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第十二章 隣にいてください

 王都に、重みが戻り始めていた。

 それは、よいことだけではなかった。

 西区では、朝から泣き声が聞こえた。掲示板の前で、帰還兵の妻が夫の名を読み上げて泣いていた。昨日はその名を見ても、ただ「気の毒だ」と呟いただけだった人々が、今日は足を止める。泣く者もいる。拳を握る者もいる。何も言わず、ただ紙の前に立ち尽くす者もいる。

 南市場では、商人たちが貴族院への不満をまた口にし始めた。北門の兵舎では、若い兵が昨夜見た白い羽の夢を怖がっていた。神殿区では、軽き神を信じた者たちが、自分たちは間違っていたのかと神官たちに詰め寄っていた。

 王都は、騒がしかった。

 重く、うるさく、まとまりがなく、あちこちで誰かが誰かを責め、誰かが誰かを慰め、誰かが昨日の自分の軽さを恥じていた。

 それは、見ていてつらい光景だった。

 だが、昨日の白く静かな朝よりは、ずっと人間の街に見えた。

 俺は王城の廊下から、中庭を見下ろしていた。

 白い花の上には、まだ羽が一枚残っている。

 軽き神の羽。

 風が吹いても飛ばない。雨が降っても濡れない。ただ、花の上に置かれている。まるで、そこを自分の居場所と決めたみたいに。

 置き場所。

 俺が言った言葉だ。

 消すのではなく、預かる。

 奪うのではなく、休ませる。

 返せる時が来たら、返す。

 言うのは簡単だった。

 だが、神にそんなことをさせるには、こちらも相応の場所を用意しなければならない。

「軽き神を、どこに置くか」

 王女イレーネは、昨夜からそれだけを考えていた。

 彼女は会議室に集まった俺たちを見た。

 白と青の衣装。冠はつけていない。王女としてではなく、まず一人の人間としてこの場に立とうとしているのだと、俺にはわかった。もちろん、その姿勢そのものが王女らしいのだが。

 部屋には、リュシエンヌ、カイラ、アデライデ、宮廷魔導院長、眼鏡の女性士官、ハルヴァン、神殿区から来た年配の神官がいた。

 さらに、アデライデの三人の腹心もいる。

 王都潜入担当のリゼ。短い灰色の髪をした小柄な女性で、黙っていると本当に影のように気配が薄い。

 軍医のオルン。痩せた男で、薬草の匂いがする。眠り蔓で俺を眠らせた張本人だ。俺を見るたび、申し訳なさそうな顔をするので、少しやりにくい。

 老兵ガル。無口で、背は曲がっているが、目だけは若い兵より鋭い。彼の古い青い糸は、アデライデへまっすぐ伸びている。ただし、それは盲目的な忠誠ではない。長い戦場で、一度預けた命をまだ返してもらっていない者の信頼だった。

 重い部屋だった。

 昨日の軽い世界の後だから、余計にそう感じた。

 だが、俺は倒れなかった。

 青白い糸は隣にある。

 リュシエンヌの信頼は、肩ではなく、俺の左側に置かれている。

 カイラの金色の火は、少し後ろで温かい。

 近すぎれば焼ける。遠すぎれば冷える。だが、今はちょうどよい距離にいる。

 王女の白い糸は、俺の前に置かれている。

 彼女を彼女として見る約束。

 胸にしまいこむのではなく、目の前で見続けるもの。

 アデライデの銀色の糸は、鞘に収まっている。

 必要な時に抜く証言。握りしめ続ければ手が切れる。だが、見失えば戦争になるかもしれない刃。

 そして俺の胸には、灰白の糸がある。

 元の世界へ伸びる後悔。

 それだけは、まだ置き場所が定まっていない。

 だが、今日はそれを考える日ではない。

 今は、この王都の重みをどこへ置くかだ。

 王女が言った。

「軽き神は、苦しみを軽くする存在です。その働き自体を禁じることはできません」

 神官が苦い顔をした。

「殿下。神殿としては、軽き神の礼拝を認めるわけには」

「認めよとは言っていません。ただ、苦しむ者があの手を求める理由を、私たちは否定できない」

 神官は黙った。

 王女は続けた。

「帰還兵の怒りは重すぎる。遺族の悲しみも、商人の不安も、兵の恐怖も、貴族院の責任逃れも、すべて重い。だから人々は軽さを求めました」

「しかし、軽くされれば、証言も補償も」

 ハルヴァンが言った。

「そうです」

 王女は頷いた。

「だから、重みを消さずに置く場所が必要です」

 彼女は机の上に一枚の地図を広げた。

 王都全体の地図ではない。

 もっと古い。

 今は使われていない、王城の地下にある祭祀施設の図面だった。

「旧秤堂」

 神官が呟いた。

「まだ残っていたのですか」

「封鎖されていますが、残っています」

 王女は地図の中央を指した。

「この国が王国になる前、死者の名や戦の責任、誓約の証文を一時的に納めた場所だと聞いています。正神殿の管理から外れ、今は忘れられている」

 院長が髭を撫でた。

「秤堂には、古い受納の術式が残っているはずですな。荷を消すのではなく、記録し、預かる形式です」

「そこを使います」

 王女は言った。

「軽き神を、王都から追い払うのではなく、旧秤堂へ招く。荷を消す神ではなく、荷を預かる神として」

「神が従いますか」

 アデライデが尋ねた。

「従わせるのではありません」

 王女は俺を見た。

「交渉します」

 視線が俺に集まる。

 重い。

 かなり重い。

 だが、俺ひとりに乗っているわけではなかった。

 王女は前に置いた。

 リュシエンヌは隣に立つ。

 カイラは後ろで火を保つ。

 アデライデは鞘の銀を持つ。

 ハルヴァンは帰還兵の名を持つ。

 神官は祈りの場所を持つ。

 院長は術式を持つ。

 それぞれが、自分の重みを持っている。

 俺はそれを見て、少し息がしやすくなった。

「俺が全部を背負うわけではありません」

 俺は言った。

「はい」

 王女が頷いた。

「あなたは、見てください。重みが誰のものか、どこへ返すべきかを」

 その言い方は、持てる重さだった。

 俺は頷いた。

「わかりました」

 旧秤堂は、王城の地下にあった。

 王城の地下は、地上の白く澄んだ建物とは違っていた。石は古く、壁には湿り気があり、通路には灯りが少ない。王家の華やかな紋章ではなく、もっと素朴な刻印が残っている。天秤。羽。手。名前を刻む板。

 長い階段を降りる間、誰もあまり喋らなかった。

 カイラだけが、時々鼻を鳴らした。

「古い匂いがする」

「燃やさないでください」

「燃やすには湿っている」

「そういう問題でも」

「それに、ここは燃やす場所ではない」

 珍しく真面目な声だった。

 カイラにも、この場所の重みがわかるのだろう。

 階段の先に、丸い広間があった。

 天井は低くない。むしろ地下とは思えないほど高い。中央に、巨大な石の天秤がある。左右の皿は空で、中央の柱には無数の名前が刻まれていた。

 その名の多くは、読めなかった。

 古い文字だ。

 だが、文字から伸びる薄い糸は見えた。

 戦で死んだ者。

 疫病で消えた村。

 叶わなかった誓約。

 返せなかった借り。

 置かれたまま、誰にも呼ばれなくなった重み。

 ここは、忘れられた荷物置き場だった。

 俺は胸が痛くなった。

 軽き神が生まれた理由も、少しわかる気がした。

 置かれたまま返されない重みは、やがて腐る。

 腐った重みを抱えきれなくなった人々が、もう消してくれと願う。

 その願いが、軽き神を呼んだのだ。

 王女は石の天秤の前に立った。

 神官が古い祈りを唱える。

 院長が床に刻まれた銀文字へ魔力を流す。

 ハルヴァンは帰還兵の証言を書いた紙束を持っていた。

 アデライデはノルヴァルトの密命文書の写しを持つ。

 リゼ、オルン、ガルは、それぞれ自分の任務を記した短い証言を持っている。彼らはアデライデに命じられたからではなく、自分の意志でこの裏切りに加わったと書いた。

 王女は、自分の署名した補償案を持っていた。

 リュシエンヌは、第三槍隊の戦死者名簿を持っていた。

 カイラは何も持っていなかった。

 その代わり、手の中に小さな火を灯していた。

 燃やす火ではない。

 消えそうな火を守るための火。

 俺は、何も持っていないと思っていた。

 だが、リュシエンヌが俺に一枚の紙を渡した。

「これは?」

「あなたが魔導院で話した記録です。元の世界で好意を間違えたこと。転移が偶然ではなかったこと。あなたが軽き神に渡さなかった後悔」

 俺は紙を見た。

 院長の字だろう。細かく、几帳面で、少し余計な注釈が多い。

「こんなものまで記録されていたんですか」

「院長が」

「あとで抗議します」

 リュシエンヌは少しだけ笑った。

「ですが、必要です」

「俺の後悔も、ここに置くんですか」

「置くのではなく、あなたが持っていることを記録するのです。消さないために」

 青白い糸が隣で揺れる。

 重い。

 だが、正しい。

 俺はその紙を受け取った。

 その瞬間、旧秤堂の奥に、白い羽が一枚落ちた。

 次に、もう一枚。

 また一枚。

 羽は石の床に落ちると、消えずに残った。

 やがて、広間の中央に白い光が集まった。

 軽き神が現れた。

 昨夜よりも輪郭がはっきりしている。

 白い布のような体。

 羽の集まりのような背。

 顔はない。

 だが、見られているのがわかる。

「秤の人」

 声は、広間全体から響いた。

「また荷を集めたのですね」

「集めたんじゃありません」

 俺は答えた。

「持ち主が持ってきました」

 軽き神は、石の天秤を見た。

「ここは、古い」

「はい」

「ここに置かれた荷は、返されなかった。名は石になり、涙は苔になり、誓約は埃になった。人々は、ここを忘れた」

「だから、あなたが生まれたんですね」

 白い羽が少し揺れた。

「人々は、置いても返らない荷に疲れました。預けても誰も取りに来ない。ならば、消してしまえばよい。羽にして、風にして、痛みをなくせばよい」

「わかります」

 俺は言った。

「でも、消したら、何も返せない」

「返して、人は耐えられますか」

「一度には耐えられません」

「ならば」

「分けます」

 王女が一歩前へ出た。

「帰還兵の重みは、兵だけに返しません。王家が持つ分、軍務局が持つ分、貴族院が持つ分、神殿が持つ分、家族が持つ分、本人が持つ分に分けます」

 ハルヴァンが紙束を天秤の左皿に置いた。

 紙束から赤黒い糸が立ち上がる。

 怒り。

 悲しみ。

 忠誠。

 裏切られた痛み。

 それらが一瞬、俺へ向かおうとした。

 俺は手を出しかけて、止めた。

 俺が持つものではない。

「ハルヴァンさん」

 俺は言った。

「これは、誰のものですか」

 ハルヴァンは紙束を見た。

「俺たちのものです」

「全部ですか」

 彼は歯を食いしばった。

 それから、首を横に振った。

「違う。俺たちだけのものではない。死んだ者の家族のものでもある。命じた者のものでもある。補償を止めた者のものでもある」

 王女が自分の補償案を右皿に置いた。

「王家も持ちます」

 神官が祈りの写しを置いた。

「神殿も、名を祈りに戻します。魂の安寧という言葉で、名前を消しません」

 女性士官が貴族院への通達を置いた。

「貴族院にも署名させます」

 ハルヴァンの赤黒い糸が、いくつにも分かれた。

 すべてが軽くなったわけではない。

 だが、ひとりの胸に刺さっていた太い棘が、複数の手に分けられたように見えた。

 軽き神が言った。

「それでも痛い」

「痛いです」

 ハルヴァンが答えた。

「だが、昨日みたいに何も感じないよりはいい」

 その言葉は、広間の石に染み込んだ。

 次に、アデライデが進み出た。

 彼女は密命文書を左皿に置いた。

 銀色の糸が走る。

 忠誠。

 裏切り。

 戦争を止める願い。

「これは、私の裏切りです」

 彼女は言った。

「私一人の決断です。ですが、実行に加わった三人の意志を、私が奪ってはならない」

 リゼが一歩前に出た。

「私は、将軍の命令だから動いたのではありません。西区で帰還兵の名を見ました。敵国の兵にも、私たちの兵と同じ名があると知りました」

 彼女の薄い灰色の糸が、少し色を持った。

 オルンが言った。

「私は軍医です。兵を殺す命令より、眠らせる薬を選びました。誘拐は罪です。その罪は、将軍だけのものではありません」

 くすんだ緑の糸が、テーブルではなく、彼自身の手元に戻る。

 ガルが低い声で言った。

「私は、将軍がこれ以上若い兵を雪に埋めたくないことを知っていた。だから馬車を出した。それだけだ」

 古い青い糸が、アデライデだけでなく、彼自身の胸にも戻った。

 アデライデは目を閉じた。

 そして、言った。

「私は、彼らを私の美しい裏切りの飾りにしません。それぞれの選択として、返します」

 銀色の糸が四本に分かれた。

 アデライデ、リゼ、オルン、ガル。

 それぞれが、それぞれの重みを持つ。

 アデライデの銀は、まだ鋭い。

 だが、彼女一人の胸を貫いていた刃ではなくなった。

 軽き神は黙っていた。

 次に、リュシエンヌが進み出た。

 彼女は第三槍隊の名簿を持っていた。

「これは、私の後悔です」

 青白い糸に灰色が混じる。

 俺が初めて森で見た、彼女の重みだった。

「私は生き残りました。伝令として命じられたからです。ですが、命じられたからといって、死んだ仲間への重みが消えるわけではありません」

 彼女は名簿を天秤に置いた。

「この後悔を、セイジ殿に預けてはいけません。あなたが私に『後悔にするのは早い』と言ってくださったことを、私は忘れません。でも、その言葉に甘えて、私の重みをあなたの肩に乗せ続けることはしません」

 俺の左側の青白い糸が震えた。

 リュシエンヌは俺を見た。

「この重みは、私が持ちます。ただし、一人で抱えきれなくなった時は、隣にいる人に見てもらいます」

 俺は頷いた。

「見ます」

「背負わせません」

「はい」

 青白い糸は、隣に戻った。

 肩ではない。

 隣に。

 カイラが前へ出た。

 彼女は何も紙を持っていない。

 代わりに、手の中の小さな火を天秤の皿へ近づけた。

「私は、紙がない」

「カイラ殿は、それでよい」

 王女が言った。

「竜の証言は火で十分です」

 カイラは少し得意げに鼻を鳴らした。

「私は、セイジを巣の者にしたかった」

「まだ言いますか」

 俺が思わず言うと、彼女は真面目な顔で首を横に振った。

「したかった。だが、しない」

 金色の糸が強く燃えた。

「好いたものを巣へ入れるのは竜のやり方だ。守る。温める。誰にも渡さない。だが、それではセイジは焼ける」

 彼女は手の中の火を天秤に置いた。

 火は皿の上で、小さく揺れた。

「だから、私の好意は、私が火加減を覚える。セイジに弱くなれとは言わない。私も、強くなる」

 金色の糸が、俺の背中から少し離れた場所に戻る。

 温かい。

 焼けない。

 俺は小さく息を吐いた。

「ありがとうございます」

「重いか」

「ちょうどいいです」

 カイラは満足そうに笑った。

 その笑いに火が混じらないのが、少し誇らしそうだった。

 王女イレーネが進み出た。

 彼女はしばらく、何も持たずに立っていた。

 やがて、懐から小さな白い花を取り出した。

 中庭に咲いていた花だ。

「私は、民を愛しています」

 白金の糸が広間へ広がる。

 軽き神がわずかに揺れた。

「ですが、その愛を私一人の胸に集めれば、私は民を道具にし、民も私を王女という道具として見るだけになる」

 彼女は白い花を天秤の皿に置いた。

「民を愛することは、私一人の仕事ではありません。王家、神殿、貴族院、軍、商会、家族、隣人。それぞれが、それぞれの分を持たなければならない」

 白金の糸が、王女ひとりから広がるのではなく、部屋の中の人々、そして王都の地図へ向かって分かれていく。

「私は、王女として持つべき重みを持ちます。けれど、私個人の好意まで国へ流すことはやめます」

 彼女は俺を見た。

 白い糸が、俺の前に置かれる。

「これは、私のものです。国のものではありません」

 重い。

 だが、透明だった。

 誰の命令でもない。

 国益でもない。

 彼女自身の好意。

 俺はそれを見た。

「受け取ります」

 王女は頷いた。

 そして、少しだけ笑った。

 その笑みは、持てる重さだった。

 最後に、俺の番が来た。

 手の中に、院長が記録した紙がある。

 元の世界で好意を間違えたこと。

 謝れなかったこと。

 この世界に来た理由。

 軽き神に渡さなかった後悔。

 俺は天秤の前に立った。

 灰白の糸が胸の奥で絡まっている。

 千尋へ向かう糸。

 そこに、この世界の糸が絡む。

 リュシエンヌ、カイラ、王女、アデライデ、帰還兵、軽き神。

 俺は一度、それら全部を自分が背負わなければならないのだと思っていた。

 だが、違う。

 俺は全部を背負う人間ではない。

 見て、置き場所を探す人間だ。

 なら、自分の後悔にも置き場所が必要だった。

「俺は、元の世界で人の好意を間違えました」

 広間は静かだった。

「相手の笑顔を、都合よく読んだ。相手の冗談に、勝手に意味を足した。みんなの前で逃げ場を塞いで、それでも自分が恥をかかないように流そうとした」

 言葉にすると、やはり情けない。

 だが、軽き神の羽は近づいてこなかった。

 たぶん、俺が渡さないからだ。

「俺は謝りませんでした。謝ると、自分が許されたいだけになる気がした。でも、謝らなかったのは、ただ自分が傷つきたくなかったからでもある」

 灰白の糸が震える。

「この重みは、相手に押しつけるものではありません。許してほしいと迫るものでもない。けれど、軽くしてなかったことにするものでもない」

 俺は紙を天秤に置いた。

「これは、俺が持ちます。いつか帰れた時、返事を求めない言葉にして置けるようになるまで」

 灰白の糸が、胸の奥から少しだけ離れた。

 消えたわけではない。

 だが、腐っていた塊が、折り畳まれた紙のような形になった。

 まだ痛い。

 でも、呼吸できる。

 軽き神が、俺を見ていた。

「秤の人」

 声が響く。

「あなたは、誰の荷も私に渡さないのですか」

「渡します」

 俺は答えた。

「でも、消すためではありません」

「預かるために?」

「はい」

「返す時が来るまで?」

「はい」

 軽き神の白い手が、天秤の上に伸びた。

 帰還兵の証言。

 密命文書。

 第三槍隊の名簿。

 カイラの火。

 王女の白い花。

 俺の記録。

 それらの上に、白い羽が一枚ずつ落ちる。

 軽くなる。

 だが、消えない。

 紙は紙のまま。

 火は火のまま。

 花は花のまま。

 ただ、それぞれの重みが、持てる形に整っていく。

 軽き神の声が、初めて少しだけ震えた。

「私は、消すことしか知りませんでした」

「これから覚えればいいです」

 カイラが後ろで小さく笑った。

「神も練習するのか」

「するんじゃないですか」

「人間も竜も神も、練習ばかりだな」

 その言葉に、旧秤堂の重い空気が少しだけ緩んだ。

 軽き神の白い手が、石の天秤に触れた。

 その瞬間、天秤の左右の皿がゆっくりと沈み、そして釣り合った。

 古い石の柱に、白い線が走る。

 無数の名前の間に、新しい印が刻まれていく。

 天秤の片皿から舞い上がる羽。

 ただし、その羽は空へ消えない。

 もう片方の皿へ、そっと戻る形だった。

 神官が息を呑んだ。

「新しい印だ」

 王女が静かに言った。

「荷を消す神ではなく、荷を預かる神」

 軽き神の姿が薄くなる。

 消えるのではない。

 旧秤堂の石と、天秤と、白い羽の印の中へ収まっていく。

 置き場所を得たのだ。

「秤の人」

 最後に声がした。

「あなたの荷も、いつか預かりましょう」

「必要になったら」

「消しません」

「お願いします」

 白い光が静かに収まった。

 広間には、石の天秤と、紙束と、火と、花と、一枚の記録だけが残った。

 誰もすぐには動かなかった。

 王都のどこかで鐘が鳴った。

 正午の鐘だった。

 旧秤堂から地上へ戻ると、王都の空はまだ晴れていた。

 だが、朝とは違って見えた。

 色が戻っている。

 影も戻っている。

 屋根の赤は少し煤け、壁の白には汚れがあり、水路は光を反射しながらも底に泥を抱えている。市場の声はうるさく、西区の方角からは泣き声も怒鳴り声も聞こえた。

 重い世界だった。

 だが、生きている世界だった。

 王女はすぐに動いた。

 軽き神の新しい祀り方を、神殿と協議する。

 帰還兵の証言を、旧秤堂にも納める。

 補償案を、貴族院に再提出する。

 アデライデの密命文書を使い、ノルヴァルト側の偽装襲撃を未然に潰す。

 やることは山ほどあった。

 だが、王女は一度だけ俺のほうを見た。

「セイジ殿」

「はい」

「休憩を予定に入れます」

「誰のですか」

「全員のです」

 それはいい判断だった。

 アデライデは、自分の腹心たちと短く話した。

 リゼはまた影に戻り、オルンは施療院へ薬の確認に行き、ガルは馬車の手配へ向かった。三人とも、自分の重みを少しずつ持ち直していた。

 ハルヴァンは西区へ戻った。

 彼は言った。

「痛みは戻った。だが、昨日ほど喉は焼けない」

「よかったです」

「よいのか悪いのか、まだわからない」

「俺もです」

 ハルヴァンは少し笑った。

「なら、それでいいのでしょう」

 カイラは中庭へ出るなり、大きく伸びをした。

「地下は狭い」

「広かったですよ」

「空がない」

「それは地下なので」

「セイジ」

「はい」

「私は火加減を覚えた」

「はい」

「だから、少し褒めろ」

 直球だった。

 俺は笑った。

「偉いです。かなり」

 金色の火が一瞬大きくなった。

「距離」

 俺が言うと、カイラは慌てて一歩下がった。

「難しい」

「でも、できています」

「なら、よい」

 彼女は満足そうに尾を揺らした。

 王女はそれを見て、少し笑った。

 その笑みも、前に置かれた。

 俺は受け取った。

 持てる重さだった。

 夕方、俺は宮廷魔導院の水盤の部屋に呼ばれた。

 院長が、少し疲れた顔で待っていた。

「帰還術式についてです」

「はい」

「昨日の乱れで、即時帰還は不可能になりました」

「そうですか」

 予想はしていた。

 それでも、言われると胸に来る。

 元の世界へ帰る道は、また遠のいた。

「ですが、座標の一部は安定して残っています」

 院長は水盤を指した。

 水面には、駅のホームではなく、ぼんやりした白い光が映っていた。

「軽き神に荷を渡さなかったことで、あなたの灰白の糸が消えずに定まりました。今すぐは無理ですが、いつか帰還術式を組み直すことはできます」

「いつか」

「はい。あなたが帰るべき時に」

「魔導論ですか」

「半分は」

「残り半分は?」

「人としての勘です」

 院長にそう言われると、不思議と納得しづらい。

 だが、今はそれでよかった。

 帰る道は消えていない。

 ただ、今ではない。

 俺は水盤を見つめた。

 元の世界には、まだ置けていない言葉がある。

 それは消えていない。

 いつか帰る。

 その気持ちも消えていない。

 だが、今この世界で置くべき重みもある。

 それも、もう見えなかったことにはできない。

 水盤の部屋を出ると、リュシエンヌが待っていた。

 白い外套。

 青白い糸。

 隣に置かれた信頼。

 最初に森で出会った時より、彼女の表情は少し柔らかくなっている。だが、背筋は変わらずまっすぐだった。

「聞きました」

 彼女が言った。

「帰還は、まだ先になると」

「はい」

「帰りたい気持ちは、変わりませんか」

「変わりません」

 俺は正直に答えた。

 リュシエンヌの青白い糸が、少しだけ揺れた。

 寂しさ。

 今度は、消えない。

 彼女はそれを隠さなかった。

「そうですか」

「でも、今すぐではありません」

「はい」

「その間、俺はまだここにいます」

「はい」

 短い返事だった。

 だが、重い。

 そして、温かい。

 リュシエンヌは少し歩き出した。

 俺も隣に並ぶ。

 王城の廊下には、夕方の光が長く伸びていた。窓の外では、中庭の白い花が揺れている。その花の上には、もう白い羽はなかった。

 どこへ行ったのか。

 たぶん、旧秤堂に収まったのだろう。

 リュシエンヌが立ち止まった。

「セイジ殿」

「はい」

 彼女は俺をまっすぐ見た。

 砦で過ごした夜のことを思い出した。

 灰角狼の血の匂いがまだ消えない部屋で、彼女は俺に忠誠を誓おうとした。

 私の主になってください。

 あの言葉は、あまりにも重かった。

 俺はそれを、同行の約束に変えてもらった。

 その言葉が、ここまで俺たちを連れてきた。

 リュシエンヌは、静かに言った。

「私は、あなたを主とは呼びません」

「はい」

「あなたに仕えるのでもありません」

「はい」

「あなたの荷を、代わりに背負うこともできません」

「はい」

 青白い糸が、隣に並ぶ。

 まっすぐに。

 重く、清潔で、少し震えている。

「それでも」

 彼女の声が、わずかに揺れた。

「主ではなく、隣にいてください」

 胸が詰まった。

 重い。

 もちろん重い。

 だが、それは俺を押し潰す重さではなかった。

 隣に置かれた、歩くための重さだった。

 俺はしばらく答えられなかった。

 リュシエンヌは急かさなかった。

 待っていた。

 誰も誰かを待たない世界ではない。

 彼女は、待っていた。

「はい」

 俺は言った。

「隣にいます。帰る日までは」

 リュシエンヌの目に、一瞬だけ痛みが走った。

 帰る日までは。

 その言葉は、彼女にとって軽くない。

 だが、彼女は頷いた。

「それで構いません」

「構わないんですか」

「構いません」

 彼女は少しだけ笑った。

「帰る日が来ても、その時また、言葉を選べばいい」

 俺は笑った。

「強くなりましたね」

「あなたほどではありません」

「俺はよく倒れます」

「倒れても、立ち上がります」

「支えられてますから」

「隣ですから」

 その言葉で、青白い糸が静かに定まった。

 肩ではない。

 胸でもない。

 隣に。

 俺たちは廊下を歩き出した。

 中庭からカイラの声が聞こえる。

「セイジ! 王女が竜用の寝床を作ると言ったぞ!」

「言っていません」

 王女の声が続く。

「検討すると言いました」

「同じだ!」

「違います」

 アデライデの落ち着いた声も混じった。

「竜用寝床の設計は、軍の野営技術に応用できるかもしれません」

「敵国の技術にしないでください」

 思わず笑ってしまった。

 世界は重い。

 王都の問題は何も終わっていない。

 帰還兵の補償も、ノルヴァルトとの緊張も、王位継承の不安も、俺の帰還も、まだ全部途中だ。

 だが、重みには置き場所ができ始めている。

 消さずに。

 一人で背負わずに。

 返せるものは返し、預けるものは預け、持つべきものは持つ。

 俺はそのために、ここにいる。

 少なくとも、今は。

 廊下の先に、夕方の光があった。

 リュシエンヌが隣を歩いている。

 後ろには金色の熱。

 前には白い糸。

 遠くに銀色の刃。

 胸には灰白の紙片。

 どれも重い。

 だが、歩ける。

 俺はその重さを感じながら、王城の中庭へ向かった。

 軽い世界では、誰も誰かを待たなかった。

 重い世界では、誰かが誰かの隣に立つ。

 俺は、そちらの世界を選んだ。

 今のところは。

 そしてたぶん、帰る日が来ても、その選択だけは持っていくのだろう。


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