第十一章 誰も待たない世界
翌朝、王都は晴れていた。
よく晴れていた。
空は高く、雲は薄く、王城の尖塔は青白い光を受けて、まるで磨き上げられた骨のように見えた。前日まで王都を覆っていた霧は、嘘のように消えていた。屋根の赤、壁の白、水路の青、広場に並ぶ露店の布の色まで、どれもはっきりしている。
なのに、俺には、すべてが白く見えた。
色はある。
音もある。
人もいる。
パン屋は朝の焼き立てを並べ、魚屋は水を打ち、荷車は石畳を鳴らしていく。子供たちは走り、犬は吠え、鐘はいつもの時刻に鳴った。
だが、重みがなかった。
王都の上に張っていたはずの無数の糸が、朝の光の中で、ほとんど見えなくなっていた。
青も、赤も、黒も、金も、白も、銀も。
すべてが、細い光の粉になって空へ散っている。
風が吹くたび、糸の切れ端が羽のように舞い上がる。
美しい。
そう思ってしまった。
美しいことが、まず怖かった。
俺は王城の窓辺に立っていた。
昨夜、神殿区から戻った後、王女イレーネはすぐに手を打った。帰還兵の証言は掲示板だけでなく、軍務局、貴族院、神殿、商会連合、孤児院、施療院、各区の広場に写しが置かれることになった。名前を一か所に集めず、分ける。ひとつが軽くされても、すべてが消えないように。
アデライデはノルヴァルトの密命の写しを三つに分けた。王女、宮廷魔導院、そして俺がそれぞれ別の形で内容を持つ。俺ひとりが証人にならないように。
リュシエンヌは王城内の護衛経路を組み直した。カイラは「怪しい匂い」を覚えるために、王城中を嗅ぎ回った。何度か侍女に嫌な顔をされていたが、火は出さなかった。
俺たちは、置き場所を増やした。
重みを分けた。
そのはずだった。
だが、軽き神は、こちらが置き場所を作るより早かった。
夜の間に、王都中へ広がったのだ。
荷を降ろせ。
名を風に。
涙を水に。
後悔を羽に。
もう持たなくてよい。
もう覚えなくてよい。
もう愛さなくてよい。
その歌が、誰の口から始まったのかはわからない。
神殿区の小礼拝堂だけではない。西区の井戸端、南市場の酒場、北門の兵舎、貴族区の馬車溜まり、王城の厨房、魔導院の書庫。人が疲れている場所ならどこにでも、白い羽は降りた。
いや、降りたのではない。
羽は、胸の中から舞い上がったのだ。
朝になった時、王都は軽くなっていた。
誰も怒っていなかった。
誰も泣いていなかった。
誰も、昨日の名前を呼ばなかった。
扉が叩かれた。
「セイジ殿」
リュシエンヌの声だった。
「どうぞ」
扉が開いた。
彼女はいつも通り、白い外套をまとっていた。剣もある。背筋もまっすぐだ。表情も落ち着いている。
落ち着きすぎていた。
俺の隣に置いていたはずの青白い糸が、見えない。
まったくないわけではない。
薄い線のようなものはある。だが、それは糸というより、記録用紙に引かれた罫線に近かった。そこに温度はない。湿り気もない。震えもない。
「おはようございます」
リュシエンヌは言った。
「おはようございます」
俺は答えた。
少し間が空いた。
彼女は俺を見ている。
いつもなら、顔色を気にする。眠れたかと聞く。手の届くところにいてください、と言う。あるいは何も言わず、少しだけ近くに立つ。
今朝の彼女は、適切な距離に立っていた。
護衛として、ちょうどよい距離に。
「殿下がお呼びです」
「王女殿下が?」
「はい。軽き神への対応について、協議を行います」
「リュシエンヌさん」
「はい」
「俺のことを、心配していますか」
聞いた瞬間、自分でも嫌な聞き方だと思った。
答えを求めている。
重みを確認しようとしている。
だが、聞かずにはいられなかった。
リュシエンヌは少し考えた。
少し。
ほんの一呼吸。
「はい。あなたは重要な協力者です。昨夜、神殿区で軽き神に対抗した。その反動も懸念されます」
「協力者」
「はい」
彼女はまっすぐに答えた。
嘘ではなかった。
だから、痛かった。
「それだけですか」
リュシエンヌは眉をひそめた。
「それだけ、とは?」
俺は答えられなかった。
彼女は記憶している。
森で出会ったこと。
灰角狼の恐怖をほどいたこと。
王都まで同行したこと。
手の届くところにいてほしいと言ったこと。
隣に置く糸のこと。
全部、覚えているはずだ。
だが、その記憶に重みがない。
日誌の行のように整っている。
俺は胸のあたりを押さえた。
痛みはない。
むしろ、軽い。
リュシエンヌの青白い糸が消えかけている分、肩も胸も楽だった。
楽なのに、息が詰まった。
「いえ。行きましょう」
「はい」
彼女は静かに頷いた。
俺の前を歩くのではなく、斜め後ろについた。
護衛として。
正しい位置だった。
正しすぎた。
廊下へ出ると、カイラが壁にもたれていた。
金色の鱗は朝の光を受けて輝いている。髪も尾も、いつも通り少し乱暴な存在感を持っていた。だが、彼女の周りにあった熱が薄かった。
背中の後ろに置いた金色の火。
昨日までは、近すぎれば焼けるが、離れれば温かい火だった。
今朝は、灯籠の絵のようだった。
火の形はある。
熱がない。
「カイラさん」
「セイジ」
彼女は俺を見た。
いつものように、尾がぴんと立つことはなかった。
「眠れたか」
「少し」
「そうか」
会話が終わった。
それだけだった。
俺は耐えられずに言った。
「カイラさん、昨日のこと覚えていますか」
「神殿区で、白い手が出た」
「その前です」
「お前が倒れた。私は後ろから温める火になれと言われた」
「それをどう思っていますか」
カイラは首を傾げた。
「よい比喩だった」
「比喩」
「人間は比喩が好きだ」
「あなたは、俺を巣の者にしたいとか」
「言ったな」
「今は?」
カイラは少し考えた。
「お前は面白い人間だ」
それは褒め言葉だった。
たぶん。
でも、昨日までなら、その言葉には熱があった。
今は、珍しい石を見つけた時のような声だった。
俺は笑おうとした。
うまくできなかった。
「焼かない練習は?」
「続ける。王都で火を吐くと面倒だからな」
「俺が言ったからではなく?」
「そういう理由もあった気がする」
カイラは自分の胸に手を当てた。
「だが、遠い」
彼女の顔に困惑はある。
だが、苦しみは薄い。
昨日なら「嫌だ」と言ったはずだ。
熱が薄くなるのは嫌だ、と。
今朝は、その嫌だという熱すら薄かった。
「行くぞ」
カイラは言った。
「王女が待っている」
王女が待っている。
その言葉で、俺は胸の前に置いた白い糸を探した。
見つからなかった。
いや、正確には、見えた。
薄い白い線がある。
それは王城の廊下の前方へ伸びていた。
だが、そこには昨日までの温度がない。
国ではなく私として見てほしい。
その言葉は、まだ記憶にある。
だが、記憶だけになりかけている。
王女イレーネの執務室は、朝から整っていた。
机の上には書類が並び、空中には王都の地図が浮かんでいる。西区、神殿区、北門、貴族院、軍務局。問題がある場所には印がついていた。
王女はその前に立っていた。
白と青の衣装。
冠はない。
目の下の疲れも、いつもより薄く見える。よく眠ったのかもしれない。いや、違う。疲労の重みが薄くなっているのだ。
「おはようございます、セイジ殿」
「おはようございます」
「体調は?」
「悪くありません」
本当だった。
体は軽い。
よく眠ったわけでもないのに、頭はすっきりしている。胸も痛まない。肩も重くない。好意の糸も、忠誠の糸も、裏切りの糸も、後悔の糸も、ほとんど俺を引いていない。
快調と言ってもいいくらいだった。
王女は頷いた。
「それは幸いです」
言葉は丁寧だった。
だが、そこに個人的な安堵は薄かった。
「殿下」
「はい」
「俺を、国ではなく俺として見るという約束を覚えていますか」
「覚えています」
「どう感じますか」
王女は少し黙った。
それから、静かに言った。
「重要な約束です」
「重要」
「はい。あなたを国益のためだけに扱えば、あなたの力は歪む。あなた自身の意志を尊重することが、結果としてこの国にとっても必要だと判断しています」
判断。
その言葉が、胸に冷たく落ちた。
「判断なんですね」
「はい」
王女は俺を見た。
その目は澄んでいた。
氷冠の王女。
昨日までの彼女にも、氷はあった。
だが、その氷の下には水が流れていた。
今朝は、氷がきれいすぎた。
「私は、あなたを個人として尊重します」
「ありがとうございます」
言えた。
言えたが、その言葉は床に落ちた。
何も重くならなかった。
王女の白い糸も、ほとんど揺れなかった。
楽だった。
とても楽だった。
ありがとうと言っても、相手が照れない。好意が膨らまない。期待が重くならない。こちらも受け取る必要がない。
なんて楽なのだろう。
こんなに楽なら、もうこれでいいのではないか。
一瞬、そう思った。
その時、執務室の奥にいたアデライデが口を開いた。
「昨夜から、王都内の協力者との接触が途切れました」
彼女は地図の北西側を指した。
黒い軍服は変わらない。頬の傷も、鋭い目も変わらない。だが、彼女の銀色の糸もまた、刃というより、細い金属線のようになっていた。
「協力者?」
王女が尋ねる。
「ノルヴァルト側です。王都内に潜ませた摂政府の者、私の腹心リゼが追っていた線。その動きが止まっています」
「捕らえられたのですか」
「違うでしょう。動く理由を失ったのだと思われます」
「理由を」
「はい」
アデライデは淡々と言った。
「王女暗殺も、西区騒擾も、国境偽装襲撃も、すべて『重い』任務です。憎悪、忠誠、恐怖、出世欲、復讐心。何かの重みがなければ、人はそこまで動かない。軽き神がそれを薄めたなら、作戦そのものが萎みます」
「それは、戦争回避になるのでは?」
女性士官が言った。
アデライデは少しだけ目を伏せた。
「短期的には」
「長期的には?」
「誰も責任を取らなくなります」
その言葉だけは、少し重かった。
アデライデの奥に、まだ残っているものがある。
「摂政府は、計画が失敗した理由を記録から消すでしょう。こちらも証拠を使う機会を失う。帰還兵の問題も、補償が出る前に沈む。戦争は避けられるかもしれない。ですが、原因は残る。原因が軽く見えるだけです」
王女は頷いた。
「その場合、数年後にまた燃えます」
「はい。おそらく、もっと悪い形で」
俺は地図を見た。
王都の印が、どれも淡い。
西区の赤黒い印も、神殿区の白い印も、北西国境の黒赤い印も、まるで水彩のにじみのように薄い。
問題は消えていない。
ただ、誰もその問題を重く感じなくなっている。
王女は羽根ペンを取った。
「では、記録を残します。軽き神の影響下にある現時点で、行政が停止しないよう、最低限の措置を」
彼女は指示を出し始めた。
冷静だった。
見事だった。
西区の証言掲示は継続。
ただし、群衆を刺激しない形へ変更。
帰還兵補償案は貴族院へ再提出。
軽き神の祈りに対しては、禁止ではなく監視。
神殿区の説教師は拘束せず、所在確認。
ノルヴァルト密命については、王女直属の少数班で保全。
アデライデは非公式接触者として隔離継続。
すべて正しい。
すべて適切。
すべて、軽かった。
王女は民を愛している。
その記憶はある。
だが、今の彼女は民を愛する人というより、民を管理する人に見えた。
有能で、冷静で、間違えない。
誰にも愛されなくていい、と言っていた頃の王女に戻ったのかもしれない。
いや、もっと軽い。
愛されなくていい、という痛みすら薄い。
痛みが薄い分、彼女は効率的だった。
俺は執務室の隅で、何も言えなかった。
言う必要もないように思えた。
俺の力も、今は軽い。
糸が見えても、色が薄い。結び目も緩い。何かをほどく必要もない。重みがないから、置き場所も必要ない。
俺は役に立たない。
役に立たなくていい。
それもまた楽だった。
会議が終わると、王女は俺を見た。
「セイジ殿。宮廷魔導院で帰還術式の進捗を確認してください」
「帰還術式?」
「はい。院長より、今朝、座標が急に安定したとの報告がありました」
胸が鳴った。
「安定」
「あなたとこの世界を結ぶ重みが薄れたため、元の世界への座標が取りやすくなった可能性があります」
王女の声は落ち着いていた。
「よい知らせです」
よい知らせ。
そのはずだった。
俺は帰りたい。
それはずっと変わらない。
元の世界には俺の生活がある。やり残したこともある。謝れなかった相手もいる。こちらの世界は、俺の居場所ではない。
帰還術式が安定した。
よい知らせだ。
なのに、誰も動揺しなかった。
リュシエンヌは静かに言った。
「それは、よかったです」
カイラは頷いた。
「帰れるなら帰ればいい」
王女は言った。
「あなたの希望が叶うなら、私も協力します」
アデライデは言った。
「証人がいなくなるのは戦術上不利ですが、記録で補えます」
誰も、俺を引き止めなかった。
いや、引き止めないことが正しいのはわかっている。
俺は帰りたいと言った。
彼女たちは、それを尊重している。
重くしないようにしている。
軽い世界では、誰も誰かの足を掴まない。
誰も、帰らないでほしいとは言わない。
誰も、待つとは言わない。
誰も、寂しいとは言わない。
それは、とてもよいことなのかもしれない。
なのに俺は、胸の奥が空っぽになるのを感じた。
宮廷魔導院へ行く道は、明るかった。
昨夜の青い灯りとは違い、朝の光が硝子の回廊に満ちている。床の幾何学模様も、壁の標本瓶も、今日はやけに清潔に見えた。
リュシエンヌが同行した。
護衛として。
カイラもついてきた。
退屈しのぎとして。
王女は執務があるため来なかった。
アデライデは北棟へ戻った。
普通だ。
全員の判断が普通だった。
院長は水盤の部屋で待っていた。
彼だけは少し興奮していたが、その興奮すら以前より軽かった。
「セイジ殿。興味深いことになっています」
「帰還術式が安定したと聞きました」
「はい。昨夜まで乱れていた魂の座標が、今朝は非常に澄んでおります。こちらの世界との情動的結合が弱まったためでしょう」
「情動的結合」
「好意、信頼、後悔、責任、誓約。そういったものです」
「それが弱まると、帰りやすい」
「理論上は」
院長は水盤に手をかざした。
水面に光が走る。
映ったのは、駅のホームだった。
元の世界。
夜のホーム。
広告看板。
白い光。
電車の接近を知らせる音は聞こえなかったが、ホームの端の黄色い線が見えた。
俺は息を止めた。
帰れるかもしれない。
今なら。
水盤の中のホームは、以前より鮮明だった。
スマートフォンの画面までは見えない。だが、柱の広告、ホームドア、遠くの階段まで見える。元の世界の冷たい蛍光灯の光が、水面からこちらへ差しているようだった。
院長が言った。
「完全ではありませんが、一度だけなら試せるかもしれません」
「一度」
「はい。術式には大きな負荷がかかります。失敗すれば、再試行には時間が必要です」
「成功すれば?」
「元の世界へ戻れる可能性が高い」
「戻った後、こちらへは?」
「戻れないでしょう」
軽い言葉だった。
いや、院長は事実を言っただけだ。
だが、その事実を聞いたリュシエンヌも、カイラも、ほとんど反応しなかった。
リュシエンヌは静かに言った。
「セイジ殿の望みが叶うなら、それが最善です」
カイラは水盤を覗き込んだ。
「これが、お前の巣か」
「巣ではないです」
「狭そうだ」
「駅です」
「帰りたいなら、行けばいい」
その言葉に、金色の熱はなかった。
カイラは本当にそう思っている。
俺の希望を尊重している。
それだけだ。
院長は俺を見た。
「どうしますかな」
「今、ですか」
「今すぐでなくともよい。ただ、軽き神の影響が続く間は、座標が安定しやすい。逆に、情動的結合が戻れば、また乱れるでしょう」
「つまり」
「皆があなたを強く思い出す前に帰るほうが、成功率は高い」
皆が俺を強く思い出す前に。
その言葉が、水盤の部屋に静かに落ちた。
リュシエンヌは何も言わない。
カイラも何も言わない。
俺を強く思い出していないからだ。
覚えてはいる。
だが、強くはない。
今なら帰れる。
俺は水盤のホームを見た。
帰ればいい。
それが一番いい。
この世界に俺の居場所はない。俺は異界の客人で、偶然ではないにしろ、落ちてきただけの男だ。帰る道があるなら、帰るべきだ。
リュシエンヌも困らない。
彼女は任務を終える。
カイラも困らない。
面白い人間が一人いなくなるだけだ。
王女も困らない。
記録と制度で補える。
アデライデも困らない。
証言は写しに残っている。
西区の人々も困らない。
彼らの怒りは薄くなっている。
誰も俺を待たない。
俺が帰っても、誰も待たない。
それは、なんて楽なのだろう。
帰った後、元の世界で俺は何をするだろう。
朝起きて、ニュースを見る。買い物へ行く。古い友人から連絡が来る。病院の予約を確認する。たぶん、どこかで同窓会の話も聞くだろう。千尋に謝るかどうかは、わからない。謝らなくても、時間が経てば軽くなるかもしれない。
いや、軽くなっている。
今なら、あの後悔もそれほど痛くない。
五十を過ぎた男が、酒の場で少し馬鹿なことを言った。
それだけだ。
そう思えそうだった。
そう思えた瞬間、俺は水盤から目を逸らした。
違う。
それだけではなかった。
彼女は笑うしかなかった。
俺は逃げ道を塞いだ。
謝らなかった。
それは、軽くなっていいことではない。
いや、いつか軽くなってもいい。
でも、勝手に奪われていいものではない。
俺は水盤の縁を掴んだ。
「セイジ殿?」
リュシエンヌが声をかける。
声は穏やかだった。
護衛対象の体調を気遣う声。
それ以上ではない。
俺は彼女を見た。
「リュシエンヌさん」
「はい」
「俺が帰ったら、あなたはどうしますか」
「任務の報告を行います。その後、白鷲騎士団へ復帰します」
「それだけですか」
「はい」
即答だった。
胸が痛まない。
相手の言葉が軽いから。
でも、痛まないことが怖い。
「カイラさんは」
「山へ戻るか、王都で竜用の寝床を要求する」
「俺のことは?」
「面白い人間だったと覚えておく」
「待ちませんか」
「待つ?」
カイラは首を傾げた。
「戻れないのだろう」
「はい」
「なら、待っても仕方ない」
正しい。
本当に正しい。
待っても仕方ない人を待たない。
それは合理的だ。
優しいとも言える。
相手を縛らない。
戻れないものに執着しない。
なんて軽くて、なんて正しい世界だろう。
その正しさに、俺は耐えられなかった。
「院長」
「はい」
「帰還術式は、今すぐ発動できますか」
「準備には一刻ほど」
「では、準備してください」
リュシエンヌもカイラも、反応しなかった。
院長は少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「承知しました」
言ってしまった。
帰る。
今なら帰れる。
誰も止めない。
誰も待たない。
俺は、その一刻を王城内で過ごすことになった。
準備の間、俺は自由だった。
自由すぎた。
以前なら、リュシエンヌがそばにいると言っただろう。カイラが勝手についてきただろう。王女が最後に話したいと言ったかもしれない。アデライデが戦術上の確認を求めただろう。
今は、誰も無理に来なかった。
リュシエンヌは「準備が整うまで警護にあたります」と言い、廊下の適切な位置へ立った。
カイラは「腹が減った」と言って厨房へ向かった。
王女へは院長から伝達が行った。
アデライデにも文書で伝えられた。
文書で。
俺の帰還が、文書で共有された。
それは正しかった。
手続きとして。
俺は一人で王城の中庭へ出た。
中庭には白い花が咲いていた。
昨日、王女の執務室の窓際に一輪だけ挿してあった花と同じ種類だろう。細い茎に、星のような形の小さな花がついている。風が吹くと、花びらが震える。
誰もいなかった。
いや、庭師はいる。
兵も遠くにいる。
侍女が水差しを持って通り過ぎる。
だが、誰も俺を見ていない。
俺はただの通行人だった。
異界の客人ですらない。
帰還予定者。
記録の対象。
俺は庭の石段に座った。
軽い。
体が軽い。
もう誰の好意も肩に乗らない。
背中も熱くない。
胸も苦しくない。
手のひらも銀色の刃で切れない。
元の世界への灰白の糸も、今は淡い。
あれだけ欲しかった軽さが、ここにある。
なのに、世界が遠い。
花も、風も、石段の冷たさも、すべてが絵のようだった。
きれいで、触れられない。
誰も誰かを待たない世界。
それは、こんなに静かなのか。
中庭の向こうの回廊を、王女イレーネが歩いていた。
侍女と女性士官を連れている。
彼女は俺に気づき、足を止めた。
少し迷ってから、こちらへ来た。
「セイジ殿。帰還術式を試すと聞きました」
「はい」
「よいことです」
「そうですね」
「あなたの希望でした」
「はい」
王女は俺の隣ではなく、向かいに立った。
適切な距離。
礼儀正しい距離。
個人として近づきすぎない距離。
「殿下は、俺が帰っても困りませんか」
「困ります」
思わぬ答えだった。
俺は顔を上げた。
王女は淡々と続けた。
「あなたの力は、軽き神への対処、帰還兵問題、ノルヴァルト密命の検証に有用です。あなたが不在となれば、代替手段を用意する必要があります」
「そういう困る、ですか」
「はい」
即答。
白い糸は揺れない。
「個人的には?」
王女は少し考えた。
「寂しい、という感情があったように思います」
あったように。
過去形に近い。
「今は?」
「あなたの帰還を尊重すべきだと思っています」
「それだけですか」
「それだけでは不足ですか」
不足。
まるで資料の項目のような言い方だった。
俺は笑った。
今度は少し笑えた。
笑えたが、喉が痛かった。
「不足ではないです。むしろ、十分すぎるくらい正しいです」
「そうですか」
王女は頷いた。
「では、帰還術式の成功を祈ります」
祈ります。
その言葉も軽い。
俺は思わず言った。
「待っていてはくれませんか」
王女は目を瞬いた。
「戻れないのでしょう」
「はい」
「なら、待つという言葉は、あなたを縛ります」
「そうですね」
「私は、あなたを縛るべきではない」
正しい。
彼女は学んだのだ。
俺を国のものにしない。
俺を縛らない。
俺を俺として扱う。
その結果、彼女は俺を待たない。
正しく学んだことが、軽き神によって、空洞になっている。
「殿下」
「はい」
「俺を、あなたとして見てほしいと言いましたね」
「はい。記憶しています」
「今、俺を見ていますか」
王女は俺を見た。
薄い青の瞳。
美しく、冷静で、静かな目。
「見ています」
「俺は、どう見えますか」
「帰還を前に、判断を迷っている異界の方です」
「そうですか」
「はい」
そこに、俺はいなかった。
いや、いる。
いるが、薄い。
王女の目に映っているのは、俺という個人ではなく、状況の中の俺だった。
俺は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
王女は礼を返した。
そして、仕事へ戻った。
白い花の間を、白と青の背中が遠ざかっていく。
誰も振り返らない。
俺はその背中を見ていた。
待ってほしかったのか。
自分で自分に呆れた。
あれほど重い重いと言っていたくせに。
好意が呪いだと言ったくせに。
いざ軽くなると、待ってほしいと思う。
なんて身勝手なのだろう。
それでも、思ってしまった。
誰かに、帰らないでほしいと言ってほしかった。
いや、違う。
言われたら困る。
重くなる。
帰れなくなる。
だから言ってほしくない。
でも、言わないでほしくもない。
人間は本当に面倒だ。
俺が面倒なのか。
たぶん、そうだ。
中庭の出口で、アデライデとすれ違った。
彼女は足を止めた。
「帰還されるそうですね」
「はい」
「では、密命文書に関するあなたの証言は、王女殿下と宮廷魔導院の記録で代替します」
「そうしてください」
「あなたが帰還した場合、私の裏切りを直接見た者は不在となる。ですが、戦争回避にはまだ手段があります」
「アデライデさんは、それでいいんですか」
「何がです」
「俺がいなくなること」
彼女は少し考えた。
「不利です」
「不利」
「はい。あなたの証言は有効でした」
「個人的には?」
また同じことを聞いている。
俺は自分が嫌になった。
アデライデは静かに答えた。
「あなたには、私の裏切りを見られました」
「はい」
「見られたことで、私は自分の裏切りをただの作戦にしないでいられた。その意味では、惜しい」
「惜しい」
「はい」
感情ではなく、評価。
いや、かすかに感情はある。
だが、やはり薄い。
「赦すかどうか、聞きましたよね」
「はい」
「今は?」
「必要ありません」
「なぜ」
「重みが薄いからです」
アデライデは自分で言って、少し眉をひそめた。
「これは、危険ですね」
「そう思いますか」
「はい。罪の重みが薄い将は、危険です」
その言葉にだけ、少し刃が戻った。
だが、一瞬だった。
すぐに薄くなる。
「ご武運を」
アデライデは言った。
「帰還に武運は関係あるんですか」
「祈りの形式です」
「ありがとうございます」
彼女は頷き、去った。
黒い外套が回廊の白い光の中に溶けていく。
誰も待たない。
王女も。
女将軍も。
竜娘も。
女騎士も。
誰も。
一刻が近づいていた。
俺は魔導院へ戻った。
水盤の部屋には、術式が組まれていた。床の銀文字が青く光り、水盤の上には元の世界のホームが揺れている。院長と数名の魔導士が準備を進めていた。
リュシエンヌは部屋の入口に立っていた。
カイラは壁際にいた。
王女も来た。
アデライデも来た。
全員が揃った。
それだけ見れば、見送りの場面だった。
だが、誰も泣かなかった。
誰も引き止めなかった。
誰も、言葉を探して困っていなかった。
完璧に整った見送りだった。
院長が言った。
「術式は一度だけです。水盤に入り、光の向こうへ進んでください。あちら側で意識を保つこと。戻りたい場所を強く思い浮かべること」
「はい」
「持ち帰るものは最小限に」
「わかりました」
俺は荷物袋を持っていなかった。
スマートフォンも、元の服も、魔導院で保管されている。持っていくかと聞かれたが、術式の安定を優先するなら持たないほうがいいと言われた。
つまり、俺は手ぶらで帰る。
この世界のものを、何も持たずに。
それもまた、正しい。
異世界のものを不用意に持ち込むべきではない。
正しいことばかりだ。
正しすぎて、吐きそうだった。
水盤の前に立つ。
ホームの光が揺れている。
帰れる。
今なら。
王女が言った。
「セイジ殿。あなたの帰還が成功することを願います」
「ありがとうございます」
リュシエンヌが言った。
「道中、お気をつけて」
「道中というのかはわかりませんが、ありがとうございます」
カイラが言った。
「元の巣で、火を吐くな」
「吐けません」
「そうか」
アデライデが言った。
「あなたの証言には感謝します」
「どういたしまして」
会話が終わった。
終わってしまった。
俺は水盤を見た。
ホームの向こうに、元の世界の自分の生活がある。
そこでは、誰も俺を待っていないかもしれない。
いや、妻は待っているだろう。家もある。仕事や生活の続きもある。完全に誰も待っていないわけではない。
だが、この世界の誰も、俺を待たない。
それが決定的に寂しかった。
なぜだ。
俺は帰るだけなのに。
帰りたいと言っていたのに。
重い好意から解放されたのに。
誰も俺を縛っていないのに。
自由なのに。
俺は水盤へ足を踏み出した。
水面が固く光る。
その時、部屋のどこかで、羽が一枚舞った。
白い羽。
軽き神の羽。
水盤の光に触れ、ふわりと消える。
その瞬間、俺の胸の中にあった灰白の糸が、ふっと軽くなった。
千尋への後悔が、さらに遠くなる。
ああ、もういいか。
そう思いそうになった。
過去のことだ。
誰にでもあることだ。
好意を間違えることくらい。
謝らなかったことくらい。
もういい。
軽い声が、胸の奥で囁く。
その声に続いて、リュシエンヌの声も、カイラの声も、王女の声も、アデライデの声も、遠くなる。
もういい。
帰ればいい。
誰も待たない。
誰も泣かない。
誰も怒らない。
誰も、あなたを重くしない。
それは、優しい声だった。
俺は足を止めた。
水盤の光が揺れる。
院長が言う。
「セイジ殿?」
俺は振り返った。
四人が立っている。
白鷲の女騎士。
金鱗の竜娘。
氷冠の王女。
黒鷹の女将軍。
みんな、静かな顔をしている。
美しい一枚絵のようだった。
漫画なら、見開きにできるだろう。
白い光。
水盤。
帰還の扉。
そして、誰も泣かない見送り。
絵としては完璧だった。
完璧すぎて、死んでいた。
俺はその絵に耐えられなかった。
「違う」
声が出た。
小さかった。
でも、出た。
四人が俺を見る。
「何がですか」
王女が尋ねる。
俺は水盤から一歩下がった。
「違うんです」
自分でも何が違うのか、すぐには言えなかった。
だが、胸の中で何かが重くなり始めていた。
灰白の糸。
青白い糸。
金色の糸。
白い糸。
銀色の糸。
すべてが、消えかけた場所から、少しずつ戻ろうとしている。
「俺は、軽くなりたかった」
俺は言った。
「ずっと、重いと思っていました。リュシエンヌさんの信頼も、カイラさんの好意も、殿下の白い糸も、アデライデさんの裏切りの証言も、西区の怒りも、元の世界の後悔も。全部重かった」
誰も何も言わない。
言葉が軽いからではなく、今度は聞いているからだ。
そう思いたかった。
「でも、軽くなった世界は、もっと嫌です」
リュシエンヌの目がわずかに動いた。
「嫌?」
「はい」
俺は彼女を見た。
「あなたが俺を協力者として見るのは正しい。でも、俺はあなたに、手の届くところにいてくださいと言われたことを覚えています。あれは重かった。でも、あれがないあなたの隣は、寒い」
リュシエンヌの薄い青白い線が、かすかに震えた。
次にカイラを見る。
「カイラさん。あなたの好意は熱すぎます。正直、何度も潰れかけました。でも、あなたに『面白い人間』とだけ言われるのは、もっと嫌です。俺は、あなたに焼かない練習をしてほしかった。俺の言葉で、少しだけ尾を止めるあなたを見ていたかった」
カイラの金色の線が、小さく火花を散らす。
王女を見る。
「殿下。あなたが俺を尊重してくれるのはありがたいです。でも、あなたに『帰還予定者』みたいな目で見られるのは耐えられない。あなたは俺に、国ではなく私として見てほしいと言った。俺は、それを受け取った。だから俺も、あなたに俺を俺として見てほしい」
王女の白い線が、紙のような薄さから、少しだけ糸に戻る。
アデライデを見る。
「アデライデさん。あなたの裏切りは重い。俺は誘拐されたし、正直まだ許したわけじゃない。でも、あなたの裏切りがただの作戦になるのは違う。あなたは国を愛しているから裏切ると言った。その痛みがなければ、戦争を止める理由も薄くなる」
銀色の線が、かすかに刃の形を取り戻す。
俺は水盤のホームを見た。
「俺は帰りたいです」
これは本当だ。
「帰りたい。元の世界で、やらなければならないことがある。謝れるかどうかもわからない相手がいる。生活もある。俺はこの世界の人間じゃない」
言っていて、胸が痛んだ。
痛みが戻ってきた。
それが嬉しかった。
「でも、誰も誰かを待たない世界からは、帰りたくない」
部屋が静まり返った。
水盤の光が揺れる。
「待つことは、重いです。待たれることも、待つことも、たぶん呪いです。でも、誰も待たない世界には、関係がない」
俺は、ようやく言葉を見つけた気がした。
「重みとは、関係そのものだったんです」
院長が息を呑んだ。
リュシエンヌの青白い糸が、ゆっくりと隣へ戻ってくる。
カイラの金色の火が、後ろで温度を持つ。
王女の白い糸が、俺の前に置かれる。
アデライデの銀色が、鞘の中で鳴る。
まだ薄い。
完全ではない。
だが、戻ろうとしている。
「好意も、後悔も、怒りも、忠誠も、裏切りも、全部苦しい。でも、それがなければ、人は人に結ばれない。俺は、それを全部背負いたいわけじゃない。背負えない。でも、消したくない」
白い羽が、部屋の中でまた舞った。
今度は一枚ではない。
水盤の上から、床の銀文字から、窓の光の中から、無数の羽が現れる。
軽き神が聞いている。
いや、近づいている。
院長が叫んだ。
「術式が乱れる!」
水盤のホームが歪む。
元の世界の光が、白い羽に飲まれかける。
リュシエンヌが剣を抜こうとした。
だが、手が止まる。
まだ重みが戻りきっていない。
カイラの口元に火が灯るが、熱が弱い。
王女が命令しようとして、言葉が薄れる。
アデライデが剣の柄を握り、目を細める。
白い羽の中心に、あの手が現れた。
細く、長く、白い手。
その向こうから、説教師の声がした。
「なぜ拒むのですか、秤の人」
声は優しかった。
「あなたは今、帰れたのに」
「はい」
「楽になれたのに」
「はい」
「誰もあなたを縛らなかった」
「はい」
「誰もあなたを待たなかった」
その言葉が、一番重かった。
軽い神の声なのに。
「だから嫌だったんです」
俺は言った。
白い手が、水盤の上で止まる。
「待たれないことは、自由です」
「そうですね」
「自由は悪ですか」
「悪じゃありません」
「では、なぜ」
「俺は、自由と空っぽの区別を間違えたくない」
その瞬間、水盤のホームが完全に白くなった。
元の世界への扉が閉じる。
院長が声を上げた。
「座標が失われます!」
俺は見ていた。
帰る道が、白い羽の中に消えていく。
怖かった。
泣きたくなるほど怖かった。
自分で選んだのに。
帰る機会を、自分で逃したのに。
でも、俺は手を伸ばさなかった。
代わりに、後ろを振り返った。
「リュシエンヌさん」
彼女は顔を上げた。
「はい」
「俺は、あなたに待ってほしいとは言いません」
青白い糸が震える。
「でも、俺が帰る日まで、隣にいてください」
彼女の目に、光が戻った。
完全ではない。
でも、戻った。
「はい」
その返事は、重かった。
隣に置ける重さだった。
「カイラさん」
「何だ」
「俺を巣の者にしないでください」
「しない」
「でも、後ろで火を消さないでください」
カイラの金色の目が燃えた。
「消さない」
熱が戻る。
少し強すぎる。
でも、今は嬉しかった。
「殿下」
王女イレーネが俺を見る。
氷の下の水が戻り始めている。
「俺を国のものにしないでください」
「しません」
「でも、俺を帰還予定者だけにしないでください」
王女の白い糸が震えた。
「しません」
その声に、かすかな痛みが戻っていた。
人間の声だった。
「アデライデさん」
黒鷹の女将軍が、わずかに顎を上げる。
「あなたの裏切りを、ただの作戦にしないでください」
「しません」
「痛いままで?」
「痛いままです」
銀色の刃が、鞘の中で重みを取り戻した。
四本の糸が、俺の周りに戻る。
隣に青白。
後ろに金。
前に白。
鞘に銀。
そして胸に、灰白。
元の世界への後悔。
千尋への言葉。
それも、消えない。
消えないまま、ここにある。
白い手が、ゆっくりと開いた。
「重くなりますよ」
軽き神が言った。
「知っています」
「また倒れますよ」
「たぶん」
「苦しみますよ」
「はい」
「それでも?」
俺は頷いた。
「それでも、誰も誰かを待たない世界よりはいいです」
白い羽が、一斉に舞い上がった。
視界が白で埋まる。
水盤の光が弾ける。
床の銀文字が消え、魔導士たちが倒れ込む。院長が何か叫んでいる。カイラが俺の後ろで火を吐こうとして、王城内だと思い出したのか、歯を食いしばる。リュシエンヌが俺の隣へ踏み込む。王女が前へ出る。アデライデが剣を抜いた。
白い手は、消えなかった。
むしろ、はっきり見えるようになった。
軽き神は、俺たちの前に立った。
人の形ではない。
白い布のようでもあり、羽の集まりのようでもあり、天秤の片皿からこぼれた光のようでもある。顔はない。だが、こちらを見ているのがわかる。
「あなたは、私を否定しますか」
「いいえ」
俺は答えた。
「あなたは必要です。壊れそうな人には、荷を軽くする手が必要です」
軽き神の輪郭が揺れた。
「では、なぜ抗う」
「あなたは、荷を消してしまうからです」
「消えれば楽です」
「楽です。でも、何も残らない」
俺は一歩前へ出た。
リュシエンヌが隣に並ぶ。
カイラの熱が後ろにある。
王女の白い糸が前にある。
アデライデの銀が鞘から抜かれる。
俺は一人ではなかった。
だが、俺が言わなければならない。
「次は、消すのではなく、預かってください」
軽き神が止まった。
「預かる?」
「はい」
「荷を?」
「そうです。壊れそうな人から、一時的に預かる。名を風にするのではなく、どこかに置く。涙を水にするのではなく、休ませる。後悔を羽にするのではなく、折り畳む。返せる時が来たら、返す」
「人は返された荷に耐えられません」
「だから、一人に返さない。置き場所を作る」
「あなたにできますか」
「俺ひとりにはできません」
俺は王女を見た。
「でも、王女は名前を置く場所を作れる」
王女が頷く。
リュシエンヌを見る。
「騎士は、隣に立てる」
リュシエンヌが頷く。
カイラを見る。
「竜は、消えそうな火を守れる」
カイラが鼻を鳴らす。
アデライデを見る。
「将軍は、重すぎる荷を分けて運ぶ道を知っている」
アデライデが静かに剣を下げる。
「俺は、重みを見る。置き場所を探す。全部消すのではなく、全部背負うのでもなく」
白い羽が、ゆっくりと回り始めた。
軽き神は沈黙している。
その沈黙は、軽くなかった。
初めて、この神自身にも重みがあるのだとわかった。
人々の願いで生まれた存在。
苦しみを軽くしてほしいという、無数の祈り。
その祈りに応え続けた手。
この神もまた、消すことしか知らなかったのだ。
「秤の人」
軽き神が言った。
「あなたは、私に重みを与えるのですか」
「役割を変えるだけです」
「それは重い」
「はい」
「神にも、重みを持てと?」
「少しだけ」
俺は言った。
「持てる形で」
白い手が震えた。
それは怒りにも見えた。
恐れにも見えた。
そして、どこか安堵にも見えた。
次の瞬間、白い光が弾けた。
俺は床に倒れた。
今度は意識を失わなかった。
重い。
ものすごく重い。
軽くなっていた王都の重みが、一部戻ってきたのだろう。西区の名前、帰還兵の怒り、王女の愛、リュシエンヌの信頼、カイラの熱、アデライデの裏切り、元の世界の後悔。それらが一度に戻る。
だが、前のようには潰れなかった。
隣に青白。
後ろに金。
前に白。
鞘に銀。
胸に灰白。
置き場所がある。
だから、倒れても、壊れない。
「セイジ殿!」
リュシエンヌが隣で膝をつく。
声に重みが戻っていた。
心配。
恐れ。
好意。
全部戻っている。
重い。
でも、嬉しい。
「セイジ!」
カイラの声も熱い。
「火、出てませんか」
「出ていない!」
「よかった」
王女が俺の前に立った。
白い糸が震えている。
「私は、あなたを待ちます」
唐突だった。
重い。
かなり重い。
だが、王女はすぐに言い直した。
「いえ、違います。あなたを縛るためではなく。あなたが帰る日まで、あなたをあなたとして見続けます。それを、待つと呼べるなら」
俺は床に座り込んだまま、頷いた。
「それなら、持てます」
アデライデが水盤を見た。
「帰還術式は失われましたね」
院長が床に座り込みながら言った。
「当面は。ですが、座標の一部は記録できました」
「よかったのか、悪かったのか」
俺は呟いた。
院長は白い髭を撫でた。
「魔導論としては、非常に興味深い」
「それはやめてください」
「しかし、帰還の道は完全には消えていません」
俺は水盤を見た。
ホームはもう映っていない。
ただ、水面に二つの月が映っていた。
この世界の月だ。
帰れなかった。
帰らなかった。
その事実が、重くのしかかる。
だが、不思議と後悔だけではなかった。
俺は立ち上がろうとした。
リュシエンヌが手を差し出す。
今度は迷わなかった。
その手を取った。
青白い糸が隣に並ぶ。
カイラが後ろで尾を揺らす。
金色の火が温かい。
王女の白い糸が前にある。
アデライデの銀色が鞘に収まっている。
そして、空にはまだ白い羽が一枚、残っていた。
それは天井の近くで揺れ、消えずに留まっていた。
軽き神は、消えていない。
ただ、逃げたわけでもない。
たぶん、次は話ができる。
消す神としてではなく。
預かる神として。
神にも置き場所が必要なのだとしたら、それを探すのは、俺の役目なのかもしれなかった。
俺は深く息を吐いた。
重い。
世界は、また重くなった。
でも、さっきの軽い世界よりは、ずっと息がしやすかった。
誰も誰かを待たない世界には、戻りたくない。
俺はそのことだけは、はっきりわかった。
帰るとしても。
残るとしても。
誰かの重みがある世界からでなければ、俺は帰れない。
水盤の部屋を出ると、王城の廊下に朝の光が差していた。
さっきまで白く平らだった光に、少しだけ影が戻っている。
影がある。
それだけで、世界は立体になる。
リュシエンヌが俺の隣を歩く。
カイラが後ろで欠伸をする。
王女が前で侍女に指示を出す。
アデライデが少し離れて、王城の警備配置を見ている。
誰も完全には戻っていないかもしれない。
どこか薄くなったものもあるだろう。
だが、待つという言葉の重みは戻った。
それだけで十分だった。
王城の窓から、王都が見えた。
西区の方角に、赤黒い糸が少しずつ色を取り戻している。
痛みも戻る。
怒りも戻る。
泣く人も戻る。
それはつらい。
でも、そこからしか始まらない。
俺は胸の灰白の糸に触れた。
千尋への後悔。
まだある。
いつか、元の世界へ帰った時、俺はそれをどう置くのだろう。
まだわからない。
でも、軽き神に渡さなかったことだけは、たぶん間違いではない。
廊下の先で、王女が振り返った。
「セイジ殿」
「はい」
「次は、軽き神と交渉します」
「神と交渉ですか」
「はい」
彼女は少しだけ笑った。
氷冠の王女ではなく、少し疲れた若い女性の笑みだった。
「あなたが、神にも置き場所が必要だと言ったので」
「言いましたね」
「では、その置き場所を作りましょう」
重い仕事だった。
とても重い。
でも、俺は笑った。
「はい」
その返事も、重かった。
だが、持てる重さだった。
王都の上で、白い羽が一枚、ゆっくりと落ちた。
今度は空へ消えなかった。
中庭の白い花の上に、そっと留まった。
まるで、初めて置き場所を見つけたように。




