第1話
空が、裂けた。
少なくとも、夜来つむぎの眼にはそう映った。
「…………」
見上げた天穹には、雲一つない澄み切った青が広がっていた。
どこまでも高く、どこまでも遠い。午後の日差しを受けた空は穏やかに輝き、吹き抜ける風は木々の葉を優しく揺らしている。
――つい先ほどまで、彼はそこにいた。
夜来家本邸の裏庭。
苔むした石灯籠が静かに佇み、白砂には職人の手によって美しい波紋が描かれている。縁側には淹れたばかりの茶が置かれ、湯呑みから立ち上る白い湯気が、午後の光の中にゆっくりと溶けていた。
いつもと変わらない、静謐な午後。
それが、ほんの一瞬で消え失せた。
瞬きを一つ。
ただそれだけの間に、周囲の景色は完全に様変わりしていたのである。
代わりに視界を埋め尽くしていたのは、見たこともない巨大な都市だった。
空を突き刺すように聳え立つ、結晶めいた外壁を持つ高層建築群。
その足元を、馬車も牽引獣も伴わずに滑走していく金属製の乗り物。
頭上を風切り音とともに横切る、翼を持たぬ飛行機械。
そして、都市の中央にそびえ立つ巨大な人型の影。
全高二十メートルを優に超えるであろう、鋼鉄の巨人。
その無機質な装甲は陽光を鈍く反射し、背部や脚部には用途の知れぬ機械構造が幾重にも組み込まれていた。
人の形をしている。
しかし、人ではない。
あれは、何らかの目的をもって造られた兵器だ。
「……ほう」
つむぎの唇から、感心したような声が漏れた。
驚いていないわけではない。
目の前に広がる光景は、彼の知る世界の常識から大きく逸脱していた。空を飛ぶ機械も、鋼鉄の巨人も、少なくとも彼の生きてきた世界には存在しない。
だが、つむぎは十九年という短い人生の中で、常人ならば一生を費やしても遭遇することのない『常識外れ』を幾度となく目にしてきた。
人知を超えた怪異。
理を踏み越えた異能。
人の形を借りながら、人の理解から遠く隔たった存在。
そして――神。
夜来家。
歴史の陰にひっそりと名を刻みながら、神を殺すためだけに生まれ落ちた一族。
人の身で神域を侵し、人の身で神々を屠り、あまりにも理外の存在であるがゆえに、かの神々からさえ忌避され、恐れられた者たち。
その凄絶な歴史の頂点に君臨する現当主こそ、ほかならぬ夜来つむぎであった。
漆黒の和服に身を包み、腰には一振りの無銘刀。
艶やかな黒髪は後ろで緩く束ねられ、端正な顔立ちには十九歳という年齢相応の若さが残っている。
華奢ともいえる体躯に、どこか気の抜けた佇まい。
事情を知らぬ者が見れば、武術とは無縁の、少々育ちのよい青年とでも思うだろう。
だが、その認識はあまりにも浅い。
夜来つむぎという人間を語るうえで、外見ほど当てにならないものはなかった。
「異界転移、か。……いや」
つむぎは目を細め、周囲の気配を探った。
肌を撫でる空気の質が違う。
足元から伝わる大地の脈動が違う。
世界を構成する根本的な法則――その流れすら、彼の知るものとは異なっていた。
ただ、知らない場所に移動させられたというだけではない。
もっと根本的な違いがある。
まるで、世界そのものを構成する設計図が別物であるかのような違和感。
「理の根底からして異なる、か。これはまた……面倒なことになったな」
そう呟きながらも、つむぎの表情にはさほどの危機感も浮かんでいなかった。
帰る方法を探す必要はあるだろう。
この世界について知る必要もある。
だが、焦る理由はない。
世界が変わろうと、そこにある理が異なろうと、夜来つむぎ自身が変わったわけではないのだから。
まずは情報収集。
人がいる以上、言葉は通じるかもしれない。通じなければ、そこから考えればよい。
宿を探し、土地の事情を聞き、元の世界に戻る手掛かりを探す。
ひとまず、その程度から始めれば十分だ。
――と。
つむぎがそう結論づけた、その直後だった。
轟ッ!!
鼓膜を叩く爆音が、都市の静けさを無残に打ち砕いた。
続いて、地面を震わせる重低音。
何かが崩れ落ちる轟音。
そして、遅れて押し寄せてくる悲鳴と怒号。
「……?」
つむぎは音のした方向へ顔を向けた。
都市の中央から少し離れた商業区。その一角から、黒煙が立ち上っている。
煙の向こう側では、建物の外壁が砕け、道路が大きく抉れていた。逃げ惑う人々の姿が見える。誰もが何かから逃げるように走り、時折、背後を振り返っては恐怖に顔を歪めていた。
その上空には、巨大な映像板が浮かび上がっていた。
『緊急警報。中央商業区において武装集団による襲撃が発生。市民は直ちに避難してください。繰り返します。中央商業区において――』
無機質な合成音声が、都市全域へ警告を発している。
「武装集団……」
つむぎは顎に手を当てた。
物騒な話だ。
異世界に飛ばされたと思ったら、どうやら到着早々、騒動の真っただ中に放り込まれたらしい。
しかも、聞き慣れぬ機械や建造物の存在を考える限り、ここは彼の世界よりも機械文明が発達した場所なのだろう。
さて、どうしたものか。
面倒事に自ら首を突っ込む趣味はない。
可能ならば、まずは安全な場所を確保したいところだった。
だが。
ドォンッ!!
再び、爆音が響いた。
今度は先ほどよりも近い。
そして、その音に混じって、つむぎの耳は明瞭な悲鳴を捉えた。
「きゃああああっ!」
「逃げろ! 早く逃げるんだ!」
「うわあああっ!」
視線を向ける。
商業区へ続く大通りの向こう側。
そこに、三体の鋼鉄の巨人がいた。
全高二十メートルを超える人型機動兵器。
この世界の人間が何と呼んでいるのか、つむぎにはまだわからない。
だが、少なくとも平和的な目的で使われていないことだけは明らかだった。
巨人たちは無骨な銃器や超振動刃を手に、街を蹂躙していた。
一体が大型銃器を乱射し、別の一体が大剣を振り回して建物を破壊する。残る一体は逃げ遅れた人々を追い立てるように進み、その巨体が一歩を踏み出すたび、舗装された道路が悲鳴を上げた。
あれだけの質量があれば、ただ歩くだけでも周囲に危険が及ぶ。
ましてや、意図的に破壊を行っているのなら、被害は計り知れない。
つむぎは小さく息を吐いた。
「……随分と乱暴な連中だな」
その時だった。
路地裏から、一組の親子が飛び出してきた。
母親が幼い子供の手を引き、必死の形相で走っている。
だが、逃げ道はなかった。
目の前には瓦礫の山。背後には、ゆっくりと振り返った鋼鉄の巨人。
巨人の腕が持ち上がる。
その手に握られた大型銃器の砲口が、母子へと向けられた。
母親は子供を抱き寄せ、覆い被さるように身を屈めた。
「いや……! お願い、やめて……!」
幼い子供が泣き叫ぶ。
巨人の指が、引き金へとかかる。
次の瞬間には、母子のいた場所は銃弾の雨に呑み込まれるだろう。
少なくとも、普通の人間ならばそう考える。
だが。
「――やれやれ」
つむぎは、一歩を踏み出した。
走る必要はない。
急ぐ必要すらない。
彼にとって、あの程度の鉄くずを相手にすることは、庭先に落ちた枯れ葉を拾うのと大差なかった。
ただし、今の彼は、まだこの世界の事情を何も知らない。
目の前の機械が何なのか。
操縦している人間が何者なのか。
この世界における法や秩序がどうなっているのか。
わからないことだらけだ。
だからこそ、最初から相手を殺すつもりはなかった。
必要最低限の力で止める。
それで十分だ。
つむぎが足を踏み出した瞬間。
パンッ。
乾いた音が響いた。
しかし、予想された銃声はなかった。
砲口から火花が散ることも、銃弾が射出されることもない。
鋼鉄の巨人の指が、引き金を引く寸前でぴたりと固まっていた。
いや、指だけではない。
腕が止まり、肩が止まり、機体の姿勢を維持していた脚部までもが、まるで時を止められたかのように静止していた。
『な、なんだ……!?』
機体内部から、男の狼狽した声が漏れた。
『操縦系統が応答しない! おい、どうなってやがる!?』
男は慌てて操縦桿を動かした。
反応はない。
ペダルを踏み込む。
反応はない。
各種制御系統を確認するが、異常を知らせる警告は見当たらなかった。
動力炉は正常。
メイン電源も正常。
通信系統にも問題はない。
機体そのものに、故障の兆候はなかった。
にもかかわらず、動かない。
動かせない。
まるで、機体を動かすという行為そのものが、世界から拒絶されているかのように。
『ふざけるな……! 何が起きてやがる!』
パイロットが外部モニターへ目を向けた。
そこに映っていたのは、機体の足元に立つ一人の少年だった。
漆黒の和服。
腰に差した一本の刀。
細身の体躯に、どこか気の抜けた立ち姿。
周囲では人々が逃げ惑い、建物が崩れ、爆炎が上がっている。
それなのに、その少年だけは場違いなほど落ち着いていた。
まるで、街の片隅で起きた小さな揉め事を眺めているかのように。
つむぎは巨人を見上げた。
「なるほど。こちらの世界では、あのような鉄の巨人に乗り込んで戦うのか」
感心したように呟く。
「なかなか興味深い技術だ。……だが」
そこで、彼はわずかに首を傾げた。
「道具に頼るのならば、道具がその役目を放棄した時のことも考えておくべきだったな」
『ナメやがって、ガキがぁぁッ!』
怒声が響く。
すぐ隣にいた二体目の機体が、猛然と大剣を振り上げた。
巨大な刃が陽光を反射し、凄まじい勢いで振り下ろされる。
大気が裂けた。
鋼鉄の刃が風を巻き込み、道路の舗装材を弾き飛ばしながら、つむぎの頭上へと迫る。
常人ならば、反応することさえできない。
仮に反応できたとしても、逃げる間などない。
だが、つむぎは刀を抜かなかった。
半歩。
ただ、それだけ横へ滑った。
次の瞬間、巨大な刃が地面へと叩きつけられた。
轟音。
舗装された道路が砕け、無数の破片が周囲へ飛び散る。
しかし、その刃が捉えたのは、少年の残像ですらなかった。
つむぎは、すでに巨人の懐へ潜り込んでいた。
「大振りだな」
呟きながら、腰の刀を抜くことなく、柄頭を軽く持ち上げる。
そして。
トン、と。
巨人の膝関節を覆う装甲へ、まるで戸を叩くような気軽さで触れさせた。
澄んだ金属音が一つ。
それだけだった。
それだけで、二十メートルを超える巨体が、ぐらりと傾いた。
『は……?』
操縦者が間の抜けた声を上げる。
機体を支える脚部の駆動系が、完全に沈黙していた。
踏ん張ることもできず、重心を移動させることもできない。
巨人は自らの重量を支えきれず、糸の切れた傀儡のように膝から崩れ落ちた。
ドゴォォォンッ!!
地面が激しく揺れた。
衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばし、近くの窓ガラスが一斉に砕け散る。
操縦席の中では、男が激しい衝撃に翻弄され、悲鳴を上げていた。
それでも、つむぎは涼しい顔をしている。
「……三流だな」
吐き捨てるような一言。
その声音には、怒りすらなかった。
ただ、評価に値しないものを評価した時の、淡々とした失望だけがあった。
相手は機体の重量と装甲に頼り切っている。
攻撃の予備動作は大きく、重心移動は雑。関節の可動域は不必要に広く、攻撃後の隙も大きい。
機体の構造そのものが悪いわけではない。
むしろ、これほどの巨体を人型として動かせる技術は見事だといえるだろう。
だが、それを扱う者の技量が伴っていない。
どれほど優れた道具を手に入れようと、それを扱う者自身が未熟であれば、結局のところ大した脅威にはならない。
ましてや、武術を極めた者を相手にするのなら、なおさらだ。
つむぎは刀の柄を軽く叩きながら、残る一体へ視線を向けた。
その機体は、すでに戦意を失っていた。
背部のブースターを噴射し、空へと逃れようとしている。
逃げる判断そのものは間違っていない。
むしろ、三体の中では最も賢明な判断だったといえる。
ただし。
「おい」
『ひっ……!?』
「待てと言っている」
つむぎが右手を掲げた。
空を軽く掴むような仕草。
たった、それだけ。
次の瞬間、急上昇を始めていた機体が、空中でぴたりと停止した。
ブースターから炎が噴き出している。
推進力は発生している。
機体の計器類も正常な数値を示していた。
それでも、機体は一寸たりとも動かなかった。
前にも、後ろにも、上にも、下にも。
まるで世界そのものに縫い付けられたかのように、完全に静止していた。
『動け! 動け動け動けぇぇっ!』
操縦者の叫びが、街に響く。
『ふざけるな! なんなんだお前は!?』
「通りすがりだ」
『化け物が……ッ!』
「そう呼ばれることには慣れている」
つむぎは少しだけ首を傾げた。
本人としては、至って普通の受け答えをしたつもりだった。
しかし、相手からすれば、これほど恐ろしい返答もないだろう。
人型兵器を三機も投入し、それぞれが武装を備えている。
その三機が、たった一人の少年によって、まるで玩具のように扱われているのだ。
しかも、少年は息一つ乱していない。
勝ち目があるかどうか以前に、相手の力量を推し量ることすらできない。
それは、戦う者にとって最も恐ろしい状況の一つだった。
つむぎは、空中で停止した機体を見上げた。
「さて。こちらはまだ、何も聞いていないのだがな」
『……っ』
「武器を捨てて降りてこい。素直に従えば、命までは取らん」
脅しではない。
交渉の余地を与えた、最後通告だった。
だが、相手はその意味を理解できなかったらしい。
『くそがぁぁぁッ!!』
機体の肩部ハッチが開いた。
そこから姿を現したのは、追尾式の小型ミサイル群。
複数の弾頭が一斉に発射され、白煙を引きながら、つむぎへと殺到する。
爆発。
爆発。
さらに爆発。
連続する轟音が街を震わせ、炎が路地を呑み込んだ。
爆風が周囲の窓を粉々に砕き、熱風が舗装された道路を吹き抜ける。
立ち上る黒煙は空を覆い、あたり一帯を灰色に染め上げた。
その光景を見た操縦者は、息を荒げながら笑った。
『はっ……! どうだ! いくら化け物でも、これだけ食らえば――』
言葉が止まった。
煙の向こう側。
そこから、誰かが歩いてくる。
一歩。
また一歩。
炎の残滓を踏み越え、少年がゆっくりと姿を現した。
漆黒の和服には、焦げ跡一つない。
髪にも、肌にも、傷一つ見当たらない。
ただ、その瞳だけが。
先ほどまでとは、明らかに違っていた。
「……そうか」
つむぎは静かに呟いた。
漆黒の瞳から、すっと温度が消える。
「どうやら、話を聞く気はないらしい」
怒鳴りもしない。
声を荒らげもしない。
ただ、ほんのわずかに失望したような響きがあった。
「ならば、少しばかり躾が必要だな」
つむぎは歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
空中に縫い止められた巨人の足元へ、ゆっくりと近づいていく。
操縦者は必死に機体を動かそうとしていた。
操縦桿を倒す。
駆動系を切り替える。
緊急制御を起動する。
しかし、何をしても結果は変わらない。
機体は、動かない。
目の前の少年が何をしているのか、まるで理解できなかった。
いや、理解できないからこそ、恐ろしかった。
つむぎは機体の脚部へ手を伸ばした。
そして、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと装甲へ触れた。
「――【死生冠】」
その名が、鈴の音のように静かに落ちた。
瞬間。
世界のどこかで、何かが終わった。
生と死。
始まりと終わり。
存在するものすべてに刻まれた、絶対的な境界。
それは、単に生命を持つ生物だけに与えられたものではない。
草木には草木の在り方がある。
鉱物には鉱物の在り方がある。
そして、精巧な機械には、機械としての在り方がある。
動くものには、動くための理がある。
機能を発揮するものには、その機能を維持するための仕組みがある。
何かが存在し、何らかの働きを為す以上、そこには必ず、その働きが成立するための境界が存在する。
夜来つむぎの権能は、その境界へ直接干渉する。
彼は、存在そのものを無差別に破壊するわけではない。
ただ、その存在が『何かを為す』ために必要とする働きに、終わりを与えることができるのだ。
機械を動かすという機能。
攻撃を放つという機能。
飛翔するという機能。
それらが成立するための『生』を絶ち、その終焉を強制する。
それこそが、【死生冠】。
夜来つむぎが振るう、理外の権能だった。
――ツ……ン。
澄んだ音が、機体の奥深くから響いた。
脚部の駆動系が沈黙する。
次いで、腰部。
胸部。
両腕。
頭部。
機体の内部を巡るエネルギーの流れが、順番にその役目を終えていった。
動力炉は停止していない。
配線も切れていない。
装甲も、関節も、何一つ物理的に破壊されてはいなかった。
それなのに、動かない。
動かすことができない。
まるで、その機体が機械として生まれた時から、動くことなど一度も許されていなかったかのように。
やがて、空中で静止していた巨人が、ゆっくりと高度を落とし始めた。
推進機構は沈黙している。
重力に抗う力は、もう残されていない。
それでも、落下する勢いは不自然なほど穏やかだった。
つむぎが、ほんのわずかに手を添えていたからだ。
巨人は地上へ降り立つと、敬虔な信徒のように、静かに膝をついた。
轟音も、爆発もない。
ただ、沈黙。
それだけが残った。
『……う、嘘だろ』
操縦席から、かすれた声が漏れる。
『何も……何も壊れていないのに……!』
男は震える手で計器類を確認した。
機体の装甲に異常はない。
内部構造にも、目立った損傷は見当たらない。
それなのに、機体は完全に沈黙していた。
まるで、機械としての役目を終えたかのように。
つむぎは装甲を指先で軽く弾いた。
「安心しろ。お前の機体は壊していない」
『な、何を……何をしたんだ!?』
「少々、動くための『命』を止めただけだ」
『意味がわからねえよ……ッ!』
「理解する必要はない」
つむぎは淡々と答えた。
「ただし、次に同じ牙を向けたら、今度は乗っているお前自身の命を止める」
声音に怒りはなかった。
だからこそ、その言葉には一切の揺らぎがなかった。
男は返事をしなかった。
できなかったのだ。
目の前の少年が、自分を殺すことなど造作もないと理解してしまったから。
そして、少年はそれを誇示する必要すら感じていない。
ただ、そうすることが可能であるという事実を告げただけだった。
つむぎは、ゆっくりと周囲を見渡した。
崩れた建物。
砕けた道路。
散乱する瓦礫。
逃げ惑っていた人々は、いつの間にか足を止めていた。
誰もが、呆然と彼を見つめている。
恐怖。
困惑。
安堵。
そして、理解不能なものを前にした者だけが浮かべる、言葉にならない感情。
つむぎは小さく息を吐いた。
「……さて。これでひとまず、被害の拡大は防げたか」
その時。
遠方から、幾重ものサイレンが近づいてきた。
赤と青の光を点滅させた装甲車が、道路を埋め尽くすように現れる。
その後方には、武装した兵士たち。
手にした装備は、この世界の技術水準を考えれば、相応に高度なものなのだろう。
光学照準器を備えた銃器。
装甲車に搭載された重火器。
兵士たちの耳元に装着された通信機。
いずれも、つむぎの知る武具とは大きく異なっていた。
しかし、装備が変わろうと、人間の動きまで変わるわけではない。
車両から降り立った兵士たちは、瞬時に周囲へ展開した。
訓練された動きだった。
互いの死角を補い、周囲の安全を確認し、武器を構えながら対象を包囲する。
ただし。
彼らが目にしたものは、想定していた光景とは大きく異なっていた。
襲撃者の機体は、三体とも無力化されている。
建物には損傷があるものの、少なくとも周辺一帯が壊滅するような事態には至っていない。
そして、その中心には。
一人の少年が立っていた。
漆黒の和服。
腰に差した一本の刀。
細身の身体。
年齢は十代後半ほどだろうか。
とてもではないが、目の前の惨状を引き起こした存在には見えない。
いや、正確には。
惨状を引き起こしたのは、襲撃者たちだ。
少年は、その惨状を食い止めた側なのだろう。
だが、兵士たちには、その判断を下すだけの情報がなかった。
何しろ、二十メートルを超える人型機動兵器三機が、たった一人の少年によって無力化されているのだ。
通常の兵器では説明がつかない。
訓練された兵士たちでさえ、その異常さを本能的に理解していた。
隊列の前方に立っていた隊長らしき男が、慎重に一歩を踏み出した。
「あ、あの……君が、これを……?」
つむぎは男へ視線を向けた。
「他に誰がいる?」
「…………」
隊長は言葉を失った。
冗談を言っているようには見えない。
かといって、目の前の少年が三機のELを無力化したなど、簡単に信じられるはずもなかった。
「しかし、どうやって……! 君は一体、どこのパイロットなんだ!?」
「ぱいろっと?」
つむぎは聞き慣れない単語に、わずかに首を傾げた。
「操縦者、という意味なら違うな。私はあんな鉄の塊に乗ってはいない」
「乗って……いない?」
隊長の視線が、少年と、地面に膝をついた巨大な機体との間を往復する。
その周囲では、ほかの兵士たちも同じように呆然としていた。
目の前にいるのは、どう見ても生身の人間だ。
強化外骨格を装着している様子もない。
特殊な装備を身につけているわけでもない。
ただの和服姿の少年にしか見えない。
なのに、三機のELが動かなくなっている。
理解できるはずがなかった。
つむぎは、兵士たちの反応を見て、小さく苦笑した。
この顔は、よく知っている。
人間が理解の及ばぬ存在を前にした時に浮かべる表情。
神の威光を目にした者。
人の理から外れた怪異と対峙した者。
己の常識が、目の前の存在には通用しないと悟った者。
そうした人間たちは、決まって同じような顔をする。
(どこへ行っても、人間の反応というのは変わらんものだな)
もっとも、彼としては、もう少し穏便に話を進めたいところだった。
何しろ、この世界については何も知らないのだ。
いきなり兵士たちと敵対するのは、得策ではない。
つむぎは、できるだけ穏やかな声で口を開いた。
「ところで」
「ひっ……! は、はい!?」
隊長がびくりと肩を震わせた。
つむぎは一瞬、何ともいえない顔をした。
別に、脅かすつもりはなかったのだが。
「私は道に迷っていてな。できれば、暖かな宿を取れる場所と、この国のありようを教えてもらいたいのだが」
「…………は?」
隊長の口から、間の抜けた声が漏れた。
周囲の兵士たちも、揃って固まっている。
先ほどまで巨大な機動兵器を相手にしていた少年が、次に求めたものが宿泊先と観光案内だったのだ。
あまりにも場違いな要求だった。
しかし、つむぎにとっては、至極まっとうな話である。
異世界に来てしまった以上、まずは寝床と情報を確保しなければならない。
目の前にいる兵士たちは、ちょうどよい案内役に見えた。
隊長は何度か口を開閉した後、ようやく絞り出すように答えた。
「……ここは、東部連合所属、第七都市『セントラル』です」
「東部連合、セントラル……」
つむぎは、その名を頭の中で繰り返した。
少なくとも、地名らしきものはわかった。
「そうか。では、その東部連合というのは――」
『緊急通信! 現場の全隊員に告ぐ!』
隊長の耳元に装着された通信機から、切迫した声が響き渡った。
男はびくりと肩を震わせ、慌てて通信機に手を当てる。
『現場にいる和服の少年を確認しろ! 所属、氏名、行使している能力の全容、いずれも不明!』
通信の向こう側では、複数の人間が慌ただしく言葉を交わしているらしい。
『当該人物は、単独でEL三機を無力化した未確認の特異存在である! 繰り返す! 当該人物は、単独でEL三機を無力化した未確認の特異存在である!』
わずかなノイズ。
そして、さらに切迫した声が続いた。
『各員、絶対に刺激するな! 独断での攻撃を禁ずる! 重力波兵器の使用も許可されていない! 繰り返す、決して刺激するな!』
ガチャリ。
通信が途絶えた。
隊長は、ゆっくりと顔を上げた。
その表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
目の前にいる少年を、単なる事情聴取の対象として扱うことはできない。
所属不明。
能力不明。
装備不明。
そして、既存の兵器体系では説明のつかない戦闘能力。
彼らの組織が少年をどのように評価しているのか、通信の内容だけでも十分に理解できた。
――未確認の特異存在。
人間であるかどうかすら、確証が持てない存在。
隊長は、引きつった笑みを浮かべたまま、恐る恐る口を開いた。
「……あの」
「うん?」
「い、いえっ! 何でもありません!」
「そうか」
つむぎは満足そうに頷いた。
どうやら、ようやく話の通じる相手に出会えたらしい。
少なくとも、今のところは。
――その時だった。
『こちら現場指揮所! 当該の少年に告ぐ!』
頭上の巨大映像板から、先ほどとは異なる警告音声が流れた。
『武器を所持している場合は直ちに地面へ置き、両手を頭の後ろで組め! 指示に従わない場合、警告なしに実力行使へと移行する!』
大音量の警告が、周囲の建物に反響する。
兵士たちの顔が、一斉に青ざめた。
通信を送ってきた指揮所の人間は、現場の状況を正確に把握できていないのだろう。
あるいは、把握したうえで、なお強硬な姿勢を崩せない事情があるのか。
いずれにせよ、目の前の少年に対して、その言葉がどれほど危険な意味を持つのか。
彼らは、嫌というほど理解していた。
つむぎは頭上の映像板を見上げた。
それから、ゆっくりと視線を戻す。
「…………」
ほんの一瞬。
その場にいた兵士たちは、息をすることすら忘れた。
少年の表情は、先ほどと何も変わっていない。
怒りを露わにしているわけでもない。
殺気を放っているわけでもない。
それなのに、誰もが本能的に理解していた。
もし、今の命令を受けて少年が本気で抵抗すれば。
この場にいる全員が、何もできないまま制圧される可能性がある。
いや、制圧で済めば、まだ幸運なのかもしれない。
そんな予感が、兵士たちの背筋を冷たく撫でていった。
やがて、つむぎは小さく眉をひそめた。
「……ほう?」
たった一言。
それだけで、周囲の緊張が一段と高まった。
しかし、当の本人は、ただ困ったように息を吐き出しただけだった。
「どうやら、こちらの世界の礼儀作法は、少々厳しすぎるようだな」
そう言って、つむぎは腰の刀へ手を伸ばすこともなく、両手を軽く広げてみせた。
武器を捨てろと言われても、そもそも刀を抜くつもりなどなかった。
両手を頭の後ろで組めと言われても、なぜ初対面の相手にそこまでしなければならないのか、彼にはよくわからない。
とはいえ、相手にも相手の事情があるのだろう。
この世界には、この世界の秩序がある。
それを知る前から、無用な争いを起こす必要はない。
「よかろう」
つむぎは、穏やかな笑みを浮かべた。
「まずは『話し合い』と行こうじゃないか」
その笑顔は、うららかな春の日差しのように穏やかだった。
敵意など欠片も感じさせない、柔らかな微笑み。
その場にいた誰もが、もし目の前の光景だけを見ていたのなら、彼を危険人物だとは思わなかったかもしれない。
ただし。
その足元に、二度と動くことのない鋼鉄の巨人たちが膝を折っていなければ、の話だが。
そして、この時。
夜来つむぎ本人だけが、まだ気づいていなかった。
彼が何気なく行使したその異能が、この世界の人間たちにとって、単なる未知の能力などでは済まされないものであることを。
機械の機能を停止させる。
兵器を無力化する。
それだけなら、まだ説明の余地はあっただろう。
だが、彼が行ったことは、そのどちらとも異なる。
機械を破壊したわけではない。
制御系統に干渉したわけでもない。
ましてや、既存の技術で再現できるような現象でもない。
ただ、機械が機械として機能するための『生』を絶った。
世界の法則に直接触れ、その在り方を一方的に終わらせたのだ。
それは、この世界の常識からすれば、あまりにも異質な力だった。
やがて、この一件は東部連合の上層部に報告されることになる。
そして、報告書に記された少年の名は、しばらくの間、関係者たちの間で奇妙な緊張とともに語り継がれることになるのだが――。
それは、もう少し先の話である。




