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第八章 好意を間違えた男

 その夜、王城は眠らなかった。

 もちろん、王城というものが完全に眠ることなど、そもそもないのかもしれない。夜番の兵がいる。厨房では翌朝の支度が始まる。記録官は急ぎの書面を書き写し、使者は馬を替え、魔導院の窓には遅くまで青い灯りが残る。

 だが、その夜の王城は、普通の夜とは違っていた。

 黒鷹のアデライデが、王城内にいる。

 敵国ノルヴァルトの女将軍。

 王都西区の騒擾支援、国境での偽装襲撃、王女イレーネの移動経路露呈。その密命文書を持って、自国を裏切ろうとしている人間。

 表向きには、彼女は存在しないことになった。

 少なくとも、まだ。

 王城の北棟、燃えない石で造られた古い客室に、彼女は置かれた。捕虜ではない。客人でもない。非公式接触者。王女イレーネがそう名付けた。

 名付け方ひとつで、人の扱いは変わる。

 捕虜と呼べば、敵意が乗る。

 客人と呼べば、信頼が乗る。

 非公式接触者と呼べば、責任の置き場所が曖昧になる。

 便利な言葉だ。

 便利だからこそ、重い。

 俺は王城の客室で、なかなか眠れずにいた。

 窓の外には、王都の灯りが広がっている。西区の方角には、まだ赤黒い糸が残っていた。王城の北棟には、銀色の細い糸が張っている。アデライデの裏切りの糸だ。その銀色は、王女の白金の糸と、ひとまず仮に結ばれている。

 仮に、というところが怖い。

 少しでも力のかけ方を間違えれば、切れる。

 切れれば、戦争になるかもしれない。

 そんなものまで見えてしまうようになって、俺はいったい何者になりつつあるのか。

 元の世界の俺は、せいぜい会議の空気を読んで、誰が本音を言っていないかを何となく察する程度の男だった。いや、それだって、うまくできていたとは言えない。むしろ肝心なところで、俺は何度も読み違えた。

 好意も。

 沈黙も。

 拒絶も。

 その夜、扉が叩かれた。

 リュシエンヌかと思った。

 違った。

 扉の向こうから聞こえたのは、王女の侍女の声だった。

「セイジ様。宮廷魔導院長が、お越しを願っております」

「今ですか」

「はい。魂の座標について、確認したいことがあるとのことです」

 魂の座標。

 何度聞いても嫌な言葉だ。

「殿下は?」

「お休みにはなっておりません」

「でしょうね」

 俺はため息をついた。

「リュシエンヌさんは」

「すでに同行されると」

「カイラさんは」

「起こしましたところ、石の部屋が寒いので行く、と」

「理由が雑ですね」

「アデライデ殿は」

「そこまで聞いていません」

「聞かなくていいです」

 敵国の女将軍まで一緒に来られたら、魔導院が夜中の会議場になる。

 俺は外套を羽織り、廊下へ出た。

 リュシエンヌはすでに待っていた。白い外套こそ着ていないが、剣は腰にある。眠っていなかったのだろう。目は冴えている。

「お休みのところを」

「寝ていませんでした」

「そうだと思いました」

「顔に出ていますか」

「はい」

 正直だった。

 リュシエンヌの横にはカイラがいた。髪が少し乱れている。明らかに寝起きだ。尾の先が不機嫌そうに揺れている。

「人間の城は夜も呼び出すのか」

「呼び出されましたね」

「巣なら、眠っている竜を起こす者は食われる」

「ここでは食べないでください」

「食わない。たぶん」

「そこは即答で」

 カイラは欠伸をした。

 欠伸の奥に小さな火が見えた。

「火」

 俺が言うと、カイラは慌てて口を閉じた。

「出ていない」

「見えました」

「少しだ」

「少しでも王城ではまずいです」

 リュシエンヌが小さく笑った。

 その笑いに、青白い糸がふわりと揺れる。

 俺はそれを、逃げずに見た。

 持てる重さだった。

 魔導院の夜は、昼よりさらに静かだった。

 白い尖塔の内部には、青い灯りがゆっくり脈打っている。床の幾何学模様が淡く光り、壁に並んだ標本瓶の中で、小さな光虫のようなものが動いていた。昼間の研究機関めいた空気に、少しだけ神秘が戻っている。

 院長は、円形の部屋で待っていた。

 中央には、浅い水盤がある。

 直径は二メートルほど。黒い石で縁取られ、底には銀の文字がびっしり刻まれている。水面は鏡のように静かで、そこに窓のない天井が映っていた。天井には星図が描かれている。現実の星ではなく、この世界の星なのだろう。

「遅くに申し訳ありませんな」

 院長は、まったく申し訳なさそうではない顔で言った。

「昼間にしてほしかったです」

「昼は王女殿下が西区へ連れ出されましたので」

「俺のせいではないです」

「そうですな。王女殿下のせいです」

 はっきり言う老人だった。

「何をするんですか」

 リュシエンヌが一歩前に出た。

 院長は彼女に軽く頷いた。

「魂の座標の確認です。セイジ殿が元の世界へ戻るためには、こちらへ落ちた時の裂け目の形を知る必要があります。裂け目は偶然にも見えますが、完全な偶然では開きません」

「完全な偶然では」

 俺は聞き返した。

 その言葉が、胸に妙に引っかかった。

「異界転移には、こちら側とあちら側、双方に引き合う重みが必要です」

 院長は水盤を指した。

「こちらに願いがあり、あちらに応答する心がある。あるいは、こちらに欠落があり、あちらに同じ形の欠落がある。そういう時、世界の縫い目が薄くなる」

「じゃあ、俺は呼ばれたんですか」

「誰かが名指しで呼んだとは限りません」

「どういう意味ですか」

「井戸に落ちる時、井戸があなたの名を呼ぶわけではありません。しかし、穴があり、足を踏み外し、重みが合えば落ちる」

「嫌なたとえですね」

「わかりやすいでしょう」

 院長は悪びれずに言った。

「今日の検査で、セイジ殿の魂には、秤の相が出ていました」

「秤」

「人の重みを量る者。古い伝承では、異界から来た者の中に、心の重みを量る者あり、と言われています。あなたは、その類型に近い」

「それは、生まれつきですか」

「いいえ。こちらへ来る前から、素地はあったのでしょうが、能力として開いたのは転移後です」

「素地」

「人の好意、拒絶、未練、沈黙。そういったものを読み違え、その重みを知りたいと強く願ったことがあるのでは?」

 俺は黙った。

 リュシエンヌがこちらを見る。

 カイラも、眠そうだった目を少し細めた。

「セイジ殿」

 院長は続けた。

「水盤に触れてください。転移の起点が見えるはずです」

「危険ですか」

「多少」

「多少」

「眠り蔓よりは安全です」

「比較対象が悪いです」

 リュシエンヌが低く言った。

「私が側にいます」

 青白い糸が、俺の肩に伸びる。

「私もいる」

 カイラの金色の糸が背中へ回る。

「燃えたら消す」

「燃えるんですか」

「燃えないようにします」

 院長の言い方が不安だった。

 俺は水盤の縁に立った。

 水面には、今の俺の顔が映っている。

 三十代後半くらいに若返った顔。

 締まった頬。

 少し疲れた目。

 若い体に、古い目。

 リュシエンヌとカイラは、少し離れた左右に立っている。二人の姿も水面に映る。白い外套ではないが、リュシエンヌはやはり騎士の顔をしている。カイラは腕を組み、不機嫌そうにしながらも、俺から目を離さない。

 この二人に見守られて、俺は自分の過去を見る。

 なかなか恥ずかしい状況だ。

「触れてください」

 院長が言った。

 俺は水面に指を置いた。

 冷たかった。

 次の瞬間、水面が沈んだ。

 落ちる感覚。

 体はその場にいるはずなのに、意識だけが水の中へ引き込まれる。

 青い光が広がった。

 そして、駅のホームが見えた。

 夜だった。

 元の世界。

 蛍光灯の白い光。

 ホームドア。

 柱に貼られた広告。

 電車の到着を知らせる音。

 人々の足音。

 缶コーヒーの匂い。

 俺はそこに立っていた。

 五十を過ぎた、元の俺だ。

 スーツ姿。少し緩めたネクタイ。酔っている。疲れている。OB会の帰りだった。古い同僚たちと話し、昔の役職名で呼ばれ、まだ自分が何かの続きにいるような顔をして笑っていた。

 だが、本当は疲れていた。

 帰りのホームで、俺はスマートフォンを見ていた。

 画面には、メッセージの履歴が残っている。

 送信した文。

 未読のままの文。

 既読になって、返事のない文。

 胸が苦しくなった。

 見たくない。

 だが、水盤は見せる。

 現世の記憶。

 好意を間違えた過去。

 それは、少し前の同窓会だった。

 いや、同窓会というほど大げさではない。中学時代の仲間が集まった小さな会だった。古い校舎が取り壊されるというので、その前に一度見に行こうという話になった。四十年近く会っていなかった顔が並び、誰が誰だかわからないまま、名札を見て驚き、昔のあだ名で笑った。

 その場に、片岡千尋がいた。

 中学の頃、好きだった人だ。

 好きだった、と言えるほど何かをしたわけではない。男子校に進む前の、まだ恋という言葉を使うのが恥ずかしかった頃の、遠くから見ていただけの相手だった。彼女は明るく、よく笑い、誰にでも自然に声をかけた。俺はその自然さを、自分にだけ少し多いのではないかと勝手に思った。

 そういう種類の勘違いは、若い頃ならまだ許されるのかもしれない。

 いや、許されないか。

 ただ、若い頃は、誰もが少しずつ馬鹿だったと言い訳できる。

 問題は、五十を過ぎても、俺がまだ同じ種類の馬鹿さを残していたことだった。

 千尋は、その頃、離婚してしばらく経ったところだった。

 それを誰かから聞いた。

 会の途中で、彼女は俺に言った。

「秋津くん、変わらないね」

 社交辞令だ。

 普通なら、そこで笑って終わる。

 だが俺は、その言葉を少し深く受け取ってしまった。

 変わらない。

 昔のまま。

 まだ自分のことを覚えている。

 その程度の言葉に、余計な意味を載せた。

 会は少し酒が入っていた。

 周りには昔の友人がいた。

 誰もが笑っていた。

 だから俺は、冗談の形で言った。

「じゃあ、結婚してくれないかな」

 場が笑った。

 千尋も笑った。

 笑うしかなかったのだ。

 今ならわかる。

 あの時、彼女は逃げ場のない場で笑った。誰かの悪気のない冗談を、悪い空気にしないために笑った。それは好意ではなく、社交だった。優しさですらない。場を壊さないための反射だった。

 彼女は言った。

「持参金一億なら考えてもいいよ」

 皆が笑った。

 俺も笑った。

 そして、俺はさらに馬鹿なことを言った。

「そのくらいなら、なんとかなるかも」

 笑いが少し変わった。

 ほんの少し。

 誰かが咳払いをした。

 千尋の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。

 それでも彼女は笑った。

「やだ、冗談だよ」

 その一言に、俺は救われるべきだった。

 ああ、冗談だったのだ。

 これ以上踏み込むな。

 そこで下がるべきだった。

 だが俺は、自分の恥ずかしさを隠すために、さらに笑った。

「俺は結構本気だけどね」

 場の空気が、今度は明らかに変わった。

 千尋は笑ったまま、グラスを置いた。

「秋津くん、そういうのは、酔ってる時に言うことじゃないよ」

 彼女は優しかった。

 怒らなかった。

 場を壊さなかった。

 俺の逃げ道を残してくれた。

 なのに、俺はその優しさを、自分が傷つかずに済んだこととしてしか受け取らなかった。

 彼女が傷ついたかもしれないとは、考えなかった。

 その後、俺は何度かメッセージを送った。

 昔話の続きをするような、軽い文面で。

 また会えたらいいね。

 この前は楽しかったね。

 あの時の話、本気にしないでね、と書くべきところで、俺は書かなかった。

 謝れば、自分が本当に悪かったことになる気がした。

 だから、なかったことにした。

 軽い冗談に戻そうとした。

 それが一番、彼女にとって重かったのだと思う。

 次の会に、千尋は来なかった。

 幹事の女性から、電話が来た。

 彼女は怒っていた。

「あなた、わかってないでしょう」

 俺は何のことか、と言いかけた。

 言いかけて、やめた。

「千尋、あなたに会うのが嫌で欠席したのよ」

 その言葉は、今でも刺さっている。

「冗談の場に見えたかもしれないけど、あの人、離婚してまだ傷ついてたの。そこで昔の男友達に、みんなの前で結婚してくれなんて言われて、笑うしかなかったのよ」

 昔の男友達。

 俺は、そんな立場ですらなかった。

 ただの同級生だ。

 かつて少し好きだった相手。

 勝手に、相手も少しは自分を懐かしく思ってくれていると考えた。

 相手の笑顔を、許可だと間違えた。

 相手の冗談を、好意の返事だと間違えた。

 そして、相手の沈黙を、面倒だから返事をしないだけだと間違えた。

 本当は、拒絶だったのに。

 水盤の中で、俺は駅のホームに戻った。

 OB会の帰り。

 スマートフォンの画面には、千尋へ送ったまま返事のないメッセージがあった。

 その時の俺は、もう送るのをやめていた。

 だが、やめたからといって、軽くなったわけではない。

 むしろ、何も言えなかった重さが残っていた。

 ごめん。

 その一言を送らなかった。

 送れば、また彼女に重みを渡してしまう気がした。

 送らなければ、自分だけの中に置ける気がした。

 どちらも、都合のいい言い訳だった。

 ホームの向こうで、広告看板が白く光った。

 あの光。

 俺が異世界へ落ちる直前に見た光。

 だが、水盤の中では、その光の中に糸が見えた。

 こちらの世界から伸びる糸。

 王都の重み。

 王女の孤独。

 リュシエンヌの折れかけた忠誠。

 カイラの謝れなかった火。

 エルナの後悔。

 ノルの未練。

 アデライデの裏切り。

 それらが一本の白い裂け目の向こうに集まっていた。

 そして、俺の胸からも糸が伸びていた。

 色の定まらない、情けない糸。

 好意を間違えた男の後悔。

 人の気持ちの重さを見たいと、本当は思っていた。

 あの時、彼女の笑顔がどれほど重かったのか。

 あの冗談が、彼女にどう乗ったのか。

 自分の言葉が、どこで刃になったのか。

 見えればよかったのに。

 見えれば、間違えなかったのに。

 そう思った。

 いや、違う。

 もっと都合よく思っていた。

 見えれば、自分は傷つかずに済んだのに。

 見えれば、拒絶される前に引けたのに。

 見えれば、自分だけ恥をかかずに済んだのに。

 その卑怯な願いも、確かにあった。

 駅のホームに、電車の光が近づく。

 広告看板の光が、さらに白くなる。

 俺は画面を見ながら、心の中で呟いていた。

 人の好意が見えればいいのに。

 拒絶も、未練も、全部、重さでわかればいいのに。

 その時、向こう側から声がした。

 声ではない。

 重みだった。

 誰かひとりの願いではなく、この世界に溜まった無数の重みが、裂け目の向こうで俺を引いた。

 心の重みを量る者。

 見たいと願った者。

 見なかったことで人を傷つけた者。

 その形が、こちらの世界の欠落に合ってしまった。

 俺は、偶然落ちたのではなかった。

 名指しで呼ばれたわけでもない。

 だが、俺の中の後悔が、この世界の重みに応答した。

 裂け目は、俺を選んだ。

 いや、もっと正確に言えば。

 俺もまた、選んでしまったのだ。

 水盤から手を離した。

 気づくと、俺は床に膝をついていた。

 息が荒い。

 背中に汗をかいている。

 リュシエンヌがすぐそばにいた。俺の肩を支えている。カイラは反対側で、今にも水盤を壊しそうな顔をしている。

「セイジ殿」

 リュシエンヌの声が近い。

「大丈夫ですか」

「……たぶん」

「たぶんでは困ります」

「知ってます」

 声がかすれた。

 カイラが水盤を睨んだ。

「これを壊せばいいか」

「壊さないでください」

「セイジが苦しんだ」

「水盤のせいではありません」

「では、誰のせいだ」

 俺は答えられなかった。

 誰のせいか。

 そんな簡単な話ではない。

 だが、少なくとも俺のせいでもある。

 院長が静かに言った。

「見えましたな」

「はい」

「転移は、完全な偶然ではありませんでした」

「俺が呼ばれたんですか」

「あなたの後悔が、こちらの重みに合った。そう言うべきでしょう」

「帰るには?」

「その後悔を無視したままでは、座標が乱れます」

「つまり、どういうことですか」

 院長は少しだけ言葉を選んだ。

「あなたが元の世界へ戻るには、こちらで開いた力を閉じるか、形を定める必要があります。人の重みを見る者として、何を受け取り、何を返すのか。それが定まらなければ、同じ場所へは戻れません」

「精神論ですか」

「魔導論です」

「似たようなものに聞こえます」

「実際、少し似ています」

 院長は正直だった。

 俺は笑えなかった。

 帰るためには、こちらの問題を解く必要がある。

 そんな都合のいい物語みたいな理屈を、俺は信じたくなかった。

 だが、もう目の前にいくつもの糸がある。

 リュシエンヌの青白い糸。

 カイラの金色の糸。

 王女イレーネの細い白い糸。

 アデライデの銀色の裏切り。

 そして、俺自身の中から伸びる、灰色を帯びた白い糸。

 好意を間違えた後悔。

 それはまだ、元の世界の千尋へ向かっていた。

 謝れなかった相手。

 もう謝るべきかどうかもわからない相手。

 謝れば許されたいという自分の欲が乗る。

 謝らなければ、なかったことにする卑怯さが残る。

 どちらにしても、重い。

「セイジ殿」

 リュシエンヌが静かに言った。

「今、何を見たのですか」

 俺は答えに詰まった。

 言いたくなかった。

 あまりに情けない。

 異世界で魔物や竜や王女や女将軍の重みに触れてきた男が、元の世界で傷つけたのは、ただの同級生だった。悪意ではない。犯罪でもない。だが、相手の笑顔を都合よく読み違え、逃げ道を奪い、謝ることから逃げた。

 その程度の男だった。

 いや、その程度だからこそ、今の俺があるのかもしれない。

「好意を間違えた記憶です」

 俺は言った。

 リュシエンヌは黙って聞いていた。

「昔、好きだった人がいました。久しぶりに会って、相手が社交で笑ってくれたのを、俺は自分に向けた好意だと思いたかった。冗談の形で踏み込みました。相手は笑ってくれた。でも、それは許可じゃなかった。俺はその後も、自分が恥をかかないように、ちゃんと謝らなかった」

 言葉にすると、思っていたより小さな話だった。

 小さい。

 だが、重い。

 人を傷つけることは、大きな事件だけではない。

 小さな場で、小さな笑いの中で、小さく逃げ道を塞ぐことでも、十分に傷はつく。

「その人は?」

 カイラが聞いた。

「もう会っていません」

「謝ったのか」

「謝っていません」

 カイラは眉をひそめた。

「なぜ」

「謝ると、自分が許されたいだけになる気がした」

「では、謝らなかったら軽くなったのか」

「いいえ」

「なら、変だ」

「そうですね」

 カイラは真顔だった。

 この竜娘は、時々とても単純で、だからこそ逃げ道を塞いでくる。

 リュシエンヌが言った。

「その記憶が、こちらへの転移に関わっているのですね」

「らしいです」

「人の好意の重みを見たいと願ったから」

「はい」

「それは」

 彼女は少し言葉を探した。

「罰なのですか」

 俺は水盤を見た。

「わかりません」

 罰。

 そう言われれば、そうかもしれない。

 見たいと願ったものが、本当に見えるようになった。その結果、リュシエンヌの忠誠も、カイラの好意も、王女の孤独も、アデライデの裏切りも、全部背負うことになった。

 罰としては、かなりよくできている。

 だが、それだけではない気もする。

「罰というより、宿題かもしれません」

 俺は言った。

 カイラが首を傾げた。

「宿題?」

「元の世界でやらずに逃げたことを、こっちでやらされている感じです」

「それは罰ではないのか」

「似ています」

 院長が興味深そうに頷いた。

「よい表現ですな。宿題」

「魔導論に使わないでください」

「記録しておきます」

「しなくていいです」

 リュシエンヌは、まだ俺の肩を支えていた。

 その手が、少しだけ強くなる。

「セイジ殿」

「はい」

「私は、あなたが過去に何をしたかで、今のあなたを見るつもりはありません」

 青白い糸が、静かに伸びる。

 重い。

 でも、持てる。

「ただ」

 彼女は続けた。

「あなたが今それを見て、言葉にしたことは、信じます」

 胸が詰まった。

 好意でも、許しでもない。

 信頼。

 だが、それは軽くない。

 俺はいつものように、重いと言いかけた。

 だが、言わなかった。

 言えば、逃げ道になる気がした。

「受け取ります」

 俺は言った。

 リュシエンヌの目が少し揺れた。

 青白い糸が、俺の胸元へゆっくり結ばれる。

 今度は、肩ではなかった。

 俺はそれを受け取った。

 カイラが不満そうに尾を振った。

「私のも受け取れ」

「今ですか」

「今だ」

「もう少し加減して」

「している」

 金色の糸が、慎重に伸びてくる。

 熱い。

 竜の好意は、やはり熱い。

 だが、以前のように背中から押し潰すものではなかった。カイラなりに細くしている。たぶん、ものすごく努力している。

「持てます」

 俺が言うと、カイラの表情が一瞬で明るくなった。

 糸が太くなりかける。

「抑えて」

「難しい」

「練習です」

「人間は練習が多い」

 彼女は不満そうにしながらも、ちゃんと抑えた。

 院長がそのやり取りを観察していた。

「なるほど。好意の受容による座標安定」

「何でも理論にしないでください」

「重要です。帰還術式に関わります」

「本当に?」

「半分くらいは」

「残り半分は?」

「興味です」

 正直な老人は厄介だ。

 水盤の水面が、まだ揺れている。

 そこに、元の世界のホームが薄く映っていた。

 千尋の名前は、もう見えない。

 だが、彼女へ向かう灰白の糸は、まだ俺の胸に残っている。

 俺はそれを見つめた。

「院長」

「はい」

「元の世界へ戻れたとして、過去の相手に謝るべきなんでしょうか」

「私に聞かれても困りますな」

「でしょうね」

「ただ、魔導論として言うなら」

「はい」

「謝罪は、相手に重みを戻す行為にも、相手から重みを奪う行為にもなります。許すかどうかを迫る謝罪は重い。返事を求めない謝罪は、少し軽い」

 俺は黙った。

「言葉の置き方です」

 院長は言った。

「あなたは、それをこちらで学んでいるのでしょう」

 言葉の置き方。

 リュシエンヌの忠誠を、同行の約束に変えた。

 カイラの竜の好意を、王都まで一緒に歩く約束に変えた。

 王女の国一つ分の重みを、一人分の好意として受け取った。

 アデライデの裏切りを、戦争を止めるための証言として扱った。

 俺は、ずっと言葉を置き直している。

 自分がかつて、言葉の置き方を間違えたから。

「転移は偶然ではなかった」

 俺は呟いた。

「罰でも、選ばれた英雄でもなく」

 リュシエンヌが静かに聞いている。

 カイラも、院長も。

「俺が見たいと願ったものと、この世界が見てほしかったものが、合ってしまった」

 院長が頷いた。

「現時点では、その理解がもっとも近いでしょう」

「迷惑な一致ですね」

「世界とは、たいてい迷惑なものです」

 また正直なことを言う。

 その時、部屋の扉が開いた。

 王女イレーネが立っていた。

 外套を羽織り、髪を少し乱している。どう見ても、休んでいない顔だった。後ろには眼鏡の女性士官が控えている。彼女もまた疲れている。

「殿下」

 リュシエンヌが姿勢を正す。

 王女は俺を見た。

「水盤の反応が、執務室まで届きました」

「そんなに大きかったですか」

「白い裂け目が一瞬見えました」

「すみません」

「謝ることではありません」

 王女は部屋へ入ってきた。

 彼女から伸びる白い糸が、俺の胸の近くで揺れる。

 昨日受け取った、王女個人からの細い好意。

 今夜は、その糸が少し心配の色を帯びている。

「何が見えたのですか」

 王女が尋ねた。

 俺は少し迷った。

 さっき、リュシエンヌとカイラには話した。

 王女にも話すのか。

 王女は国の重みを背負う人だ。話せば、彼女はそれを使うかもしれない。いや、今の彼女なら使う前に考えるかもしれない。それでも、怖い。

 だが、王女の白い糸は、国のものではなかった。

 少なくとも、今この瞬間は。

 俺は言った。

「元の世界で、俺が人の好意を読み違えて、傷つけた記憶です」

 王女は黙って聞いた。

「その後悔が、この世界の重みに応答したらしいです。俺は偶然落ちたんじゃなくて、こちらの重みと、俺の見たいという願いが合ってしまった」

「そうですか」

 王女は少し目を伏せた。

「では、あなたは、この世界に必要だったのですね」

「その言い方は重いです」

 俺はすぐに言った。

 王女ははっとした顔をした。

「すみません。言葉を誤りました」

「いえ」

「では、言い直します」

 王女は静かに言った。

「この世界は、あなたを必要としたかもしれません。けれど、あなたがこの世界のために存在しているわけではありません」

 白い糸が、持てる重さになった。

 俺は頷いた。

「それなら、受け取れます」

 王女は少し安心したように息を吐いた。

「難しいですね」

「何がですか」

「人に重みを乗せすぎない言葉を選ぶことが」

「殿下はだいぶ上達しています」

 言った瞬間、白い糸が少し太くなった。

 王女も気づいたのか、すぐに胸に手を当てた。

「今、重くなりましたか」

「少し」

「抑えます」

「お願いします」

 王女が真面目に好意を抑えようとしている姿は、少し可笑しかった。

 だが、笑うとまた重くなりそうなので堪えた。

 王女は水盤を見た。

「院長。帰還の可能性は」

「高まりました」

「本当ですか」

 俺は思わず聞いた。

 院長は頷いた。

「起点が見えました。あちら側の座標も一部取れた。ただし、まだ不安定です。セイジ殿の力が、こちらの重みと深く結びつきすぎている」

「つまり」

「今すぐ帰ろうとすれば、途中で裂け目に迷うか、こちらへ戻されるか、あちらへ肉体だけ戻るか」

「最後のはやめてください」

「ですから、急がないことです」

「急ぎたいんですが」

 王女が静かに言った。

「帰りたいのですね」

「はい」

 俺は答えた。

 嘘はつけなかった。

「帰りたいです」

 リュシエンヌの青白い糸が少し揺れる。

 カイラの金色も沈む。

 王女の白い糸が、ほんの少しだけ細くなる。

 胸が痛んだ。

 だが、それでも言わなければならない。

「元の世界には、俺の生活があります。俺が傷つけたままの相手もいる。謝れるかどうかはわからないけど、逃げたままではいられない気もしています」

 王女は頷いた。

「わかりました」

 短い言葉だった。

 だが、重くはなかった。

 彼女は、自分の寂しさを俺に乗せなかった。

 それがわかった。

「ただ」

 俺は続けた。

「今すぐには帰れない。帰るためにも、こちらで見たものを放り出せない。そういうことなんですよね」

 院長が頷いた。

「魔導論としては」

「はい」

「そして、人としても、たぶん」

 リュシエンヌが言った。

「セイジ殿が帰る道を探すことと、今ここで見えている重みを扱うことは、矛盾しないと思います」

 カイラが不満そうに言った。

「帰るな、と言いたい」

 俺はカイラを見た。

 彼女は真顔だった。

「でも、言わない」

「なぜ」

「重いだろう」

 金色の糸が、必死に細く保たれている。

 竜娘が、自分の好意を抑えている。

 俺は胸が少し熱くなった。

「ありがとう」

 カイラは目を逸らした。

「感謝も重い」

「そうですね」

「でも、今のは悪くない」

「よかった」

 リュシエンヌも静かに言った。

「私も、帰らないでほしいとは言いません」

 青白い糸が震えている。

「ですが、帰る日まで、手の届くところにいてください」

「昨日も言いましたね」

「はい」

「わかりました」

 俺は頷いた。

 王女は黙っていた。

 その沈黙が、一番重くなりそうだった。

 だが、彼女はそれを言葉に変えた。

「私は、あなたに帰ってほしくないと思っています」

 直球だった。

 リュシエンヌが息を呑む。

 カイラが王女を見る。

 王女は続けた。

「けれど、その思いをあなたに命令として乗せるつもりはありません。私は、あなたが帰れる道を探すことに協力します。そのうえで、帰る日まで、あなたにこの国を見てほしい」

 白い糸が、俺の胸に届く。

 持てる。

 ぎりぎりだが、持てる。

「受け取ります」

 俺は言った。

 王女の目が少しだけ潤んだように見えた。

 すぐに戻ったが。

 院長が、感心したように呟いた。

「座標が安定してきましたな」

「この場面を観測対象にしないでください」

「貴重です」

「やめてください」

 少しだけ空気が緩んだ。

 それでも、夜の魔導院にある重みは消えない。

 帰還の可能性。

 好意を間違えた過去。

 偶然ではなかった転移。

 戦争を止めたい敵将。

 王都に潜む協力者。

 どれも、朝になれば待っている。

 王女が言った。

「セイジ殿。明日、アデライデ殿の腹心について聞きます。彼女の単独決断であっても、実行した者がいます。彼らの忠誠の重みを見ていただきたい」

「はい」

「それから、西区の掲示を続けます。帰還兵の証言も」

「はい」

「そして、宮廷魔導院は帰還術式の解析を」

「仕事が多いですね」

「はい」

 王女は少しだけ笑った。

「ですが、半刻は休みます」

「今からですか」

「今から」

「それはいいことです」

「あなたに言われると、休まないわけにいかない」

 白い糸が少し揺れる。

 俺はそれを受け取った。

 軽めに。

 王女は本当に、執務室へ戻らず、侍女に連れられて自室へ向かった。

 カイラはそれを見送りながら言った。

「王女は少し賢くなった」

「元々賢いです」

「なら、少し人間になった」

 それは、たぶん正しい。

 リュシエンヌは俺の隣に立っていた。

「セイジ殿」

「はい」

「好意を間違えたことのない人間など、いるのでしょうか」

「どうでしょう」

「私は、あなたへの気持ちを間違えたくありません」

 青白い糸が、まっすぐ伸びた。

 重い。

 だが、逃げるほどではない。

 俺はその糸を見た。

「俺も、間違えないように見ます」

 リュシエンヌは小さく頷いた。

「はい」

 その返事は、静かだった。

 とても静かだった。

 魔導院を出る時、水盤の水面には、もう駅のホームは映っていなかった。

 ただ、二つの月が映っていた。

 俺はしばらくそれを見ていた。

 元の世界の光と、この世界の月。

 俺はその間のどこかに落ちた。

 偶然ではなかった。

 選ばれた英雄でもなかった。

 ただ、人の好意の重さを知りたいと願った男が、重みだらけの世界に落ちた。

 それだけのことだ。

 だが、それだけのことが、どうやらまだ終わらない。

 王城へ戻る廊下で、遠く北棟の方から銀色の糸が揺れた。

 アデライデだ。

 彼女の裏切りは、まだ始まったばかりだ。

 そして俺の宿題も、たぶん始まったばかりなのだろう。

 俺は胸元に残るいくつもの糸を感じながら、廊下を歩いた。

 青白い糸。

 金色の糸。

 白い糸。

 銀色の糸。

 そして、元の世界へ伸びる灰白の糸。

 どれも重い。

 だが、今夜の俺は、それらを全部切りたいとは思わなかった。

 それが、たぶん一番困った変化だった。


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