第九章 好かれることは呪いでもある
朝、王城の窓は白かった。
雨ではない。
霧だった。
王都の屋根も、遠くの尖塔も、城壁も、すべて薄い白に沈んでいる。二つの月はもう見えず、代わりに東の空がぼんやり明るくなり始めていた。王城の高い窓から見ると、街全体が息を潜めているようだった。
だが、俺には静かには見えなかった。
霧の中に、糸が走っている。
西区からは、まだ赤黒い糸が揺れている。帰還兵たちの怒りと恐怖と、折れかけた忠誠。
北棟からは、銀色の糸が細く伸びている。アデライデの裏切り。自国を愛しているからこそ切ろうとしている、刃のような糸。
王女イレーネの執務室の方角からは、白金の糸が街へ向かって広がっている。その中心から、俺へ向かう細い白い糸もある。国ではなく、彼女個人からの軽めの約束。
廊下の向こうからは、リュシエンヌの青白い糸が近づいてくる。
さらに下の中庭からは、カイラの金色の糸が熱を帯びて揺れている。竜の好意は、遠くにあってもわかりやすい。火を使わないようにしていても、存在そのものが少し熱い。
そして、俺の胸の奥には、元の世界へ伸びる灰白の糸がある。
好意を間違えた過去。
謝れなかった相手。
帰りたい場所。
帰りたくても、何に帰りたいのかまだ決められない場所。
俺は窓辺に立ったまま、しばらく動けなかった。
昨日、魔導院の水盤で見たものが、まだ体に残っている。
片岡千尋の笑顔。
その笑顔を、俺は都合よく読んだ。
みんなの前で逃げ場を塞ぎ、冗談に見せかけて踏み込み、傷つけた後も、自分が恥をかかずに済む形で流そうとした。
好意を間違えた。
拒絶を読み違えた。
謝罪から逃げた。
その後悔が、この世界の重みに応答した。
俺は偶然ここへ落ちたのではない。
それは、選ばれたというより、合ってしまったというほうが近い。
世界の裂け目と、俺の情けない願いの形が。
人の好意が見えればいいのに。
人の拒絶が、未練が、怒りが、重さでわかればいいのに。
そう願った男が、本当に見える世界へ落ちた。
皮肉としてはよくできている。
物語としては、少し出来すぎている。
そして、現実としては、かなり腰に来る。
扉が叩かれた。
「セイジ殿」
リュシエンヌの声だった。
「どうぞ」
扉が開く。
彼女は今日も白い外套をまとっていた。ただ、表情はいつもより少し柔らかい。いや、柔らかいというより、慎重だった。俺を見る目が、どこか壊れ物を見るようになっている。
それがわかってしまう。
青白い糸が、いつもより細くなっていた。
俺を気遣って、重くしないようにしている。
その気遣いが、また重い。
「眠れましたか」
「少し」
「本当に?」
「嘘をつくほど元気ではありません」
「それは、眠れていないということですね」
「まあ、そうですね」
リュシエンヌは一歩近づき、そこで止まった。
昨日までなら、もっと近くまで来ていただろう。
怪我や疲れを確かめるために、肩に手を置いたかもしれない。だが今朝は、距離を測っている。近づきたい気持ちと、近づけば重くしてしまうのではないかという恐れが、彼女の中でぶつかっていた。
それが見える。
見えてしまう。
「リュシエンヌさん」
「はい」
「遠慮してます?」
彼女は一瞬、言葉に詰まった。
「しています」
「正直ですね」
「セイジ殿に、これ以上重みを乗せたくありません」
その言葉が、胸に来た。
軽くしようとしているのに、重い。
これが厄介なのだ。
彼女には悪意がない。
むしろ、優しさしかない。
優しさで距離を取る。
優しさで気持ちを抑える。
だが、抑えた好意は消えない。ただ、形を変えて残る。細くなり、震え、申し訳なさをまとって、こちらへ届く。
「それ、たぶん逆に重いです」
俺は言った。
リュシエンヌの顔が少し曇る。
「すみません」
「謝るとさらに」
彼女は慌てて口を閉じた。
その反応が少し可笑しかったが、笑うとまた別の重みになりそうで、俺はやめた。
「難しいですね」
リュシエンヌは小さく言った。
「はい」
「近づけば重くなる。離れても、気にしていることが重くなる」
「そうなんです」
「では、私はどうすれば」
彼女は本気で困っていた。
白鷲騎士団副長。
剣を持てば迷わない人。
戦場で道を見失わない人。
その彼女が、俺への好意の置き場所だけはわからずにいる。
俺は答えられなかった。
答えられないことが、また重かった。
廊下の向こうで足音がした。
今度は荒い。
カイラだった。
彼女は扉を開けた瞬間、部屋の中の空気を見て、いや、嗅いで、顔をしかめた。
「湿っている」
「霧ですか」
「違う。お前たちの空気だ」
竜娘は遠慮がない。
だが、今日はその遠慮のなさが少し助かった。
カイラは俺を見るなり、腕を組んだ。
「セイジ。昨日、昔の女の話をしたらしいな」
「言い方」
「白鷲から少し聞いた」
俺はリュシエンヌを見た。
彼女は目を伏せた。
「詳しくは話していません。ただ、好意を間違えた記憶だと」
「別に隠しているわけではないです」
「隠したい顔をしている」
カイラが言った。
鋭い。
こういうところで、竜は妙に鋭い。
「隠したいですよ。格好悪い話なので」
「格好悪いなら、直せばいい」
「簡単に言いますね」
「簡単ではないのか」
「簡単ではないです」
「でも、謝る強さを私に教えた」
カイラはまっすぐ俺を見た。
「なら、お前もやれ」
金色の糸が伸びる。
熱い。
強い。
単純で、逃げ場がない。
カイラの好意は、いつもそうだ。彼女は俺を責めているのではない。俺ならできると信じている。その信頼が、竜の熱を持って背中に乗る。
励ましが重い。
信頼が重い。
でも、悪意はない。
まったくない。
「カイラさん」
「何だ」
「今のはかなり重いです」
カイラは露骨に困った顔をした。
「またか」
「またです」
「私は、弱く言ったつもりだ」
「竜基準では?」
「そうだ」
「人間基準では強めです」
カイラは尾を床に叩きそうになり、途中で止めた。
かなり成長している。
「では、どう言えばいい」
彼女は不機嫌そうに言った。
「お前なら少しずつできる、くらいで」
俺が言うと、カイラは真剣に考え込んだ。
「セイジ」
「はい」
「お前なら、少しずつできる」
金色の糸が細くなる。
まだ熱い。
でも、さっきよりずっと持ちやすい。
「それなら持てます」
「面倒だな」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。太くなる」
「わかりました」
廊下から、今度は静かな足音が聞こえた。
侍女に先導されて、王女イレーネが現れた。
朝からすでに整っている。白と青の衣装。髪もきっちりまとめられている。ただ、目の下に少し疲れが残っていた。半刻休む練習は、まだ始まったばかりらしい。
「おはようございます」
「おはようございます」
俺は少し身構えた。
王女から伸びる白い糸は、今朝も細かった。
だが、細いから軽いとは限らない。
彼女の糸は、国の重みとすぐ近くにある。ほんの少し言葉を間違えるだけで、個人の好意が国家の期待に変わりかねない。
王女自身もそれを知っている。
だから、彼女も慎重だった。
「セイジ殿」
「はい」
「昨夜の水盤のことを、院長から聞きました」
「早いですね」
「報告を受けました」
「また報告書ですか」
「はい」
「この世界も報告書が多い」
「王国は報告で動きます」
王女はそう言ってから、少しだけ口元を緩めた。
「ただし、今回は報告書だけで済ませません」
「というと?」
「あなたが元の世界へ帰る道を探すことを、正式に宮廷魔導院の優先課題にします」
白い糸が伸びた。
国の制度を伴った好意。
それは、以前よりずっと軽く調整されている。命令ではない。所有でもない。協力として置こうとしている。
だが、それでも重い。
王国の優先課題。
帰還のための支援。
俺のために動く人員と時間と予算。
それは善意だ。
間違いなく善意だ。
そして、善意だからこそ断りにくい。
「殿下」
「はい」
「それは、ありがたいです」
「重いですか」
「かなり」
王女はすぐに頷いた。
「では、言い直します」
慣れてきている。
彼女は本当に学習が早い。
「宮廷魔導院には、あなたの帰還について調べる許可を与えます。ただし、あなたが望まない検査や拘束はしない。あなたの帰還を国益として扱うのではなく、あなた個人の希望として扱う」
少し軽くなった。
だが、完全には軽くならない。
王女が俺のために言葉を選んでいる。
その事実が、やはり重い。
「それなら、受け取れます」
俺は答えた。
王女は安堵したように息を吐いた。
その安堵が、白い糸に乗る。
また少し重くなる。
俺は思わず胸を押さえた。
王女がすぐに気づいた。
「今のも?」
「少し」
「安堵も重いのですね」
「はい」
王女は困ったように目を伏せた。
「感情を持つのは、難しいですね」
「殿下が言うと、かなり重いです」
「すみませ」
言いかけて、彼女は止まった。
謝ると重くなる。
それを覚えていた。
リュシエンヌも、カイラも、王女も、みんな少しずつ言葉を選ぼうとしている。
誰も悪くない。
本当に、誰も悪くない。
だからこそ、逃げ場がない。
悪意なら拒める。
命令なら逆らえる。
敵意なら構えられる。
だが、好意は違う。
それぞれが俺を傷つけないようにしている。その気遣いが、信頼が、感謝が、期待が、全部少しずつ俺へ届く。細くしても、軽くしても、消えない。消えないどころか、細くなったぶん、かえって胸の奥に入り込むことがある。
好かれることは、呪いでもある。
そう思った。
思った瞬間、その言葉の重さに自分で驚いた。
こんなことを言えば、三人は傷つく。
彼女たちの好意は呪いではない。
救いだ。
支えだ。
温かい。
でも、同時に呪いでもある。
受け取った瞬間、逃げられなくなる。
相手を傷つけたくなくなる。
相手の期待に応えたくなる。
応えられない自分を責める。
そして、相手は悪くない。
悪くないから、こちらが強くなるしかない。
俺が。
強くなるしかない。
「セイジ殿?」
リュシエンヌの声がした。
気づくと、部屋が少し傾いて見えた。
いや、傾いているのは俺の体だった。
胸元に、三本の糸がある。
青白い糸。
金色の糸。
白い糸。
それぞれが細く、慎重に、俺を傷つけないように伸びている。
なのに、重い。
さらに、遠く北棟から銀色の糸が揺れる。
アデライデの裏切り。
彼女は好意を向けているわけではない。だが、俺が彼女の裏切りを見たという事実は、証言の重みとして俺の手の中にある。
西区から、赤黒い糸が揺れる。
帰還兵たちの怒り。
王女の言葉を証言に変えたのは、俺も見ていたからだ。
元の世界から、灰白の糸が引く。
千尋。
謝れなかった相手。
全部が、同時に揺れた。
それは、誰かが悪意を持って俺に乗せたものではない。
誰も悪くない。
誰もが、少しずつ俺を信じている。
信じているから、重い。
信じられることは、こんなに重い。
「セイジ!」
カイラの声が聞こえた。
金色の糸が膨らむ。
心配。
それがまた重い。
「膨らませないで」
言おうとしたが、声にならなかった。
リュシエンヌが俺の腕を掴む。
青白い糸が強くなる。
支えたい。
守りたい。
倒れさせたくない。
その全部が、肩に、胸に、背中に乗る。
王女が一歩近づく。
白い糸が震える。
自分のせいかもしれないという恐れ。
それも重い。
部屋の床が近づいた。
倒れる。
そう思った時、カイラが俺を受け止めようとした。力加減を考えて、途中で止まる。リュシエンヌが支える。王女が侍女を呼ぶ。
声がいくつも重なる。
心配。
後悔。
恐れ。
好意。
全部、重い。
そして俺は、完全に意識を失った。
夢を見た。
元の世界の駅のホームではなかった。
森でも、王城でも、魔導院でもなかった。
何もない場所だった。
空は白く、地面は黒い。
その間に、糸だけが無数に浮いている。
青白い糸がある。
リュシエンヌの糸。
最初は忠誠だった。
命を救われた恩義。失われた第三槍隊の後悔。騎士として守るという誓い。それが、同行の約束になり、信頼になり、今はもっと個人的な好意に近づいている。
彼女の糸は美しい。
まっすぐで、清潔で、切れそうで切れない。
だが、まっすぐすぎるから、俺に刺さる。
金色の糸がある。
カイラの糸。
熱く、太く、加減が下手で、でも嘘がない。謝ることを覚えた竜娘の好意。俺を巣の者にしたがる本能を、必死に細くしている。
彼女の糸は温かい。
だが、温かすぎて、近づくと火傷する。
白い糸がある。
王女イレーネの糸。
民全体へ広がる白金の愛情の中から、かろうじて取り出された一人分の好意。国ではなく、私として見てほしいという願い。
彼女の糸は細い。
だから大切にしなければならないと思ってしまう。
それが重い。
銀色の糸がある。
アデライデの糸。
忠誠ゆえの裏切り。自国を愛しているから、自国の命令を切ろうとする女将軍の刃。俺に好意を向けているわけではない。だが、彼女の真実を見た者として、俺はその刃の証人になっている。
彼女の糸は冷たい。
持つと手が切れる。
それでも、手放せば戦争になるかもしれない。
そして、灰白の糸。
俺自身の糸。
千尋へ向かう後悔。
好意を間違えた過去。
自分が傷つくのを避けるために、相手を傷つけた記憶。
俺の糸が、一番醜かった。
そう思った。
だが、よく見ると違った。
醜いのではない。
絡まっているだけだ。
好意、恥、後悔、自己弁護、謝罪したい気持ち、許されたい欲、二度と関わらないほうがいいという判断。全部が絡まり、汚れた灰白に見えている。
これも、ほどけるのだろうか。
俺は糸に触れようとした。
その瞬間、どこかから声がした。
誰の声でもない。
いや、もしかすると、俺自身の声だったのかもしれない。
受け取るとは、背負うことではない。
声はそう言った。
受け取るとは、置き場所を決めることだ。
置き場所。
俺は、リュシエンヌの糸を見た。
それを肩に乗せるから重い。
カイラの糸を背中で受けるから潰れる。
王女の糸を胸だけで抱えるから息が詰まる。
アデライデの糸を手のひらで握るから切れる。
全部を自分の体の一か所で受けようとしている。
だから倒れる。
糸には、それぞれ置き場所がある。
リュシエンヌの信頼は、隣に置くものだ。
肩ではなく、横に。
共に歩く約束として。
カイラの好意は、背負うものではなく、後ろから温める火だ。
距離を取れば、火傷しない。
王女の白い糸は、胸にしまい込むのではなく、目の前に置いて見続けるものだ。
彼女を国ではなく彼女として見る約束だから。
アデライデの銀色は、手で握るのではなく、鞘に収めるものだ。
必要な時に抜く証言として。
そして、俺自身の灰白の糸は。
どこへ置く。
それはまだ、わからない。
だが、胸の奥で腐らせるものではない。
誰かにぶつけるものでもない。
たぶん、言葉にして、折り畳んで、いつか届くかもしれない場所へ置くものだ。
許しを求めない謝罪。
返事を求めない謝罪。
それができるかどうかは、まだわからない。
だが、置き場所だけは少し見えた。
目を開けると、白い天井が見えた。
王城の客室ではない。
魔導院でもない。
王城内の医療室だった。
窓には薄い青の硝子。壁際には薬瓶と清潔な布。天井からは淡い光を放つ石が吊るされている。
右側にリュシエンヌがいた。
椅子に座ったまま、眠っていない顔をしている。俺が目を開けると、すぐに立ち上がった。
「セイジ殿」
「どのくらい」
「半刻ほどです」
「思ったより短い」
「こちらは長かったです」
青白い糸が伸びかけて、彼女は一度息を止めた。
抑えようとしている。
「リュシエンヌさん」
「はい」
「抑えすぎなくていいです」
「ですが」
「ただ、肩に乗せないでください」
彼女は目を瞬いた。
「肩に?」
「隣に置いてください」
自分でも妙なことを言っていると思った。
だが、言ってみると、不思議と意味があった。
「あなたの信頼は、俺が背負うものではなく、隣に置くものです。同行の約束だから」
リュシエンヌはしばらく俺を見ていた。
そして、静かに頷いた。
「隣に」
青白い糸が形を変えた。
俺の肩へではなく、俺の左側へ沿うように伸びる。
重さが消えたわけではない。
だが、体に乗らない。
隣に、ある。
立てかけられた剣のように。
「軽くなりました」
俺が言うと、リュシエンヌの目が揺れた。
「本当に?」
「はい」
「よかった」
その安堵も、今度は肩に乗らなかった。
隣で柔らかく揺れた。
医療室の反対側で、カイラが起き上がった。
どうやら床で丸まっていたらしい。竜娘は椅子で眠るのが苦手なのだろう。
「起きたか」
「はい」
「倒れた」
「倒れました」
「弱い」
「はい」
カイラは眉をひそめた。
「だが、前より弱くはない」
「え?」
「倒れ方が違う」
「倒れ方に種類が?」
「前なら潰れていた。今回は、器が広がる前に溢れた感じだった」
竜の感覚はよくわからない。
だが、言っていることは何となくわかった。
俺は完全に壊れたわけではない。
受け止められるものが増えたから、そのぶん限界も見えたのだ。
「カイラさん」
「何だ」
「あなたの好意は、背中で受けると潰れます」
「そうだろうな」
「自覚はあるんですね」
「竜だからな」
「なので、少し後ろにいてください。背負うんじゃなくて、後ろから温める火みたいに」
カイラは真剣に考えた。
「火は近いと焼ける」
「はい」
「遠いと寒い」
「はい」
「なら、ちょうどいい距離か」
「そうです」
金色の糸が、俺の背中に密着するのをやめた。
少し後ろへ下がる。
熱はある。
でも、焼けない。
寒くもない。
「これなら持てます」
俺が言うと、カイラの顔が明るくなった。
金色の糸が太くなりかける。
「距離」
俺が言うと、彼女は慌てて抑えた。
「難しい」
「でも、できています」
「本当か」
「はい」
カイラは満足そうに尾を揺らした。
床に当てないように、ゆっくり。
そこへ、王女イレーネが入ってきた。
入ってくる前に、扉の外で少し立ち止まったのがわかった。白い糸が、ためらうように揺れていたからだ。
「入っても?」
王女が扉の外から尋ねた。
珍しい。
昨日までの彼女なら、必要なら入っただろう。
俺は少し笑った。
「どうぞ」
王女は入ってきた。
今日は冠をつけていない。医療室だからか、それとも個人的な見舞いだからか。白と青の衣装ではあるが、外套は脱いでいる。そのせいで、いつもより少し若く見えた。
「セイジ殿」
「はい」
「倒れたと聞きました」
「倒れました」
「私たちのせいですね」
「違います」
王女の白い糸が重くなりかける。
俺は手を上げた。
「それを胸に乗せないでください」
王女は足を止めた。
「胸に?」
「殿下の好意は、俺の胸に直接来ると少し苦しいです」
「では、どこへ置けば」
彼女は真剣だった。
王女が、自分の好意の置き場所を尋ねている。
少し前なら、考えられない光景だ。
「俺の前に置いてください」
「前に」
「殿下は、俺に自分を国ではなく自分として見てほしいと言いました。なら、俺が見る場所に置いてください。胸にしまうんじゃなくて、目の前に」
王女はゆっくり頷いた。
「見られる場所に置く」
「はい」
「隠さない、ということですか」
「たぶん」
白い糸が、俺の胸元に入るのをやめた。
代わりに、俺の前、手を伸ばせば触れられる距離に浮かぶ。
小さな白い糸。
細いが、切れそうではない。
俺はそれを見た。
「これなら大丈夫です」
王女は小さく息を吐いた。
「よかった」
「今の安堵も、そこに」
王女は少し慌てたように、自分の胸に手を当てた。
そして、白い糸の揺れを前へ置いた。
思わず笑ってしまいそうになった。
氷冠の王女が、好意の置き場所に四苦八苦している。
それは可笑しいと同時に、少し愛おしい光景だった。
言葉にすると重くなりそうなので、言わなかった。
王女は医療室の椅子に腰を下ろした。
「院長は、あなたの倒れた理由を、好意と誓約の過負荷だと言っていました」
「そうでしょうね」
「彼は、とても興奮していました」
「やめてほしいですね」
「記録したがっています」
「もっとやめてほしい」
リュシエンヌが静かに言った。
「しかし、倒れた後、セイジ殿の糸の扱いは変わっています」
「俺にも少し実感があります」
これは、倒れる前とは違う。
好意をただ重いものとして受けるのではなく、置き場所を決める。
隣に。
後ろに。
前に。
手の中に。
胸に。
糸によって、場所を変える。
それだけで、体への負担が違う。
俺は強くなったのだろうか。
強くなった、と言うと大げさだ。
だが、少しは扱えるようになっている。
最初の頃、リュシエンヌの忠誠だけで膝をつきそうになっていた。カイラの好意には本当に潰れかけた。王女の「国のものにします」には全身を縛られた。
今は違う。
まだ倒れる。
でも、倒れた後に、少しだけ置き方がわかった。
成長。
そう呼んでいいのかもしれない。
その時、医療室の扉がもう一度叩かれた。
入ってきたのは、女性士官だった。
「殿下。黒鷹のアデライデ殿より、セイジ殿の容態が許すなら話したいことがあると」
「今ですか」
俺が聞くと、女性士官は少し困った顔をした。
「彼女の腹心三名についてです」
王女の表情が変わった。
「通してください。ただし護衛を」
「すでに」
少しして、アデライデが入ってきた。
黒い軍服。銀の縁取り。頬の傷。姿勢は変わらない。敵国の将軍としての冷たさを保っている。ただ、俺を見る目に、ほんのわずかな気遣いがあった。
それを彼女は表情に出さない。
だが、糸には出る。
銀色の糸の横に、薄い灰青の糸が一本だけあった。
責任。
誘拐したことへの責任。
それをこちらへ乗せまいとしている。
だが、乗せまいとしていることが見える。
本当に、みんな面倒だ。
「セイジ殿」
アデライデは言った。
「倒れたと聞きました。原因の一部は私でしょう」
「一部は、たぶん」
「謝罪します」
「謝罪は、そこに置いてください」
俺は医療室のテーブルを指した。
アデライデの眉が少し動いた。
「そこ?」
「はい。俺に直接乗せると重いので、テーブルの上に。必要な時に見ます」
アデライデはしばらく俺を見ていた。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「奇妙な交渉です」
「俺もそう思います」
「ですが、わかりました」
彼女の灰青の糸が、俺へ伸びるのをやめ、テーブルの上に置かれるように形を変えた。
見えないはずの糸が、見えないはずのテーブルに置かれる。
俺以外には、たぶん何も見えていない。
だが、重さは確かに変わった。
「軽くなりました」
「それは何よりです」
アデライデは王女へ向き直った。
「殿下。私の単独決断について、補足します」
「聞きましょう」
「決断は私一人です。ノルヴァルト摂政府も軍上層部も知りません。ただし、実行に関わった者が三人います」
王女は頷いた。
「腹心ですね」
「はい。ひとりは王都潜入担当。名はリゼ。元斥候です。色を消す訓練を受けています。掲示板に黒鷹の布を刺し、西区の動きを見ていました」
「色を消す」
俺は言った。
「見えました。あの時、空白の糸を持つ人がいた」
「彼女です」
アデライデは続けた。
「二人目は軍医のオルン。眠り蔓を扱った者です。あなたを傷つけず眠らせるために使いました。彼はあなたに使用した量を、子供にも致死しない量に調整しています」
「それはありがたい、でいいんでしょうか」
「誘拐なので、ありがたがる必要はありません」
「正直ですね」
「三人目は老兵ガル。退路と馬車を用意しました。私がまだ若い指揮官だった頃、命を救われたと本人は言っています。私は命令しただけですが」
「本人はそう思っていないのですね」
「はい」
アデライデの胸から、三本の糸が伸びた。
それぞれ違う色をしている。
リゼと思われる糸は、薄い灰色。姿を消すために自分の感情を押し殺している。
オルンの糸は、くすんだ緑。薬と毒の間を歩く者の重み。
ガルの糸は、古い青。主君への忠誠というより、戦場で命を預けた相手への信頼。
そして、それらはすべてアデライデへ結ばれていた。
盲目的ではない。
彼女が命令すれば死ぬ、という重さはある。
だが、死にたいのではない。
この女将軍が、これ以上兵を死なせたくないと思っていることを、彼らは知っている。
だから従っている。
「重いですね」
俺は言った。
アデライデは小さく頷いた。
「はい」
「でも、あなたは慕われています」
「慕われている、という言葉は適切ではありません」
「そうですか?」
「彼らは、私の判断を信じているだけです」
「それを慕われていると言うんじゃないでしょうか」
アデライデは少し黙った。
王女が横から言った。
「黒鷹。受け取りなさい」
アデライデが王女を見る。
「殿下に言われるとは」
「私も最近言われました」
王女は平然と言った。
部屋の空気が少し緩んだ。
アデライデは、ほんのわずか苦笑した。
「では、受け取ります。彼らは私を信じている」
その言葉で、アデライデの三本の糸が少し整った。
彼女もまた、好意や信頼を受け取るのが下手なのだ。
敵も味方も、結局そこに行き着く。
受け取れない人間たちが、国や忠誠や使命に言い換えて生きている。
その言い換えが、ときどき人を救い、ときどき人を潰す。
「セイジ殿」
アデライデが俺を見た。
「三人の糸を、あなたに見ていただきたい。彼らが私のためだけに動いているなら、私はこの計画を止めます」
「どういう意味ですか」
「彼らが私個人への忠誠だけで裏切りに加担しているなら、それは私が彼らを巻き込んでいるだけです。ですが、彼ら自身も戦争を止めたいと願っているなら、私は彼らを仲間として扱える」
重い。
この人もまた、自分の好意や忠誠を他人へ背負わせることを恐れている。
カイラが小さく言った。
「面倒な女だな」
「あなたもかなり面倒です」
「私はわかりやすい」
「それはそう」
俺は少し笑った。
金色の糸が後ろで温かく揺れる。
今度は、ちゃんと距離がある。
「見ます」
俺はアデライデに言った。
「ただし、今日倒れたばかりなので、全部は一度に無理です」
「承知しました」
「殿下」
俺は王女を見た。
「アデライデさんの腹心を見るのは、戦争を止めるために必要です。でも、俺の体の都合も予定に入れてください」
王女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに微笑んだ。
「はい。あなたの体の都合も、予定に入れます」
白い糸が前で揺れる。
持てる。
俺は受け取った。
リュシエンヌが隣で頷く。
青白い糸は、俺の左側にある。
カイラの金色は後ろに。
王女の白は前に。
アデライデの謝罪はテーブルの上に。
それぞれに置き場所がある。
完全ではない。
まだ、少し気を抜けば重なる。
だが、さっきより呼吸がしやすい。
「セイジ殿」
リュシエンヌが言った。
「今、少し強くなりましたね」
「そう見えますか」
「はい」
カイラも言った。
「器が広がった」
王女が言った。
「受け取る場所を、あなた自身で決めたからでしょう」
アデライデが静かに付け加えた。
「軍でも同じです。荷は背に負うだけではありません。馬車に載せるもの、倉に置くもの、前線へ送るもの、今捨てるものを分ける。分けなければ、軍は潰れる」
「人の好意も兵站ですか」
俺が言うと、アデライデは真面目に頷いた。
「ある意味では」
「嫌なたとえだけど、わかりやすいですね」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
それは、重すぎる沈黙ではなかった。
少し疲れた人たちが、一つのことを共有した後の沈黙だった。
誰にも悪意はない。
それが救いだ。
リュシエンヌも、カイラも、王女も、アデライデも、俺を潰そうとはしていない。むしろ、潰さないように必死で言葉を選び、距離を測り、自分の重みを抑えようとしている。
だから救われる。
だが、誰にも悪意がないからこそ、救いようのない溝もある。
彼女たちは、自分の好意を消すことはできない。
俺も、それを完全に拒むことはできない。
なら、どうしようもない。
どうしようもないから、俺が強くなるしかない。
彼女たちに小さくなれと言うのではなく。
好意を向けるなと言うのではなく。
俺が、受け取り方を覚えるしかない。
より多くの好意を。
より強い敵意を。
より深い未練を。
より冷たい裏切りを。
置き場所を決め、持てる形に変える。
それが、俺の力なのだろう。
見えることではなく。
触れることでもなく。
置き直すこと。
名前をつけ、場所を決め、誰か一人の体に全部乗らない形にすること。
それが、俺がこの世界で少しずつ覚えていることだった。
医療室の窓の外で、霧が晴れ始めていた。
王都の屋根が見える。
西区の赤黒い糸も、北棟の銀の糸も、王女の白金も、消えてはいない。
むしろ、これからもっと重くなるだろう。
三日後には偽装襲撃がある。
王城内にはノルヴァルトの協力者がいる。
貴族院は王女に抗議し、軍務局は帰還兵を疑い、神殿は死者の名を掲げることを拒む。
重みは増える。
たぶん、確実に。
だが、俺はもう、最初の森で女騎士の忠誠に膝をついた男ではない。
竜の好意に潰れるだけの男でもない。
王女の国一つ分の言葉に縛られるだけの男でもない。
倒れはする。
まだ倒れる。
でも、倒れたあとに、少しだけ立ち方がわかる。
それは成長と呼んでも、たぶん許される。
王女が立ち上がった。
「今日は、セイジ殿の体調を見ながら、アデライデ殿の腹心との接触準備を進めます」
「休憩込みでお願いします」
「はい」
「殿下自身も」
「はい」
「本当に?」
王女は少しだけ視線を逸らした。
「努力します」
「それは働く人の返事です」
リュシエンヌが言った。
「殿下。半刻ではなく、一刻休む予定を入れてください」
王女は少し驚いた顔をした。
「リュシエンヌまで」
「はい。私も学んでいます」
カイラが得意げに言った。
「休まない者は壊れる。壊れてから直すのは面倒だ」
「カイラさん、それ気に入ってますね」
「良い言葉だ」
アデライデが淡々と頷いた。
「軍でも採用すべきです」
「敵国に広めないでください」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いの重みは、軽かった。
軽い笑い。
久しぶりに、そう感じた。
医療室を出る前に、俺は立ち上がった。
少しふらついたが、倒れなかった。
リュシエンヌが手を出しかける。
俺はその手を見た。
差し出された手。
俺を支えたいという好意。
以前なら、重いと思って身を引いたかもしれない。
今は、違った。
「少しだけ」
俺は言った。
リュシエンヌは頷き、手を貸してくれた。
青白い糸が、隣に並ぶ。
俺はそれを背負わなかった。
横に置いた。
歩ける。
医療室の廊下へ出る。
前には王女の白い糸。
後ろにはカイラの金色の熱。
テーブルの上に置かれたアデライデの謝罪は、彼女自身が拾い直し、今は少し離れたところで銀色に収まっている。
そして俺の胸には、元の世界へ伸びる灰白の糸がある。
それだけは、まだ置き場所が決まっていない。
でも、焦らなくていい。
いつか、決める。
許しを求めるためではなく。
重みを戻すためでも、押しつけるためでもなく。
ただ、間違えた好意を、間違えたまま腐らせないために。
廊下の先で、朝の光が差していた。
王都は今日も重い。
だが、俺は歩き出した。
重いものを全部背負うのではなく、置き場所を探しながら。
それが、今の俺にできる強さだった。




