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第4話

 


 国立士官学園、第一訓練場。


 広大な演習区域の中央に、二つの影が向かい合っていた。


 片方は、学園の操縦科で使用されている標準訓練機――《ラグナ・フレーム》。


 全高十八・四メートル。


 軽量な装甲と高い機動性を備え、操縦性にも優れた人型機動兵器だ。実戦用の機体と比較すれば出力や装甲に制限はあるものの、基礎訓練から高度な戦術演習まで幅広く対応できる、優秀な訓練機だった。


 そして、もう片方。


 正確には、機体ではない。


 《ラグナ・フレーム》の前に立っているのは、一人の少年だった。


 夜来つむぎ。


 腰には一本の刀。身にまとっているのは、いつもと変わらぬ黒い和服だけ。


 防弾装備もなければ、強化外骨格もない。


 鋼鉄の巨人と向かい合うには、あまりにも心許ない姿だった。


 いや――そもそも、人間が生身でELと戦おうとすること自体、常識から外れている。


「……先生、本当にそのままでやるんですか?」


 操縦席の中で、レオン・アシュフォードは困惑を隠せずにいた。


 機体の外部スピーカーを通して、その声が訓練場に響く。


「そう言っているだろう」


 つむぎは涼しい顔で答えた。


『せめて訓練用の防具くらい着けてください。こちらも本気を出しづらいんですけど』


「気遣いは不要だ。君は君の全力を尽くせばいい」


『ですが……』


「レオン君」


 穏やかな声が、彼の言葉を遮った。


「戦場で、敵がこちらの装備を気遣ってくれると思うか?」


 レオンは口をつぐんだ。


「私は君の教官だ。君が本気で戦うのなら、私も本気で応えよう」


『……分かりました』


 短い沈黙の後、レオンは操縦桿を握り直した。


 その声から迷いが消えたことを確認すると、つむぎは小さく頷いた。


 周囲の観覧席には、授業の噂を聞きつけた学生たちが集まっていた。操縦科の生徒はもちろん、他学科の学生や教官たちの姿もある。


 生身の人間がELと模擬戦を行う。


 しかも、相手は操縦科でも上位の実力を持つレオン・アシュフォードだ。


 誰だって、結末が気になるだろう。


 もっとも、集まった者たちの大半は、勝負の結果を見届けるというよりも、無謀な挑戦がどのような結末を迎えるのか確かめに来た、と言ったほうが正しかった。


「……本当にやるつもりなのね」


 観覧席の一角で、ミレイユ・ハーグが額を押さえた。


 彼女は学園長からの指示で、つむぎの監督役を務めている。


 だからこそ分かる。


 目の前の少年は、冗談でこんなことを言い出す人間ではない。


 そして、冗談で済ませられるような相手でもない。


「せめて安全装置をもう一度確認して。機体の出力制限も、絶対に解除しないでちょうだい」


 近くにいた安全管理担当者へ、念を押す。


「は、はい!」


 担当者は慌てて端末を操作し、訓練機の設定を再確認した。


 それでも、ミレイユの表情は晴れなかった。


「本当に大丈夫なの……?」


 その呟きに答える者はいなかった。


 やがて、訓練場に電子音が響き渡る。


『模擬戦開始まで、十秒』


 《ラグナ・フレーム》のセンサーが起動し、各部の駆動系が低い唸りを上げた。


 レオンは深く息を吸い、吐いた。


 相手は教官だ。


 しかも、先ほどの教室で自分の考えの甘さを指摘した人物でもある。


 言葉だけなら、いくらでも立派なことを言える。


 だが、実際に戦った経験がなければ、分からないこともあるはずだ。


 自分はELの操縦技術を磨いてきた。


 この機体の性能を引き出すことなら、誰にも負けない自信がある。


 ならば、証明すればいい。


 生身でELと戦うことが、どれほど無謀なのかを。


『三、二、一――』


『模擬戦、開始!』


 電子音が鳴り響いた。


 次の瞬間、《ラグナ・フレーム》が地面を蹴った。


 爆発的な加速。


 重量を感じさせない鋭い踏み込みによって、鋼鉄の巨人が一気につむぎとの距離を詰める。


 右腕には訓練用の大型ブレード。


 左腕には、衝撃を受け止めるためのシールド。


 レオンの操縦には無駄がなかった。


 踏み込みの際に生じる慣性を利用し、攻撃と同時に相手の退路を塞ぐ。ブレードの軌道は大きいが、その分だけ威力があり、回避方向まで計算された動きだった。


 操縦科の学生の中でも上位に入る実力者だという話は、どうやら本当らしい。


「速い……!」


 観覧席から、誰かが声を漏らした。


「先生、逃げろ!」


 別の学生が叫ぶ。


 だが、つむぎは動かなかった。


 頭上から、巨大な刃が振り下ろされる。


 その軌道は正確だった。


 避けるために横へ動けば、シールドが退路を塞ぐ。後退すれば、機体の機動力を活かした追撃が待っている。


 少なくとも、普通の人間なら逃げ場はない。


 ――直撃する。


 誰もがそう思った。


 しかし。


 刃が地面を叩く、その寸前。


 つむぎの姿が消えた。


「なっ!?」


 レオンの視界から、黒い和服の少年が消失する。


 違う。


 消えたのではない。


 速すぎて、捉えられなかったのだ。


 つむぎは振り下ろされる刃の側面に沿って踏み込み、機体の懐へと滑り込んでいた。


 そして――


 コン、と。


 刀を抜くことすらせず、その鞘で機体の足首を軽く叩いた。


 たった、それだけ。


 それだけのはずだった。


 だが、《ラグナ・フレーム》の重心が、ほんのわずかに崩れた。


「しまっ――!」


 レオンは即座に姿勢制御を行う。


 機体が傾きを立て直すと同時に、左腕のシールドを足元へ振り下ろした。


 小柄な少年を押し潰すための一撃。


 しかし、シールドが地面を打った時、そこにつむぎの姿はなかった。


 少年はすでに機体の背後へ回っていた。


「な、なんだ……!?」


 レオンは機体を旋回させる。


 センサーが周囲を走査し、モニターに機体の位置情報を表示する。


 その視界の端に、黒い和服が映った。


 つむぎは歩いていた。


 巨大な鋼鉄の兵器を前にして、まるで散歩でもしているかのような足取りだった。


「悪くない操縦だ」


 彼は、こちらの動きを見透かしたように言った。


「踏み込みの速度も、重心移動も十分に訓練されている。相手の退路を塞ぐ判断も悪くない」


『……それは、どうも!』


「だが、一つだけ問題がある」


『問題?』


「君は、相手が自分の攻撃を受けるか、避けるか。その二つしか考えていない」


 つむぎは、ゆっくりと《ラグナ・フレーム》を見上げた。


「敵が攻撃を避けた後、何をするか。そこまで考えているか?」


 レオンは歯を食いしばった。


「当然です!」


 ならば、見せてやる。


 今度はブレードを振るわない。


 シールドを前面に構え、機体の出力を調整しながら突進する。


 回避先を限定し、逃げたところを追撃する。相手がどちらへ動いても、こちらの次の行動へつなげられる。


 先ほどの失敗を踏まえた、合理的な選択だった。


 つむぎは、その判断を見て小さく頷いた。


「そう。今のは良い判断だ」


 そして――


 突進してくる機体に向かって、歩き出した。


「……は?」


 レオンが困惑した、その瞬間。


 つむぎの片手が、シールドの中央に添えられた。


 ――止まった。


 鋼鉄の巨人が、止まった。


 脚部の駆動音が唸り、足裏が地面を削る。機体を前進させようとする動力は、確かに働いていた。


 それなのに。


 《ラグナ・フレーム》は、一歩たりとも前へ進めなかった。


『……は?』


 レオンの口から、間の抜けた声が漏れた。


 目の前にいるのは、生身の人間だ。


 強化装甲も、補助機構もない。


 そんな人間が、機体のシールドに片手を添えているだけで、十数メートルを超える巨体の突進を止めている。


 理屈が通らない。


 理解が追いつかない。


 それでも、操縦席の計器は、機体が前進できていないという現実を示していた。


 つむぎは片手でシールドを押さえたまま、もう片方の手を伸ばした。


 指先が、機体の肩部に触れる。


「攻撃を避けることだけが、回避ではない」


 コン、と。


 肩部を軽く叩いた。


 その瞬間、《ラグナ・フレーム》の上半身が、ほんのわずかに傾いた。


 わずか数センチ。


 だが、巨大な人型機械にとって、その数センチは決して小さな差ではない。


 突進によって生じた慣性。


 脚部の接地位置。


 腰部の回転軸。


 肩部の可動域。


 それらが複雑に絡み合い、機体の姿勢制御に一瞬の遅れが生じる。


 少なくとも、レオンの目にはそう見えた。


 つむぎは、その一瞬を見逃さない。


 機体の足元へ滑り込むと、膝関節に刀の鞘を当てた。


 今度は、先ほどより少しだけ強く。


 ――ゴンッ!


 鈍い音が響き、《ラグナ・フレーム》が片膝をついた。


『なっ……!?』


 レオンは操縦桿を操作し、機体を立ち上がらせようとする。


 だが、立ち上がれない。


 故障ではない。


 警告表示も出ていない。


 関節が破損したわけでもなければ、駆動系に異常が発生したわけでもなかった。


 ただ、機体が立ち上がろうとする、その動きに合わせて。


 つむぎが、絶妙な位置から力を加えている。


 関節の可動域。


 機体の重心。


 駆動系の反応速度。


 それらを正確に把握し、最小限の力で最大限の結果を引き出している――ように見えた。


 しかし、それだけでは説明できない違和感があった。


 つむぎの動きには、機械を相手にしているという迷いがない。


 まるで、相手が人間であるか機械であるかなど、彼にとっては何の違いもないかのようだった。


「機械は便利だ」


 つむぎは言った。


「人間の身体では不可能な力を出せる。遠くの敵を攻撃できる。高所からの視界も得られる。防御力も高い。ELという技術そのものは、実に素晴らしいと思う」


 彼は、機体の装甲を軽く叩いた。


「だが、便利なものに頼ることと、便利なものに依存することは違う」


 観覧席から、声が消えていた。


 誰もが目の前の光景を見つめている。


「君が操縦しているのは、ただの鉄の塊ではない。君の判断を実現するための道具だ」


 つむぎは、操縦席のある胸部装甲を見上げた。


「ならば、道具の動きを理解し、その限界を知り、限界を超えた時にどうするかを考えなければならない」


 彼は一歩離れた。


「君は優秀だ、レオン君。だからこそ、機体の性能だけに頼る戦い方をしてほしくない」


 そして、右手を軽く振った。


「さて、どうする? まだ続けるか?」


 操縦席の中で、レオンは拳を握り締めた。


 悔しかった。


 悔しくて、仕方がなかった。


 自分は操縦科の上位者だ。


 幼い頃からELに憧れ、努力を重ね、数々の訓練を乗り越えてここまで来た。


 機体の操作には自信がある。


 状況判断にも、反応速度にも、誰にも負けないつもりだった。


 それなのに。


 目の前の少年は、ELに乗ったことすらないという。


 そんな人間に、自分の技術をことごとく見透かされている。


 しかも、相手はまだ本気を出していないように見えた。


 ――認められるものか。


 このまま終わってたまるか。


『……まだです!』


 レオンは叫んだ。


『俺は、まだ負けていない!』


 操縦桿を握り直し、機体の駆動出力を調整する。


 膝関節にかかる負荷を分散。シールドを地面へ突き立て、姿勢を支えるための支点を作る。


 そこから上半身を捻り、ブレードを逆手に持ち替えた。


 崩れた姿勢からの反撃。


 訓練で何度も練習した、緊急時の近接戦闘技術だった。


 通常の姿勢では出せない角度から、相手の予測を外して攻撃する。


 たとえ体勢を崩していても、戦闘を継続するための技術。


 その判断は、決して間違っていなかった。


 刃が、つむぎへ迫る。


 今度こそ。


 今度こそ当たる。


 レオンがそう確信した瞬間――


 つむぎの姿が、再び消えた。


 いや。


 今度は、レオンにも見えた。


 少年は刃の軌道に合わせて身を屈め、すれ違いざまに刀の鞘を機体の手首へ添えていた。


 そして、軽く押す。


 たった、それだけだった。


 ブレードの軌道がわずかに逸れる。


 刃はつむぎの身体を捉えることなく、空を切った。


 その勢いを殺しきれず、《ラグナ・フレーム》の腕が大きく振り抜かれる。


 つむぎは、その動きに合わせて跳び上がった。


 腕部の装甲へ足をかけ、流れるような動作で機体の肩へと移る。


「う、嘘だろ!?」


 観覧席から悲鳴が上がった。


「機体の上に乗ったぞ!」


「振り落とされる!」


 レオンは即座に機体を動かした。


 上半身を捻り、肩部を大きく振る。人間なら立っていられないほどの動きだ。


 それでも、つむぎは落ちなかった。


 彼は片足で装甲を踏み、機体の動きに逆らうのではなく、その勢いを利用して頭部へ移動する。


 そして、操縦席のすぐ上に立つと、指先で装甲を軽く叩いた。


「ここまでだ」


 その声が、外部スピーカーを通して訓練場に響いた。


「君の負けだ、レオン君」


『……っ!』


 レオンは操縦桿を握り締めたまま、言葉を失った。


 つむぎは頭部装甲の上から、静かに問いかける。


「なぜだか分かるか?」


『……分かりません』


 悔しさを押し殺した声だった。


「君は最後まで、私を倒すことだけを考えていた。だが、私は最初から君を倒そうとはしていない」


『……何?』


「君の機体を止め、攻撃を封じ、勝敗を決める。それだけで十分だった」


 つむぎは、頭部装甲から静かに飛び降りた。


 着地の音すら、ほとんどしなかった。


「戦場では、敵を倒すことだけが目的とは限らない。味方を逃がすために時間を稼ぐこともあれば、重要な地点を守るために敵の足を止めることもある。敵を生け捕りにする必要がある時もあるだろう」


 彼は刀を腰に戻した。


「何をすれば勝利なのか。それを見失った者は、どれほど強くても戦いに勝てない」


 静寂が降りた。


 誰も口を開かなかった。


 学生たちは、ただ目の前の少年を見つめていた。


 生身の人間が、ELを相手に一歩も退かず、機体を破壊することもなく、完全に動きを封じた。


 しかも、勝つために必要なことだけを行い、最後まで余裕を失わなかった。


 それは、彼らが知っている戦闘技術とは、どこか根本から違っていた。


 やがて、訓練場にアナウンスが響く。


『模擬戦終了。勝者、夜来つむぎ教官』


 その声を合図にしたかのように、観覧席が爆発したような歓声に包まれた。


「すげえええええっ!」


「何だ今の!?」


「生身でELを完封したぞ!」


「いや、あれ、本当に人間なのか!?」


 興奮した学生たちが口々に叫ぶ。


 教官たちも、驚きを隠せずにいた。


 その一方で、安全管理担当者は、訓練機の状態を確認するために端末を操作していた。機体に損傷はない。駆動系にも異常は見当たらない。


 それなのに、あの巨体が、たった一人の少年に止められた。


 何度記録を見直しても、信じがたい結果だった。


 つむぎは騒がしい学生たちを見上げ、少し困ったように笑った。


「……さて。これで授業を聞く気にはなったかな?」


 その問いに、学生たちは一斉に頷いた。


 ただ一人。


 操縦席から降りてきたレオンだけは、俯いたままだった。


 ◇ ◆ ◇


「……すみませんでした」


 訓練場の隅。


 レオンはつむぎの前で、深々と頭を下げていた。


 先ほどまでの興奮は、もうない。


 残っているのは、自分の未熟さを突きつけられた悔しさと、それ以上に大きな納得だった。


「最初から、先生のことを侮っていました」


「そうか」


「ELに乗ったことがないと聞いて、実戦のことを何も知らないんじゃないかって……」


 レオンは言葉を切り、拳を握った。


「俺は、ELの操縦技術さえ磨けば、どんな相手にも勝てると思っていました。でも……」


 言葉が続かない。


 先ほどの模擬戦が、何度も脳裏によみがえる。


 攻撃を読まれたこと。


 逃げ道を塞いだはずなのに、逆に動きを封じられたこと。


 そして、自分が勝つことだけにこだわるあまり、相手が何を目的としているのか、一度も考えなかったこと。


「俺は、何も見えていなかった」


 つむぎは、しばらく彼を見つめていた。


 やがて、ぽん、とレオンの肩を叩く。


「気づけたのなら、それでいい」


「……え?」


「君はまだ若い。学ぶ時間はいくらでもある。自分の未熟さを知った今からが、本当の始まりだ」


 レオンは顔を上げた。


 そこには、先ほどまでの反発心はなかった。


 代わりに、強い決意が宿っていた。


「先生。俺に、戦い方を教えてください」


「もちろんだ」


 つむぎは、穏やかに頷いた。


「ただし、一つ覚悟しておけ」


「はい!」


「明日から、基礎体力訓練をやり直す」


「……え?」


 レオンの表情が固まった。


「機体を失った状態で生き残るには、まず自分の身体を動かせなければならないからな。走る、跳ぶ、転ぶ、起き上がる。どれも戦いの基本だ」


「ま、待ってください! 俺、操縦科なんですけど!?」


「知っている」


「ELの訓練は!?」


「その後だ」


「そ、そんな……!」


 レオンの顔が、目に見えて青ざめた。


 その様子を見ていた赤髪の少女が、とうとう耐えきれずに笑い出す。


「あはははっ! レオン、頑張ってね! 明日から毎朝、校庭十周だって!」


「お前、他人事だと思って……!」


「他人事じゃないわよ?」


 少女はにっこりと笑った。


「だって、私たちも同じクラスだもの!」


「……は?」


 レオンの顔が、さらに青くなった。


 少女の笑顔は、少しも崩れない。


「先生、私たちにも基礎訓練をさせるんですよね?」


「当然だ。戦場では、操縦科も開発科も関係ない。必要な時に動けなければ、それまでだからな」


「だそうよ、レオン!」


「お前、絶対に楽しんでるだろ……!」


「うん!」


「即答するな!」


 訓練場に、笑い声が広がった。


 つむぎは満足そうに頷く。


「うむ。良い返事だ」


「返事してませんよ、先生!?」


 そんな抗議も、周囲の笑い声にかき消された。


 その光景を眺めながら、つむぎはふと空を見上げた。


 青い空。


 見知らぬ世界。


 知らない技術。


 知らない人々。


 彼がこれまで生きてきた世界とは、何もかもが違う。


 それでも。


 こうして誰かに何かを教えるというのは、案外悪くないのかもしれない。


 少なくとも、神々を相手に殺し合いを続けていた頃よりは、ずっと穏やかだった。


「……しばらくは、ここに世話になるとしよう」


 つむぎは、誰にも聞こえない声で呟いた。


 しかし、その時。


 彼は気づいていなかった。


 訓練場の二階。


 教官用の観察室から、誰かが彼の姿をじっと見つめていたことに。


 白衣をまとった女性。


 肩口まで流れる長い銀髪。


 眼鏡の奥に光る、研究者特有の鋭い眼差し。


 彼女は手元の端末に映し出された映像を、何度も巻き戻していた。


 つむぎがELのシールドを受け止めた瞬間。


 機体の肩部に触れ、動きを封じた瞬間。


 そして、最後に頭部装甲へ飛び乗った瞬間。


 彼女は映像を止め、画面を拡大した。


「……あり得ない」


 小さな呟きが、静かな観察室に落ちる。


 彼女の名は、セレスティア・ヴァレン。


 国立士官学園の機体開発科主任教官にして、ELの駆動制御を専門とする研究者だった。


 セレスティアは、映像と計測データを交互に見比べた。


「出力計測値に異常はない。機体側の故障もない。制御信号にも異常は見られない……なのに、あの少年は」


 彼女の指が、画面上の数値をなぞる。


 つむぎが機体の肩部に触れた直後。


 駆動系の応答に、説明のつかない変化が生じていた。


 機体は確かに動こうとしていた。


 動力は供給され、駆動系も正常に作動している。


 それなのに、一瞬だけ。


 まるで、機体そのものが動くことを拒んだかのように、運動が途切れていた。


 物理的な負荷による停止ではない。


 制御信号の異常でもない。


 既存の理論では説明がつかなかった。


「……彼は、何をしたの?」


 セレスティアは画面を見つめたまま呟いた。


 そして、もう一つの事実に気づく。


 つむぎは、機体を破壊していない。


 装甲に大きな傷をつけたわけでも、関節を破損させたわけでもない。


 むしろ、破壊を避けながら、最小限の干渉で機体の動きを封じていた。


 まるで、ELの構造を知り尽くしているかのように。


 だが、彼はELに乗ったことすらないという。


 ならば、あの動きは何なのか。


 卓越した身体能力か。


 機械の構造を見抜く観察眼か。


 それとも、まだ知られていない何らかの技術なのか。


 セレスティアの頭の中で、いくつもの仮説が生まれては消えていく。


「……会ってみる必要があるわね」


 彼女は端末を閉じた。


 その瞳には、研究者としての好奇心が燃えていた。


 目の前に現れたのは、既存の理論では説明できない現象。


 しかも、その中心にいるのは、ELの操縦経験すらないという少年だ。


 調べずにいられるはずがなかった。


 ただし――


 彼女は、まだ知らない。


 夜来つむぎという少年が、機械の仕組みを理解しているからELを止められるのではないということを。


 彼が干渉していたのは、機体の構造でも、駆動系でも、制御信号でもない。


 もっと根本的なもの。


 その存在が、動くことを可能にしている働きそのものだった。


 生き物であれ、機械であれ。


 動き、働き、存在し続けるものには、それぞれの在り方がある。


 そして、夜来つむぎの持つ【死生冠】は、その境界に干渉する。


 彼にとって、ELを止めることは、機械の仕組みを解き明かすこととは違う。


 ただ、その働きを止めればいい。


 それだけの話だった。


 ◇ ◆ ◇


 その日の夜。


 学園の寮に用意された教官用の部屋で、つむぎは一人、湯呑みを手にしていた。


 畳敷きではない。


 木造でもない。


 壁も床も見慣れない材質でできており、照明は天井に埋め込まれている。


 窓の外には、光り輝く都市が広がっていた。


 高層建築の間を、無数の光が流れていく。


 道路を走る車両。


 空中を移動する輸送機。


 遠くの建物に映し出された巨大な広告。


 どれもこれも、つむぎにとっては珍しいものばかりだった。


「……便利な世界だな」


 湯呑みを傾けながら、彼は感心したように呟いた。


 食事は機械が運んできた。


 水は蛇口をひねれば出る。


 室温は自動で調整され、照明も端末から操作できる。


 しかも、部屋に備え付けられた端末を使えば、世界中の情報を閲覧できるらしい。


 元の世界に持ち帰れば、夜来家の使用人たちが大騒ぎするに違いない。


 いや、下手をすれば、当主である自分よりも端末のほうが珍重される可能性すらある。


 そんなことを考えていると、端末が短く音を立てた。


 画面には、新着メッセージが表示されている。


 差出人は学園長だった。


『夜来教官。本日はご苦労だった。明日の授業についてだが、操縦科だけでなく、機体開発科の学生たちにも講義を行ってほしい。可能であれば、ELの構造について君の意見を聞きたいそうだ』


 つむぎは首を傾げた。


「構造について、か」


 正直に言えば、詳しいことは分からない。


 この世界に来て、まだ一日しか経っていないのだ。


 ELの技術体系はもちろん、機体の設計思想についても、十分な知識があるとは言えなかった。


 だが、今日の訓練で見た限り、機体の設計には改善の余地があるように思えた。


 人型である以上、人間の身体構造を参考にしているのだろう。


 しかし、それにしては不自然な部分も多い。


 関節の可動域。


 重量配分。


 姿勢制御の仕組み。


 いずれも、つむぎの目には、もっと効率的にできそうな箇所があった。


 もっとも、それはこの世界の技術的な制約によるものかもしれない。


 材料の強度や動力源の問題があるのなら、単純に設計だけを変えれば済む話ではないだろう。


「まあ、見てみるだけなら構わんか」


 つむぎは端末を操作し、返信を打ち込んだ。


『承知した。可能な範囲で協力しよう』


 送信。


 短い通知音が鳴り、メッセージの送信が完了した。


 つむぎは端末を置き、湯呑みを両手で包み込んだ。


 静寂が訪れる。


 ふと、思考が遠い場所へ向かった。


 元の世界。


 夜来家の本邸。


 自分がいなくなったことで、家の者たちはどうしているだろうか。


 当主が突然姿を消したのだ。


 大騒ぎになっているに違いない。


 捜索隊を出しているかもしれないし、神々の仕業を疑っている可能性もある。


 何しろ、夜来家は神を殺すために生まれた一族だ。


 当主の失踪ともなれば、単なる事故として片づけられるはずもない。


 だが、今の彼には、戻る方法が分からなかった。


 この世界に来た理由も、元の世界とのつながりも、何一つ判明していない。


 それに――


「……急ぐ必要もない、か」


 つむぎは湯呑みの中の茶を見つめた。


 神々との戦いに明け暮れていた頃、彼には休む暇などなかった。


 敵を倒し、家を守り、脅威を排除する。


 当主として、それは当然の責務だった。


 夜来家に生まれた以上、避けられない戦いもある。


 自分の命を惜しむつもりはなかった。


 けれど、戦い続けることが当たり前になった日々の中で、何もせずに過ごす時間が、いつの間にか遠いものになっていたのも事実だった。


 一方、この世界には、今のところ彼を殺そうとする神も、夜来家を滅ぼそうとする敵もいない。


 いるのは、鋼鉄の巨人に夢を託す若者たち。


 そして、その未来を支えようとする教師たちだ。


 彼らには、彼らなりの戦いがある。


 ELを操り、誰かを守るために戦う者。


 ELを開発し、より多くの命を救おうとする者。


 それぞれの立場で、自分にできることを探している。


 ならば。


 この世界にいる間くらい、少しは彼らの力になってもいいだろう。


「教師、か……」


 自分が教師になるなど、少し前まで考えたこともなかった。


 人に何かを教える経験がないわけではない。


 夜来家の者たちを鍛えたこともあるし、戦い方を伝えたこともある。


 しかし、あの時は命を懸けた実戦が前提だった。


 ここにいる学生たちは違う。


 彼らは、これから戦場に出るための準備をしている段階だ。


 失敗から学べる時間がある。


 間違いを正す機会もある。


 ならば、その機会を無駄にさせないことも、教官としての役割なのかもしれない。


 つむぎは窓の外へ視線を向けた。


 その時だった。


 胸の奥で、何かが微かに疼いた。


「……?」


 湯呑みを置く。


 それは、【死生冠】が何かに反応した時の感覚に似ていた。


 何かが、遠くにある。


 生物ではない。


 だが、完全な無機物とも違う。


 死んでいるはずなのに、どこか生きている。


 そんな、矛盾した気配だった。


 つむぎは目を細めた。


 視線の先。


 学園の敷地のさらに奥。


 一般の学生は立ち入ることができない研究施設がある。


 昼間、学園長から簡単な施設案内を受けた際にも、その場所については詳しい説明がなかった。


 研究設備の保全上、立ち入りが制限されている――その程度の話だったはずだ。


 だが、今。


 その地下から、微かな違和感が漂っていた。


「……面白い」


 つむぎは、静かに笑った。


 感じ取れるのは、遠くにある何かの存在だけだ。


 正体までは分からない。


 それでも、確かに何かがある。


 生と死。


 活動と停止。


 存在と不在。


 それらの境界に触れてきた彼だからこそ、感じ取れる異質さだった。


「どうやら、この世界にも、少しばかり厄介なものがあるらしい」


 彼は湯呑みを置き、ゆっくりと立ち上がった。


 教師としての初日は、まだ終わりそうになかった。





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