間だ。
そんな彼が、なぜここまでのことをやってのけたのか――
少しの間思案した宇賀は、ゆっくりと口を開いた。
「劉少佐。あなたが、楊柊くんを育てたのですね?」
劉の肩が、震える。
それからのろりと顔を上げた彼は、青ざめた顔でうなずいた。
「はい。あの子は……私の、息子です」
なるほど、と宇賀は苦笑する。
本土の同胞たちを救いたい、という思いはもちろん彼の中にあるのだろう。
だが、そんなある意味博愛精神めいた感情で、こんなすさまじいことができたはずもない。
人間が本気で行動できるのは、心から守りたい者のためになるときだけだ。
それが家族か恋人か、あるいは自分自身であるのかは人それぞれだろうが。
少なくとも宇賀は、顔も知らない『国民』のために己の命を懸けられる者など、胡散臭すぎて信用できない。
子どもじみた英雄願望に溺れた酔っ払いも、自己愛の強すぎる独裁者志願者も、同じテーブルを囲むにはアクが強すぎる。
その点、劉の行動原理はひどく単純でわかりやすい。
楊柊のみを伴って『ラオデキア』にやってきたのは、最悪の場合には、彼だけでもラファエルタイプの脅威から遠ざけたかったからなのか。
……なんとも、人間らしいことだ。
「そうですか。彼は今、おいくつですか?」
「……先日、十五歳になりました」
答えた劉の顔に苦悩がよぎったのは、幼い彼の手を人間の血で汚させてしまった後悔ゆえか。
「劉少佐。ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「はい。なんでしょう?」
宇賀は、先日受けたばかりの報告内容を思い出しながら口を開いた。
「ご存じの通り、現在フェンリルは『ワダツミ』にいます。彼の専属護衛チームは、この『ラオデキア』所属のハルファスの中でもトップエリートを選抜したものです」
元々、抜きん出た力と素質を持つ者ばかりだ。
その彼らが、『ワダツミ』への命がけの旅を乗り越えられたなら、どれほど成長してくれるだろうと期待していた。
だが――
「彼らの身体能力、反応速度、射撃精度、そして仲間との連携練度。それらすべてが、ありえないほどに上昇していました。思わず、報告書の記載ミスを疑ったほどです。しかし、彼らの使用した高機動車の整備と武器の補充を行った『ワダツミ』からの報告内容と照らし合わせた結果、報告書に記された数値が本物でなければ辻褄が合わないとわかりました」
――期待以上、などという生やさしいものではない。
彼らがそれほどまでに『成長』した要因として真っ先に考えられるのは、常にネフィリムの危険に晒され続けるという異常な状況。
だが、それだけでは説明がつかない。
ならば、考えられるのはただひとつ。
「フェンリルは今回の『ワダツミ』行きまで、専属サポーターの『ヴォルフ』以外とは、ほとんど接触がありませんでした。そのため、彼の存在がハルファスたちの戦闘行動にどういった影響を与えるのかを、我々は考えたこともなかったのです」
劉が、訝しげに眉根を寄せる。
「フェンリルがそばにいるだけで、ハルファスたちの能力が著しく上昇する、と?」
「その可能性は高いと考えております。……ただ私は、それが本当に望ましいことなのか、判断しかねている」
獣の遺伝子を受け継ぐハルファスたちは、ある意味人間たちよりも遙かに純粋だ。
そして獣たちが最もその力を発揮するのは、我が子を守ろうとするときである。
……一般人類の劉は、我が子も同然の楊柊のために敬愛する上官たちの命を奪った。
ならば――
「劉少佐。これからあなた方は、フェンリルと行動をともにする。そのとき、楊柊くんがどのような反応を示すのか、彼にどのような変化が起きたかを、すべて記録・報告していただきたい」
フェンリルは、決して失われてはならない人類の希望。
しかし、強すぎる力は常に諸刃の刃となり得る。
宇賀は、まっすぐに劉を見据えた。
「フェンリルは――拓己くんは、まだ九歳の子どもなのです。我々はすでに、あまりに重すぎるものを彼に背負わせている。断じてこれ以上、彼によけいな足枷を増やすわけにはいきません」
わずかに息を呑んだ劉に、告げる。
「あの子の力を望んだ以上、あなたも我々と同じ罪人です。あなたには、全力で彼を守る義務がある。それだけは、お忘れなきよう」




