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第十章 軽き神は荷を降ろす

 その朝、王都は妙に静かだった。

 静かなのは霧のせいだと思った。

 西区へ向かう馬車の窓から見る街は、昨日より白く、輪郭が曖昧だった。屋根も、路地も、通行人の顔も、薄い布越しに見ているようにぼやけている。王都には相変わらず人が多い。荷車も通る。商人も声を上げる。パン屋の前には列ができ、神殿へ向かう巡礼者もいる。

 なのに、軽い。

 それが妙だった。

 昨日まで王都の上を覆っていた糸の重みが、今朝は薄くなっていた。

 消えたわけではない。

 赤も黒も青も金も白もある。

 だが、色が淡い。

 怒りも、恐怖も、忠誠も、祈りも、どこか水で薄められたように見える。霧のせいではない。俺に見える重みそのものが軽くなっている。

 最初は、よい変化なのかと思った。

 西区の帰還兵たちの怒りが少し鎮まったのかもしれない。王女イレーネが証言を掲示したことで、名前が数字ではなく名前として扱われた。その効果が出たのかもしれない。

 だが、違和感があった。

 怒りが言葉になった時の軽さではない。

 悲しみが誰かに受け取られた時の静けさでもない。

 もっと別のものだ。

 重みの置き場所が決まったのではなく、重みそのものが抜かれている。

 そんな感じがした。

「セイジ殿」

 隣に座るリュシエンヌが言った。

「顔色が悪いです」

「少し、街が軽いです」

「軽い?」

「昨日までの重みが、薄くなっています」

 向かいに座る王女イレーネが、すぐに表情を変えた。

 今日の彼女は王城の外套を羽織っているが、冠はない。西区へ行くため、いつものように目立ちすぎない服装にしている。とはいえ、彼女が王女であることは隠せない。姿勢も、視線も、声も、隠せないものを持っている。

「西区だけですか」

「王都全体に見えます。ただ、西区の方が濃い。いや、濃いというより、薄まり方が大きい」

「薄まり方」

 王女はその言葉を繰り返した。

 アデライデが静かに言った。

「士気低下とは違いますか」

 敵国の女将軍は、今日は黒い軍服の上に灰色の外套を羽織っていた。王都内では目立ちすぎるため、黒鷹の徽章は外している。それでも、彼女の姿勢と眼差しだけで、ただ者ではないことは隠せない。

 彼女の銀色の裏切りの糸も、今日は少し薄く見えた。

 いや、薄いのは彼女の糸ではなく、それを取り巻く空気かもしれない。

「士気低下なら、もっと重く沈むと思います」

 俺は答えた。

「これは、沈むというより、抜けています」

「戦場で、恐怖が抜けた兵は危険です」

 アデライデが言った。

「勇敢になるのですか」

 リュシエンヌが尋ねる。

「違います。自分がなぜ戦っているのかわからなくなる。命令も恐怖も怒りも、全部が遠くなる。そういう兵は、剣を落とすか、突然笑い出すか、何も考えず前へ出る」

「それは、かなりまずいですね」

 俺が言うと、アデライデは頷いた。

「かなり」

 カイラは馬車の後ろで窮屈そうにしていた。

 竜娘用の馬車など王城にはない。結局、普通の馬車を少し改造し、尾を出せるようにしたが、それでも彼女には狭いらしい。彼女は窓の外を見ながら鼻を鳴らした。

「匂いも薄い」

「匂い?」

「人間の街は、いつも臭い。怒り、汗、肉、金、嘘、酒、祈り。今朝は水で洗ったみたいだ」

「きれいになったということですか」

「違う」

 カイラは眉をひそめた。

「食べ物から味だけ抜いたみたいだ」

 それは、俺の感覚にも近かった。

 味が薄い。

 香りが消えたわけではない。

 だが、何かが抜けている。

 馬車は西区の広場に着いた。

 昨日、帰還兵たちが名前を語った場所だ。掲示板には、今朝も証言が張り出されている。トルド。ベイム。ラシュ。サナ。死者の名と、彼らの小さな記憶。

 だが、掲示板の前に立つ人々の顔が、昨日と違っていた。

 昨日は、読んで泣く者がいた。拳を握る者がいた。名前を読み上げ、誰かに伝えようとする者がいた。

 今朝は、人々は静かに読んでいる。

 静かすぎる。

「へえ」

 誰かが言った。

「気の毒だね」

 その声は、本当に気の毒そうだった。

 だが、そこで終わっていた。

 怒りへつながらない。

 祈りへもつながらない。

 記憶へもつながらない。

 ただ、軽い同情として、掲示板の前に落ちる。

 そして、すぐに消える。

 ハルヴァンが広場の端に立っていた。

 片目の元百人長。

 昨日は、胸の中に赤黒い怒りと折れかけた青い忠誠を持っていた男だ。

 今朝の彼の糸は、奇妙だった。

 青が薄い。

 赤も薄い。

 黒も薄い。

 まるで、雨に濡れたインクが流れてしまったように、色が広がり、輪郭を失っている。

「ハルヴァン」

 王女が声をかけた。

 彼は姿勢を正そうとした。

 だが、その動作にも、昨日までの張りがない。

「殿下」

「昨夜から何かありましたか」

「いいえ。騒ぎはありません」

「帰還兵たちは」

「落ち着いています」

 それだけ聞けば、よい報告だった。

 だが、ハルヴァンの声には、何かが足りなかった。

「落ち着いている、とは」

 王女が尋ねた。

「怒っていないのですか」

「怒りはあります」

 ハルヴァンは少し考えてから答えた。

「たぶん」

「たぶん?」

「不思議なのです。昨日まで、腹の底が燃えていた。トルドの名を口にするだけで、喉が焼けるようだった。今朝は、その名を言っても、遠い」

 彼は掲示板を見た。

「覚えています。トルド。麦農家の三男。歌が下手だった。覚えています。なのに、その重みが、手から滑る」

 俺は息を呑んだ。

 記憶は消えていない。

 感情の重みだけが薄れている。

「他の人も?」

 俺が聞くと、ハルヴァンは頷いた。

「昨夜、数人が夢を見たと言っていました」

「夢?」

「白い手が現れて、荷を降ろしてよいと言ったそうです。もう苦しまなくてよい。もう怒らなくてよい。もう覚えていなくてよい、と」

 リュシエンヌが剣の柄に手を置いた。

 カイラの尾がゆっくり揺れる。

 王女は顔色を変えなかったが、彼女から伸びる白金の糸が少し強くなった。

「神殿区の動きは」

 王女が女性士官に尋ねる。

 眼鏡の女性士官は、すぐに書類を開いた。

「昨夜、神殿区の小礼拝堂で『荷降ろしの祈り』が行われています。西区の住民や帰還兵の家族が多数参加。主催は、正規神官ではなく、巡回説教師の一団です」

「荷降ろしの祈り」

 俺は繰り返した。

 嫌な響きだった。

「この国には、そういう神がいるんですか」

 王女は少し黙った。

 アデライデが先に答えた。

「古い辺境信仰に、軽き神というものがあります」

「軽き神」

「苦しみを軽くする神。後悔を薄め、恨みを風にし、死者への執着をほどくとされる。戦場では、時々その名を聞きます。遺族や負傷兵の間で」

「悪い神なのですか」

「救いの神です」

 アデライデは言った。

「少なくとも、信じる者にとっては」

 王女が続けた。

「王都の正神殿では、軽き神は正式には祀られていません。異端とまではされていませんが、危険な慰撫信仰として距離を置いています」

「なぜ危険なんですか」

 リュシエンヌが尋ねた。

 王女は掲示板の前の人々を見た。

「苦しみは軽くなるべきです。ですが、苦しみが軽くなる時、記憶まで軽くなることがある」

 その言葉で、俺は王都の上に漂う薄さの正体が少しわかった気がした。

 重みを置き直すのではない。

 重みを消してくれる。

 それは、救いだ。

 たしかに救いだ。

 ハルヴァンたちの怒りは、重すぎた。死者の名を語るだけで喉が焼けるような痛みなど、本来人が毎日抱えていいものではない。軽くなるなら、そのほうがいいのかもしれない。

 だが、軽くなった怒りは、補償を求める力を失う。

 軽くなった悲しみは、死者の名を掲げ続ける理由を失う。

 軽くなった後悔は、謝る必要を失う。

 軽くなった好意は、誰かのそばにいる理由を失う。

 俺は胸元を押さえた。

 そこにあるはずの白い糸。

 王女イレーネから俺へ伸びる、個人的な好意。

 今朝、それが少し薄い気がした。

 いや、王女の糸だけではない。

 隣に置いていたリュシエンヌの青白い糸も、後ろにあったカイラの金色も、手の届く場所にあったものが、霧の中で輪郭を失いつつある。

 俺は三人を見た。

 リュシエンヌは広場を警戒している。

 カイラは鼻を鳴らし、薄い匂いに苛立っている。

 王女はハルヴァンと話している。

 誰もおかしくは見えない。

 だが、糸が薄い。

「セイジ殿」

 王女がこちらを向いた。

「何が見えますか」

 俺は答える前に、彼女の白い糸を探した。

 ある。

 だが、昨日より細い。

 軽く調整したのではない。

 誰かに薄められている。

「殿下」

「はい」

「俺への糸が、薄くなっています」

 王女の表情が止まった。

「私から、あなたへの?」

「はい」

 リュシエンヌとカイラが同時にこちらを見る。

 アデライデも、わずかに目を細めた。

「好意が薄くなっている、ということですか」

 王女の声は落ち着いていた。

 落ち着きすぎていた。

 それもまた怖かった。

「たぶん」

「私は、あなたを気にかけています」

「はい」

「あなたを国ではなく、あなた自身として扱うと約束しました」

「はい」

「その記憶はあります」

「記憶はあるんです」

「ですが」

 王女は自分の胸に手を当てた。

「昨日ほど、胸が動きません」

 その言葉が、俺の背中を冷やした。

 王女は嘘をつかない。

 少なくとも、今この場では。

「軽くなっているのですね」

 彼女は言った。

「私の、あなたへの好意が」

 言葉だけなら残っている。

 約束も残っている。

 だが、そこに乗っていた温度が薄くなる。

 俺はリュシエンヌを見た。

「リュシエンヌさんは?」

 彼女はすぐに答えようとした。

 だが、一瞬だけ遅れた。

 その一瞬が、痛かった。

「私は、セイジ殿を守ると決めています」

「はい」

「手の届くところにいてほしいとも、言いました」

「はい」

「それは覚えています」

「でも?」

 リュシエンヌの青白い糸が、霧の中で揺れた。

「なぜそこまで強く言ったのか、少し遠いのです」

 胸の奥が、鈍く痛んだ。

 リュシエンヌの言葉は誠実だった。

 だから余計に痛い。

 覚えている。

 なのに、重みが遠い。

「カイラさん」

 俺は彼女を見る。

 カイラは不機嫌そうに顔をしかめていた。

「私は、お前を巣の者に」

 言いかけて、彼女は止まった。

「違う。巣ではない。王都まで一緒に歩くと言った」

「はい」

「私は、お前の火を消さないところが気に入った」

「はい」

「気に入った、はずだ」

 カイラの金色の糸が、遠くで火の粉のように瞬いた。

「なぜだ。熱が薄い」

 竜娘の顔に、初めて明確な恐れが浮かんだ。

「セイジ。これは、嫌だ」

 その言葉に、俺は少し救われた。

 嫌だと思ってくれている。

 完全には消えていない。

 アデライデが低く言った。

「軽き神の手です」

「神が、本当にいるのですか」

 俺が聞くと、王女が答えた。

「この世界で神と呼ばれるものは、必ずしも人の形をした存在ではありません。祈りが集まり、名が与えられ、重みが一定の形を持つと、神格のように振る舞うことがあります」

「つまり、人々が苦しみを軽くしてほしいと願うと」

「軽くするものが生まれる」

 王女の声は冷たかった。

 いや、冷たくしようとしていた。

「その存在が、今、王都で動いている」

 ハルヴァンが呟いた。

「軽くなるなら、いいのではないですか」

 その声は、本当に疲れていた。

「殿下。俺たちは疲れました。怒るのにも、覚えているのにも、国を信じるのにも、裏切られたと思うのにも。軽くなるなら、それで」

「補償は」

 王女が言った。

「トルドたちの名は」

「覚えています」

「その重みは」

 ハルヴァンは答えなかった。

 掲示板の前で、誰かが証言の紙を一枚剥がそうとしていた。

 王女の護衛が止める。

 その男は不思議そうな顔をした。

「もういいでしょう」

 男は言った。

「死んだ人のことを、いつまでも貼っておくのは気の毒だ」

「昨日、あなたはその名を読んで泣いていました」

 女性士官が言うと、男は困ったように笑った。

「そうでしたか」

 広場が、急に寒くなった気がした。

 怒りがない。

 だから揉めない。

 悲しみが薄い。

 だから泣かない。

 後悔が軽い。

 だから謝らない。

 それは平和に似ていた。

 あまりにも、平和に似ていた。

 王女が言った。

「神殿区へ向かいます」

「殿下」

 女性士官が止めようとする。

「今、軽き神の祈りが広がれば、西区は鎮まります。ですが、同時に証言の力も消える。帰還兵の補償も、王位継承をめぐる問題も、ノルヴァルトの偽装襲撃も、すべて『もういい』で流される」

 アデライデが頷いた。

「戦争前の沈黙に似ています」

「沈黙?」

「兵が死ぬことに慣れ、遺族が泣くことに疲れ、国が次の命令を待つだけになる。あれは平穏ではありません。火の前の灰です」

 カイラが低く唸った。

「灰は、まだ燃える」

 俺たちは神殿区へ向かった。

 神殿区は王都の東側にある。

 白い石の広場を中心に、正神殿、大礼拝堂、孤児院、施療院、巡礼者宿が並んでいる。いつもなら祈りの声や鐘の音が響いているのだろうが、その日は奇妙な静けさに包まれていた。

 正神殿の裏手に、小さな礼拝堂があった。

 古い建物だった。

 扉の上に正式な神殿の紋章はない。代わりに、天秤の片皿から羽が舞い上がるような印が刻まれていた。

 その印を見た瞬間、俺の胸がざわついた。

 天秤。

 俺の魂の相。

 心の重みを量る者。

 その片皿から、重みが消え、羽になる。

 軽き神。

 礼拝堂の中から、歌が聞こえていた。

 低い歌。

 子守歌のようでもあり、葬送歌のようでもある。

 言葉は単純だった。

 荷を降ろせ。

 名を風に。

 涙を水に。

 後悔を羽に。

 もう持たなくてよい。

 もう覚えなくてよい。

 もう愛さなくてよい。

 最後の一節で、俺は足を止めた。

 もう愛さなくてよい。

 それは救いだ。

 愛することに疲れた者には。

 死者を愛し続けることに疲れた者には。

 国を愛し、裏切られた兵には。

 民を愛し、誰にも愛されない王女には。

 俺を気にかけ、重くしないよう苦しんでいるリュシエンヌには。

 好意を抑えようとしているカイラには。

 自国を愛し、裏切ろうとしているアデライデには。

 そして、好意を間違えた過去を抱えた俺には。

 もう愛さなくてよい。

 それは、なんて甘い言葉だろう。

 礼拝堂の扉が開いた。

 中には、多くの人がいた。

 帰還兵。

 遺族。

 商人。

 神官見習い。

 王都の住民。

 皆、静かな顔をしている。

 祭壇の前に、白い衣を着た説教師が立っていた。男とも女ともつかない、細い人だった。年齢もよくわからない。顔立ちは整っているが、どこか輪郭が曖昧だった。

 その背後に、白い布で覆われた像がある。

 像の形は見えない。

 ただ、像の周りから無数の薄い糸が伸び、礼拝堂の人々の胸から重みを吸い上げていた。

 吸い上げられた糸は、白い羽のようになって、天井へ消えていく。

「ようこそ」

 説教師が言った。

 声は柔らかかった。

「王女殿下。黒鷹の将。白鷲の騎士。金鱗の竜。そして、秤の人」

 秤の人。

 俺のことだ。

 リュシエンヌが剣に手をかける。

 カイラの喉に火が灯る。

 王女の白金の糸が強くなる。

 アデライデの銀色が鋭くなる。

 だが、そのすべてが、礼拝堂の中ではすぐに薄まり始める。

「ここでは、争わなくてよいのです」

 説教師は微笑んだ。

「重いでしょう。とても重いでしょう。民を愛することも、国を裏切ることも、騎士として守ることも、竜として好くことも、過去の過ちを覚えていることも」

 俺は何も言えなかった。

 この存在は、こちらのことを知っている。

 いや、知っているというより、重みを読んでいる。

 俺と似ている。

 だが、逆だ。

 俺は重みを見て、置き場所を探す。

 この存在は、重みを抜く。

「あなたが軽き神ですか」

 王女が尋ねた。

 説教師は首を傾げた。

「神とは、呼ぶ者がいるから生まれる名です。私はただ、荷を降ろす手です」

「誰の命で動いています」

「命じる者はいません。願う者がいるだけです」

「王都で今これを行えば、帰還兵の証言は消えます。補償を求める力も」

「苦しみも消えます」

「記憶の重みを奪うことは救いではありません」

「苦しむ者に、それを言えますか」

 説教師は静かに広場から来た帰還兵たちを見た。

「彼らは眠れない。死者の名が喉に刺さる。怒るたび、失った友の顔が燃える。国を憎もうとしても、かつて捧げた忠誠が胸を裂く。あなたは、それを持てと言うのですか」

 王女の白金の糸が震えた。

「持てる形に変えるべきです」

「それには時間がかかります」

「かかります」

「その間に、人は壊れます」

 説教師の声は責めていなかった。

 だからこそ、強かった。

「私は壊れる前に軽くするだけです」

 俺はその言葉を聞きながら、自分の胸にある灰白の糸を感じた。

 千尋へ向かう後悔。

 それも軽くしてくれるのだろうか。

 あの場の笑顔。

 自分の愚かさ。

 謝れなかった記憶。

 それを、もう持たなくてよいと言ってくれるのだろうか。

 その誘惑は、思っていたより強かった。

 リュシエンヌが一歩、前に出ようとした。

 だが、足が止まる。

「セイジ殿」

 彼女が俺を見た。

 目が揺れている。

「私は、なぜあなたを守ろうとしているのでしょう」

 胸が凍った。

「リュシエンヌさん」

「覚えています。森で会いました。あなたは私を助け、灰角狼の恐怖をほどいた。私はあなたと王都まで同行すると約束しました」

「はい」

「でも、その約束が、遠い」

 彼女の青白い糸が、礼拝堂の空気に溶けていく。

「あなたを失いたくないと思ったはずなのに、その重みが」

「待ってください」

 俺は手を伸ばした。

 だが、糸は指の間をすり抜ける。

 カイラが唸った。

「セイジ」

「カイラさん」

「お前の匂いが薄い」

「匂い?」

「違う。私の中のお前の匂いだ。お前の言葉が、火に残っていた。謝る強さ。焼かない練習。王都まで歩く。覚えている。だが、熱がない」

 金色の糸が、火花になって散っていく。

「嫌だ」

 カイラは初めて、子供のように言った。

「これは嫌だ」

 王女が自分の胸を押さえた。

「セイジ殿」

 彼女の声は、かすかに震えていた。

「あなたを、国ではなくあなたとして見る。そう約束しました。覚えています」

「はい」

「ですが、今、その約束が、文書のように見えます」

「文書」

「記録された事実です。感情ではない」

 白い糸が、紙のように薄くなる。

 俺は息ができなくなりそうだった。

 アデライデが目を細める。

「私の裏切りも薄い」

 彼女は淡々と言った。

 だが、その淡々とした声の奥に、わずかな焦りがあった。

「ノルヴァルトを愛しているから裏切る。その重みが、戦術判断に変わっていく。危険です。これでは、私は本当にただの亡命者になる」

 説教師は微笑んでいた。

「楽でしょう」

 俺はその声を聞いた。

「皆、楽になります。あなたも」

 白い布をかけられた像から、細い糸が俺へ伸びてきた。

 色はない。

 透明な糸。

 触れた瞬間、体が軽くなった。

 本当に軽くなった。

 肩が楽になった。

 背中が楽になった。

 胸の奥が広がる。

 リュシエンヌの信頼が薄くなる。

 カイラの好意が遠のく。

 王女の白い糸が紙のように軽くなる。

 アデライデの裏切りは、他人事になる。

 西区の怒りも、帰還兵の悲しみも、元の世界の千尋への後悔も、全部、少しずつ遠ざかっていく。

 楽だった。

 驚くほど楽だった。

 俺は、こんなに重かったのかと思った。

 こんな重さを毎日抱えて歩いていたのか。

 軽くなると、息ができる。

 膝が笑わない。

 胸が痛まない。

 誰かの好意に応えなければならないという焦りもない。

 誰かを傷つけた過去も、霧の向こうへ消える。

 もう、誰かに好かれなくていい。

 もう、誰かを気にしなくていい。

 もう、帰る理由も、残る理由も、考えなくていい。

 ただ、軽い。

 これが救いなら、救われたいと思った。

 一瞬、本当にそう思った。

 その時、リュシエンヌの声がした。

「セイジ殿」

 弱い声だった。

 感情の重みを失いかけた声。

 それでも、彼女は俺の名を呼んだ。

「私は、あなたを忘れたくありません」

 その言葉は、ほとんど重みを持っていなかった。

 だからこそ、届いた。

 重いからではない。

 消えかけているから、届いた。

 カイラが言った。

「セイジ。熱が消えるのは嫌だ」

 王女が言った。

「私は、あなたを文書にしたくありません」

 アデライデが言った。

「証人を失えば、裏切りはただの逃亡になる」

 四人の言葉は、どれも弱かった。

 好意も、信頼も、裏切りも、薄くなっている。

 だが、完全には消えていない。

 俺は透明な糸を見た。

 軽き神の糸。

 それは悪意ではない。

 本当に、重みを軽くしてくれる。

 苦しみを消してくれる。

 後悔を薄めてくれる。

 好意の重さも、期待の重さも、全部抜いてくれる。

 これを悪だと言い切ることはできない。

 壊れそうな人間には、必要な時もあるのだろう。

 でも。

 全部を軽くしたら、何も残らない。

 怒りが消えれば、補償を求める力も消える。

 後悔が消えれば、謝る理由も消える。

 好意が消えれば、隣にいる理由も消える。

 悲しみが消えれば、名前を呼び続ける理由も消える。

 それは救いだ。

 そして、消滅だ。

 俺は自分の胸に手を当てた。

 灰白の糸を探す。

 千尋へ向かう、情けない後悔。

 それも薄くなっていた。

 このままなら、俺は楽になる。

 あの場で傷つけたことも、謝れなかったことも、好意を間違えたことも、遠い昔の小さな失敗になる。

 そのほうが生きやすい。

 だが、それを失ったら、俺はなぜこの世界に来たのかわからなくなる。

 俺は、重みを見たいと願った。

 逃げるためでもあった。

 だが、今は少し違う。

 見えてしまったものを、なかったことにしたくない。

 リュシエンヌの青白い糸。

 カイラの金色。

 王女の白。

 アデライデの銀。

 それらが薄くなっていくのを、俺は見たくなかった。

「軽き神」

 俺は言った。

 説教師が微笑む。

「はい、秤の人」

「あなたは、荷を降ろしてくれる」

「そうです」

「でも、降ろした荷を、どこへ置くんですか」

 説教師の笑みが、少しだけ止まった。

「置く必要はありません。羽になります」

「羽になった名は、誰が呼ぶんですか」

「呼ばなくてよいのです」

「呼ばれなくなった人は、どこへ行くんですか」

「風へ」

「便利ですね」

 俺は息を吸った。

 体が重く戻り始める。

 透明な糸に逆らうと、一気に重みが戻ってきた。

 苦しい。

 膝が震える。

 だが、まだ立っている。

「俺は、荷を降ろすことを否定しません」

 俺は言った。

「降ろさないと潰れる人もいる。それはわかります。でも、あなたは置き場所を奪っている。重みを羽にして、誰のものでもなくしている」

「それが救いです」

「救いかもしれない」

 俺は認めた。

「でも、全部それにしたら、人は誰の名前も持てなくなる」

 説教師の背後の白い布が、ゆっくり揺れた。

 像の下から、白い光が漏れる。

 礼拝堂にいた人々が、一斉にこちらを見た。

 みんな静かな顔をしている。

 怒りも恐怖もない。

 それが怖かった。

「秤の人」

 説教師の声が、少し低くなった。

「あなたは、重みを愛しているのですか」

「愛してはいません」

「では、なぜ」

「捨てたくないだけです」

「苦しみも?」

「はい」

「後悔も?」

「はい」

「あなたを潰す好意も?」

 俺はリュシエンヌを見た。

 彼女の青白い糸は、消えかけながらも俺へ向かっていた。

 カイラの金色も。

 王女の白も。

 アデライデの銀も。

「潰さない置き場所を探します」

 俺は言った。

「それが無理なら?」

「強くなります」

 言った瞬間、胸の奥で何かが鳴った。

 院長が言っていた、魂の座標。

 それがほんの少し、定まった気がした。

「強くなるとは、苦しみに慣れることではありません」

 俺は続けた。

「重みを、一人で背負わない形にすることです」

 説教師の顔から、微笑みが消えた。

 初めてだった。

「それには時間がかかります」

「はい」

「人は待てません」

「待てない人には、手を貸す。でも、全部奪わない」

「あなたにできますか」

「まだできません」

 正直に言った。

「でも、少しずつできるようになっています」

 リュシエンヌの糸が、ほんの少し色を取り戻した。

 青白い光。

 カイラの金色が、火の粉のように瞬く。

 王女の白い糸が、紙ではなく糸に戻る。

 アデライデの銀色が、再び刃の輪郭を持つ。

 説教師が目を細めた。

「あなたが重くするのですね」

「違います」

 俺は首を横に振った。

「もともと重いんです。俺は、それをなかったことにしないだけです」

 白い布が大きく揺れた。

 その下から、手が見えた。

 像ではない。

 本当に、白い手だった。

 細く、長く、性別も年齢もない手。

 それが、祭壇の上から伸びてきた。

 礼拝堂の空気がさらに軽くなる。

 リュシエンヌが膝をつく。

 カイラが牙を食いしばる。

 王女が胸を押さえる。

 アデライデが剣の柄を握るが、抜く理由が遠ざかっている。

 俺も、また軽くなる。

 あまりにも楽で、涙が出そうだった。

 好かれることは呪いでもある。

 そう思ったばかりだった。

 なら、呪いを解いてくれるこの手は、救いなのではないか。

 その誘惑が、最後にもう一度来た。

 俺は目を閉じた。

 そして、ひとつずつ置き場所を思い出した。

 リュシエンヌは隣。

 カイラは後ろの火。

 王女は前に置く白い糸。

 アデライデの銀は鞘。

 西区の怒りは掲示板の名前。

 千尋への後悔は、まだ折り畳めない手紙。

 置き場所を思い出すたび、重みが戻る。

 苦しい。

 だが、立っている。

 俺は白い手へ向かって言った。

「俺の荷は、俺が置きます」

 手が止まった。

「あなたには渡しません」

 礼拝堂の床が揺れた。

 いや、揺れたのは俺の視界かもしれない。

 白い手が、ふっと消える。

 説教師の姿が薄くなる。

 礼拝堂にいた人々が、夢から覚めたようにざわめき始めた。

「ここは」

「私は何を」

「トルド」

 誰かがその名を呼んだ。

 途端に泣き崩れた。

 重みが戻ったのだ。

 完全にではない。

 だが、戻った。

 帰還兵が声を上げて泣く。

 遺族が掲示板の紙を抱きしめる。

 神官見習いが膝をつき、祈りの言葉を思い出そうとしている。

 礼拝堂は混乱した。

 だが、生きた混乱だった。

 王女がすぐに指示を出した。

「扉を開けて。水を。施療院から人を呼んでください。誰も責めない。祈りに来た者を捕らえない」

 王女の白金の糸が、再び人々へ広がる。

 ただし、今度は少し違う。

 民を丸ごと包むだけではなく、一人一人の名前を避けずに触れている。

 リュシエンヌが俺の隣に来た。

 青白い糸が、戻っている。

 隣に。

「セイジ殿」

「はい」

「思い出しました」

「何を」

「あなたの隣に立ちたいと思った理由を」

 俺は答えられなかった。

 重かった。

 でも、隣に置ける重さだった。

 カイラが後ろから俺の肩を叩こうとして、途中で止めた。

「熱が戻った」

「よかったです」

「嫌だった」

「俺もです」

 金色の糸が、後ろで温かく燃える。

 アデライデは祭壇を見ていた。

「戦場にこれが広がれば、軍は崩壊します」

「よいことでは?」

 俺が聞くと、彼女は首を横に振った。

「崩壊した軍は、統制を失って人を殺します。軽くなった兵は、責任も恐怖も失う。戦争は止まらない。ただ、形を失う」

 王女が戻ってきた。

「軽き神は消えたわけではありません」

「はい」

 俺にもわかった。

 説教師の姿は消えた。

 白い手も消えた。

 だが、王都の霧の中に、まだ透明な糸が残っている。

 むしろ、こちらを覚えた。

 秤の人。

 軽き神は、俺を覚えた。

「皆の俺への感情は」

 俺は恐る恐る尋ねた。

 リュシエンヌが言った。

「戻っています」

 カイラが言った。

「少し薄いところがある。だが、火はある」

 王女が言った。

「私も、あなたを文書ではなく、あなたとして見ています」

 アデライデが言った。

「あなたは、私の裏切りの証人です。残念ながら、消えていません」

「残念ながらですか」

「重いでしょうから」

「重いです」

 俺は頷いた。

「でも、あります」

 それで十分だった。

 完全には戻っていないかもしれない。

 どこか薄くなったところもあるだろう。

 だが、消えなかった。

 そのことに、俺はひどく安心していた。

 好意が重い。

 信頼が重い。

 後悔が重い。

 裏切りも重い。

 それでも、消えてほしくないと思った。

 それは、俺にとって大きな変化だった。

 礼拝堂を出ると、霧は少し薄くなっていた。

 王都の屋根が見える。

 遠く、王城の尖塔が白く光っている。

 だが、空の高いところに、透明な糸がまだ漂っていた。

 軽き神の手。

 王女がそれを見上げることはできない。

 だが、俺の顔を見て、何かが残っていることを悟ったのだろう。

「次に来ますね」

「はい」

 俺は答えた。

「今度は、もっと直接」

 リュシエンヌが剣を握る。

 カイラが低く唸る。

 アデライデが外套を整える。

 王女が静かに言った。

「ならば、軽くされる前に、置き場所を増やしましょう」

「置き場所を?」

「はい。帰還兵の証言は掲示板だけでなく、家族へ、神殿へ、軍務局へ、貴族院へ。それぞれ別の場所に置きます。ひとつを軽くされても、すべては消えないように」

 アデライデが頷いた。

「戦術として正しい」

 カイラが言った。

「火種を分けるのか」

「燃やさない火種です」

 俺が言うと、カイラは少し不満そうだった。

 リュシエンヌが俺の隣に立った。

「セイジ殿の重みも、分けましょう」

「俺の?」

「はい。あなた一人が全部持たないように」

 王女が頷いた。

「あなたが見たことを、記録します。ただし、あなたを国の道具にしない形で」

 アデライデが言った。

「私の裏切りの情報も、段階的に分けます。あなた一人が証人であり続けるのは危険です」

 カイラが言った。

「私は、お前が倒れたら運ぶ」

「それは置き場所なんですか」

「移動手段だ」

「ありがとうございます」

「重くしたか」

「少し。でも持てます」

 カイラは満足そうに笑った。

 俺たちは神殿区を後にした。

 軽き神は消えていない。

 むしろ、これからが本番だろう。

 苦しみも後悔も好意も消してくれる存在。

 それに抗う理由は、簡単ではない。

 苦しみは軽くなっていい。

 後悔も、いつか薄れていい。

 好意だって、相手を潰すほどなら、形を変えなければならない。

 だが、消してしまえば、そこにあった名前も、関係も、約束も消える。

 俺はそれを、さっき見た。

 リュシエンヌが俺を遠く見たこと。

 カイラの熱が薄れたこと。

 王女の好意が文書になったこと。

 アデライデの裏切りがただの戦術になりかけたこと。

 あれは楽だった。

 そして、とても怖かった。

 王都の道を歩きながら、俺は胸元の灰白の糸を感じた。

 千尋への後悔は、まだある。

 軽き神は、それも消してくれるだろう。

 だが、今は渡さない。

 まだ置き場所が決まっていないから。

 決まっていないものを、捨ててはいけない。

 そう思えるくらいには、俺は少し強くなっていた。

 馬車へ戻る前、リュシエンヌが静かに言った。

「セイジ殿」

「はい」

「忘れかけたことが、怖かったです」

「俺もです」

「忘れたくありません」

 青白い糸が隣に並ぶ。

 カイラが後ろで言う。

「私も忘れない。熱が薄くなったら、噛む」

「噛まないでください」

「では、叩く」

「それもできれば」

 王女が前に立ち、振り返った。

「私も、文書にしません」

「はい」

「あなたを、あなたとして見ます」

 白い糸が前に置かれる。

 アデライデは少し離れたところで言った。

「私も、あなたに見られた裏切りを、ただの戦術にしません」

 銀色の糸が鞘に収まる。

 俺はそれぞれの重みを見た。

 重い。

 だが、戻っている。

 戻ってくれている。

 そのことに、胸が痛いほど安心した。

 好かれることは、呪いでもある。

 けれど、忘れられることは、もっと怖い。

 俺は馬車に乗り込む前、もう一度、白い礼拝堂を振り返った。

 扉の上の印。

 天秤の片皿から舞い上がる羽。

 その羽は、風に乗って消える。

 だが、俺は秤の人だ。

 羽にする前に、重みを量る。

 量って、置く。

 それが俺のやることだ。

 馬車が王城へ向かって動き出した。

 空にはまだ、透明な糸が一本、王都の上を漂っていた。

 それはしばらく俺たちを追っていた。

 まるで、こちらがまた疲れるのを待っているように。

 俺は目を逸らさなかった。

 軽くなりたいと思う日が、また来るだろう。

 その時、俺は本当に抗えるのか。

 わからない。

 だが今は、隣に青白い糸があり、後ろに金色の火があり、前に白い糸があり、鞘に銀色の裏切りがある。

 重い。

 でも、ひとりではない。

 それだけが、軽き神には渡したくないものだった。


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