表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/13

第九章 好かれることは呪いでもある

 朝、王城の窓は白かった。

 雨ではない。

 霧だった。

 王都の屋根も、遠くの尖塔も、城壁も、すべて薄い白に沈んでいる。二つの月はもう見えず、代わりに東の空がぼんやり明るくなり始めていた。王城の高い窓から見ると、街全体が息を潜めているようだった。

 だが、俺には静かには見えなかった。

 霧の中に、糸が走っている。

 西区からは、まだ赤黒い糸が揺れている。帰還兵たちの怒りと恐怖と、折れかけた忠誠。

 北棟からは、銀色の糸が細く伸びている。アデライデの裏切り。自国を愛しているからこそ切ろうとしている、刃のような糸。

 王女イレーネの執務室の方角からは、白金の糸が街へ向かって広がっている。その中心から、俺へ向かう細い白い糸もある。国ではなく、彼女個人からの軽めの約束。

 廊下の向こうからは、リュシエンヌの青白い糸が近づいてくる。

 さらに下の中庭からは、カイラの金色の糸が熱を帯びて揺れている。竜の好意は、遠くにあってもわかりやすい。火を使わないようにしていても、存在そのものが少し熱い。

 そして、俺の胸の奥には、元の世界へ伸びる灰白の糸がある。

 好意を間違えた過去。

 謝れなかった相手。

 帰りたい場所。

 帰りたくても、何に帰りたいのかまだ決められない場所。

 俺は窓辺に立ったまま、しばらく動けなかった。

 昨日、魔導院の水盤で見たものが、まだ体に残っている。

 片岡千尋の笑顔。

 その笑顔を、俺は都合よく読んだ。

 みんなの前で逃げ場を塞ぎ、冗談に見せかけて踏み込み、傷つけた後も、自分が恥をかかずに済む形で流そうとした。

 好意を間違えた。

 拒絶を読み違えた。

 謝罪から逃げた。

 その後悔が、この世界の重みに応答した。

 俺は偶然ここへ落ちたのではない。

 それは、選ばれたというより、合ってしまったというほうが近い。

 世界の裂け目と、俺の情けない願いの形が。

 人の好意が見えればいいのに。

 人の拒絶が、未練が、怒りが、重さでわかればいいのに。

 そう願った男が、本当に見える世界へ落ちた。

 皮肉としてはよくできている。

 物語としては、少し出来すぎている。

 そして、現実としては、かなり腰に来る。

 扉が叩かれた。

「セイジ殿」

 リュシエンヌの声だった。

「どうぞ」

 扉が開く。

 彼女は今日も白い外套をまとっていた。ただ、表情はいつもより少し柔らかい。いや、柔らかいというより、慎重だった。俺を見る目が、どこか壊れ物を見るようになっている。

 それがわかってしまう。

 青白い糸が、いつもより細くなっていた。

 俺を気遣って、重くしないようにしている。

 その気遣いが、また重い。

「眠れましたか」

「少し」

「本当に?」

「嘘をつくほど元気ではありません」

「それは、眠れていないということですね」

「まあ、そうですね」

 リュシエンヌは一歩近づき、そこで止まった。

 昨日までなら、もっと近くまで来ていただろう。

 怪我や疲れを確かめるために、肩に手を置いたかもしれない。だが今朝は、距離を測っている。近づきたい気持ちと、近づけば重くしてしまうのではないかという恐れが、彼女の中でぶつかっていた。

 それが見える。

 見えてしまう。

「リュシエンヌさん」

「はい」

「遠慮してます?」

 彼女は一瞬、言葉に詰まった。

「しています」

「正直ですね」

「セイジ殿に、これ以上重みを乗せたくありません」

 その言葉が、胸に来た。

 軽くしようとしているのに、重い。

 これが厄介なのだ。

 彼女には悪意がない。

 むしろ、優しさしかない。

 優しさで距離を取る。

 優しさで気持ちを抑える。

 だが、抑えた好意は消えない。ただ、形を変えて残る。細くなり、震え、申し訳なさをまとって、こちらへ届く。

「それ、たぶん逆に重いです」

 俺は言った。

 リュシエンヌの顔が少し曇る。

「すみません」

「謝るとさらに」

 彼女は慌てて口を閉じた。

 その反応が少し可笑しかったが、笑うとまた別の重みになりそうで、俺はやめた。

「難しいですね」

 リュシエンヌは小さく言った。

「はい」

「近づけば重くなる。離れても、気にしていることが重くなる」

「そうなんです」

「では、私はどうすれば」

 彼女は本気で困っていた。

 白鷲騎士団副長。

 剣を持てば迷わない人。

 戦場で道を見失わない人。

 その彼女が、俺への好意の置き場所だけはわからずにいる。

 俺は答えられなかった。

 答えられないことが、また重かった。

 廊下の向こうで足音がした。

 今度は荒い。

 カイラだった。

 彼女は扉を開けた瞬間、部屋の中の空気を見て、いや、嗅いで、顔をしかめた。

「湿っている」

「霧ですか」

「違う。お前たちの空気だ」

 竜娘は遠慮がない。

 だが、今日はその遠慮のなさが少し助かった。

 カイラは俺を見るなり、腕を組んだ。

「セイジ。昨日、昔の女の話をしたらしいな」

「言い方」

「白鷲から少し聞いた」

 俺はリュシエンヌを見た。

 彼女は目を伏せた。

「詳しくは話していません。ただ、好意を間違えた記憶だと」

「別に隠しているわけではないです」

「隠したい顔をしている」

 カイラが言った。

 鋭い。

 こういうところで、竜は妙に鋭い。

「隠したいですよ。格好悪い話なので」

「格好悪いなら、直せばいい」

「簡単に言いますね」

「簡単ではないのか」

「簡単ではないです」

「でも、謝る強さを私に教えた」

 カイラはまっすぐ俺を見た。

「なら、お前もやれ」

 金色の糸が伸びる。

 熱い。

 強い。

 単純で、逃げ場がない。

 カイラの好意は、いつもそうだ。彼女は俺を責めているのではない。俺ならできると信じている。その信頼が、竜の熱を持って背中に乗る。

 励ましが重い。

 信頼が重い。

 でも、悪意はない。

 まったくない。

「カイラさん」

「何だ」

「今のはかなり重いです」

 カイラは露骨に困った顔をした。

「またか」

「またです」

「私は、弱く言ったつもりだ」

「竜基準では?」

「そうだ」

「人間基準では強めです」

 カイラは尾を床に叩きそうになり、途中で止めた。

 かなり成長している。

「では、どう言えばいい」

 彼女は不機嫌そうに言った。

「お前なら少しずつできる、くらいで」

 俺が言うと、カイラは真剣に考え込んだ。

「セイジ」

「はい」

「お前なら、少しずつできる」

 金色の糸が細くなる。

 まだ熱い。

 でも、さっきよりずっと持ちやすい。

「それなら持てます」

「面倒だな」

「ありがとうございます」

「礼を言うな。太くなる」

「わかりました」

 廊下から、今度は静かな足音が聞こえた。

 侍女に先導されて、王女イレーネが現れた。

 朝からすでに整っている。白と青の衣装。髪もきっちりまとめられている。ただ、目の下に少し疲れが残っていた。半刻休む練習は、まだ始まったばかりらしい。

「おはようございます」

「おはようございます」

 俺は少し身構えた。

 王女から伸びる白い糸は、今朝も細かった。

 だが、細いから軽いとは限らない。

 彼女の糸は、国の重みとすぐ近くにある。ほんの少し言葉を間違えるだけで、個人の好意が国家の期待に変わりかねない。

 王女自身もそれを知っている。

 だから、彼女も慎重だった。

「セイジ殿」

「はい」

「昨夜の水盤のことを、院長から聞きました」

「早いですね」

「報告を受けました」

「また報告書ですか」

「はい」

「この世界も報告書が多い」

「王国は報告で動きます」

 王女はそう言ってから、少しだけ口元を緩めた。

「ただし、今回は報告書だけで済ませません」

「というと?」

「あなたが元の世界へ帰る道を探すことを、正式に宮廷魔導院の優先課題にします」

 白い糸が伸びた。

 国の制度を伴った好意。

 それは、以前よりずっと軽く調整されている。命令ではない。所有でもない。協力として置こうとしている。

 だが、それでも重い。

 王国の優先課題。

 帰還のための支援。

 俺のために動く人員と時間と予算。

 それは善意だ。

 間違いなく善意だ。

 そして、善意だからこそ断りにくい。

「殿下」

「はい」

「それは、ありがたいです」

「重いですか」

「かなり」

 王女はすぐに頷いた。

「では、言い直します」

 慣れてきている。

 彼女は本当に学習が早い。

「宮廷魔導院には、あなたの帰還について調べる許可を与えます。ただし、あなたが望まない検査や拘束はしない。あなたの帰還を国益として扱うのではなく、あなた個人の希望として扱う」

 少し軽くなった。

 だが、完全には軽くならない。

 王女が俺のために言葉を選んでいる。

 その事実が、やはり重い。

「それなら、受け取れます」

 俺は答えた。

 王女は安堵したように息を吐いた。

 その安堵が、白い糸に乗る。

 また少し重くなる。

 俺は思わず胸を押さえた。

 王女がすぐに気づいた。

「今のも?」

「少し」

「安堵も重いのですね」

「はい」

 王女は困ったように目を伏せた。

「感情を持つのは、難しいですね」

「殿下が言うと、かなり重いです」

「すみませ」

 言いかけて、彼女は止まった。

 謝ると重くなる。

 それを覚えていた。

 リュシエンヌも、カイラも、王女も、みんな少しずつ言葉を選ぼうとしている。

 誰も悪くない。

 本当に、誰も悪くない。

 だからこそ、逃げ場がない。

 悪意なら拒める。

 命令なら逆らえる。

 敵意なら構えられる。

 だが、好意は違う。

 それぞれが俺を傷つけないようにしている。その気遣いが、信頼が、感謝が、期待が、全部少しずつ俺へ届く。細くしても、軽くしても、消えない。消えないどころか、細くなったぶん、かえって胸の奥に入り込むことがある。

 好かれることは、呪いでもある。

 そう思った。

 思った瞬間、その言葉の重さに自分で驚いた。

 こんなことを言えば、三人は傷つく。

 彼女たちの好意は呪いではない。

 救いだ。

 支えだ。

 温かい。

 でも、同時に呪いでもある。

 受け取った瞬間、逃げられなくなる。

 相手を傷つけたくなくなる。

 相手の期待に応えたくなる。

 応えられない自分を責める。

 そして、相手は悪くない。

 悪くないから、こちらが強くなるしかない。

 俺が。

 強くなるしかない。

「セイジ殿?」

 リュシエンヌの声がした。

 気づくと、部屋が少し傾いて見えた。

 いや、傾いているのは俺の体だった。

 胸元に、三本の糸がある。

 青白い糸。

 金色の糸。

 白い糸。

 それぞれが細く、慎重に、俺を傷つけないように伸びている。

 なのに、重い。

 さらに、遠く北棟から銀色の糸が揺れる。

 アデライデの裏切り。

 彼女は好意を向けているわけではない。だが、俺が彼女の裏切りを見たという事実は、証言の重みとして俺の手の中にある。

 西区から、赤黒い糸が揺れる。

 帰還兵たちの怒り。

 王女の言葉を証言に変えたのは、俺も見ていたからだ。

 元の世界から、灰白の糸が引く。

 千尋。

 謝れなかった相手。

 全部が、同時に揺れた。

 それは、誰かが悪意を持って俺に乗せたものではない。

 誰も悪くない。

 誰もが、少しずつ俺を信じている。

 信じているから、重い。

 信じられることは、こんなに重い。

「セイジ!」

 カイラの声が聞こえた。

 金色の糸が膨らむ。

 心配。

 それがまた重い。

「膨らませないで」

 言おうとしたが、声にならなかった。

 リュシエンヌが俺の腕を掴む。

 青白い糸が強くなる。

 支えたい。

 守りたい。

 倒れさせたくない。

 その全部が、肩に、胸に、背中に乗る。

 王女が一歩近づく。

 白い糸が震える。

 自分のせいかもしれないという恐れ。

 それも重い。

 部屋の床が近づいた。

 倒れる。

 そう思った時、カイラが俺を受け止めようとした。力加減を考えて、途中で止まる。リュシエンヌが支える。王女が侍女を呼ぶ。

 声がいくつも重なる。

 心配。

 後悔。

 恐れ。

 好意。

 全部、重い。

 そして俺は、完全に意識を失った。

 夢を見た。

 元の世界の駅のホームではなかった。

 森でも、王城でも、魔導院でもなかった。

 何もない場所だった。

 空は白く、地面は黒い。

 その間に、糸だけが無数に浮いている。

 青白い糸がある。

 リュシエンヌの糸。

 最初は忠誠だった。

 命を救われた恩義。失われた第三槍隊の後悔。騎士として守るという誓い。それが、同行の約束になり、信頼になり、今はもっと個人的な好意に近づいている。

 彼女の糸は美しい。

 まっすぐで、清潔で、切れそうで切れない。

 だが、まっすぐすぎるから、俺に刺さる。

 金色の糸がある。

 カイラの糸。

 熱く、太く、加減が下手で、でも嘘がない。謝ることを覚えた竜娘の好意。俺を巣の者にしたがる本能を、必死に細くしている。

 彼女の糸は温かい。

 だが、温かすぎて、近づくと火傷する。

 白い糸がある。

 王女イレーネの糸。

 民全体へ広がる白金の愛情の中から、かろうじて取り出された一人分の好意。国ではなく、私として見てほしいという願い。

 彼女の糸は細い。

 だから大切にしなければならないと思ってしまう。

 それが重い。

 銀色の糸がある。

 アデライデの糸。

 忠誠ゆえの裏切り。自国を愛しているから、自国の命令を切ろうとする女将軍の刃。俺に好意を向けているわけではない。だが、彼女の真実を見た者として、俺はその刃の証人になっている。

 彼女の糸は冷たい。

 持つと手が切れる。

 それでも、手放せば戦争になるかもしれない。

 そして、灰白の糸。

 俺自身の糸。

 千尋へ向かう後悔。

 好意を間違えた過去。

 自分が傷つくのを避けるために、相手を傷つけた記憶。

 俺の糸が、一番醜かった。

 そう思った。

 だが、よく見ると違った。

 醜いのではない。

 絡まっているだけだ。

 好意、恥、後悔、自己弁護、謝罪したい気持ち、許されたい欲、二度と関わらないほうがいいという判断。全部が絡まり、汚れた灰白に見えている。

 これも、ほどけるのだろうか。

 俺は糸に触れようとした。

 その瞬間、どこかから声がした。

 誰の声でもない。

 いや、もしかすると、俺自身の声だったのかもしれない。

 受け取るとは、背負うことではない。

 声はそう言った。

 受け取るとは、置き場所を決めることだ。

 置き場所。

 俺は、リュシエンヌの糸を見た。

 それを肩に乗せるから重い。

 カイラの糸を背中で受けるから潰れる。

 王女の糸を胸だけで抱えるから息が詰まる。

 アデライデの糸を手のひらで握るから切れる。

 全部を自分の体の一か所で受けようとしている。

 だから倒れる。

 糸には、それぞれ置き場所がある。

 リュシエンヌの信頼は、隣に置くものだ。

 肩ではなく、横に。

 共に歩く約束として。

 カイラの好意は、背負うものではなく、後ろから温める火だ。

 距離を取れば、火傷しない。

 王女の白い糸は、胸にしまい込むのではなく、目の前に置いて見続けるものだ。

 彼女を国ではなく彼女として見る約束だから。

 アデライデの銀色は、手で握るのではなく、鞘に収めるものだ。

 必要な時に抜く証言として。

 そして、俺自身の灰白の糸は。

 どこへ置く。

 それはまだ、わからない。

 だが、胸の奥で腐らせるものではない。

 誰かにぶつけるものでもない。

 たぶん、言葉にして、折り畳んで、いつか届くかもしれない場所へ置くものだ。

 許しを求めない謝罪。

 返事を求めない謝罪。

 それができるかどうかは、まだわからない。

 だが、置き場所だけは少し見えた。

 目を開けると、白い天井が見えた。

 王城の客室ではない。

 魔導院でもない。

 王城内の医療室だった。

 窓には薄い青の硝子。壁際には薬瓶と清潔な布。天井からは淡い光を放つ石が吊るされている。

 右側にリュシエンヌがいた。

 椅子に座ったまま、眠っていない顔をしている。俺が目を開けると、すぐに立ち上がった。

「セイジ殿」

「どのくらい」

「半刻ほどです」

「思ったより短い」

「こちらは長かったです」

 青白い糸が伸びかけて、彼女は一度息を止めた。

 抑えようとしている。

「リュシエンヌさん」

「はい」

「抑えすぎなくていいです」

「ですが」

「ただ、肩に乗せないでください」

 彼女は目を瞬いた。

「肩に?」

「隣に置いてください」

 自分でも妙なことを言っていると思った。

 だが、言ってみると、不思議と意味があった。

「あなたの信頼は、俺が背負うものではなく、隣に置くものです。同行の約束だから」

 リュシエンヌはしばらく俺を見ていた。

 そして、静かに頷いた。

「隣に」

 青白い糸が形を変えた。

 俺の肩へではなく、俺の左側へ沿うように伸びる。

 重さが消えたわけではない。

 だが、体に乗らない。

 隣に、ある。

 立てかけられた剣のように。

「軽くなりました」

 俺が言うと、リュシエンヌの目が揺れた。

「本当に?」

「はい」

「よかった」

 その安堵も、今度は肩に乗らなかった。

 隣で柔らかく揺れた。

 医療室の反対側で、カイラが起き上がった。

 どうやら床で丸まっていたらしい。竜娘は椅子で眠るのが苦手なのだろう。

「起きたか」

「はい」

「倒れた」

「倒れました」

「弱い」

「はい」

 カイラは眉をひそめた。

「だが、前より弱くはない」

「え?」

「倒れ方が違う」

「倒れ方に種類が?」

「前なら潰れていた。今回は、器が広がる前に溢れた感じだった」

 竜の感覚はよくわからない。

 だが、言っていることは何となくわかった。

 俺は完全に壊れたわけではない。

 受け止められるものが増えたから、そのぶん限界も見えたのだ。

「カイラさん」

「何だ」

「あなたの好意は、背中で受けると潰れます」

「そうだろうな」

「自覚はあるんですね」

「竜だからな」

「なので、少し後ろにいてください。背負うんじゃなくて、後ろから温める火みたいに」

 カイラは真剣に考えた。

「火は近いと焼ける」

「はい」

「遠いと寒い」

「はい」

「なら、ちょうどいい距離か」

「そうです」

 金色の糸が、俺の背中に密着するのをやめた。

 少し後ろへ下がる。

 熱はある。

 でも、焼けない。

 寒くもない。

「これなら持てます」

 俺が言うと、カイラの顔が明るくなった。

 金色の糸が太くなりかける。

「距離」

 俺が言うと、彼女は慌てて抑えた。

「難しい」

「でも、できています」

「本当か」

「はい」

 カイラは満足そうに尾を揺らした。

 床に当てないように、ゆっくり。

 そこへ、王女イレーネが入ってきた。

 入ってくる前に、扉の外で少し立ち止まったのがわかった。白い糸が、ためらうように揺れていたからだ。

「入っても?」

 王女が扉の外から尋ねた。

 珍しい。

 昨日までの彼女なら、必要なら入っただろう。

 俺は少し笑った。

「どうぞ」

 王女は入ってきた。

 今日は冠をつけていない。医療室だからか、それとも個人的な見舞いだからか。白と青の衣装ではあるが、外套は脱いでいる。そのせいで、いつもより少し若く見えた。

「セイジ殿」

「はい」

「倒れたと聞きました」

「倒れました」

「私たちのせいですね」

「違います」

 王女の白い糸が重くなりかける。

 俺は手を上げた。

「それを胸に乗せないでください」

 王女は足を止めた。

「胸に?」

「殿下の好意は、俺の胸に直接来ると少し苦しいです」

「では、どこへ置けば」

 彼女は真剣だった。

 王女が、自分の好意の置き場所を尋ねている。

 少し前なら、考えられない光景だ。

「俺の前に置いてください」

「前に」

「殿下は、俺に自分を国ではなく自分として見てほしいと言いました。なら、俺が見る場所に置いてください。胸にしまうんじゃなくて、目の前に」

 王女はゆっくり頷いた。

「見られる場所に置く」

「はい」

「隠さない、ということですか」

「たぶん」

 白い糸が、俺の胸元に入るのをやめた。

 代わりに、俺の前、手を伸ばせば触れられる距離に浮かぶ。

 小さな白い糸。

 細いが、切れそうではない。

 俺はそれを見た。

「これなら大丈夫です」

 王女は小さく息を吐いた。

「よかった」

「今の安堵も、そこに」

 王女は少し慌てたように、自分の胸に手を当てた。

 そして、白い糸の揺れを前へ置いた。

 思わず笑ってしまいそうになった。

 氷冠の王女が、好意の置き場所に四苦八苦している。

 それは可笑しいと同時に、少し愛おしい光景だった。

 言葉にすると重くなりそうなので、言わなかった。

 王女は医療室の椅子に腰を下ろした。

「院長は、あなたの倒れた理由を、好意と誓約の過負荷だと言っていました」

「そうでしょうね」

「彼は、とても興奮していました」

「やめてほしいですね」

「記録したがっています」

「もっとやめてほしい」

 リュシエンヌが静かに言った。

「しかし、倒れた後、セイジ殿の糸の扱いは変わっています」

「俺にも少し実感があります」

 これは、倒れる前とは違う。

 好意をただ重いものとして受けるのではなく、置き場所を決める。

 隣に。

 後ろに。

 前に。

 手の中に。

 胸に。

 糸によって、場所を変える。

 それだけで、体への負担が違う。

 俺は強くなったのだろうか。

 強くなった、と言うと大げさだ。

 だが、少しは扱えるようになっている。

 最初の頃、リュシエンヌの忠誠だけで膝をつきそうになっていた。カイラの好意には本当に潰れかけた。王女の「国のものにします」には全身を縛られた。

 今は違う。

 まだ倒れる。

 でも、倒れた後に、少しだけ置き方がわかった。

 成長。

 そう呼んでいいのかもしれない。

 その時、医療室の扉がもう一度叩かれた。

 入ってきたのは、女性士官だった。

「殿下。黒鷹のアデライデ殿より、セイジ殿の容態が許すなら話したいことがあると」

「今ですか」

 俺が聞くと、女性士官は少し困った顔をした。

「彼女の腹心三名についてです」

 王女の表情が変わった。

「通してください。ただし護衛を」

「すでに」

 少しして、アデライデが入ってきた。

 黒い軍服。銀の縁取り。頬の傷。姿勢は変わらない。敵国の将軍としての冷たさを保っている。ただ、俺を見る目に、ほんのわずかな気遣いがあった。

 それを彼女は表情に出さない。

 だが、糸には出る。

 銀色の糸の横に、薄い灰青の糸が一本だけあった。

 責任。

 誘拐したことへの責任。

 それをこちらへ乗せまいとしている。

 だが、乗せまいとしていることが見える。

 本当に、みんな面倒だ。

「セイジ殿」

 アデライデは言った。

「倒れたと聞きました。原因の一部は私でしょう」

「一部は、たぶん」

「謝罪します」

「謝罪は、そこに置いてください」

 俺は医療室のテーブルを指した。

 アデライデの眉が少し動いた。

「そこ?」

「はい。俺に直接乗せると重いので、テーブルの上に。必要な時に見ます」

 アデライデはしばらく俺を見ていた。

 そして、少しだけ口元を緩めた。

「奇妙な交渉です」

「俺もそう思います」

「ですが、わかりました」

 彼女の灰青の糸が、俺へ伸びるのをやめ、テーブルの上に置かれるように形を変えた。

 見えないはずの糸が、見えないはずのテーブルに置かれる。

 俺以外には、たぶん何も見えていない。

 だが、重さは確かに変わった。

「軽くなりました」

「それは何よりです」

 アデライデは王女へ向き直った。

「殿下。私の単独決断について、補足します」

「聞きましょう」

「決断は私一人です。ノルヴァルト摂政府も軍上層部も知りません。ただし、実行に関わった者が三人います」

 王女は頷いた。

「腹心ですね」

「はい。ひとりは王都潜入担当。名はリゼ。元斥候です。色を消す訓練を受けています。掲示板に黒鷹の布を刺し、西区の動きを見ていました」

「色を消す」

 俺は言った。

「見えました。あの時、空白の糸を持つ人がいた」

「彼女です」

 アデライデは続けた。

「二人目は軍医のオルン。眠り蔓を扱った者です。あなたを傷つけず眠らせるために使いました。彼はあなたに使用した量を、子供にも致死しない量に調整しています」

「それはありがたい、でいいんでしょうか」

「誘拐なので、ありがたがる必要はありません」

「正直ですね」

「三人目は老兵ガル。退路と馬車を用意しました。私がまだ若い指揮官だった頃、命を救われたと本人は言っています。私は命令しただけですが」

「本人はそう思っていないのですね」

「はい」

 アデライデの胸から、三本の糸が伸びた。

 それぞれ違う色をしている。

 リゼと思われる糸は、薄い灰色。姿を消すために自分の感情を押し殺している。

 オルンの糸は、くすんだ緑。薬と毒の間を歩く者の重み。

 ガルの糸は、古い青。主君への忠誠というより、戦場で命を預けた相手への信頼。

 そして、それらはすべてアデライデへ結ばれていた。

 盲目的ではない。

 彼女が命令すれば死ぬ、という重さはある。

 だが、死にたいのではない。

 この女将軍が、これ以上兵を死なせたくないと思っていることを、彼らは知っている。

 だから従っている。

「重いですね」

 俺は言った。

 アデライデは小さく頷いた。

「はい」

「でも、あなたは慕われています」

「慕われている、という言葉は適切ではありません」

「そうですか?」

「彼らは、私の判断を信じているだけです」

「それを慕われていると言うんじゃないでしょうか」

 アデライデは少し黙った。

 王女が横から言った。

「黒鷹。受け取りなさい」

 アデライデが王女を見る。

「殿下に言われるとは」

「私も最近言われました」

 王女は平然と言った。

 部屋の空気が少し緩んだ。

 アデライデは、ほんのわずか苦笑した。

「では、受け取ります。彼らは私を信じている」

 その言葉で、アデライデの三本の糸が少し整った。

 彼女もまた、好意や信頼を受け取るのが下手なのだ。

 敵も味方も、結局そこに行き着く。

 受け取れない人間たちが、国や忠誠や使命に言い換えて生きている。

 その言い換えが、ときどき人を救い、ときどき人を潰す。

「セイジ殿」

 アデライデが俺を見た。

「三人の糸を、あなたに見ていただきたい。彼らが私のためだけに動いているなら、私はこの計画を止めます」

「どういう意味ですか」

「彼らが私個人への忠誠だけで裏切りに加担しているなら、それは私が彼らを巻き込んでいるだけです。ですが、彼ら自身も戦争を止めたいと願っているなら、私は彼らを仲間として扱える」

 重い。

 この人もまた、自分の好意や忠誠を他人へ背負わせることを恐れている。

 カイラが小さく言った。

「面倒な女だな」

「あなたもかなり面倒です」

「私はわかりやすい」

「それはそう」

 俺は少し笑った。

 金色の糸が後ろで温かく揺れる。

 今度は、ちゃんと距離がある。

「見ます」

 俺はアデライデに言った。

「ただし、今日倒れたばかりなので、全部は一度に無理です」

「承知しました」

「殿下」

 俺は王女を見た。

「アデライデさんの腹心を見るのは、戦争を止めるために必要です。でも、俺の体の都合も予定に入れてください」

 王女は一瞬だけ目を見開いた。

 それから、静かに微笑んだ。

「はい。あなたの体の都合も、予定に入れます」

 白い糸が前で揺れる。

 持てる。

 俺は受け取った。

 リュシエンヌが隣で頷く。

 青白い糸は、俺の左側にある。

 カイラの金色は後ろに。

 王女の白は前に。

 アデライデの謝罪はテーブルの上に。

 それぞれに置き場所がある。

 完全ではない。

 まだ、少し気を抜けば重なる。

 だが、さっきより呼吸がしやすい。

「セイジ殿」

 リュシエンヌが言った。

「今、少し強くなりましたね」

「そう見えますか」

「はい」

 カイラも言った。

「器が広がった」

 王女が言った。

「受け取る場所を、あなた自身で決めたからでしょう」

 アデライデが静かに付け加えた。

「軍でも同じです。荷は背に負うだけではありません。馬車に載せるもの、倉に置くもの、前線へ送るもの、今捨てるものを分ける。分けなければ、軍は潰れる」

「人の好意も兵站ですか」

 俺が言うと、アデライデは真面目に頷いた。

「ある意味では」

「嫌なたとえだけど、わかりやすいですね」

 部屋に、短い沈黙が落ちた。

 それは、重すぎる沈黙ではなかった。

 少し疲れた人たちが、一つのことを共有した後の沈黙だった。

 誰にも悪意はない。

 それが救いだ。

 リュシエンヌも、カイラも、王女も、アデライデも、俺を潰そうとはしていない。むしろ、潰さないように必死で言葉を選び、距離を測り、自分の重みを抑えようとしている。

 だから救われる。

 だが、誰にも悪意がないからこそ、救いようのない溝もある。

 彼女たちは、自分の好意を消すことはできない。

 俺も、それを完全に拒むことはできない。

 なら、どうしようもない。

 どうしようもないから、俺が強くなるしかない。

 彼女たちに小さくなれと言うのではなく。

 好意を向けるなと言うのではなく。

 俺が、受け取り方を覚えるしかない。

 より多くの好意を。

 より強い敵意を。

 より深い未練を。

 より冷たい裏切りを。

 置き場所を決め、持てる形に変える。

 それが、俺の力なのだろう。

 見えることではなく。

 触れることでもなく。

 置き直すこと。

 名前をつけ、場所を決め、誰か一人の体に全部乗らない形にすること。

 それが、俺がこの世界で少しずつ覚えていることだった。

 医療室の窓の外で、霧が晴れ始めていた。

 王都の屋根が見える。

 西区の赤黒い糸も、北棟の銀の糸も、王女の白金も、消えてはいない。

 むしろ、これからもっと重くなるだろう。

 三日後には偽装襲撃がある。

 王城内にはノルヴァルトの協力者がいる。

 貴族院は王女に抗議し、軍務局は帰還兵を疑い、神殿は死者の名を掲げることを拒む。

 重みは増える。

 たぶん、確実に。

 だが、俺はもう、最初の森で女騎士の忠誠に膝をついた男ではない。

 竜の好意に潰れるだけの男でもない。

 王女の国一つ分の言葉に縛られるだけの男でもない。

 倒れはする。

 まだ倒れる。

 でも、倒れたあとに、少しだけ立ち方がわかる。

 それは成長と呼んでも、たぶん許される。

 王女が立ち上がった。

「今日は、セイジ殿の体調を見ながら、アデライデ殿の腹心との接触準備を進めます」

「休憩込みでお願いします」

「はい」

「殿下自身も」

「はい」

「本当に?」

 王女は少しだけ視線を逸らした。

「努力します」

「それは働く人の返事です」

 リュシエンヌが言った。

「殿下。半刻ではなく、一刻休む予定を入れてください」

 王女は少し驚いた顔をした。

「リュシエンヌまで」

「はい。私も学んでいます」

 カイラが得意げに言った。

「休まない者は壊れる。壊れてから直すのは面倒だ」

「カイラさん、それ気に入ってますね」

「良い言葉だ」

 アデライデが淡々と頷いた。

「軍でも採用すべきです」

「敵国に広めないでください」

 少しだけ笑いが起きた。

 その笑いの重みは、軽かった。

 軽い笑い。

 久しぶりに、そう感じた。

 医療室を出る前に、俺は立ち上がった。

 少しふらついたが、倒れなかった。

 リュシエンヌが手を出しかける。

 俺はその手を見た。

 差し出された手。

 俺を支えたいという好意。

 以前なら、重いと思って身を引いたかもしれない。

 今は、違った。

「少しだけ」

 俺は言った。

 リュシエンヌは頷き、手を貸してくれた。

 青白い糸が、隣に並ぶ。

 俺はそれを背負わなかった。

 横に置いた。

 歩ける。

 医療室の廊下へ出る。

 前には王女の白い糸。

 後ろにはカイラの金色の熱。

 テーブルの上に置かれたアデライデの謝罪は、彼女自身が拾い直し、今は少し離れたところで銀色に収まっている。

 そして俺の胸には、元の世界へ伸びる灰白の糸がある。

 それだけは、まだ置き場所が決まっていない。

 でも、焦らなくていい。

 いつか、決める。

 許しを求めるためではなく。

 重みを戻すためでも、押しつけるためでもなく。

 ただ、間違えた好意を、間違えたまま腐らせないために。

 廊下の先で、朝の光が差していた。

 王都は今日も重い。

 だが、俺は歩き出した。

 重いものを全部背負うのではなく、置き場所を探しながら。

 それが、今の俺にできる強さだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ