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第十一章 誰も待たない世界

 翌朝、王都は晴れていた。

 よく晴れていた。

 空は高く、雲は薄く、王城の尖塔は青白い光を受けて、まるで磨き上げられた骨のように見えた。前日まで王都を覆っていた霧は、嘘のように消えていた。屋根の赤、壁の白、水路の青、広場に並ぶ露店の布の色まで、どれもはっきりしている。

 なのに、俺には、すべてが白く見えた。

 色はある。

 音もある。

 人もいる。

 パン屋は朝の焼き立てを並べ、魚屋は水を打ち、荷車は石畳を鳴らしていく。子供たちは走り、犬は吠え、鐘はいつもの時刻に鳴った。

 だが、重みがなかった。

 王都の上に張っていたはずの無数の糸が、朝の光の中で、ほとんど見えなくなっていた。

 青も、赤も、黒も、金も、白も、銀も。

 すべてが、細い光の粉になって空へ散っている。

 風が吹くたび、糸の切れ端が羽のように舞い上がる。

 美しい。

 そう思ってしまった。

 美しいことが、まず怖かった。

 俺は王城の窓辺に立っていた。

 昨夜、神殿区から戻った後、王女イレーネはすぐに手を打った。帰還兵の証言は掲示板だけでなく、軍務局、貴族院、神殿、商会連合、孤児院、施療院、各区の広場に写しが置かれることになった。名前を一か所に集めず、分ける。ひとつが軽くされても、すべてが消えないように。

 アデライデはノルヴァルトの密命の写しを三つに分けた。王女、宮廷魔導院、そして俺がそれぞれ別の形で内容を持つ。俺ひとりが証人にならないように。

 リュシエンヌは王城内の護衛経路を組み直した。カイラは「怪しい匂い」を覚えるために、王城中を嗅ぎ回った。何度か侍女に嫌な顔をされていたが、火は出さなかった。

 俺たちは、置き場所を増やした。

 重みを分けた。

 そのはずだった。

 だが、軽き神は、こちらが置き場所を作るより早かった。

 夜の間に、王都中へ広がったのだ。

 荷を降ろせ。

 名を風に。

 涙を水に。

 後悔を羽に。

 もう持たなくてよい。

 もう覚えなくてよい。

 もう愛さなくてよい。

 その歌が、誰の口から始まったのかはわからない。

 神殿区の小礼拝堂だけではない。西区の井戸端、南市場の酒場、北門の兵舎、貴族区の馬車溜まり、王城の厨房、魔導院の書庫。人が疲れている場所ならどこにでも、白い羽は降りた。

 いや、降りたのではない。

 羽は、胸の中から舞い上がったのだ。

 朝になった時、王都は軽くなっていた。

 誰も怒っていなかった。

 誰も泣いていなかった。

 誰も、昨日の名前を呼ばなかった。

 扉が叩かれた。

「セイジ殿」

 リュシエンヌの声だった。

「どうぞ」

 扉が開いた。

 彼女はいつも通り、白い外套をまとっていた。剣もある。背筋もまっすぐだ。表情も落ち着いている。

 落ち着きすぎていた。

 俺の隣に置いていたはずの青白い糸が、見えない。

 まったくないわけではない。

 薄い線のようなものはある。だが、それは糸というより、記録用紙に引かれた罫線に近かった。そこに温度はない。湿り気もない。震えもない。

「おはようございます」

 リュシエンヌは言った。

「おはようございます」

 俺は答えた。

 少し間が空いた。

 彼女は俺を見ている。

 いつもなら、顔色を気にする。眠れたかと聞く。手の届くところにいてください、と言う。あるいは何も言わず、少しだけ近くに立つ。

 今朝の彼女は、適切な距離に立っていた。

 護衛として、ちょうどよい距離に。

「殿下がお呼びです」

「王女殿下が?」

「はい。軽き神への対応について、協議を行います」

「リュシエンヌさん」

「はい」

「俺のことを、心配していますか」

 聞いた瞬間、自分でも嫌な聞き方だと思った。

 答えを求めている。

 重みを確認しようとしている。

 だが、聞かずにはいられなかった。

 リュシエンヌは少し考えた。

 少し。

 ほんの一呼吸。

「はい。あなたは重要な協力者です。昨夜、神殿区で軽き神に対抗した。その反動も懸念されます」

「協力者」

「はい」

 彼女はまっすぐに答えた。

 嘘ではなかった。

 だから、痛かった。

「それだけですか」

 リュシエンヌは眉をひそめた。

「それだけ、とは?」

 俺は答えられなかった。

 彼女は記憶している。

 森で出会ったこと。

 灰角狼の恐怖をほどいたこと。

 王都まで同行したこと。

 手の届くところにいてほしいと言ったこと。

 隣に置く糸のこと。

 全部、覚えているはずだ。

 だが、その記憶に重みがない。

 日誌の行のように整っている。

 俺は胸のあたりを押さえた。

 痛みはない。

 むしろ、軽い。

 リュシエンヌの青白い糸が消えかけている分、肩も胸も楽だった。

 楽なのに、息が詰まった。

「いえ。行きましょう」

「はい」

 彼女は静かに頷いた。

 俺の前を歩くのではなく、斜め後ろについた。

 護衛として。

 正しい位置だった。

 正しすぎた。

 廊下へ出ると、カイラが壁にもたれていた。

 金色の鱗は朝の光を受けて輝いている。髪も尾も、いつも通り少し乱暴な存在感を持っていた。だが、彼女の周りにあった熱が薄かった。

 背中の後ろに置いた金色の火。

 昨日までは、近すぎれば焼けるが、離れれば温かい火だった。

 今朝は、灯籠の絵のようだった。

 火の形はある。

 熱がない。

「カイラさん」

「セイジ」

 彼女は俺を見た。

 いつものように、尾がぴんと立つことはなかった。

「眠れたか」

「少し」

「そうか」

 会話が終わった。

 それだけだった。

 俺は耐えられずに言った。

「カイラさん、昨日のこと覚えていますか」

「神殿区で、白い手が出た」

「その前です」

「お前が倒れた。私は後ろから温める火になれと言われた」

「それをどう思っていますか」

 カイラは首を傾げた。

「よい比喩だった」

「比喩」

「人間は比喩が好きだ」

「あなたは、俺を巣の者にしたいとか」

「言ったな」

「今は?」

 カイラは少し考えた。

「お前は面白い人間だ」

 それは褒め言葉だった。

 たぶん。

 でも、昨日までなら、その言葉には熱があった。

 今は、珍しい石を見つけた時のような声だった。

 俺は笑おうとした。

 うまくできなかった。

「焼かない練習は?」

「続ける。王都で火を吐くと面倒だからな」

「俺が言ったからではなく?」

「そういう理由もあった気がする」

 カイラは自分の胸に手を当てた。

「だが、遠い」

 彼女の顔に困惑はある。

 だが、苦しみは薄い。

 昨日なら「嫌だ」と言ったはずだ。

 熱が薄くなるのは嫌だ、と。

 今朝は、その嫌だという熱すら薄かった。

「行くぞ」

 カイラは言った。

「王女が待っている」

 王女が待っている。

 その言葉で、俺は胸の前に置いた白い糸を探した。

 見つからなかった。

 いや、正確には、見えた。

 薄い白い線がある。

 それは王城の廊下の前方へ伸びていた。

 だが、そこには昨日までの温度がない。

 国ではなく私として見てほしい。

 その言葉は、まだ記憶にある。

 だが、記憶だけになりかけている。

 王女イレーネの執務室は、朝から整っていた。

 机の上には書類が並び、空中には王都の地図が浮かんでいる。西区、神殿区、北門、貴族院、軍務局。問題がある場所には印がついていた。

 王女はその前に立っていた。

 白と青の衣装。

 冠はない。

 目の下の疲れも、いつもより薄く見える。よく眠ったのかもしれない。いや、違う。疲労の重みが薄くなっているのだ。

「おはようございます、セイジ殿」

「おはようございます」

「体調は?」

「悪くありません」

 本当だった。

 体は軽い。

 よく眠ったわけでもないのに、頭はすっきりしている。胸も痛まない。肩も重くない。好意の糸も、忠誠の糸も、裏切りの糸も、後悔の糸も、ほとんど俺を引いていない。

 快調と言ってもいいくらいだった。

 王女は頷いた。

「それは幸いです」

 言葉は丁寧だった。

 だが、そこに個人的な安堵は薄かった。

「殿下」

「はい」

「俺を、国ではなく俺として見るという約束を覚えていますか」

「覚えています」

「どう感じますか」

 王女は少し黙った。

 それから、静かに言った。

「重要な約束です」

「重要」

「はい。あなたを国益のためだけに扱えば、あなたの力は歪む。あなた自身の意志を尊重することが、結果としてこの国にとっても必要だと判断しています」

 判断。

 その言葉が、胸に冷たく落ちた。

「判断なんですね」

「はい」

 王女は俺を見た。

 その目は澄んでいた。

 氷冠の王女。

 昨日までの彼女にも、氷はあった。

 だが、その氷の下には水が流れていた。

 今朝は、氷がきれいすぎた。

「私は、あなたを個人として尊重します」

「ありがとうございます」

 言えた。

 言えたが、その言葉は床に落ちた。

 何も重くならなかった。

 王女の白い糸も、ほとんど揺れなかった。

 楽だった。

 とても楽だった。

 ありがとうと言っても、相手が照れない。好意が膨らまない。期待が重くならない。こちらも受け取る必要がない。

 なんて楽なのだろう。

 こんなに楽なら、もうこれでいいのではないか。

 一瞬、そう思った。

 その時、執務室の奥にいたアデライデが口を開いた。

「昨夜から、王都内の協力者との接触が途切れました」

 彼女は地図の北西側を指した。

 黒い軍服は変わらない。頬の傷も、鋭い目も変わらない。だが、彼女の銀色の糸もまた、刃というより、細い金属線のようになっていた。

「協力者?」

 王女が尋ねる。

「ノルヴァルト側です。王都内に潜ませた摂政府の者、私の腹心リゼが追っていた線。その動きが止まっています」

「捕らえられたのですか」

「違うでしょう。動く理由を失ったのだと思われます」

「理由を」

「はい」

 アデライデは淡々と言った。

「王女暗殺も、西区騒擾も、国境偽装襲撃も、すべて『重い』任務です。憎悪、忠誠、恐怖、出世欲、復讐心。何かの重みがなければ、人はそこまで動かない。軽き神がそれを薄めたなら、作戦そのものが萎みます」

「それは、戦争回避になるのでは?」

 女性士官が言った。

 アデライデは少しだけ目を伏せた。

「短期的には」

「長期的には?」

「誰も責任を取らなくなります」

 その言葉だけは、少し重かった。

 アデライデの奥に、まだ残っているものがある。

「摂政府は、計画が失敗した理由を記録から消すでしょう。こちらも証拠を使う機会を失う。帰還兵の問題も、補償が出る前に沈む。戦争は避けられるかもしれない。ですが、原因は残る。原因が軽く見えるだけです」

 王女は頷いた。

「その場合、数年後にまた燃えます」

「はい。おそらく、もっと悪い形で」

 俺は地図を見た。

 王都の印が、どれも淡い。

 西区の赤黒い印も、神殿区の白い印も、北西国境の黒赤い印も、まるで水彩のにじみのように薄い。

 問題は消えていない。

 ただ、誰もその問題を重く感じなくなっている。

 王女は羽根ペンを取った。

「では、記録を残します。軽き神の影響下にある現時点で、行政が停止しないよう、最低限の措置を」

 彼女は指示を出し始めた。

 冷静だった。

 見事だった。

 西区の証言掲示は継続。

 ただし、群衆を刺激しない形へ変更。

 帰還兵補償案は貴族院へ再提出。

 軽き神の祈りに対しては、禁止ではなく監視。

 神殿区の説教師は拘束せず、所在確認。

 ノルヴァルト密命については、王女直属の少数班で保全。

 アデライデは非公式接触者として隔離継続。

 すべて正しい。

 すべて適切。

 すべて、軽かった。

 王女は民を愛している。

 その記憶はある。

 だが、今の彼女は民を愛する人というより、民を管理する人に見えた。

 有能で、冷静で、間違えない。

 誰にも愛されなくていい、と言っていた頃の王女に戻ったのかもしれない。

 いや、もっと軽い。

 愛されなくていい、という痛みすら薄い。

 痛みが薄い分、彼女は効率的だった。

 俺は執務室の隅で、何も言えなかった。

 言う必要もないように思えた。

 俺の力も、今は軽い。

 糸が見えても、色が薄い。結び目も緩い。何かをほどく必要もない。重みがないから、置き場所も必要ない。

 俺は役に立たない。

 役に立たなくていい。

 それもまた楽だった。

 会議が終わると、王女は俺を見た。

「セイジ殿。宮廷魔導院で帰還術式の進捗を確認してください」

「帰還術式?」

「はい。院長より、今朝、座標が急に安定したとの報告がありました」

 胸が鳴った。

「安定」

「あなたとこの世界を結ぶ重みが薄れたため、元の世界への座標が取りやすくなった可能性があります」

 王女の声は落ち着いていた。

「よい知らせです」

 よい知らせ。

 そのはずだった。

 俺は帰りたい。

 それはずっと変わらない。

 元の世界には俺の生活がある。やり残したこともある。謝れなかった相手もいる。こちらの世界は、俺の居場所ではない。

 帰還術式が安定した。

 よい知らせだ。

 なのに、誰も動揺しなかった。

 リュシエンヌは静かに言った。

「それは、よかったです」

 カイラは頷いた。

「帰れるなら帰ればいい」

 王女は言った。

「あなたの希望が叶うなら、私も協力します」

 アデライデは言った。

「証人がいなくなるのは戦術上不利ですが、記録で補えます」

 誰も、俺を引き止めなかった。

 いや、引き止めないことが正しいのはわかっている。

 俺は帰りたいと言った。

 彼女たちは、それを尊重している。

 重くしないようにしている。

 軽い世界では、誰も誰かの足を掴まない。

 誰も、帰らないでほしいとは言わない。

 誰も、待つとは言わない。

 誰も、寂しいとは言わない。

 それは、とてもよいことなのかもしれない。

 なのに俺は、胸の奥が空っぽになるのを感じた。

 宮廷魔導院へ行く道は、明るかった。

 昨夜の青い灯りとは違い、朝の光が硝子の回廊に満ちている。床の幾何学模様も、壁の標本瓶も、今日はやけに清潔に見えた。

 リュシエンヌが同行した。

 護衛として。

 カイラもついてきた。

 退屈しのぎとして。

 王女は執務があるため来なかった。

 アデライデは北棟へ戻った。

 普通だ。

 全員の判断が普通だった。

 院長は水盤の部屋で待っていた。

 彼だけは少し興奮していたが、その興奮すら以前より軽かった。

「セイジ殿。興味深いことになっています」

「帰還術式が安定したと聞きました」

「はい。昨夜まで乱れていた魂の座標が、今朝は非常に澄んでおります。こちらの世界との情動的結合が弱まったためでしょう」

「情動的結合」

「好意、信頼、後悔、責任、誓約。そういったものです」

「それが弱まると、帰りやすい」

「理論上は」

 院長は水盤に手をかざした。

 水面に光が走る。

 映ったのは、駅のホームだった。

 元の世界。

 夜のホーム。

 広告看板。

 白い光。

 電車の接近を知らせる音は聞こえなかったが、ホームの端の黄色い線が見えた。

 俺は息を止めた。

 帰れるかもしれない。

 今なら。

 水盤の中のホームは、以前より鮮明だった。

 スマートフォンの画面までは見えない。だが、柱の広告、ホームドア、遠くの階段まで見える。元の世界の冷たい蛍光灯の光が、水面からこちらへ差しているようだった。

 院長が言った。

「完全ではありませんが、一度だけなら試せるかもしれません」

「一度」

「はい。術式には大きな負荷がかかります。失敗すれば、再試行には時間が必要です」

「成功すれば?」

「元の世界へ戻れる可能性が高い」

「戻った後、こちらへは?」

「戻れないでしょう」

 軽い言葉だった。

 いや、院長は事実を言っただけだ。

 だが、その事実を聞いたリュシエンヌも、カイラも、ほとんど反応しなかった。

 リュシエンヌは静かに言った。

「セイジ殿の望みが叶うなら、それが最善です」

 カイラは水盤を覗き込んだ。

「これが、お前の巣か」

「巣ではないです」

「狭そうだ」

「駅です」

「帰りたいなら、行けばいい」

 その言葉に、金色の熱はなかった。

 カイラは本当にそう思っている。

 俺の希望を尊重している。

 それだけだ。

 院長は俺を見た。

「どうしますかな」

「今、ですか」

「今すぐでなくともよい。ただ、軽き神の影響が続く間は、座標が安定しやすい。逆に、情動的結合が戻れば、また乱れるでしょう」

「つまり」

「皆があなたを強く思い出す前に帰るほうが、成功率は高い」

 皆が俺を強く思い出す前に。

 その言葉が、水盤の部屋に静かに落ちた。

 リュシエンヌは何も言わない。

 カイラも何も言わない。

 俺を強く思い出していないからだ。

 覚えてはいる。

 だが、強くはない。

 今なら帰れる。

 俺は水盤のホームを見た。

 帰ればいい。

 それが一番いい。

 この世界に俺の居場所はない。俺は異界の客人で、偶然ではないにしろ、落ちてきただけの男だ。帰る道があるなら、帰るべきだ。

 リュシエンヌも困らない。

 彼女は任務を終える。

 カイラも困らない。

 面白い人間が一人いなくなるだけだ。

 王女も困らない。

 記録と制度で補える。

 アデライデも困らない。

 証言は写しに残っている。

 西区の人々も困らない。

 彼らの怒りは薄くなっている。

 誰も俺を待たない。

 俺が帰っても、誰も待たない。

 それは、なんて楽なのだろう。

 帰った後、元の世界で俺は何をするだろう。

 朝起きて、ニュースを見る。買い物へ行く。古い友人から連絡が来る。病院の予約を確認する。たぶん、どこかで同窓会の話も聞くだろう。千尋に謝るかどうかは、わからない。謝らなくても、時間が経てば軽くなるかもしれない。

 いや、軽くなっている。

 今なら、あの後悔もそれほど痛くない。

 五十を過ぎた男が、酒の場で少し馬鹿なことを言った。

 それだけだ。

 そう思えそうだった。

 そう思えた瞬間、俺は水盤から目を逸らした。

 違う。

 それだけではなかった。

 彼女は笑うしかなかった。

 俺は逃げ道を塞いだ。

 謝らなかった。

 それは、軽くなっていいことではない。

 いや、いつか軽くなってもいい。

 でも、勝手に奪われていいものではない。

 俺は水盤の縁を掴んだ。

「セイジ殿?」

 リュシエンヌが声をかける。

 声は穏やかだった。

 護衛対象の体調を気遣う声。

 それ以上ではない。

 俺は彼女を見た。

「リュシエンヌさん」

「はい」

「俺が帰ったら、あなたはどうしますか」

「任務の報告を行います。その後、白鷲騎士団へ復帰します」

「それだけですか」

「はい」

 即答だった。

 胸が痛まない。

 相手の言葉が軽いから。

 でも、痛まないことが怖い。

「カイラさんは」

「山へ戻るか、王都で竜用の寝床を要求する」

「俺のことは?」

「面白い人間だったと覚えておく」

「待ちませんか」

「待つ?」

 カイラは首を傾げた。

「戻れないのだろう」

「はい」

「なら、待っても仕方ない」

 正しい。

 本当に正しい。

 待っても仕方ない人を待たない。

 それは合理的だ。

 優しいとも言える。

 相手を縛らない。

 戻れないものに執着しない。

 なんて軽くて、なんて正しい世界だろう。

 その正しさに、俺は耐えられなかった。

「院長」

「はい」

「帰還術式は、今すぐ発動できますか」

「準備には一刻ほど」

「では、準備してください」

 リュシエンヌもカイラも、反応しなかった。

 院長は少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。

「承知しました」

 言ってしまった。

 帰る。

 今なら帰れる。

 誰も止めない。

 誰も待たない。

 俺は、その一刻を王城内で過ごすことになった。

 準備の間、俺は自由だった。

 自由すぎた。

 以前なら、リュシエンヌがそばにいると言っただろう。カイラが勝手についてきただろう。王女が最後に話したいと言ったかもしれない。アデライデが戦術上の確認を求めただろう。

 今は、誰も無理に来なかった。

 リュシエンヌは「準備が整うまで警護にあたります」と言い、廊下の適切な位置へ立った。

 カイラは「腹が減った」と言って厨房へ向かった。

 王女へは院長から伝達が行った。

 アデライデにも文書で伝えられた。

 文書で。

 俺の帰還が、文書で共有された。

 それは正しかった。

 手続きとして。

 俺は一人で王城の中庭へ出た。

 中庭には白い花が咲いていた。

 昨日、王女の執務室の窓際に一輪だけ挿してあった花と同じ種類だろう。細い茎に、星のような形の小さな花がついている。風が吹くと、花びらが震える。

 誰もいなかった。

 いや、庭師はいる。

 兵も遠くにいる。

 侍女が水差しを持って通り過ぎる。

 だが、誰も俺を見ていない。

 俺はただの通行人だった。

 異界の客人ですらない。

 帰還予定者。

 記録の対象。

 俺は庭の石段に座った。

 軽い。

 体が軽い。

 もう誰の好意も肩に乗らない。

 背中も熱くない。

 胸も苦しくない。

 手のひらも銀色の刃で切れない。

 元の世界への灰白の糸も、今は淡い。

 あれだけ欲しかった軽さが、ここにある。

 なのに、世界が遠い。

 花も、風も、石段の冷たさも、すべてが絵のようだった。

 きれいで、触れられない。

 誰も誰かを待たない世界。

 それは、こんなに静かなのか。

 中庭の向こうの回廊を、王女イレーネが歩いていた。

 侍女と女性士官を連れている。

 彼女は俺に気づき、足を止めた。

 少し迷ってから、こちらへ来た。

「セイジ殿。帰還術式を試すと聞きました」

「はい」

「よいことです」

「そうですね」

「あなたの希望でした」

「はい」

 王女は俺の隣ではなく、向かいに立った。

 適切な距離。

 礼儀正しい距離。

 個人として近づきすぎない距離。

「殿下は、俺が帰っても困りませんか」

「困ります」

 思わぬ答えだった。

 俺は顔を上げた。

 王女は淡々と続けた。

「あなたの力は、軽き神への対処、帰還兵問題、ノルヴァルト密命の検証に有用です。あなたが不在となれば、代替手段を用意する必要があります」

「そういう困る、ですか」

「はい」

 即答。

 白い糸は揺れない。

「個人的には?」

 王女は少し考えた。

「寂しい、という感情があったように思います」

 あったように。

 過去形に近い。

「今は?」

「あなたの帰還を尊重すべきだと思っています」

「それだけですか」

「それだけでは不足ですか」

 不足。

 まるで資料の項目のような言い方だった。

 俺は笑った。

 今度は少し笑えた。

 笑えたが、喉が痛かった。

「不足ではないです。むしろ、十分すぎるくらい正しいです」

「そうですか」

 王女は頷いた。

「では、帰還術式の成功を祈ります」

 祈ります。

 その言葉も軽い。

 俺は思わず言った。

「待っていてはくれませんか」

 王女は目を瞬いた。

「戻れないのでしょう」

「はい」

「なら、待つという言葉は、あなたを縛ります」

「そうですね」

「私は、あなたを縛るべきではない」

 正しい。

 彼女は学んだのだ。

 俺を国のものにしない。

 俺を縛らない。

 俺を俺として扱う。

 その結果、彼女は俺を待たない。

 正しく学んだことが、軽き神によって、空洞になっている。

「殿下」

「はい」

「俺を、あなたとして見てほしいと言いましたね」

「はい。記憶しています」

「今、俺を見ていますか」

 王女は俺を見た。

 薄い青の瞳。

 美しく、冷静で、静かな目。

「見ています」

「俺は、どう見えますか」

「帰還を前に、判断を迷っている異界の方です」

「そうですか」

「はい」

 そこに、俺はいなかった。

 いや、いる。

 いるが、薄い。

 王女の目に映っているのは、俺という個人ではなく、状況の中の俺だった。

 俺は立ち上がった。

「ありがとうございました」

「こちらこそ」

 王女は礼を返した。

 そして、仕事へ戻った。

 白い花の間を、白と青の背中が遠ざかっていく。

 誰も振り返らない。

 俺はその背中を見ていた。

 待ってほしかったのか。

 自分で自分に呆れた。

 あれほど重い重いと言っていたくせに。

 好意が呪いだと言ったくせに。

 いざ軽くなると、待ってほしいと思う。

 なんて身勝手なのだろう。

 それでも、思ってしまった。

 誰かに、帰らないでほしいと言ってほしかった。

 いや、違う。

 言われたら困る。

 重くなる。

 帰れなくなる。

 だから言ってほしくない。

 でも、言わないでほしくもない。

 人間は本当に面倒だ。

 俺が面倒なのか。

 たぶん、そうだ。

 中庭の出口で、アデライデとすれ違った。

 彼女は足を止めた。

「帰還されるそうですね」

「はい」

「では、密命文書に関するあなたの証言は、王女殿下と宮廷魔導院の記録で代替します」

「そうしてください」

「あなたが帰還した場合、私の裏切りを直接見た者は不在となる。ですが、戦争回避にはまだ手段があります」

「アデライデさんは、それでいいんですか」

「何がです」

「俺がいなくなること」

 彼女は少し考えた。

「不利です」

「不利」

「はい。あなたの証言は有効でした」

「個人的には?」

 また同じことを聞いている。

 俺は自分が嫌になった。

 アデライデは静かに答えた。

「あなたには、私の裏切りを見られました」

「はい」

「見られたことで、私は自分の裏切りをただの作戦にしないでいられた。その意味では、惜しい」

「惜しい」

「はい」

 感情ではなく、評価。

 いや、かすかに感情はある。

 だが、やはり薄い。

「赦すかどうか、聞きましたよね」

「はい」

「今は?」

「必要ありません」

「なぜ」

「重みが薄いからです」

 アデライデは自分で言って、少し眉をひそめた。

「これは、危険ですね」

「そう思いますか」

「はい。罪の重みが薄い将は、危険です」

 その言葉にだけ、少し刃が戻った。

 だが、一瞬だった。

 すぐに薄くなる。

「ご武運を」

 アデライデは言った。

「帰還に武運は関係あるんですか」

「祈りの形式です」

「ありがとうございます」

 彼女は頷き、去った。

 黒い外套が回廊の白い光の中に溶けていく。

 誰も待たない。

 王女も。

 女将軍も。

 竜娘も。

 女騎士も。

 誰も。

 一刻が近づいていた。

 俺は魔導院へ戻った。

 水盤の部屋には、術式が組まれていた。床の銀文字が青く光り、水盤の上には元の世界のホームが揺れている。院長と数名の魔導士が準備を進めていた。

 リュシエンヌは部屋の入口に立っていた。

 カイラは壁際にいた。

 王女も来た。

 アデライデも来た。

 全員が揃った。

 それだけ見れば、見送りの場面だった。

 だが、誰も泣かなかった。

 誰も引き止めなかった。

 誰も、言葉を探して困っていなかった。

 完璧に整った見送りだった。

 院長が言った。

「術式は一度だけです。水盤に入り、光の向こうへ進んでください。あちら側で意識を保つこと。戻りたい場所を強く思い浮かべること」

「はい」

「持ち帰るものは最小限に」

「わかりました」

 俺は荷物袋を持っていなかった。

 スマートフォンも、元の服も、魔導院で保管されている。持っていくかと聞かれたが、術式の安定を優先するなら持たないほうがいいと言われた。

 つまり、俺は手ぶらで帰る。

 この世界のものを、何も持たずに。

 それもまた、正しい。

 異世界のものを不用意に持ち込むべきではない。

 正しいことばかりだ。

 正しすぎて、吐きそうだった。

 水盤の前に立つ。

 ホームの光が揺れている。

 帰れる。

 今なら。

 王女が言った。

「セイジ殿。あなたの帰還が成功することを願います」

「ありがとうございます」

 リュシエンヌが言った。

「道中、お気をつけて」

「道中というのかはわかりませんが、ありがとうございます」

 カイラが言った。

「元の巣で、火を吐くな」

「吐けません」

「そうか」

 アデライデが言った。

「あなたの証言には感謝します」

「どういたしまして」

 会話が終わった。

 終わってしまった。

 俺は水盤を見た。

 ホームの向こうに、元の世界の自分の生活がある。

 そこでは、誰も俺を待っていないかもしれない。

 いや、妻は待っているだろう。家もある。仕事や生活の続きもある。完全に誰も待っていないわけではない。

 だが、この世界の誰も、俺を待たない。

 それが決定的に寂しかった。

 なぜだ。

 俺は帰るだけなのに。

 帰りたいと言っていたのに。

 重い好意から解放されたのに。

 誰も俺を縛っていないのに。

 自由なのに。

 俺は水盤へ足を踏み出した。

 水面が固く光る。

 その時、部屋のどこかで、羽が一枚舞った。

 白い羽。

 軽き神の羽。

 水盤の光に触れ、ふわりと消える。

 その瞬間、俺の胸の中にあった灰白の糸が、ふっと軽くなった。

 千尋への後悔が、さらに遠くなる。

 ああ、もういいか。

 そう思いそうになった。

 過去のことだ。

 誰にでもあることだ。

 好意を間違えることくらい。

 謝らなかったことくらい。

 もういい。

 軽い声が、胸の奥で囁く。

 その声に続いて、リュシエンヌの声も、カイラの声も、王女の声も、アデライデの声も、遠くなる。

 もういい。

 帰ればいい。

 誰も待たない。

 誰も泣かない。

 誰も怒らない。

 誰も、あなたを重くしない。

 それは、優しい声だった。

 俺は足を止めた。

 水盤の光が揺れる。

 院長が言う。

「セイジ殿?」

 俺は振り返った。

 四人が立っている。

 白鷲の女騎士。

 金鱗の竜娘。

 氷冠の王女。

 黒鷹の女将軍。

 みんな、静かな顔をしている。

 美しい一枚絵のようだった。

 漫画なら、見開きにできるだろう。

 白い光。

 水盤。

 帰還の扉。

 そして、誰も泣かない見送り。

 絵としては完璧だった。

 完璧すぎて、死んでいた。

 俺はその絵に耐えられなかった。

「違う」

 声が出た。

 小さかった。

 でも、出た。

 四人が俺を見る。

「何がですか」

 王女が尋ねる。

 俺は水盤から一歩下がった。

「違うんです」

 自分でも何が違うのか、すぐには言えなかった。

 だが、胸の中で何かが重くなり始めていた。

 灰白の糸。

 青白い糸。

 金色の糸。

 白い糸。

 銀色の糸。

 すべてが、消えかけた場所から、少しずつ戻ろうとしている。

「俺は、軽くなりたかった」

 俺は言った。

「ずっと、重いと思っていました。リュシエンヌさんの信頼も、カイラさんの好意も、殿下の白い糸も、アデライデさんの裏切りの証言も、西区の怒りも、元の世界の後悔も。全部重かった」

 誰も何も言わない。

 言葉が軽いからではなく、今度は聞いているからだ。

 そう思いたかった。

「でも、軽くなった世界は、もっと嫌です」

 リュシエンヌの目がわずかに動いた。

「嫌?」

「はい」

 俺は彼女を見た。

「あなたが俺を協力者として見るのは正しい。でも、俺はあなたに、手の届くところにいてくださいと言われたことを覚えています。あれは重かった。でも、あれがないあなたの隣は、寒い」

 リュシエンヌの薄い青白い線が、かすかに震えた。

 次にカイラを見る。

「カイラさん。あなたの好意は熱すぎます。正直、何度も潰れかけました。でも、あなたに『面白い人間』とだけ言われるのは、もっと嫌です。俺は、あなたに焼かない練習をしてほしかった。俺の言葉で、少しだけ尾を止めるあなたを見ていたかった」

 カイラの金色の線が、小さく火花を散らす。

 王女を見る。

「殿下。あなたが俺を尊重してくれるのはありがたいです。でも、あなたに『帰還予定者』みたいな目で見られるのは耐えられない。あなたは俺に、国ではなく私として見てほしいと言った。俺は、それを受け取った。だから俺も、あなたに俺を俺として見てほしい」

 王女の白い線が、紙のような薄さから、少しだけ糸に戻る。

 アデライデを見る。

「アデライデさん。あなたの裏切りは重い。俺は誘拐されたし、正直まだ許したわけじゃない。でも、あなたの裏切りがただの作戦になるのは違う。あなたは国を愛しているから裏切ると言った。その痛みがなければ、戦争を止める理由も薄くなる」

 銀色の線が、かすかに刃の形を取り戻す。

 俺は水盤のホームを見た。

「俺は帰りたいです」

 これは本当だ。

「帰りたい。元の世界で、やらなければならないことがある。謝れるかどうかもわからない相手がいる。生活もある。俺はこの世界の人間じゃない」

 言っていて、胸が痛んだ。

 痛みが戻ってきた。

 それが嬉しかった。

「でも、誰も誰かを待たない世界からは、帰りたくない」

 部屋が静まり返った。

 水盤の光が揺れる。

「待つことは、重いです。待たれることも、待つことも、たぶん呪いです。でも、誰も待たない世界には、関係がない」

 俺は、ようやく言葉を見つけた気がした。

「重みとは、関係そのものだったんです」

 院長が息を呑んだ。

 リュシエンヌの青白い糸が、ゆっくりと隣へ戻ってくる。

 カイラの金色の火が、後ろで温度を持つ。

 王女の白い糸が、俺の前に置かれる。

 アデライデの銀色が、鞘の中で鳴る。

 まだ薄い。

 完全ではない。

 だが、戻ろうとしている。

「好意も、後悔も、怒りも、忠誠も、裏切りも、全部苦しい。でも、それがなければ、人は人に結ばれない。俺は、それを全部背負いたいわけじゃない。背負えない。でも、消したくない」

 白い羽が、部屋の中でまた舞った。

 今度は一枚ではない。

 水盤の上から、床の銀文字から、窓の光の中から、無数の羽が現れる。

 軽き神が聞いている。

 いや、近づいている。

 院長が叫んだ。

「術式が乱れる!」

 水盤のホームが歪む。

 元の世界の光が、白い羽に飲まれかける。

 リュシエンヌが剣を抜こうとした。

 だが、手が止まる。

 まだ重みが戻りきっていない。

 カイラの口元に火が灯るが、熱が弱い。

 王女が命令しようとして、言葉が薄れる。

 アデライデが剣の柄を握り、目を細める。

 白い羽の中心に、あの手が現れた。

 細く、長く、白い手。

 その向こうから、説教師の声がした。

「なぜ拒むのですか、秤の人」

 声は優しかった。

「あなたは今、帰れたのに」

「はい」

「楽になれたのに」

「はい」

「誰もあなたを縛らなかった」

「はい」

「誰もあなたを待たなかった」

 その言葉が、一番重かった。

 軽い神の声なのに。

「だから嫌だったんです」

 俺は言った。

 白い手が、水盤の上で止まる。

「待たれないことは、自由です」

「そうですね」

「自由は悪ですか」

「悪じゃありません」

「では、なぜ」

「俺は、自由と空っぽの区別を間違えたくない」

 その瞬間、水盤のホームが完全に白くなった。

 元の世界への扉が閉じる。

 院長が声を上げた。

「座標が失われます!」

 俺は見ていた。

 帰る道が、白い羽の中に消えていく。

 怖かった。

 泣きたくなるほど怖かった。

 自分で選んだのに。

 帰る機会を、自分で逃したのに。

 でも、俺は手を伸ばさなかった。

 代わりに、後ろを振り返った。

「リュシエンヌさん」

 彼女は顔を上げた。

「はい」

「俺は、あなたに待ってほしいとは言いません」

 青白い糸が震える。

「でも、俺が帰る日まで、隣にいてください」

 彼女の目に、光が戻った。

 完全ではない。

 でも、戻った。

「はい」

 その返事は、重かった。

 隣に置ける重さだった。

「カイラさん」

「何だ」

「俺を巣の者にしないでください」

「しない」

「でも、後ろで火を消さないでください」

 カイラの金色の目が燃えた。

「消さない」

 熱が戻る。

 少し強すぎる。

 でも、今は嬉しかった。

「殿下」

 王女イレーネが俺を見る。

 氷の下の水が戻り始めている。

「俺を国のものにしないでください」

「しません」

「でも、俺を帰還予定者だけにしないでください」

 王女の白い糸が震えた。

「しません」

 その声に、かすかな痛みが戻っていた。

 人間の声だった。

「アデライデさん」

 黒鷹の女将軍が、わずかに顎を上げる。

「あなたの裏切りを、ただの作戦にしないでください」

「しません」

「痛いままで?」

「痛いままです」

 銀色の刃が、鞘の中で重みを取り戻した。

 四本の糸が、俺の周りに戻る。

 隣に青白。

 後ろに金。

 前に白。

 鞘に銀。

 そして胸に、灰白。

 元の世界への後悔。

 千尋への言葉。

 それも、消えない。

 消えないまま、ここにある。

 白い手が、ゆっくりと開いた。

「重くなりますよ」

 軽き神が言った。

「知っています」

「また倒れますよ」

「たぶん」

「苦しみますよ」

「はい」

「それでも?」

 俺は頷いた。

「それでも、誰も誰かを待たない世界よりはいいです」

 白い羽が、一斉に舞い上がった。

 視界が白で埋まる。

 水盤の光が弾ける。

 床の銀文字が消え、魔導士たちが倒れ込む。院長が何か叫んでいる。カイラが俺の後ろで火を吐こうとして、王城内だと思い出したのか、歯を食いしばる。リュシエンヌが俺の隣へ踏み込む。王女が前へ出る。アデライデが剣を抜いた。

 白い手は、消えなかった。

 むしろ、はっきり見えるようになった。

 軽き神は、俺たちの前に立った。

 人の形ではない。

 白い布のようでもあり、羽の集まりのようでもあり、天秤の片皿からこぼれた光のようでもある。顔はない。だが、こちらを見ているのがわかる。

「あなたは、私を否定しますか」

「いいえ」

 俺は答えた。

「あなたは必要です。壊れそうな人には、荷を軽くする手が必要です」

 軽き神の輪郭が揺れた。

「では、なぜ抗う」

「あなたは、荷を消してしまうからです」

「消えれば楽です」

「楽です。でも、何も残らない」

 俺は一歩前へ出た。

 リュシエンヌが隣に並ぶ。

 カイラの熱が後ろにある。

 王女の白い糸が前にある。

 アデライデの銀が鞘から抜かれる。

 俺は一人ではなかった。

 だが、俺が言わなければならない。

「次は、消すのではなく、預かってください」

 軽き神が止まった。

「預かる?」

「はい」

「荷を?」

「そうです。壊れそうな人から、一時的に預かる。名を風にするのではなく、どこかに置く。涙を水にするのではなく、休ませる。後悔を羽にするのではなく、折り畳む。返せる時が来たら、返す」

「人は返された荷に耐えられません」

「だから、一人に返さない。置き場所を作る」

「あなたにできますか」

「俺ひとりにはできません」

 俺は王女を見た。

「でも、王女は名前を置く場所を作れる」

 王女が頷く。

 リュシエンヌを見る。

「騎士は、隣に立てる」

 リュシエンヌが頷く。

 カイラを見る。

「竜は、消えそうな火を守れる」

 カイラが鼻を鳴らす。

 アデライデを見る。

「将軍は、重すぎる荷を分けて運ぶ道を知っている」

 アデライデが静かに剣を下げる。

「俺は、重みを見る。置き場所を探す。全部消すのではなく、全部背負うのでもなく」

 白い羽が、ゆっくりと回り始めた。

 軽き神は沈黙している。

 その沈黙は、軽くなかった。

 初めて、この神自身にも重みがあるのだとわかった。

 人々の願いで生まれた存在。

 苦しみを軽くしてほしいという、無数の祈り。

 その祈りに応え続けた手。

 この神もまた、消すことしか知らなかったのだ。

「秤の人」

 軽き神が言った。

「あなたは、私に重みを与えるのですか」

「役割を変えるだけです」

「それは重い」

「はい」

「神にも、重みを持てと?」

「少しだけ」

 俺は言った。

「持てる形で」

 白い手が震えた。

 それは怒りにも見えた。

 恐れにも見えた。

 そして、どこか安堵にも見えた。

 次の瞬間、白い光が弾けた。

 俺は床に倒れた。

 今度は意識を失わなかった。

 重い。

 ものすごく重い。

 軽くなっていた王都の重みが、一部戻ってきたのだろう。西区の名前、帰還兵の怒り、王女の愛、リュシエンヌの信頼、カイラの熱、アデライデの裏切り、元の世界の後悔。それらが一度に戻る。

 だが、前のようには潰れなかった。

 隣に青白。

 後ろに金。

 前に白。

 鞘に銀。

 胸に灰白。

 置き場所がある。

 だから、倒れても、壊れない。

「セイジ殿!」

 リュシエンヌが隣で膝をつく。

 声に重みが戻っていた。

 心配。

 恐れ。

 好意。

 全部戻っている。

 重い。

 でも、嬉しい。

「セイジ!」

 カイラの声も熱い。

「火、出てませんか」

「出ていない!」

「よかった」

 王女が俺の前に立った。

 白い糸が震えている。

「私は、あなたを待ちます」

 唐突だった。

 重い。

 かなり重い。

 だが、王女はすぐに言い直した。

「いえ、違います。あなたを縛るためではなく。あなたが帰る日まで、あなたをあなたとして見続けます。それを、待つと呼べるなら」

 俺は床に座り込んだまま、頷いた。

「それなら、持てます」

 アデライデが水盤を見た。

「帰還術式は失われましたね」

 院長が床に座り込みながら言った。

「当面は。ですが、座標の一部は記録できました」

「よかったのか、悪かったのか」

 俺は呟いた。

 院長は白い髭を撫でた。

「魔導論としては、非常に興味深い」

「それはやめてください」

「しかし、帰還の道は完全には消えていません」

 俺は水盤を見た。

 ホームはもう映っていない。

 ただ、水面に二つの月が映っていた。

 この世界の月だ。

 帰れなかった。

 帰らなかった。

 その事実が、重くのしかかる。

 だが、不思議と後悔だけではなかった。

 俺は立ち上がろうとした。

 リュシエンヌが手を差し出す。

 今度は迷わなかった。

 その手を取った。

 青白い糸が隣に並ぶ。

 カイラが後ろで尾を揺らす。

 金色の火が温かい。

 王女の白い糸が前にある。

 アデライデの銀色が鞘に収まっている。

 そして、空にはまだ白い羽が一枚、残っていた。

 それは天井の近くで揺れ、消えずに留まっていた。

 軽き神は、消えていない。

 ただ、逃げたわけでもない。

 たぶん、次は話ができる。

 消す神としてではなく。

 預かる神として。

 神にも置き場所が必要なのだとしたら、それを探すのは、俺の役目なのかもしれなかった。

 俺は深く息を吐いた。

 重い。

 世界は、また重くなった。

 でも、さっきの軽い世界よりは、ずっと息がしやすかった。

 誰も誰かを待たない世界には、戻りたくない。

 俺はそのことだけは、はっきりわかった。

 帰るとしても。

 残るとしても。

 誰かの重みがある世界からでなければ、俺は帰れない。

 水盤の部屋を出ると、王城の廊下に朝の光が差していた。

 さっきまで白く平らだった光に、少しだけ影が戻っている。

 影がある。

 それだけで、世界は立体になる。

 リュシエンヌが俺の隣を歩く。

 カイラが後ろで欠伸をする。

 王女が前で侍女に指示を出す。

 アデライデが少し離れて、王城の警備配置を見ている。

 誰も完全には戻っていないかもしれない。

 どこか薄くなったものもあるだろう。

 だが、待つという言葉の重みは戻った。

 それだけで十分だった。

 王城の窓から、王都が見えた。

 西区の方角に、赤黒い糸が少しずつ色を取り戻している。

 痛みも戻る。

 怒りも戻る。

 泣く人も戻る。

 それはつらい。

 でも、そこからしか始まらない。

 俺は胸の灰白の糸に触れた。

 千尋への後悔。

 まだある。

 いつか、元の世界へ帰った時、俺はそれをどう置くのだろう。

 まだわからない。

 でも、軽き神に渡さなかったことだけは、たぶん間違いではない。

 廊下の先で、王女が振り返った。

「セイジ殿」

「はい」

「次は、軽き神と交渉します」

「神と交渉ですか」

「はい」

 彼女は少しだけ笑った。

 氷冠の王女ではなく、少し疲れた若い女性の笑みだった。

「あなたが、神にも置き場所が必要だと言ったので」

「言いましたね」

「では、その置き場所を作りましょう」

 重い仕事だった。

 とても重い。

 でも、俺は笑った。

「はい」

 その返事も、重かった。

 だが、持てる重さだった。

 王都の上で、白い羽が一枚、ゆっくりと落ちた。

 今度は空へ消えなかった。

 中庭の白い花の上に、そっと留まった。

 まるで、初めて置き場所を見つけたように。

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