第十章 軽き神は荷を降ろす
その朝、王都は妙に静かだった。
静かなのは霧のせいだと思った。
西区へ向かう馬車の窓から見る街は、昨日より白く、輪郭が曖昧だった。屋根も、路地も、通行人の顔も、薄い布越しに見ているようにぼやけている。王都には相変わらず人が多い。荷車も通る。商人も声を上げる。パン屋の前には列ができ、神殿へ向かう巡礼者もいる。
なのに、軽い。
それが妙だった。
昨日まで王都の上を覆っていた糸の重みが、今朝は薄くなっていた。
消えたわけではない。
赤も黒も青も金も白もある。
だが、色が淡い。
怒りも、恐怖も、忠誠も、祈りも、どこか水で薄められたように見える。霧のせいではない。俺に見える重みそのものが軽くなっている。
最初は、よい変化なのかと思った。
西区の帰還兵たちの怒りが少し鎮まったのかもしれない。王女イレーネが証言を掲示したことで、名前が数字ではなく名前として扱われた。その効果が出たのかもしれない。
だが、違和感があった。
怒りが言葉になった時の軽さではない。
悲しみが誰かに受け取られた時の静けさでもない。
もっと別のものだ。
重みの置き場所が決まったのではなく、重みそのものが抜かれている。
そんな感じがした。
「セイジ殿」
隣に座るリュシエンヌが言った。
「顔色が悪いです」
「少し、街が軽いです」
「軽い?」
「昨日までの重みが、薄くなっています」
向かいに座る王女イレーネが、すぐに表情を変えた。
今日の彼女は王城の外套を羽織っているが、冠はない。西区へ行くため、いつものように目立ちすぎない服装にしている。とはいえ、彼女が王女であることは隠せない。姿勢も、視線も、声も、隠せないものを持っている。
「西区だけですか」
「王都全体に見えます。ただ、西区の方が濃い。いや、濃いというより、薄まり方が大きい」
「薄まり方」
王女はその言葉を繰り返した。
アデライデが静かに言った。
「士気低下とは違いますか」
敵国の女将軍は、今日は黒い軍服の上に灰色の外套を羽織っていた。王都内では目立ちすぎるため、黒鷹の徽章は外している。それでも、彼女の姿勢と眼差しだけで、ただ者ではないことは隠せない。
彼女の銀色の裏切りの糸も、今日は少し薄く見えた。
いや、薄いのは彼女の糸ではなく、それを取り巻く空気かもしれない。
「士気低下なら、もっと重く沈むと思います」
俺は答えた。
「これは、沈むというより、抜けています」
「戦場で、恐怖が抜けた兵は危険です」
アデライデが言った。
「勇敢になるのですか」
リュシエンヌが尋ねる。
「違います。自分がなぜ戦っているのかわからなくなる。命令も恐怖も怒りも、全部が遠くなる。そういう兵は、剣を落とすか、突然笑い出すか、何も考えず前へ出る」
「それは、かなりまずいですね」
俺が言うと、アデライデは頷いた。
「かなり」
カイラは馬車の後ろで窮屈そうにしていた。
竜娘用の馬車など王城にはない。結局、普通の馬車を少し改造し、尾を出せるようにしたが、それでも彼女には狭いらしい。彼女は窓の外を見ながら鼻を鳴らした。
「匂いも薄い」
「匂い?」
「人間の街は、いつも臭い。怒り、汗、肉、金、嘘、酒、祈り。今朝は水で洗ったみたいだ」
「きれいになったということですか」
「違う」
カイラは眉をひそめた。
「食べ物から味だけ抜いたみたいだ」
それは、俺の感覚にも近かった。
味が薄い。
香りが消えたわけではない。
だが、何かが抜けている。
馬車は西区の広場に着いた。
昨日、帰還兵たちが名前を語った場所だ。掲示板には、今朝も証言が張り出されている。トルド。ベイム。ラシュ。サナ。死者の名と、彼らの小さな記憶。
だが、掲示板の前に立つ人々の顔が、昨日と違っていた。
昨日は、読んで泣く者がいた。拳を握る者がいた。名前を読み上げ、誰かに伝えようとする者がいた。
今朝は、人々は静かに読んでいる。
静かすぎる。
「へえ」
誰かが言った。
「気の毒だね」
その声は、本当に気の毒そうだった。
だが、そこで終わっていた。
怒りへつながらない。
祈りへもつながらない。
記憶へもつながらない。
ただ、軽い同情として、掲示板の前に落ちる。
そして、すぐに消える。
ハルヴァンが広場の端に立っていた。
片目の元百人長。
昨日は、胸の中に赤黒い怒りと折れかけた青い忠誠を持っていた男だ。
今朝の彼の糸は、奇妙だった。
青が薄い。
赤も薄い。
黒も薄い。
まるで、雨に濡れたインクが流れてしまったように、色が広がり、輪郭を失っている。
「ハルヴァン」
王女が声をかけた。
彼は姿勢を正そうとした。
だが、その動作にも、昨日までの張りがない。
「殿下」
「昨夜から何かありましたか」
「いいえ。騒ぎはありません」
「帰還兵たちは」
「落ち着いています」
それだけ聞けば、よい報告だった。
だが、ハルヴァンの声には、何かが足りなかった。
「落ち着いている、とは」
王女が尋ねた。
「怒っていないのですか」
「怒りはあります」
ハルヴァンは少し考えてから答えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「不思議なのです。昨日まで、腹の底が燃えていた。トルドの名を口にするだけで、喉が焼けるようだった。今朝は、その名を言っても、遠い」
彼は掲示板を見た。
「覚えています。トルド。麦農家の三男。歌が下手だった。覚えています。なのに、その重みが、手から滑る」
俺は息を呑んだ。
記憶は消えていない。
感情の重みだけが薄れている。
「他の人も?」
俺が聞くと、ハルヴァンは頷いた。
「昨夜、数人が夢を見たと言っていました」
「夢?」
「白い手が現れて、荷を降ろしてよいと言ったそうです。もう苦しまなくてよい。もう怒らなくてよい。もう覚えていなくてよい、と」
リュシエンヌが剣の柄に手を置いた。
カイラの尾がゆっくり揺れる。
王女は顔色を変えなかったが、彼女から伸びる白金の糸が少し強くなった。
「神殿区の動きは」
王女が女性士官に尋ねる。
眼鏡の女性士官は、すぐに書類を開いた。
「昨夜、神殿区の小礼拝堂で『荷降ろしの祈り』が行われています。西区の住民や帰還兵の家族が多数参加。主催は、正規神官ではなく、巡回説教師の一団です」
「荷降ろしの祈り」
俺は繰り返した。
嫌な響きだった。
「この国には、そういう神がいるんですか」
王女は少し黙った。
アデライデが先に答えた。
「古い辺境信仰に、軽き神というものがあります」
「軽き神」
「苦しみを軽くする神。後悔を薄め、恨みを風にし、死者への執着をほどくとされる。戦場では、時々その名を聞きます。遺族や負傷兵の間で」
「悪い神なのですか」
「救いの神です」
アデライデは言った。
「少なくとも、信じる者にとっては」
王女が続けた。
「王都の正神殿では、軽き神は正式には祀られていません。異端とまではされていませんが、危険な慰撫信仰として距離を置いています」
「なぜ危険なんですか」
リュシエンヌが尋ねた。
王女は掲示板の前の人々を見た。
「苦しみは軽くなるべきです。ですが、苦しみが軽くなる時、記憶まで軽くなることがある」
その言葉で、俺は王都の上に漂う薄さの正体が少しわかった気がした。
重みを置き直すのではない。
重みを消してくれる。
それは、救いだ。
たしかに救いだ。
ハルヴァンたちの怒りは、重すぎた。死者の名を語るだけで喉が焼けるような痛みなど、本来人が毎日抱えていいものではない。軽くなるなら、そのほうがいいのかもしれない。
だが、軽くなった怒りは、補償を求める力を失う。
軽くなった悲しみは、死者の名を掲げ続ける理由を失う。
軽くなった後悔は、謝る必要を失う。
軽くなった好意は、誰かのそばにいる理由を失う。
俺は胸元を押さえた。
そこにあるはずの白い糸。
王女イレーネから俺へ伸びる、個人的な好意。
今朝、それが少し薄い気がした。
いや、王女の糸だけではない。
隣に置いていたリュシエンヌの青白い糸も、後ろにあったカイラの金色も、手の届く場所にあったものが、霧の中で輪郭を失いつつある。
俺は三人を見た。
リュシエンヌは広場を警戒している。
カイラは鼻を鳴らし、薄い匂いに苛立っている。
王女はハルヴァンと話している。
誰もおかしくは見えない。
だが、糸が薄い。
「セイジ殿」
王女がこちらを向いた。
「何が見えますか」
俺は答える前に、彼女の白い糸を探した。
ある。
だが、昨日より細い。
軽く調整したのではない。
誰かに薄められている。
「殿下」
「はい」
「俺への糸が、薄くなっています」
王女の表情が止まった。
「私から、あなたへの?」
「はい」
リュシエンヌとカイラが同時にこちらを見る。
アデライデも、わずかに目を細めた。
「好意が薄くなっている、ということですか」
王女の声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
それもまた怖かった。
「たぶん」
「私は、あなたを気にかけています」
「はい」
「あなたを国ではなく、あなた自身として扱うと約束しました」
「はい」
「その記憶はあります」
「記憶はあるんです」
「ですが」
王女は自分の胸に手を当てた。
「昨日ほど、胸が動きません」
その言葉が、俺の背中を冷やした。
王女は嘘をつかない。
少なくとも、今この場では。
「軽くなっているのですね」
彼女は言った。
「私の、あなたへの好意が」
言葉だけなら残っている。
約束も残っている。
だが、そこに乗っていた温度が薄くなる。
俺はリュシエンヌを見た。
「リュシエンヌさんは?」
彼女はすぐに答えようとした。
だが、一瞬だけ遅れた。
その一瞬が、痛かった。
「私は、セイジ殿を守ると決めています」
「はい」
「手の届くところにいてほしいとも、言いました」
「はい」
「それは覚えています」
「でも?」
リュシエンヌの青白い糸が、霧の中で揺れた。
「なぜそこまで強く言ったのか、少し遠いのです」
胸の奥が、鈍く痛んだ。
リュシエンヌの言葉は誠実だった。
だから余計に痛い。
覚えている。
なのに、重みが遠い。
「カイラさん」
俺は彼女を見る。
カイラは不機嫌そうに顔をしかめていた。
「私は、お前を巣の者に」
言いかけて、彼女は止まった。
「違う。巣ではない。王都まで一緒に歩くと言った」
「はい」
「私は、お前の火を消さないところが気に入った」
「はい」
「気に入った、はずだ」
カイラの金色の糸が、遠くで火の粉のように瞬いた。
「なぜだ。熱が薄い」
竜娘の顔に、初めて明確な恐れが浮かんだ。
「セイジ。これは、嫌だ」
その言葉に、俺は少し救われた。
嫌だと思ってくれている。
完全には消えていない。
アデライデが低く言った。
「軽き神の手です」
「神が、本当にいるのですか」
俺が聞くと、王女が答えた。
「この世界で神と呼ばれるものは、必ずしも人の形をした存在ではありません。祈りが集まり、名が与えられ、重みが一定の形を持つと、神格のように振る舞うことがあります」
「つまり、人々が苦しみを軽くしてほしいと願うと」
「軽くするものが生まれる」
王女の声は冷たかった。
いや、冷たくしようとしていた。
「その存在が、今、王都で動いている」
ハルヴァンが呟いた。
「軽くなるなら、いいのではないですか」
その声は、本当に疲れていた。
「殿下。俺たちは疲れました。怒るのにも、覚えているのにも、国を信じるのにも、裏切られたと思うのにも。軽くなるなら、それで」
「補償は」
王女が言った。
「トルドたちの名は」
「覚えています」
「その重みは」
ハルヴァンは答えなかった。
掲示板の前で、誰かが証言の紙を一枚剥がそうとしていた。
王女の護衛が止める。
その男は不思議そうな顔をした。
「もういいでしょう」
男は言った。
「死んだ人のことを、いつまでも貼っておくのは気の毒だ」
「昨日、あなたはその名を読んで泣いていました」
女性士官が言うと、男は困ったように笑った。
「そうでしたか」
広場が、急に寒くなった気がした。
怒りがない。
だから揉めない。
悲しみが薄い。
だから泣かない。
後悔が軽い。
だから謝らない。
それは平和に似ていた。
あまりにも、平和に似ていた。
王女が言った。
「神殿区へ向かいます」
「殿下」
女性士官が止めようとする。
「今、軽き神の祈りが広がれば、西区は鎮まります。ですが、同時に証言の力も消える。帰還兵の補償も、王位継承をめぐる問題も、ノルヴァルトの偽装襲撃も、すべて『もういい』で流される」
アデライデが頷いた。
「戦争前の沈黙に似ています」
「沈黙?」
「兵が死ぬことに慣れ、遺族が泣くことに疲れ、国が次の命令を待つだけになる。あれは平穏ではありません。火の前の灰です」
カイラが低く唸った。
「灰は、まだ燃える」
俺たちは神殿区へ向かった。
神殿区は王都の東側にある。
白い石の広場を中心に、正神殿、大礼拝堂、孤児院、施療院、巡礼者宿が並んでいる。いつもなら祈りの声や鐘の音が響いているのだろうが、その日は奇妙な静けさに包まれていた。
正神殿の裏手に、小さな礼拝堂があった。
古い建物だった。
扉の上に正式な神殿の紋章はない。代わりに、天秤の片皿から羽が舞い上がるような印が刻まれていた。
その印を見た瞬間、俺の胸がざわついた。
天秤。
俺の魂の相。
心の重みを量る者。
その片皿から、重みが消え、羽になる。
軽き神。
礼拝堂の中から、歌が聞こえていた。
低い歌。
子守歌のようでもあり、葬送歌のようでもある。
言葉は単純だった。
荷を降ろせ。
名を風に。
涙を水に。
後悔を羽に。
もう持たなくてよい。
もう覚えなくてよい。
もう愛さなくてよい。
最後の一節で、俺は足を止めた。
もう愛さなくてよい。
それは救いだ。
愛することに疲れた者には。
死者を愛し続けることに疲れた者には。
国を愛し、裏切られた兵には。
民を愛し、誰にも愛されない王女には。
俺を気にかけ、重くしないよう苦しんでいるリュシエンヌには。
好意を抑えようとしているカイラには。
自国を愛し、裏切ろうとしているアデライデには。
そして、好意を間違えた過去を抱えた俺には。
もう愛さなくてよい。
それは、なんて甘い言葉だろう。
礼拝堂の扉が開いた。
中には、多くの人がいた。
帰還兵。
遺族。
商人。
神官見習い。
王都の住民。
皆、静かな顔をしている。
祭壇の前に、白い衣を着た説教師が立っていた。男とも女ともつかない、細い人だった。年齢もよくわからない。顔立ちは整っているが、どこか輪郭が曖昧だった。
その背後に、白い布で覆われた像がある。
像の形は見えない。
ただ、像の周りから無数の薄い糸が伸び、礼拝堂の人々の胸から重みを吸い上げていた。
吸い上げられた糸は、白い羽のようになって、天井へ消えていく。
「ようこそ」
説教師が言った。
声は柔らかかった。
「王女殿下。黒鷹の将。白鷲の騎士。金鱗の竜。そして、秤の人」
秤の人。
俺のことだ。
リュシエンヌが剣に手をかける。
カイラの喉に火が灯る。
王女の白金の糸が強くなる。
アデライデの銀色が鋭くなる。
だが、そのすべてが、礼拝堂の中ではすぐに薄まり始める。
「ここでは、争わなくてよいのです」
説教師は微笑んだ。
「重いでしょう。とても重いでしょう。民を愛することも、国を裏切ることも、騎士として守ることも、竜として好くことも、過去の過ちを覚えていることも」
俺は何も言えなかった。
この存在は、こちらのことを知っている。
いや、知っているというより、重みを読んでいる。
俺と似ている。
だが、逆だ。
俺は重みを見て、置き場所を探す。
この存在は、重みを抜く。
「あなたが軽き神ですか」
王女が尋ねた。
説教師は首を傾げた。
「神とは、呼ぶ者がいるから生まれる名です。私はただ、荷を降ろす手です」
「誰の命で動いています」
「命じる者はいません。願う者がいるだけです」
「王都で今これを行えば、帰還兵の証言は消えます。補償を求める力も」
「苦しみも消えます」
「記憶の重みを奪うことは救いではありません」
「苦しむ者に、それを言えますか」
説教師は静かに広場から来た帰還兵たちを見た。
「彼らは眠れない。死者の名が喉に刺さる。怒るたび、失った友の顔が燃える。国を憎もうとしても、かつて捧げた忠誠が胸を裂く。あなたは、それを持てと言うのですか」
王女の白金の糸が震えた。
「持てる形に変えるべきです」
「それには時間がかかります」
「かかります」
「その間に、人は壊れます」
説教師の声は責めていなかった。
だからこそ、強かった。
「私は壊れる前に軽くするだけです」
俺はその言葉を聞きながら、自分の胸にある灰白の糸を感じた。
千尋へ向かう後悔。
それも軽くしてくれるのだろうか。
あの場の笑顔。
自分の愚かさ。
謝れなかった記憶。
それを、もう持たなくてよいと言ってくれるのだろうか。
その誘惑は、思っていたより強かった。
リュシエンヌが一歩、前に出ようとした。
だが、足が止まる。
「セイジ殿」
彼女が俺を見た。
目が揺れている。
「私は、なぜあなたを守ろうとしているのでしょう」
胸が凍った。
「リュシエンヌさん」
「覚えています。森で会いました。あなたは私を助け、灰角狼の恐怖をほどいた。私はあなたと王都まで同行すると約束しました」
「はい」
「でも、その約束が、遠い」
彼女の青白い糸が、礼拝堂の空気に溶けていく。
「あなたを失いたくないと思ったはずなのに、その重みが」
「待ってください」
俺は手を伸ばした。
だが、糸は指の間をすり抜ける。
カイラが唸った。
「セイジ」
「カイラさん」
「お前の匂いが薄い」
「匂い?」
「違う。私の中のお前の匂いだ。お前の言葉が、火に残っていた。謝る強さ。焼かない練習。王都まで歩く。覚えている。だが、熱がない」
金色の糸が、火花になって散っていく。
「嫌だ」
カイラは初めて、子供のように言った。
「これは嫌だ」
王女が自分の胸を押さえた。
「セイジ殿」
彼女の声は、かすかに震えていた。
「あなたを、国ではなくあなたとして見る。そう約束しました。覚えています」
「はい」
「ですが、今、その約束が、文書のように見えます」
「文書」
「記録された事実です。感情ではない」
白い糸が、紙のように薄くなる。
俺は息ができなくなりそうだった。
アデライデが目を細める。
「私の裏切りも薄い」
彼女は淡々と言った。
だが、その淡々とした声の奥に、わずかな焦りがあった。
「ノルヴァルトを愛しているから裏切る。その重みが、戦術判断に変わっていく。危険です。これでは、私は本当にただの亡命者になる」
説教師は微笑んでいた。
「楽でしょう」
俺はその声を聞いた。
「皆、楽になります。あなたも」
白い布をかけられた像から、細い糸が俺へ伸びてきた。
色はない。
透明な糸。
触れた瞬間、体が軽くなった。
本当に軽くなった。
肩が楽になった。
背中が楽になった。
胸の奥が広がる。
リュシエンヌの信頼が薄くなる。
カイラの好意が遠のく。
王女の白い糸が紙のように軽くなる。
アデライデの裏切りは、他人事になる。
西区の怒りも、帰還兵の悲しみも、元の世界の千尋への後悔も、全部、少しずつ遠ざかっていく。
楽だった。
驚くほど楽だった。
俺は、こんなに重かったのかと思った。
こんな重さを毎日抱えて歩いていたのか。
軽くなると、息ができる。
膝が笑わない。
胸が痛まない。
誰かの好意に応えなければならないという焦りもない。
誰かを傷つけた過去も、霧の向こうへ消える。
もう、誰かに好かれなくていい。
もう、誰かを気にしなくていい。
もう、帰る理由も、残る理由も、考えなくていい。
ただ、軽い。
これが救いなら、救われたいと思った。
一瞬、本当にそう思った。
その時、リュシエンヌの声がした。
「セイジ殿」
弱い声だった。
感情の重みを失いかけた声。
それでも、彼女は俺の名を呼んだ。
「私は、あなたを忘れたくありません」
その言葉は、ほとんど重みを持っていなかった。
だからこそ、届いた。
重いからではない。
消えかけているから、届いた。
カイラが言った。
「セイジ。熱が消えるのは嫌だ」
王女が言った。
「私は、あなたを文書にしたくありません」
アデライデが言った。
「証人を失えば、裏切りはただの逃亡になる」
四人の言葉は、どれも弱かった。
好意も、信頼も、裏切りも、薄くなっている。
だが、完全には消えていない。
俺は透明な糸を見た。
軽き神の糸。
それは悪意ではない。
本当に、重みを軽くしてくれる。
苦しみを消してくれる。
後悔を薄めてくれる。
好意の重さも、期待の重さも、全部抜いてくれる。
これを悪だと言い切ることはできない。
壊れそうな人間には、必要な時もあるのだろう。
でも。
全部を軽くしたら、何も残らない。
怒りが消えれば、補償を求める力も消える。
後悔が消えれば、謝る理由も消える。
好意が消えれば、隣にいる理由も消える。
悲しみが消えれば、名前を呼び続ける理由も消える。
それは救いだ。
そして、消滅だ。
俺は自分の胸に手を当てた。
灰白の糸を探す。
千尋へ向かう、情けない後悔。
それも薄くなっていた。
このままなら、俺は楽になる。
あの場で傷つけたことも、謝れなかったことも、好意を間違えたことも、遠い昔の小さな失敗になる。
そのほうが生きやすい。
だが、それを失ったら、俺はなぜこの世界に来たのかわからなくなる。
俺は、重みを見たいと願った。
逃げるためでもあった。
だが、今は少し違う。
見えてしまったものを、なかったことにしたくない。
リュシエンヌの青白い糸。
カイラの金色。
王女の白。
アデライデの銀。
それらが薄くなっていくのを、俺は見たくなかった。
「軽き神」
俺は言った。
説教師が微笑む。
「はい、秤の人」
「あなたは、荷を降ろしてくれる」
「そうです」
「でも、降ろした荷を、どこへ置くんですか」
説教師の笑みが、少しだけ止まった。
「置く必要はありません。羽になります」
「羽になった名は、誰が呼ぶんですか」
「呼ばなくてよいのです」
「呼ばれなくなった人は、どこへ行くんですか」
「風へ」
「便利ですね」
俺は息を吸った。
体が重く戻り始める。
透明な糸に逆らうと、一気に重みが戻ってきた。
苦しい。
膝が震える。
だが、まだ立っている。
「俺は、荷を降ろすことを否定しません」
俺は言った。
「降ろさないと潰れる人もいる。それはわかります。でも、あなたは置き場所を奪っている。重みを羽にして、誰のものでもなくしている」
「それが救いです」
「救いかもしれない」
俺は認めた。
「でも、全部それにしたら、人は誰の名前も持てなくなる」
説教師の背後の白い布が、ゆっくり揺れた。
像の下から、白い光が漏れる。
礼拝堂にいた人々が、一斉にこちらを見た。
みんな静かな顔をしている。
怒りも恐怖もない。
それが怖かった。
「秤の人」
説教師の声が、少し低くなった。
「あなたは、重みを愛しているのですか」
「愛してはいません」
「では、なぜ」
「捨てたくないだけです」
「苦しみも?」
「はい」
「後悔も?」
「はい」
「あなたを潰す好意も?」
俺はリュシエンヌを見た。
彼女の青白い糸は、消えかけながらも俺へ向かっていた。
カイラの金色も。
王女の白も。
アデライデの銀も。
「潰さない置き場所を探します」
俺は言った。
「それが無理なら?」
「強くなります」
言った瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
院長が言っていた、魂の座標。
それがほんの少し、定まった気がした。
「強くなるとは、苦しみに慣れることではありません」
俺は続けた。
「重みを、一人で背負わない形にすることです」
説教師の顔から、微笑みが消えた。
初めてだった。
「それには時間がかかります」
「はい」
「人は待てません」
「待てない人には、手を貸す。でも、全部奪わない」
「あなたにできますか」
「まだできません」
正直に言った。
「でも、少しずつできるようになっています」
リュシエンヌの糸が、ほんの少し色を取り戻した。
青白い光。
カイラの金色が、火の粉のように瞬く。
王女の白い糸が、紙ではなく糸に戻る。
アデライデの銀色が、再び刃の輪郭を持つ。
説教師が目を細めた。
「あなたが重くするのですね」
「違います」
俺は首を横に振った。
「もともと重いんです。俺は、それをなかったことにしないだけです」
白い布が大きく揺れた。
その下から、手が見えた。
像ではない。
本当に、白い手だった。
細く、長く、性別も年齢もない手。
それが、祭壇の上から伸びてきた。
礼拝堂の空気がさらに軽くなる。
リュシエンヌが膝をつく。
カイラが牙を食いしばる。
王女が胸を押さえる。
アデライデが剣の柄を握るが、抜く理由が遠ざかっている。
俺も、また軽くなる。
あまりにも楽で、涙が出そうだった。
好かれることは呪いでもある。
そう思ったばかりだった。
なら、呪いを解いてくれるこの手は、救いなのではないか。
その誘惑が、最後にもう一度来た。
俺は目を閉じた。
そして、ひとつずつ置き場所を思い出した。
リュシエンヌは隣。
カイラは後ろの火。
王女は前に置く白い糸。
アデライデの銀は鞘。
西区の怒りは掲示板の名前。
千尋への後悔は、まだ折り畳めない手紙。
置き場所を思い出すたび、重みが戻る。
苦しい。
だが、立っている。
俺は白い手へ向かって言った。
「俺の荷は、俺が置きます」
手が止まった。
「あなたには渡しません」
礼拝堂の床が揺れた。
いや、揺れたのは俺の視界かもしれない。
白い手が、ふっと消える。
説教師の姿が薄くなる。
礼拝堂にいた人々が、夢から覚めたようにざわめき始めた。
「ここは」
「私は何を」
「トルド」
誰かがその名を呼んだ。
途端に泣き崩れた。
重みが戻ったのだ。
完全にではない。
だが、戻った。
帰還兵が声を上げて泣く。
遺族が掲示板の紙を抱きしめる。
神官見習いが膝をつき、祈りの言葉を思い出そうとしている。
礼拝堂は混乱した。
だが、生きた混乱だった。
王女がすぐに指示を出した。
「扉を開けて。水を。施療院から人を呼んでください。誰も責めない。祈りに来た者を捕らえない」
王女の白金の糸が、再び人々へ広がる。
ただし、今度は少し違う。
民を丸ごと包むだけではなく、一人一人の名前を避けずに触れている。
リュシエンヌが俺の隣に来た。
青白い糸が、戻っている。
隣に。
「セイジ殿」
「はい」
「思い出しました」
「何を」
「あなたの隣に立ちたいと思った理由を」
俺は答えられなかった。
重かった。
でも、隣に置ける重さだった。
カイラが後ろから俺の肩を叩こうとして、途中で止めた。
「熱が戻った」
「よかったです」
「嫌だった」
「俺もです」
金色の糸が、後ろで温かく燃える。
アデライデは祭壇を見ていた。
「戦場にこれが広がれば、軍は崩壊します」
「よいことでは?」
俺が聞くと、彼女は首を横に振った。
「崩壊した軍は、統制を失って人を殺します。軽くなった兵は、責任も恐怖も失う。戦争は止まらない。ただ、形を失う」
王女が戻ってきた。
「軽き神は消えたわけではありません」
「はい」
俺にもわかった。
説教師の姿は消えた。
白い手も消えた。
だが、王都の霧の中に、まだ透明な糸が残っている。
むしろ、こちらを覚えた。
秤の人。
軽き神は、俺を覚えた。
「皆の俺への感情は」
俺は恐る恐る尋ねた。
リュシエンヌが言った。
「戻っています」
カイラが言った。
「少し薄いところがある。だが、火はある」
王女が言った。
「私も、あなたを文書ではなく、あなたとして見ています」
アデライデが言った。
「あなたは、私の裏切りの証人です。残念ながら、消えていません」
「残念ながらですか」
「重いでしょうから」
「重いです」
俺は頷いた。
「でも、あります」
それで十分だった。
完全には戻っていないかもしれない。
どこか薄くなったところもあるだろう。
だが、消えなかった。
そのことに、俺はひどく安心していた。
好意が重い。
信頼が重い。
後悔が重い。
裏切りも重い。
それでも、消えてほしくないと思った。
それは、俺にとって大きな変化だった。
礼拝堂を出ると、霧は少し薄くなっていた。
王都の屋根が見える。
遠く、王城の尖塔が白く光っている。
だが、空の高いところに、透明な糸がまだ漂っていた。
軽き神の手。
王女がそれを見上げることはできない。
だが、俺の顔を見て、何かが残っていることを悟ったのだろう。
「次に来ますね」
「はい」
俺は答えた。
「今度は、もっと直接」
リュシエンヌが剣を握る。
カイラが低く唸る。
アデライデが外套を整える。
王女が静かに言った。
「ならば、軽くされる前に、置き場所を増やしましょう」
「置き場所を?」
「はい。帰還兵の証言は掲示板だけでなく、家族へ、神殿へ、軍務局へ、貴族院へ。それぞれ別の場所に置きます。ひとつを軽くされても、すべては消えないように」
アデライデが頷いた。
「戦術として正しい」
カイラが言った。
「火種を分けるのか」
「燃やさない火種です」
俺が言うと、カイラは少し不満そうだった。
リュシエンヌが俺の隣に立った。
「セイジ殿の重みも、分けましょう」
「俺の?」
「はい。あなた一人が全部持たないように」
王女が頷いた。
「あなたが見たことを、記録します。ただし、あなたを国の道具にしない形で」
アデライデが言った。
「私の裏切りの情報も、段階的に分けます。あなた一人が証人であり続けるのは危険です」
カイラが言った。
「私は、お前が倒れたら運ぶ」
「それは置き場所なんですか」
「移動手段だ」
「ありがとうございます」
「重くしたか」
「少し。でも持てます」
カイラは満足そうに笑った。
俺たちは神殿区を後にした。
軽き神は消えていない。
むしろ、これからが本番だろう。
苦しみも後悔も好意も消してくれる存在。
それに抗う理由は、簡単ではない。
苦しみは軽くなっていい。
後悔も、いつか薄れていい。
好意だって、相手を潰すほどなら、形を変えなければならない。
だが、消してしまえば、そこにあった名前も、関係も、約束も消える。
俺はそれを、さっき見た。
リュシエンヌが俺を遠く見たこと。
カイラの熱が薄れたこと。
王女の好意が文書になったこと。
アデライデの裏切りがただの戦術になりかけたこと。
あれは楽だった。
そして、とても怖かった。
王都の道を歩きながら、俺は胸元の灰白の糸を感じた。
千尋への後悔は、まだある。
軽き神は、それも消してくれるだろう。
だが、今は渡さない。
まだ置き場所が決まっていないから。
決まっていないものを、捨ててはいけない。
そう思えるくらいには、俺は少し強くなっていた。
馬車へ戻る前、リュシエンヌが静かに言った。
「セイジ殿」
「はい」
「忘れかけたことが、怖かったです」
「俺もです」
「忘れたくありません」
青白い糸が隣に並ぶ。
カイラが後ろで言う。
「私も忘れない。熱が薄くなったら、噛む」
「噛まないでください」
「では、叩く」
「それもできれば」
王女が前に立ち、振り返った。
「私も、文書にしません」
「はい」
「あなたを、あなたとして見ます」
白い糸が前に置かれる。
アデライデは少し離れたところで言った。
「私も、あなたに見られた裏切りを、ただの戦術にしません」
銀色の糸が鞘に収まる。
俺はそれぞれの重みを見た。
重い。
だが、戻っている。
戻ってくれている。
そのことに、胸が痛いほど安心した。
好かれることは、呪いでもある。
けれど、忘れられることは、もっと怖い。
俺は馬車に乗り込む前、もう一度、白い礼拝堂を振り返った。
扉の上の印。
天秤の片皿から舞い上がる羽。
その羽は、風に乗って消える。
だが、俺は秤の人だ。
羽にする前に、重みを量る。
量って、置く。
それが俺のやることだ。
馬車が王城へ向かって動き出した。
空にはまだ、透明な糸が一本、王都の上を漂っていた。
それはしばらく俺たちを追っていた。
まるで、こちらがまた疲れるのを待っているように。
俺は目を逸らさなかった。
軽くなりたいと思う日が、また来るだろう。
その時、俺は本当に抗えるのか。
わからない。
だが今は、隣に青白い糸があり、後ろに金色の火があり、前に白い糸があり、鞘に銀色の裏切りがある。
重い。
でも、ひとりではない。
それだけが、軽き神には渡したくないものだった。




