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第2話

 


 それから三時間後。


 夜来つむぎは、人生で初めて『尋問』というものを受けていた。


 防音材が隙間なく敷き詰められた、殺風景な一室。


 壁も床も無機質な灰色で統一され、窓らしきものは一つもない。天井には埋め込み式の照明が整然と並び、部屋の中央に置かれた金属製のテーブルだけが、白々しい光を反射していた。


 その卓上を照らすLED照明の真下で、一人の女性が幾度目かの深いため息を漏らす。


「……氏名は?」


「夜来つむぎ」


「年齢」


「十九だ」


「所属組織は?」


「夜来家」


「……その『夜来家』というのは、具体的に東部連合のどの行政区、あるいはどの企業体・秘密結社に所属しているの?」


「一族だな。血の繋がりだ」


「国籍は?」


「ない」


「…………ない?」


「私の知る限り、この世界には存在しないだろうな」


 女性は沈黙した。


 手元のホログラム端末に表示されていた記録欄へ、何かを書き込もうとしていた指が止まっている。


 やがて彼女は、頭痛をこらえるように眉間を押さえた。


「……夜来君」


「うん?」


「あなた、自分が何を言っているのか理解している?」


「質問に答えただけだが」


「そう……。そうよね。あなたにとっては、それが普通なのよね……」


 女性は自分に言い聞かせるように呟いた。


 彼女の名はミレイユ・ハーグ。


 東部連合治安局に所属する二十代後半の調査官であり、数々の難事件を解決してきた優秀な人材だった。


 相手の些細な表情の変化を見逃さず、矛盾した証言から真実を拾い上げ、どれほど厄介な容疑者であろうと冷静に対処する。


 それが、彼女の仕事である。


 少なくとも、昨日まではそうだった。


 だが、今、彼女の目の前にいる少年は、その経験則を根底から覆していた。


 ミレイユは、数時間前に現場から送られてきた記録映像を思い返す。


 生身の人間が、全高二十メートルを超える人型機動兵器――EL(エクス・ロギア)三機を単独で無力化した。


 その事実だけでも、軍事医学や戦術理論の常識を揺るがす異常事態である。


 しかし、本当に理解しがたいのは、その過程だった。


 少年は銃撃を受けなかった。


 正確には、銃撃そのものを成立させなかった。


 振り下ろされた大剣を避け、機体の関節に軽く触れただけで、その巨体を崩壊させた。


 さらに、複数のミサイルによる攻撃を受けたにもかかわらず、爆炎の中から無傷で現れた。


 最後の一機に至っては、機体を構成する装甲や内部構造に目立った損傷がないまま、完全に機能を停止している。


 現在、軍の技術班が回収されたELの解析を進めているが、報告書に記された内容は、どれも似たようなものだった。


 動力系統に致命的な異常は確認できない。


 主要回路に焼損はない。


 制御プログラムの改竄も認められない。


 にもかかわらず、機体は再起動しない。


 まるで、機械としての機能そのものが失われてしまったかのように。


 そして、その原因については――現時点で、完全に不明。


 ミレイユは端末を伏せ、目の前の少年を改めて観察した。


 艶やかな黒髪を後ろで束ね、漆黒の和服を身に纏った細身の少年。


 腰には無銘の刀が差されている。


 その瞳には、拘束されている者特有の焦燥も恐怖も見当たらない。


 そもそも、彼は拘束されているという自覚があるのだろうか。


 椅子に腰掛ける姿勢は自然体そのもので、背筋には余計な力が入っていない。両手はテーブルの上に置かれ、表情には穏やかな余裕すら浮かんでいた。


 まるで、警察施設の尋問室ではなく、旅先の茶屋で世間話でもしているかのようだった。


「……夜来君。あなたは本当に、ELに乗ったことがないの?」


「ないな」


「特殊なシミュレーターや、神経接続型の操縦訓練を受けた経験は?」


「だから、ないと言っている」


「では、あの三機をどうやって無力化したの?」


「別に。普通に戦っただけだが」


「…………普通に」


 ミレイユは、そっと両目を閉じた。


 駄目だ。


 この少年とは、言葉の根本的な定義からして乖離している。


 普通に戦った結果、巨大兵器三機を無傷に近い状態で機能停止させる人間など、少なくとも彼女の知る世界には存在しない。


 いや、存在してはならない。


「……あなた、自分がどれだけ理外のことをしでかしたか、理解しているかしら?」


「理外?」


「そうよ」


 ミレイユは、今度こそ説明することにした。


 このままでは話が一向に進まない。


「ELは、現代の戦場における絶対的な支配者なの。全高二十メートルを超える鋼鉄の巨体。小火器を弾く重装甲。戦車や装甲車を凌駕する機動性。そして、一都市を壊滅させかねない火力を備えている」


 彼女の指先が動く。


 テーブルの中央にホログラムが浮かび上がり、軍用ELの全身像が投影された。


「もちろん、万能というわけではないわ。運用コストも高いし、地形によっては大型兵器ならではの制約もある。それでも、適切に運用された軍用ELは、現代の陸上戦力において極めて大きな脅威となる」


「ふむ」


「そんな兵器を相手に、生身の人間が正面から戦いを挑めばどうなると思う?」


「相手の技量次第だな」


「…………」


「それと、状況にもよる」


 ミレイユは、額に手を当てた。


 間違ってはいない。


 間違ってはいないのだが、そういう話をしているのではない。


「一般的な人間なら、踏み潰されるか、銃撃を受けて戦闘不能になるわ。あなたは、その常識を三機分まとめて覆したのよ」


「そうか」


「そうか、じゃないでしょう……」


「しかし、相手が機械である以上、動作の仕組みを理解すれば対処のしようはあるだろう?」


「生身で?」


「生身で」


 ミレイユは、再び沈黙した。


 彼女の中で、これまで培ってきた常識が音を立てて崩れていく。


 この少年は、自分がどれほど異常なことを成し遂げたのか、本当に理解していないのだ。


 あるいは、理解したうえで、わざわざ説明するほどの価値もないと思っているのか。


 どちらにしても、厄介な相手であることに変わりはなかった。


 そんな彼女の苦悩をよそに、つむぎはふと何かを思い出したように顔を上げた。


「ところで」


「……今度は何かしら?」


「先ほどから気になっていたのだが」


 つむぎは、ホログラムに映る巨大兵器を指差した。


「今、何と言った?」


「……何が?」


「える。あの鋼鉄の巨人のことだ」


「ああ。ELのことね」


 ミレイユは説明を始めようとして、ふと気づいた。


 この少年は、どうやらELという呼称そのものを知らないらしい。


「エクス・ロギア。私たちの世界では、あのような人型機動兵器を総称して、そう呼んでいるの」


「エクス・ロギア……」


 つむぎは、その音を口の中で転がすように繰り返した。


 初めて耳にする言葉だった。


「なるほど。こちらでは、あれをそう呼ぶのか」


「……ええ」


「興味深いな」


 彼はホログラムへ視線を戻した。


 ミレイユは、その様子を見て小さく息を吐いた。


 ようやく話が進みそうだ。


 そう思ったのも束の間。


「ところで、あの機械について、もう少し詳しく教えてもらえるか?」


「え?」


「構造や、動力源、運用方法などだ。見たところ、単なる装甲車両とは比較にならない技術が使われているようだからな」


 ミレイユは、数秒ほど考えた。


 情報を与えてよいものか。


 相手の正体は不明。所属も不明。目的も不明。


 それどころか、既存の兵器体系では測定すらできない戦闘能力を持っている。


 本来ならば、機密情報を開示するなど論外だ。


 しかし、つむぎが求めているのは、一般公開されている基礎情報の範囲にすぎない。


 それに、彼の興味は軍事機密を探るというより、純粋に未知の技術を知りたいという好奇心に見えた。


 少なくとも、今のところは。


「……いいわ。公開情報の範囲で説明するわね」


 ミレイユは端末を操作した。


 空中に、複数のELの映像が展開される。


「ELが現在の形に発展したのは、数十年前の第一次世界大戦期にまで遡るわ。当初は、人間の作業能力を拡張するための人型駆動鎧として研究されていた。それが戦争の激化と技術革新によって軍事転用され、今では軍事、治安維持、都市開発、災害救助など、さまざまな分野で運用されているの」


「人間の肉体を拡張するための鎧、か」


「ええ。特に軍用ELは、操縦者の技量と機体の性能、その両方が重要になるわ。どれほど高性能な機体でも、操縦者が性能を引き出せなければ意味がない。逆に、優れた操縦者であっても、機体の限界を超えることはできない」


「なるほど」


 つむぎは興味深そうに頷いた。


 空中には、多種多様な機体が並んでいた。


 大型機関砲を構えた重装型。


 超振動刃と高機動ブースターを搭載した近接特化型。


 遠距離射撃に特化した狙撃型。


 そして、滑らかな曲線を描く装甲を備えた最新鋭機体。


 いずれも、純粋な物理法則と機械工学の結晶といえるものだった。


 少なくとも、つむぎが元いた世界には、これほど精巧な機械は存在しなかった。


 神秘や異能によって奇跡を再現するのではなく、人間の知恵と技術によって、巨大な力を生み出そうとしている。


 それは彼にとって、非常に興味深い試みだった。


「面白いな」


「……面白い?」


「ああ」


 つむぎは、穏やかに笑った。


「人間が己の小さき肉体を拡張し、神のごとき力を得るために、これほどの理を組み上げたのだろう?」


 彼の指先が、ある軍用ELの映像を示す。


「この多軸関節の構造は実に見事だ。人型という制約を抱えながら、ここまで可動域を確保している。設計者は相当に苦労したのだろうな」


「……ええ、まあ」


「だが、重心の置き方が決定的に悪い」


「え?」


 つむぎは、機体の脚部を指差した。


「ここだ。上半身の重量に対して、下半身の支持構造が不釣り合いだな。これでは不整地で高速旋回した際、膝のフレームへ過剰な捻りが加わる。補助制御が追いつかなければ、自重で足元を取られるだろう」


 ミレイユは目を瞬かせた。


「ちょ、ちょっと待って。今、何を……?」


「こちらの機体は、腕部のアクチュエータ出力に偏りすぎている」


 つむぎは、彼女の言葉を待たずに次の機体を指した。


「力任せの打撃には強いかもしれんが、背面の慣性制御が追いついていない。腕を振り切った後、上半身の姿勢を立て直すまでに隙が生じるはずだ」


「…………」


「近接戦闘を想定しているのなら、攻撃後の姿勢制御まで含めて設計するべきだな。これでは、相手に攻撃を避けられた場合、反撃を受ける危険が大きい」


 つむぎは、さらに別の機体へ視線を移した。


「それと、こちらは胸部装甲の傾斜角度と視界用センサーの配置が噛み合っていない。防御性能を優先した結果、視界に大きな死角が生じているようだ。頭上からの奇襲や、至近距離での側面攻撃に対応しづらいだろう」


 ミレイユは息を呑んだまま、絶句した。


 表示されているのは、一般公開されているミリタリーカタログの諸元データにすぎない。


 詳細な設計図でも、機密扱いの整備資料でもない。


 にもかかわらず、つむぎは機体の外観や公開された仕様を数秒眺めただけで、構造上の弱点を次々と指摘していた。


 しかも、その指摘は単なる素人の思いつきではない。


 機械工学の専門家が聞けば、少なくとも検証する価値があると判断するほど、具体的で理にかなったものだった。


 なぜ、そんなことがわかるのか。


 ELの設計者でもない。


 整備士でもない。


 ましてや、操縦経験すらないと本人は断言している。


 それなのに、機体の構造を見ただけで、実際の戦闘における挙動や弱点を見抜いている。


「あなた……実は他国のEL設計者なの?」


「違う」


「じゃあ、極秘部隊のベテラン整備士?」


「違うな」


「軍に所属するエースパイロット……?」


「それも違う」


「……本当に、何者なのよ?」


 つむぎは心底不思議そうに首を傾げた。


「先ほどから答えているだろう。神殺しの一族――夜来家の当主だ」


 ミレイユは、静かに天井を見上げた。


 どうやら今夜は、一秒たりとも眠れそうになかった。


 ◇ ◆ ◇


 翌朝。


 澄み切った秋空の下、東部連合国立士官学園の巨大な正門前に、一台の黒塗りの公用車が滑り込んだ。


 ここは、東部連合が誇る最高峰の教育機関。


 ELの操縦者、機体開発者、整備士、戦術士官、管制要員に至るまで、巨大兵器に関わるあらゆる分野のエリートを養成する国家直属の学園である。


 敷地面積は広大で、一般的な大学の規模を大きく上回る。


 校舎だけでなく、実機訓練用の演習場、模擬戦闘施設、機体整備用の巨大格納庫、研究棟などが整然と配置されていた。


 学園というよりも、一つの独立した軍事都市と呼ぶほうが適切かもしれない。


「……ここが、学校という場所か」


 後部座席から降り立ったつむぎは、眩しそうに目を細め、眼前に広がる施設を見上げた。


 重厚な防壁。


 幾何学的なデザインの高層校舎群。


 敷地の奥から響いてくる、ELの駆動音。


 遠くには、実機訓練用と思われる大型の演習場が見える。


 そこでは、数十メートルの鋼鉄の巨人が動くたびに、地面を震わせるような重低音が響いていた。


 軍事要塞と最高学府を融合させたような場所である。


「ええ。東部連合国立士官学園よ」


 隣に立つミレイユが説明した。


 その顔には、隠しきれない疲労が滲んでいる。


 昨夜、彼女はつむぎの尋問記録をまとめ、軍の技術班や治安局の上層部と何度も連絡を取り合った。


 結果として、睡眠時間は大幅に削られた。


 それでも、こうして本人を学園まで案内する役目を引き受けているのは、彼の身柄に関わる一連の案件を担当しているからだった。


「操縦科、開発科、整備科、戦術科、管制科……学科は多岐にわたるわ。ここに通う学生たちの多くは、卒業後に連合軍の将校や、大手兵器メーカーの技術者として配属されるの」


「なるほど。つまり、あの鉄の巨人を扱う者たちを鍛え上げる道場のようなものか」


「……まあ、大体合っているわね」


「しかし、なぜ私がこのような場所に?」


 ミレイユの表情が、わずかに引きつった。


「昨日の事件を受けて、あなたの身柄の扱いについて、昨夜遅くまで上層部で議論が交わされたの」


「ほう」


「あなたを危険人物として拘束し続けるべきだという意見もあったわ。一方で、あなたを敵に回した場合の危険性を考慮すべきだという意見もあった」


「賢明な判断だな」


「……だから、そういう意味で言ったわけじゃないのだけれど」


 ミレイユは咳払いを一つ挟んだ。


「結局、あなたのような規格外の存在を、十分な根拠もないまま拘束し続けるのは危険であり、現実的ではないという結論に達したわ」


「それで、ここか」


「ええ」


 彼女は一拍置いて続けた。


「あなたの身体能力と戦闘技術は、軍事的な観点から見ても計り知れない価値がある。けれど、出自も能力の詳細もわからない人物を、いきなり正規軍へ編入させるわけにはいかない」


「当然だな」


「そこで、士官学園の『特別教員』として身元を保証しつつ、一定の監督下に置くことになったのよ」


「教師、か」


 つむぎは、少しだけ考え込んだ。


 この世界の理を知るには、悪くない環境だろう。


 ELという巨大人型兵器について学ぶこともできる。


 学生や教職員と交流すれば、この世界の文化や歴史についても情報を得られるはずだ。


 何より、今の彼には元の世界へ帰るための手掛かりがない。


 異界への扉を探すにしても、まずはこの世界の常識を理解する必要がある。


 ならば、ここでしばらく過ごすのも悪くない。


「構わんよ」


「……本当に?」


 ミレイユは、思わず聞き返した。


「拒否権を行使する可能性も考えて、説得するための言葉をいくつか用意していたのだけれど」


「世話になる以上、相応の対価として働くのは人の道だろう」


 あまりにもあっけらかんとした返答だった。


 ミレイユは拍子抜けしたように目を丸くした。


「あなた……教師という仕事がどういうものか、本当にわかっているの?」


「幼き者に、生き方や物事の扱い方を教えるのだろう?」


「ここにいるのは、十代後半から二十代前半の候補生たちよ。中には、すでに実戦を経験している学生もいるわ。あなたが想像しているような、穏やかな学び舎とは少し違うと思うけれど」


「ならば、なおさら問題ないな」


 つむぎは、穏やかに微笑んだ。


「戦いを知る者にこそ、教えるべきことがある」


 その言葉に、ミレイユは一瞬だけ黙り込んだ。


 静かな口調だった。


 威圧するような響きも、力を誇示するような仕草もない。


 それなのに、その一言には不思議な重みがあった。


 まるで、戦場というものを、誰よりも深く知っているかのような。


 実際、つむぎは知っている。


 命を懸けて刃を交えた者だけが理解できること。


 勝つことと、生き残ることの違い。


 力を持つことと、その力を正しく扱うことの違い。


 そして、どれほど強くなろうと、戦いに絶対など存在しないという事実。


 彼が歩んできた道は、平穏な日常とは程遠いものだった。


 神々と人間の理が交錯する戦場。


 常識も理屈も通用しない存在との死闘。


 一瞬の判断の遅れが、取り返しのつかない結果を招く世界。


 そこで生き延びてきたつむぎにとって、戦いを教えるという行為は、単に相手を打ち負かす技術を伝えることではなかった。


 むしろ、その逆である。


 ミレイユは、彼の横顔を見つめた。


 この少年が何を考えているのか、未だに底が見えない。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 彼は、自分の力を誇示しようとしていない。


 神殺しの一族という異様な出自も、機械を停止させる不可解な異能も、本人にとっては特別なものではないらしい。


 まるで、呼吸をするのと同じくらい当たり前のこととして扱っている。


 その無自覚な超然さこそが、何よりも恐ろしかった。


 重厚なメインゲートが開く。


 敷地内を行き交う制服姿の学生たちが、和服を風になびかせて歩く異質な少年へ、一斉に視線を向けた。


「……なに、あの格好」


「特別講師か?」


「いや、どう見ても同年代か、年下だろ」


「おい、腰に刀を差してるぞ……。本物か?」


「撮影か何かじゃないのか?」


 ざわめきが、波紋のように広がっていく。


 つむぎは、そんな視線など気にも留めず、石畳の敷地を踏みしめて歩みを進めた。


 彼にとって、他人からどう見られるかは、それほど重要なことではなかった。


 それよりも。


(さて。まずは、この学園の様子を見せてもらうとするか)


 新しい世界。


 新しい技術。


 新しい人間たち。


 そこに何が待っているのか。


 ほんの少しだけ、楽しみでもあった。


 ――その時だった。


 ◇ ◆ ◇


 ゴオオンッ!!


 訓練場の方向から、大気を激しく震わせる金属音が響き渡った。


 学生たちが一斉に振り返る。


 続いて、警報音。


 そして、複数の教官の怒号が重なった。


『訓練を中止しろ! 全機、直ちに動作を停止!』


『第一屋外訓練場で姿勢制御異常! 安全区域を確保しろ!』


 敷地奥の第一屋外訓練場。


 そこでは、二体の訓練用ELによる模擬戦闘が行われていた。


 そのうちの一体が、突然、異常な挙動を見せたのである。


 片脚が不自然に沈み込み、上半身が大きく傾いた。


 操縦者は即座に姿勢制御を試みたが、機体は指示に応じない。


 警告表示が次々と点灯し、操縦席のモニターが赤く染まる。


『警告! 姿勢制御システム不全!』


『メインブースター、緊急停止!』


『脚部駆動系の応答遅延を確認! 姿勢制御を再実行します!』


「くそっ、止まれ! 止まってくれ!」


 操縦者が操縦桿を握り締める。


 しかし、機体は止まらなかった。


 自重数十トンの鋼鉄の巨体が、前方へと傾いでいく。


 その先には、見学のためにフェンス際へ集まっていた一年生たちがいた。


「……え?」


 最初に異変に気づいた学生が、呆然と声を漏らした。


 頭上を覆う巨大な影。


 迫り来る鋼鉄の巨腕。


 数十トンの質量が、制御を失って倒れ込んでくる。


 逃げなければ。


 頭ではわかっていた。


 だが、あまりにも突然の出来事に、身体が動かなかった。


「きゃああああっ!」


「逃げろ! 潰されるぞ!」


「早く、こっちだ!」


 学生たちが一斉にパニックへ陥った。


 足がもつれ、互いにぶつかり合い、逃げ道を失う者もいる。


 教官たちが叫びながら駆け出した。


 だが、距離がありすぎた。


 間に合わない。


 誰もが、その事実を理解していた。


 巨大な鋼鉄の巨腕が、悲鳴を上げる学生たちの頭上へと迫る。


 ――その瞬間。


「危ないぞ」


 場違いなほど澄んだ声が響いた。


 学生たちは、反射的に声のした方向を振り向いた。


 そこにいたのは、黒い和服を纏った少年だった。


 夜来つむぎ。


 彼は、歩いていた。


 走ってはいない。


 慌ててもいない。


 まるで、自邸の庭園を散策するかのような、ごく自然な足取りだった。


「ちょ、ちょっと! あなた、何を――!」


 ミレイユが声を上げた。


 しかし、その言葉が最後まで続くことはなかった。


 つむぎは、すでに倒れ込んでくるELの直下へと踏み込んでいた。


 頭上から迫る巨大な鋼鉄の腕。


 その質量は、数トンを優に超えている。


 直撃すれば、人間の身体などひとたまりもない。


 だが、つむぎは逃げなかった。


 ただ、右手を静かに差し伸べた。


 そして。


 ドズゥゥゥンッ!!


 凄まじい衝撃が、訓練場を揺るがした。


 強化コンクリートの地面に亀裂が走り、砂埃が一気に巻き上がる。


 衝撃波が周囲へ広がり、近くにいた学生たちの制服を激しくはためかせた。


 誰もが、最悪の惨劇を覚悟して目を背けた。


 だが。


 いつまで経っても、二度目の衝撃は訪れなかった。


 悲鳴もない。


 肉体が潰れるような音もない。


 代わりに、訓練場を満たしたのは、奇妙な静寂だった。


「…………?」


 恐る恐る目を開いた学生の一人が、息を呑んだ。


 砂煙の向こう側。


 鋼鉄の巨腕は、地面すれすれの位置で静止していた。


 その下に立っているのは、一人の少年。


 漆黒の和服。


 腰に差した一本の刀。


 そして、頭上の巨大な鋼鉄を、右手一つで支える細い腕。


「……は?」


 誰かが、間の抜けた声を漏らした。


 見間違いではない。


 映像の錯覚でもない。


 目の前の少年は、数十トンに及ぶ巨大兵器の倒壊を、ただ片手で受け止めていた。


 機体の駆動音が、低く唸る。


 操縦席のパイロットは、何が起きているのか理解できず、呆然とモニターを見つめていた。


『……な、何だ……?』


 機体の重量は変わっていない。


 重力も変わっていない。


 地面に沈み込んだ脚部も、倒れ込む勢いを失っていない。


 それなのに、止まっている。


 人間一人の手によって。


 つむぎは頭上の巨腕を見上げ、少しだけ眉をひそめた。


「ふむ」


 まるで、壊れた道具を調べる職人のような顔だった。


「こちらは操縦者の技量の問題ではないな。脚部の駆動系に異常が生じたのか……」


 彼は、機体の関節部分へ視線を向けた。


「姿勢制御の応答が遅れている。補助制御も十分に機能していないようだ。日常の整備不良か、それとも根幹的な設計上の問題か……」


 その声は、周囲の人々にも聞こえていた。


 だが、誰も彼の言葉を理解できなかった。


 それどころではなかったからだ。


 人間が巨大兵器を片手で受け止めている。


 その事実だけで、彼らの思考は完全に停止していた。


 つむぎは、わずかに息を吐いた。


「まあ、今は原因究明よりも、こちらが先か」


 差し伸べた右手に、ほんのわずかに力を込める。


 ぐい、と。


 それだけだった。


 ガガガギギギッ……!


 巨大な鋼鉄の巨体が、ゆっくりと押し戻されていく。


 倒れ込んでいた上半身が持ち上がり、傾いていた脚部が地面を踏み直す。


 機体の駆動系が悲鳴を上げるような音を立てたものの、つむぎは構わず、機体が自立できる位置まで支え続けた。


 やがて、ELは完全に姿勢を立て直した。


 つむぎは機体から手を離す。


 鋼鉄の巨人は、今度こそ自らの脚で立っていた。


「よし」


 つむぎは満足そうに頷くと、何事もなかったかのように手に付いた埃を払った。


 それから、足元で腰を抜かしている学生たちへ視線を向ける。


「怪我はないか?」


 穏やかな声だった。


 気遣うような、優しい声音。


 つい先ほど、巨大兵器の倒壊を片手で止めた人物のものとは思えないほど、自然な問いかけだった。


 だが、返答はない。


 学生たちは、ただ目を見開いていた。


 ある者は口を半開きにしたまま固まり、ある者は震える指でつむぎを指差している。


 やがて、一人の学生が、ようやく声を絞り出した。


「……に、人間……?」


「うん?」


「いや、だって……今……」


「何か問題でも?」


「問題しかないだろ!!」


 別の学生が、思わず叫んだ。


 その声をきっかけに、凍りついていた周囲の空気が一気に動き出す。


「今の見たか!?」


「見たも何も、目の前で起きただろうが!」


「ELを……片手で……!?」


「馬鹿な! あれ、何トンあると思ってるんだ!?」


「強化装備もなしだぞ!? 生身だぞ!?」


 驚愕と混乱が、訓練場全体へ広がっていく。


 教官たちも、すぐには動けなかった。


 彼らはELの運用や機体構造について専門的な知識を持っている。


 だからこそ、目の前の光景がどれほど異常なものなのか、誰よりも理解していた。


 人間の筋力で支えられる重量には限界がある。


 仮に規格外の筋力があったとしても、地面からの反力や身体そのものの耐久性という問題が残る。


 そもそも、倒れ込んでくる巨大な機体を受け止めるには、単純な腕力だけでは説明がつかない。


 しかし、つむぎは受け止めた。


 衝撃を殺し、機体を支え、さらには押し戻した。


 その一連の動作に、目立った力みすらなかった。


 まるで、少し重い荷物を持ち上げただけのように。


 ミレイユは、顔を覆いたくなる衝動を必死にこらえた。


(……どうして、到着早々にこうなるのよ)


 昨日はEL三機を無力化した。


 今日は学園に到着して数分で、訓練用ELの倒壊を片手で止めた。


 しかも、本人は人助けをした程度の認識しかないらしい。


 これでは、学園側に与える印象が強烈すぎる。


 監視対象として穏便に受け入れてもらう、という当初の計画が、到着早々に崩れかけていた。


 つむぎは、彼女の内心など知る由もなく、再びELを見上げた。


「しかし、よくできた機械だ」


「…………」


「これほどの巨体を、二本の脚で支えて歩かせるとはな。設計者の苦労が偲ばれる」


 ミレイユは、ついに天を仰いだ。


 彼にとって、今の出来事はELという技術に対する感心の延長線上にあるらしい。


 人間が巨大兵器を片手で支えたという異常事態も、本人の中では機械の構造を観察する機会にすぎないのだ。


 ――この少年は、本当に何者なのだろう。


 彼女は改めて、そう思わずにはいられなかった。


 ◇ ◆ ◇


 騒然とする訓練場の奥から、一人の男が静かに歩み寄ってきた。


 白髪交じりの短髪。


 年齢を感じさせる皺の刻まれた顔。


 鋭い眼光と、軍人を思わせる威厳に満ちた佇まい。


 その胸元では、学園長の証である金色の徽章が鈍く光っていた。


 彼は周囲の教官たちへ短く指示を飛ばし、負傷者の有無と機体の安全確認を命じる。


 それから、つむぎの前へと進み出た。


「君が……例の少年か」


 つむぎは、相手の顔を見た。


「夜来つむぎだ。今日から世話になる」


 そう言って、礼儀正しく一礼する。


 その所作には、武家の出身者を思わせる洗練された美しさがあった。


 先ほどまで巨大兵器を片手で支えていた人物とは思えないほど、穏やかで自然な振る舞いだった。


 学園長は数秒の間、鋭い眼光でつむぎの顔を凝視した。


 そして、背後に立つミレイユへ視線を向ける。


「ハーグ調査官。報告にあった人物で間違いないな?」


「はい。昨夜のEL三機無力化事件の当事者です」


「そうか」


 学園長は、改めてつむぎへ向き直った。


「私は、この学園の長を務めている者だ。君の事情については、ハーグ調査官からある程度聞いている」


「そうか。世話になる」


「こちらこそ、よろしく頼む」


 学園長は一度頷いた。


 その視線は、つむぎの腰に差された刀へと向けられた。


「君の担当についても、すでに話は通っている。戦術と、生身での戦闘術理を教えてもらう予定だと聞いているが」


「ああ。そのように聞いている」


「……生身での戦闘術理、か」


 学園長は、わずかに目を細めた。


 そして、つむぎの背後に立つ巨大なELへ視線を向ける。


 つい先ほどまで、学生たちを押し潰しかねない勢いで倒れ込んでいた機体。


 それを受け止め、元の姿勢へ戻した少年。


 彼が何者であるか。


 どのような技術を身につけているのか。


 まだ、わからないことばかりだった。


 だが、一つだけ確かなことがある。


 少なくとも、一般的な戦術理論だけでは説明できない存在だということだ。


「君に、ひとつ頼みたいことがある」


「何なりと」


「来週、操縦科の最上位クラスである『S特待クラス』が、合同実技演習を行う予定になっている」


「ほう」


「その特別戦術指導を、君に全面的に委ねたい」


 ミレイユが、思わず顔を上げた。


「学園長。それは……」


「わかっている」


 学園長は彼女を制した。


「彼がELの操縦技術を持たないことは承知している。機体の設計や整備についても、専門教育を受けたわけではないのだろう」


「ならば、なぜ私に?」


 つむぎが首を傾げる。


「私が教えられるのは、戦い方の根本だ。あの鉄の巨人の操縦技術については、ただの素人にすぎん」


「問題ない」


 学園長は、一切の躊躇なく答えた。


「ELの操縦技術なら、すでに優れた教官が何人もいる。機体の整備や設計についても、専門家を揃えている」


 彼は、静かに言葉を続けた。


「だが、君が先ほど見せたものは、そのどれとも違う」


 周囲のざわめきが、わずかに遠のいた。


「この学園の学生たちは、ELこそが戦場における力の象徴であると教えられている。高性能な機体を操り、より優れた戦術を組み立て、相手を圧倒する。それ自体は間違いではない」


 学園長の視線が、つむぎを捉える。


「しかし、力とは本当にそれだけなのか。兵器の性能を引き出すことだけが、戦いのすべてなのか」


 つむぎは黙って耳を傾けていた。


「君は、生身でELの倒壊を止めた。昨日は三機の軍用ELを単独で無力化した。私たちの常識からすれば、到底説明できないことだ」


 学園長は、ゆっくりと息を吐いた。


「だからこそ、君に教えてほしい。彼らがまだ知らない戦いの本質を」


 その眼差しに、冗談の色はなかった。


 単なる興味本位でもない。


 学園長は、目の前の少年が持つ何かを、本気で学園に必要なものだと判断しているのだ。


 つむぎは少しだけ考え込んだ。


 S特待クラス。


 おそらく、この学園でも特に優秀な学生たちが集められたクラスなのだろう。


 そのような者たちに戦いを教える。


 確かに、興味はある。


 だが。


「一つ、確認しておきたい」


「何だ?」


「私は、彼らに勝ち方を教えるべきなのか。それとも、生き残り方を教えるべきなのか」


 学園長の表情が、わずかに変わった。


 つむぎは、穏やかな口調のまま続ける。


「勝つことと、生き残ることは、必ずしも同じではない。戦場では、勝利した者が必ずしも無事に帰れるとは限らんからな」


 その言葉は、静かだった。


 しかし、訓練場の空気が、わずかに張り詰めたように感じられた。


 つむぎの瞳には、先ほどまでの軽い好奇心とは異なるものが浮かんでいた。


 それは、長い戦いを経験した者だけが持つ、静かな重みだった。


 学園長は、しばらく彼を見つめていた。


 やがて、深く頷く。


「……両方だ」


「なるほど」


「勝利を目指すことは重要だ。だが、生きて帰ることができなければ、その勝利にどれほどの価値がある?」


 学園長は、言葉を区切った。


「君の考えを、彼らに伝えてほしい」


 つむぎは、ほんのわずかに口元を緩めた。


「承知した。私にできる範囲で、力を尽くそう」


「感謝する」


 学園長は、改めて一礼した。


 その背後では、ようやく正気を取り戻した学生たちが、混乱と戦慄の声を上げ始めていた。


「嘘だろ……あり得ない……」


「生身で……ELの倒壊を止めた……?」


「何なんだよ、あの人……」


「本当に人間なのか……?」


 ざわざわと響く声。


 そのほとんどは、驚愕と恐怖が入り混じったものだった。


 つむぎは、その様子を見て困ったように苦笑した。


「……期待されるのは構わんが、過度な幻想は禁物だぞ。私はただの人間だ」


 その言葉を聞いたミレイユは、ついに片手で顔を覆った。


「……あなたがそれを言うの?」


「何かおかしいか?」


「おかしいところしかないわよ……」


 つむぎは、本当に不思議そうな顔をした。


 彼にとって、自分が人間であることに疑いはなかった。


 どれほど強大な力を持とうと、どれほど異常な現象を引き起こそうと、彼は人として生まれ、人として生きてきた。


 神を殺す力があるからといって、神になったわけではない。


 理を踏み越えることができるからといって、世界そのものになったわけでもない。


 ただ、人間として、己の道を歩いてきただけだ。


 その認識が、周囲の人間と決定的に異なっていることを、つむぎはまだ十分に理解していなかった。


 ◇ ◆ ◇


 その日の午後。


 訓練場で発生した事故については、速やかに調査が開始された。


 幸い、学生たちに大きな怪我はなかった。


 訓練用ELも、脚部の駆動系に不具合が確認されたものの、致命的な損傷には至っていない。


 事故の原因については、整備記録の再確認と機体の詳細な検査が必要とされ、正式な報告は後日に持ち越された。


 一方で、つむぎが巨大な機体を受け止めた映像は、学園内で瞬く間に広がっていた。


 訓練場の監視カメラ。


 学生が撮影した携帯端末の映像。


 教官たちが記録していた実技演習のデータ。


 それらが複数の経路から共有され、短時間のうちに学園中の話題を独占することになったのである。


 もっとも、映像を見た者の反応は一様ではなかった。


「合成映像だろ、これ」


「学園の監視カメラまで合成できるわけないだろ」


「じゃあ、強化外骨格か何かを着ていたんじゃないのか?」


「どこにそんな装備があるんだよ。和服しか着てないだろ」


「じゃあ、何なんだよ……」


 議論は尽きなかった。


 だが、どれほど意見を交わしても、映像の中の少年が何者なのかという疑問に答えられる者はいなかった。


 そして、本人はというと。


「なるほど。ここが教員用の部屋か」


 案内された職員室で、のんびりと周囲を見回していた。


 机。


 椅子。


 壁面に設置された情報端末。


 空中投影式の資料閲覧装置。


 いずれも、つむぎにとっては興味深いものばかりだった。


「この小さな板で、遠くの人間と会話ができるのか」


「ええ。通信端末よ」


「便利なものだな」


「……あなたの世界にはなかったの?」


「少なくとも、私が普段使っていたものとは仕組みが違うな」


 つむぎは端末を手に取ると、表面を興味深そうに眺めた。


 ミレイユは、その横で疲れた顔をしていた。


「それ、あまり勝手に操作しないでね。学園の内部ネットワークに繋がっているから」


「わかった」


 つむぎは素直に端末を戻した。


 その様子だけを見れば、好奇心旺盛な普通の青年にしか見えない。


 しかし、彼がどれほどの力を秘めているのかを知っているミレイユとしては、どうにも落ち着かなかった。


「……夜来君」


「何だ?」


「これから学園で生活する以上、一つだけ約束してほしいことがあるの」


「約束?」


「できる限り、能力の使用は控えてほしいわ。もちろん、人命に関わる場合は別よ。ただ、あなたの能力は未知の部分が多すぎる。学園内で何か問題が起きれば、周囲が過剰に反応する可能性がある」


「ふむ」


 つむぎは少しだけ考えた。


「つまり、必要のない場面で力を振るうな、ということか」


「そういうこと」


「承知した。私も、無用な騒ぎは好まん」


 ミレイユは、ほっと胸を撫で下ろした。


 少なくとも、本人にその意思があるのなら、多少は安心できる。


 そう思った直後。


「ただし」


 つむぎが、穏やかな声で付け加えた。


「目の前で誰かが命を落としかねない状況になれば、話は別だ。見捨てるつもりはない」


 ミレイユは、返事に詰まった。


 それは当然のことだ。


 人命に関わる状況で能力を使うななど、彼女も言うつもりはなかった。


 だが、問題はそこではない。


 彼は、自分の力を使うことに、ほとんどためらいがない。


 必要だと判断すれば、躊躇なく動く。


 そして、その判断基準は、彼自身の倫理観に基づいている。


 それが必ずしも悪いことだとは思わない。


 しかし、組織の規則や既存の制度とは、衝突する可能性があった。


「……わかったわ。ただ、できれば事前に教えてくれると助かるのだけれど」


「努力しよう」


 つむぎは微笑んだ。


 ミレイユは、その言葉を信じるべきかどうか、しばらく悩んだ。


 結局、彼女は深く息を吐き出した。


「……本当に、先が思いやられるわね」


「そうか? 私は、なかなか面白い世界だと思っているが」


「あなたにとっては、そうでしょうね……」


 窓の外では、学生たちが訓練場へ向かって歩いていた。


 その先には、巨大なELが並ぶ格納庫がある。


 鋼鉄の巨人を操り、技術を磨き、戦術を学び、未来の軍を担う者たちが集う場所。


 この世界では、それが力の象徴だった。


 だが、彼らはまだ知らない。


 自分たちが信じてきた常識の外側に、どれほど広大な世界が存在しているのかを。


 そして、その世界の一端を知る人物が、明日から自分たちの教壇に立つことを。


 夜来つむぎ。


 十九歳。


 神殺しの一族、夜来家現当主。


 彼の波乱に満ちた教師生活は、まだ始まったばかりだった。


 そして来週。


 S特待クラスの学生たちは、彼から最初の授業を受けることになる。


 それは、ELの操縦技術でも、最新の戦術理論でもない。


 自分たちが当たり前だと信じていたものを、一度疑うこと。


 力とは何か。


 技術とは何か。


 そして、戦場で本当に頼るべきものは何なのか。


 その答えを知るための、最初の一歩だった。

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