第七章 黒鷹の女将軍は裏切りたい
王都の朝は、前の日より重かった。
慣れた、とは言いたくない。こんなものに慣れてしまうのは、たぶん危ない。だが、王城の客室で目を覚ました時、窓の外に見える糸の多さに、昨日ほど驚かなかったのも事実だった。
人の願い。
義務。
怒り。
不安。
約束。
借金。
忠誠。
好意。
王都の上には、それらが朝靄のようにかかっている。見ようとすると際限がない。リュシエンヌの言った通り、全部を見ていたら身が持たない。剣士が戦場で全員の動きを見ないように、自分に関わるものだけを見る。そう決めないと、朝食前に気が滅入る。
それでも、今朝はひとつだけ、見ないふりができない糸があった。
王城の北西から、王都の空をかすめるように伸びている、黒に近い赤の糸。
それは街の中ではなく、外から来ていた。
遠い。
だが、強い。
昨日の西区の帰還兵たちの怒りとも違う。カイラの火のような単純な熱でもない。もっと冷えていて、刃物のように薄く、しかし触れれば深く切れる気配がある。
戦争の糸。
そう思った。
思った瞬間、胸が少し冷えた。
異世界に来てから、俺は魔物を見た。竜娘も見た。王女にも会った。多少のことでは驚かなくなってきたつもりだったが、戦争という言葉はやはり別だった。
魔物は怖い。
竜も怖い。
だが、戦争はもっと面倒だ。
理由があり、正義があり、補償があり、命令があり、恨みがあり、報告書があり、記念碑ができる。人が死んだ後も、何年も何十年も重さが残る。
西区の帰還兵たちが、その証拠だった。
俺は身支度をし、廊下へ出た。
すぐにリュシエンヌと合流した。彼女はすでに白い外套をまとい、剣を腰に下げている。朝から背筋がまっすぐだった。
「眠れましたか」
「一応」
「顔色がよくありません」
「王都の糸が多すぎます」
「そうでしょうね」
彼女は当たり前のように頷いた。
それから、少しだけ俺の顔を見た。
「無理なら、今日は休んでも」
「殿下が休んでいないでしょう」
「それは、そうですが」
「なら、俺だけ休むと、胸の白い糸が引っ張るんです」
言ってから、少し後悔した。
リュシエンヌの表情がほんのわずかに変わったからだ。
王女イレーネから俺へ伸びた、個人的な白い糸。
俺は昨日、それを受け取った。
軽めの約束として。
国ではなく、彼女を見る、と。
そのことをリュシエンヌは知っている。カイラも知っている。知っているからこそ、何もなかったことにはできない。
リュシエンヌから伸びる青白い糸が、少しだけ揺れた。
寂しさ。
いや、違う。
寂しさだけではない。
自分の好意も、いつか受け取ってもらえるだろうかという、慎重な期待。
それが見えてしまって、俺は余計に困った。
「リュシエンヌさん」
「はい」
「そちらの糸も、見えています」
彼女は目を伏せた。
「重いですか」
「いえ」
俺は少し考えた。
「今のは、持てます」
リュシエンヌの頬が、ほんの少し赤くなった。
その瞬間、青白い糸が太くなりかける。
「今のは抑えてください」
「すみません」
「いや、謝らなくても」
「謝ると重くなりますか」
「少し」
「では、気をつけます」
だんだん会話が妙な方向へ進んでいる。
そこへ、廊下の向こうからカイラが来た。
彼女は朝から不機嫌そうだった。金色の髪は少し乱れ、尾の先がゆらゆら揺れている。王城で用意された石造りの部屋は、どうやら竜娘にとってあまり快適ではなかったらしい。
「寝床が硬い」
第一声がそれだった。
「石造りの部屋でしたからね」
「燃えるものが少ない部屋、と言われた。燃えるものが少ない部屋は、寝心地も少ない」
「寝心地は量で測るものでは」
「人間は燃えないものを作るのが下手だ」
「たぶん、想定している宿泊者が竜ではないんです」
カイラは鼻を鳴らした。
「王女に言う。竜用の寝床を作れと」
「いきなり王女に家具の発注をしないでください」
「家具ではない。巣だ」
「もっとまずいです」
リュシエンヌが小さく笑った。
カイラはそれを見て、少し不満そうにしながらも、火花を出さなかった。成長している。
俺たちは王女の執務室へ向かった。
扉の前には、昨日の眼鏡の女性士官が立っていた。彼女は俺たちを見ると、いつもの冷静な表情のまま、ほんの少しだけ眉間を押さえた。
「お三方とも、お揃いで」
「何かありましたか」
リュシエンヌが尋ねる。
「殿下は昨夜、半刻お休みになり、その後三刻ほど書類処理をされました」
「休んでいませんね」
俺が言うと、女性士官は真顔で頷いた。
「ほぼ休んでいません」
「止めなかったのですか」
「止めました」
「結果は」
「負けました」
この人にも苦労があるらしい。
執務室に入ると、王女イレーネは机の前に立っていた。
今日も白と青の衣装だが、昨日よりさらに簡素だった。髪はきっちりまとめられている。目の下にわずかに疲れがある。だが、姿勢は崩れていない。
机の上には、山のような書類。
空中には王都の地図。
その地図の西区に、いくつもの印がついている。
「おはようございます、セイジ殿。リュシエンヌ。カイラ殿」
「おはようございます」
俺は挨拶しながら、思わず言った。
「休みましたか」
「半刻」
「短いです」
「昨日よりは休みました」
「比較対象が悪いです」
王女は少しだけ微笑んだ。
その笑みから、細い白い糸が俺へ伸びる。
胸に軽い重みが乗った。
軽い。
持てる。
ただし、油断するとすぐ重くなりそうな気配はある。
「西区の証言掲示は、夜明け前に始めました」
王女は地図を指した。
「貴族院から抗議。軍務局から疑義。神殿から申し入れ。商会連合からも、広場周辺の通行規制による損失補填を求める書簡が来ています」
「朝から盛りだくさんですね」
「王都は朝が早いのです」
「揉め事が早起きなだけでは」
「それもあります」
王女は紙の一枚を取り上げた。
「加えて、北西国境から報告が来ました。ノルヴァルト王国軍が、境界線近くで演習を増やしています」
リュシエンヌの表情が変わった。
「ノルヴァルトが」
「はい」
カイラは首を傾げた。
「敵か」
「隣国です」
王女が答えた。
「友好国ではありません」
「つまり敵だな」
「状況によります」
「面倒だな、国は」
「その点は同意します」
王女は地図の北西を指した。
俺にはその地図上に、朝から見えていた黒赤い糸が重なって見えた。
「見えますか」
王女が聞いた。
「はい。北西から、黒に近い赤の糸が王都へ伸びています」
「戦意でしょうか」
「たぶん。ただ、単純な怒りではないです。冷たい。刃物みたいな感じです」
王女の目が細くなった。
「黒鷹」
「黒鷹?」
俺が聞き返すと、リュシエンヌが答えた。
「ノルヴァルトの女将軍、アデライデ・ヴァルク。通称、黒鷹のアデライデです」
「女性の将軍」
「はい。北境戦役で、我が国の補給線を二度断ちました。撤退戦の名手です。攻めるより、相手の足を止めることを得意とします」
「評判は?」
王女が静かに言った。
「優秀。冷徹。兵を無駄に死なせない。敵国の捕虜にも食糧を配る一方で、必要なら村ごと焼く判断もする」
「また重そうな人ですね」
「かなり」
リュシエンヌの声には、敵への敬意があった。
「黒鷹のアデライデは、我が国にとって危険な相手です。ですが、無能な虐殺者ではありません」
「厄介ですね」
「ええ。厄介です」
王女は俺を見た。
「セイジ殿。黒鷹の糸が見えるのなら、いずれ接触する可能性があります」
「遠慮したいです」
「私も、できれば遠慮したい」
王女がそう言うのは、少し珍しかった。
その時、扉が叩かれた。
女性士官が入ってきた。
「殿下。西区の証言掲示前に、帰還兵代表のハルヴァン・ロウ殿が面会を求めています。緊急とのことです」
「通してください」
すぐに、眼帯の元百人長ハルヴァンが入ってきた。
昨日より顔色が悪い。
だが、目ははっきりしていた。
彼は片膝をつこうとして、王女に止められた。
「膝は不要です」
「昨日の約束通りに、立って話します」
「それで構いません。何がありました」
ハルヴァンは懐から一枚の布を取り出した。
焦げた黒い羽の紋章が縫い取られている。
黒鷹。
俺にもわかった。
「西区の掲示板に、夜明け前、これが刺さっていました」
「黒鷹の印」
リュシエンヌが低く言った。
「内容は」
「文字はありません。ただ、裏に糸が結んでありました」
「糸?」
ハルヴァンは布の裏を見せた。
そこには、細い青い糸と黒い糸が結ばれていた。
俺には、その糸が普通の糸以上のものに見えた。
青は忠誠。
黒は沈黙。
そして、その二つを結ぶ小さな赤い結び目。
裏切り。
俺は思わず息を呑んだ。
「セイジ殿」
王女が俺を見た。
「見えていますね」
「はい」
「何が」
「忠誠と沈黙を、裏切りで結んでいます」
部屋の空気が冷えた。
カイラが鼻を鳴らす。
「面白い結び方だ」
「面白がらないでください」
「裏切りの匂いがする」
カイラの金色の目が鋭くなる。
「だが、腐っていない」
「腐っていない?」
「卑怯な裏切りは腐った匂いがする。これは違う。焼けた鉄の匂いだ」
王女が静かに言った。
「黒鷹が、何かを伝えようとしている」
ハルヴァンは顔を強張らせた。
「殿下。帰還兵の中に、ノルヴァルトの者と接触した者がいる可能性があります」
「わかっています」
「我々を疑いますか」
「疑う必要があります」
ハルヴァンの顔が歪む。
王女は続けた。
「ですが、疑うことと、敵として扱うことは違います。あなた方をまとめて裏切り者にはしません」
ハルヴァンの青い糸が、少しだけ整った。
昨日より、王女の言葉はうまくなっている。
いや、うまくというより、重みを選んでいる。
その時だった。
窓の外で、鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
急報の鐘。
女性士官が窓へ駆け寄る。
「西区で騒ぎです。掲示板の前に人が集まっています」
王女はすぐに外套を取った。
「行きます」
「殿下」
女性士官が止めようとする。
「今、行かなければ、疑いが広がります」
「護衛を増やします」
「目立たない数で」
「無理です」
「なら、目立ってもいい。急ぎます」
王女が動くと、部屋中の糸が一斉に引かれる。
この人は、やはり自分を止めるという発想が薄い。
俺は言った。
「殿下」
「はい」
「今日も休む練習は」
「後で」
「それ、仕事を増やす人の返事です」
「今は西区です」
勝てない。
俺たちは王城を出て、西区へ向かった。
昨日と同じ通りだったが、空気は違っていた。西区の掲示板の前には、すでに大勢の人が集まっている。昨日ハルヴァンたちが語った死者の名前と証言が、木板に張り出されていた。人々はそれを読んでいる。泣いている者もいる。怒っている者もいる。黙って立っている者もいる。
その上に、黒鷹の布が刺さっていた。
王女が広場へ入ると、ざわめきが起きた。
その瞬間、俺には見えた。
広場の人々の糸の中に、いくつか、極端に薄いものがある。
色がない。
いや、色を隠している。
人は何かしら重みを持っている。恐怖でも怒りでも好奇心でも、色がある。なのに、その数人だけ、糸が空白だった。
訓練された沈黙。
俺は背筋が冷えた。
「リュシエンヌさん」
小声で言った。
「色のない人がいます」
リュシエンヌの手が剣に触れる。
「どこです」
「右の屋台の前、灰色の帽子。掲示板の左、杖の老婆。あと、子供を抱いた男」
「子供?」
「たぶん人形です」
その瞬間、右の屋台が爆ぜた。
爆発ではない。
大量の白い煙が噴き出した。
広場に悲鳴が上がる。
カイラが反射的に口を開いた。
「焼かない!」
俺とリュシエンヌの声が重なった。
カイラは踏みとどまった。
偉い。
だが、今は褒めている余裕がなかった。
煙の中で人々が押し合う。護衛たちが王女を囲む。リュシエンヌは俺の腕を掴もうとした。だが、その前に、誰かが俺の背後から布をかぶせた。
甘い匂い。
眠り蔓。
しまった、と思った。
息を止めるのが、一瞬遅れた。
頭が揺れる。
視界が白くなる。
リュシエンヌの声が遠くで聞こえた。
「セイジ殿!」
カイラの咆哮。
王女の命令。
人々の悲鳴。
そのすべてが、布越しに遠ざかっていく。
最後に見えたのは、色のない糸が俺の手首に巻きつく瞬間だった。
空白の糸。
意思を隠した者の重み。
俺は抵抗しようとした。
だが、体が動かなかった。
薄れていく意識の中で、誰かの声がした。
「眠ってください。殺しはしません」
女の声だった。
冷たく、低い声。
そして、どこか疲れた声。
目を覚ました時、俺は馬車の中にいた。
揺れている。
いや、馬車というより荷車に近い。木の箱のような空間で、外の音はあまり聞こえない。手は縛られていなかった。足も自由だ。ただ、起き上がろうとすると頭がひどく重く、吐き気がした。
眠り蔓のせいだろう。
薬師エルナにもらった眠気覚ましの青い瓶を思い出す。
荷物袋はない。
当然か。
俺は体を起こした。
向かいに女が座っていた。
黒い軍服。
銀の縁取り。
肩には黒い羽を象った徽章。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。黒髪を首の後ろで短く束ねている。顔立ちは端正だが、柔らかさより鋭さが先に立つ。左頬に古い傷跡。瞳は濃い灰色。腰には剣。膝の上には黒い手袋を置いていた。
彼女の背筋は、リュシエンヌとは違う意味でまっすぐだった。
騎士のまっすぐさではない。
軍人のまっすぐさ。
曲がることを許されなかった人間の姿勢だった。
「お目覚めですか、セイジ・アキツ殿」
彼女は言った。
「あなたが、黒鷹のアデライデさんですか」
「アデライデ・ヴァルク。ノルヴァルト王国北方軍総司令代行。敵国では、黒鷹と呼ばれています」
「誘拐犯、でもありますね」
「はい」
即答だった。
「否定しないんですか」
「否定しても、事実は変わりません」
「この世界の有能な人たちは、みんな言葉が硬いですね」
「柔らかい言葉で人を連れ去れば、罪が軽くなりますか」
「なりません」
「なら、誘拐です」
やりにくい。
また、やりにくい人が出てきた。
俺は周囲を見回した。
「ここは?」
「王都の地下水路から出た先です。今は移動中ですが、遠くへは行きません」
「俺をどうするつもりですか」
「話をします」
「話なら、王女殿下を通せば」
「通せば、あなたには届かない」
アデライデの声は静かだった。
「イレーネ王女は優秀です。優秀すぎる。私が正面から使者を送れば、彼女はそれを政治にします。私の言葉は、王国間交渉の材料になり、貴族院、軍務局、神殿、商会、すべてに切り分けられる。その間に、人が死ぬ」
「だから俺をさらった?」
「はい」
「かなり乱暴です」
「戦場では、乱暴でなければ間に合わない時があります」
「それで橋を焼いた竜娘に説教したばかりなんですが」
アデライデの眉が少しだけ動いた。
「金鱗の竜娘」
「カイラです」
「噂は聞いています。王都に竜種が入ったと」
「あなたの情報網、すごいですね」
「王都に私の眼があります」
「正直ですね」
「嘘をつく時間が惜しい」
俺は息を吐いた。
頭がまだ重い。
だが、意識は戻ってきている。
アデライデから伸びる糸を見ようとした。
そして、見た瞬間、言葉を失った。
複雑だった。
彼女の胸から、何本もの太い糸が伸びている。
まず、深い青。
ノルヴァルト王国への忠誠。
その青は古く、硬く、軍旗のように張っている。
次に、黒。
沈黙。
作戦。
敵味方を欺くための影。
さらに、赤。
怒り。
だが、その怒りはエルディア王国へだけ向いていない。むしろ、自国の王城へ、ノルヴァルトの宮廷へ伸びている。
そして、灰色。
死者。
大量の死者。
彼女が失った兵たち。
彼女が殺した敵兵たち。
どちらも混じっている。
そのすべての上に、細い銀色の糸が一本走っていた。
鋭い。
今にも切れそうで、しかし切れない。
裏切りの糸。
それは彼女自身の背中から、自分の胸を貫くように伸びていた。
彼女は誰かを裏切ろうとしている。
他人ではない。
自分が忠誠を誓ったものを。
「見えますか」
アデライデが尋ねた。
「はい」
「では、問います」
彼女はまっすぐ俺を見た。
「あなたなら、私の裏切りも見えますか」
その言葉が、馬車の狭い空間に重く落ちた。
俺はしばらく答えられなかった。
裏切り。
普通なら黒や赤だと思っていた。
だが、彼女の裏切りは銀色だった。
刃の色。
自分を切る覚悟の色。
「見えます」
俺は言った。
「銀色です。あなたの背中から出て、自分の胸を刺している」
アデライデは目を閉じた。
「そうですか」
「痛そうです」
「痛いです」
彼女は淡々と言った。
「ですが、まだ足りません」
「足りない?」
「裏切りには、相手が必要です。ただ心で背けば、それは不満です。行動して初めて裏切りになります」
「あなたは何をするつもりですか」
アデライデは懐から封筒を取り出した。
黒い封蝋。
鷹の紋章。
「ノルヴァルト王国摂政府から、私へ下された密命です」
「そんなものを俺に見せていいんですか」
「だから裏切りです」
彼女は封筒を俺に差し出した。
俺は受け取ったが、読めない。
こちらの文字はまだ十分には読めない。簡単なものは意味が伝わることもあるが、正式文書は無理だ。
「読めません」
「読みます」
アデライデは封を開き、文書を広げた。
「三日後、エルディア王都西区における帰還兵騒擾を支援し、王都守備隊を分散させる。北西境界線にて、エルディア側帰還兵によるノルヴァルト商隊襲撃を偽装。これを口実に国境軍を前進させる。混乱に乗じ、王都内協力者は王女イレーネの移動経路を露呈させること」
俺はぞっとした。
「暗殺ですか」
「文面には書かれていません」
「でも」
「露呈した移動経路が何に使われるか、私は知っています」
アデライデは文書を畳んだ。
「ノルヴァルト摂政府は、イレーネ王女を危険視しています。彼女が王位継承争いの中で台頭すれば、エルディアは内乱どころか再編される。そうなれば、我が国はしばらく手を出せない。彼女が死ねば、王都は混乱し、帰還兵の暴動、貴族院の対立、神殿の介入で動けなくなる」
「それを止めたい」
「はい」
「なぜ」
俺は聞いた。
「敵国の王女でしょう」
「敵国の王女です」
「なら、あなたの国にとっては都合がいいのでは」
「短期的には」
「長期的には?」
「戦争になります」
アデライデの声が低くなった。
「国境が燃えます。帰還兵は再び徴用される。貴族は名誉のために兵を出し、神殿は戦没者の魂を祈り、商会は軍需で儲ける。若い兵が死ぬ。村が焼ける。捕虜が増える。冬が来る。補給が滞る。凍傷で脚を落とす者が増える。私はそれを知っています」
彼女の灰色の糸が、馬車の中を満たしそうになった。
死者の重み。
数ではない。
名前のある死者たち。
昨日のハルヴァンの証言を思い出した。
トルド。
ベイム。
ラシュ。
サナ。
そして、アデライデの背後にも、同じように名前があるのだろう。
「あなたは、自国を裏切ってでも戦争を止めたい」
「はい」
「王女殿下へ直接言えば」
「信じられますか」
彼女は俺を見た。
「敵国の女将軍が、密命を持って現れ、これは本物です、戦争を止めたい、と言う。イレーネ王女は優秀です。疑います。疑うべきです。彼女が疑っている間に、私の国内の者が動く」
「だから俺に見せる」
「あなたは、重みを見る。嘘と誓約と裏切りを見る。あなたが、私の裏切りが本物だと言えば、王女は動く」
「それも俺の利用ですね」
「はい」
即答だった。
「否定しないんですね」
「否定すれば、あなたは私を信じません」
アデライデは姿勢を正した。
「私はあなたを利用します。あなたの力で、私の裏切りを王女へ届けたい。見返りとして、あなたを無事に返します。眠り蔓を使ったこと、誘拐したことについては謝罪します」
「謝罪」
「はい」
彼女は頭を下げた。
馬車の中で、敵国の女将軍が、俺に頭を下げた。
「すまなかった」
短い言葉だった。
だが、重かった。
彼女の銀色の糸が、少しだけ形を変えた。
裏切りの刃が、自分だけでなく、俺の前にも差し出される。
この人は、謝り慣れていない。
だが、謝ることを弱さだとは思っていない。
必要なら、謝る。
必要なら、裏切る。
必要なら、自分を切る。
そういう人なのだ。
「俺をさらったことは、普通に悪いです」
「はい」
「怖かったです」
「はい」
「リュシエンヌさんとカイラさんと殿下が、たぶん今頃大変なことになっています」
「承知しています」
「承知しているなら」
「それでも、しました」
アデライデは顔を上げた。
「正しいとは言いません。必要だと判断しました」
「この件を知る者は、私を含めて四人です。ひとりは王都に残り、ひとりは退路を消し、ひとりはあなたを眠らせた。いずれも、私の命令なら死ぬ者たちです。だからこそ、私はこの裏切りを成功させなければならない」
俺は彼女の糸を見た。
忠誠。
裏切り。
死者。
怒り。
沈黙。
それらの間に、もう一本だけ、細い糸があった。
色は、くすんだ白。
願い。
戦争を止めたいという願い。
それは驚くほど細かった。
大軍を動かす女将軍の願いが、こんなに細い。
それでも切れていない。
「あなたは、王女殿下に似ています」
俺は言った。
アデライデの眉が動いた。
「侮辱ですか」
「褒め言葉かどうかは、俺にもわかりません」
「どこが」
「民を守るためなら、自分を道具にするところです」
アデライデはしばらく黙った。
「イレーネ王女も、そうですか」
「はい」
「なら、彼女は危険です」
「なぜ」
「自分を道具にする者は、他人も道具にできます」
「あなたも?」
「はい」
即答だった。
本当にやりにくい。
「だから、セイジ殿」
アデライデは静かに言った。
「私を信じる必要はありません。私の重みを見てください。そして、王女に伝えてください。黒鷹は自国を裏切る。三日後の偽装襲撃を止めるために」
「あなたはどうなるんですか」
「戻れば処刑。戻らなければ亡命者。どちらにしても、軍人としては終わりです」
「それでいいんですか」
「よくはありません」
彼女は初めて、少しだけ苦笑した。
「私はノルヴァルトを愛しています。私の兵を愛しています。あの国の雪も、黒い森も、硬いパンも、冬の朝に鳴る鐘も、愛しています。だから裏切るのです」
矛盾している。
だが、見える糸は矛盾していなかった。
忠誠があるから、裏切る。
愛しているから、止めたい。
そんなことがあるのか。
あるのだろう。
この世界でも、元の世界でも。
俺は額を押さえた。
「これは、かなり重いですね」
「でしょうね」
「あなたの裏切りを俺が受け取ると、どうなります」
「わかりません」
「わからないことを人に乗せるんですか」
「はい」
「正直すぎます」
アデライデは懐から小さな瓶を出した。
「眠り蔓の解毒です。飲んでください」
「今さら毒殺では?」
「毒殺するなら、あなたが眠っている間にできました」
「合理的ですね」
「不安なら、私が先に飲みます」
彼女は瓶の蓋を開け、一口飲んだ。
そして俺に渡す。
俺は少し迷ったが、飲んだ。
苦い。
エルナの眠気覚ましほどではないが、十分に苦かった。
頭の重さが少し引いていく。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「こちらこそ?」
「話を聞いていただいた」
その言葉は、想像より軽かった。
いや、軽いのではない。
アデライデは、自分の感謝を俺に乗せないようにしている。
軍人らしい節度。
あるいは、これ以上利用しないための距離。
その距離が、逆に少し痛かった。
馬車が止まった。
外で短い合図。
アデライデが剣に手をかけた。
「来ました」
「誰が」
「あなたの同行者たちでしょう」
その直後、馬車の屋根が消えた。
正確には、吹き飛んだ。
金色の爪が屋根板を引き剥がし、夜空が見えた。
カイラの顔が上から覗き込む。
目が燃えていた。
「セイジ」
「はい」
「焼いていいか」
「駄目です」
「まだ何も聞いていない」
「聞く前から駄目です」
カイラの後ろに、リュシエンヌがいた。
彼女は馬車の側面から扉を開けるのではなく、剣で留め具だけを切ったらしい。扉が静かに外れる。怒っているのに動きが正確だ。
「セイジ殿」
「はい」
「ご無事ですか」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
「眠り蔓を少し」
リュシエンヌの目が細くなった。
青白い糸が一気に強くなる。
その後ろから、王女イレーネの声がした。
「黒鷹のアデライデ」
王女まで来ていた。
護衛を数名連れているが、多くはない。場所は王都外れの古い水車小屋の近くだった。どうやって見つけたのかはわからないが、おそらくカイラの嗅覚とリュシエンヌの追跡能力、そして王女の情報網が全部使われたのだろう。
アデライデは馬車から降りた。
剣は抜かない。
両手を見える位置に置いた。
「イレーネ王女殿下」
「敵国の将が、王都内で私の協力者を誘拐しました」
「はい」
「弁明は」
「ありません。理由はあります」
「聞きましょう」
王女の声は冷たかった。
だが、怒りだけではない。
興味もある。
警戒もある。
そして、たぶん俺の胸から伸びる白い糸を通じて、彼女は俺がまだ話を遮っていないことを感じている。
「殿下」
俺は言った。
「彼女の裏切りは、本物です」
王女が俺を見た。
「見えたのですね」
「はい」
「色は?」
「銀色です。自分を刺している」
王女の表情が変わった。
ほんのわずかだが、確かに。
「黒鷹」
王女はアデライデに向き直った。
「話してください」
アデライデは密命文書を差し出した。
王女の護衛が受け取り、確認してから王女へ渡す。王女は文書を読み、目を細めた。
読み終えるまで、誰も喋らなかった。
カイラだけが、今にも火を吐きそうに鼻を鳴らしていた。
「三日後」
王女が言った。
「西区騒擾支援。国境偽装襲撃。私の移動経路露呈」
「はい」
「あなたは、これを止めたい」
「止めます」
「なぜ私に直接来なかったのですか」
「あなたが、私の言葉を政治にするからです」
王女の目が少し鋭くなった。
「的確ですね」
「敵を調べるのは軍人の務めです」
「誘拐は不要でした」
「必要と判断しました」
「誤りです」
「かもしれません」
「謝罪は?」
アデライデは王女へ向かって頭を下げた。
「あなたの協力者を誘拐したことを謝罪します」
「私のものではありません」
王女は即座に言った。
俺は少し驚いた。
昨日なら、彼女は「国の」と言ったかもしれない。
だが今は、言わなかった。
王女は続けた。
「セイジ殿は、私の協力者である前に、セイジ殿自身です」
胸の白い糸が、軽く引かれた。
俺は黙ってそれを受け取った。
アデライデが俺を見た。
その目に、ほんの少し驚きがあった。
「王女殿下は、学ぶのが早いですね」
「あなたに褒められても、嬉しくありません」
「でしょうね」
二人の間に、冷たい火花のようなものが散った気がした。
この二人は似ている。
似ているから、噛み合わない。
似ているから、見えてしまう。
王女は文書を畳んだ。
「この密命が本物なら、三日後までに西区を安定させ、国境の偽装襲撃を防ぎ、私の移動経路を偽装する必要があります」
「さらに、あなたの周囲にノルヴァルト協力者がいる」
アデライデが言った。
「誰です」
「それは、まだ言えません」
カイラが唸った。
リュシエンヌの手が剣にかかる。
アデライデは動じなかった。
「私が名を出せば、その者は切られます。すると、その先の糸が途切れる。偽装襲撃を指示した中枢へ届かない」
「あなたは、こちらにも策を指図するのですか」
王女の声は冷たい。
「必要なら」
「敵国の女将軍が」
「戦争を止めるためなら」
沈黙。
俺は二人の糸を見ていた。
王女からは白金の民への愛と、俺へ伸びる細い白。国を守る重み。
アデライデからは深い青の忠誠と、銀の裏切り。自国を愛するがゆえに、それを裏切る重み。
二つの重さは、似ている。
違う国から伸びているのに、根は同じだ。
「殿下」
俺は言った。
「彼女は、あなたと同じくらい、自分の国を愛しています」
王女の目が揺れた。
「同じくらい?」
「たぶん。ただ、向きが違う。殿下は国を守るために民へ広がっている。彼女は戦争を止めるために、自分の忠誠を切ろうとしている」
アデライデの銀色の糸が、少し震えた。
「そして」
俺は続けた。
「どちらも、自分を道具にしすぎです」
カイラが鼻を鳴らした。
「同類か」
リュシエンヌが小さく言った。
「どちらも危うい」
王女とアデライデは、同時に黙った。
その沈黙が、少しだけおかしかった。
おかしい状況ではないのだが、二人ともあまりにも似た顔で黙ったので、ついそう思ってしまった。
王女はやがて言った。
「黒鷹。あなたを信用はしません」
「当然です」
「ですが、あなたの裏切りの重みを、セイジ殿が見た。その事実は使います」
「使ってください」
「あなた自身も使います」
「承知しています」
「ただし」
王女は俺を一瞬見た。
そして言い直した。
「あなたを道具としてではなく、交渉相手として扱います」
アデライデの表情が、ほんの少し変わった。
「それは、甘い」
「学習中です」
王女は言った。
「甘さと軽さの違いを」
俺の胸の白い糸が、ふわりと揺れた。
王女が、少し誇らしげに見えた。
困る。
そういう表情をされると、こちらまで少し嬉しくなる。
「では、交渉を」
アデライデが言った。
「私はノルヴァルトの密命の詳細を渡します。代わりに、王女殿下には偽装襲撃を表沙汰にせず潰していただきたい」
「なぜ」
「表沙汰にすれば、摂政府は開き直る。私の裏切りを口実に、より強硬な将を送るでしょう」
「あなたを守れと?」
「私ではなく、戦争を止める道筋を守っていただきたい」
王女は少し考えた。
「条件があります」
「何でしょう」
「あなたは一時的に王城の保護下に入る。名目は捕虜ではなく、非公式接触者。逃亡すれば、私はあなたを敵将として扱う」
「承知しました」
「セイジ殿を誘拐した件については、別途処分を検討します」
「受けます」
「そして」
王女の声が少しだけ強くなった。
「今後、私の協力者に眠り蔓を使わないでください」
「誓います」
アデライデはそう言った。
その瞬間、彼女から細い銀と青が混じった糸が伸びた。
俺へではない。
王女へ。
敵同士の誓約。
冷たく、硬く、しかし明確な糸。
王女もそれを受けた。
俺には見えた。
王女の白金の糸と、アデライデの銀青の糸が、空中で細く結ばれる。
友好ではない。
信頼でもない。
戦争を止めるための仮の結び目。
持てるかどうかは、まだわからない。
だが、結ばれた。
その時、遠くで鐘が鳴った。
王都の方角。
急報ではない。
夜の鐘だ。
空はすっかり暗くなっていた。
カイラが俺のそばに来た。
「セイジ」
「はい」
「さらわれるな」
「俺もそう思います」
「今度さらわれたら、焼く」
「まず考える」
「……考える」
かなり不満そうだった。
リュシエンヌも近づいてきた。
「セイジ殿」
「はい」
「次から、私の手の届くところにいてください」
青白い糸が伸びる。
少し強い。
だが、これは持てる。
「努力します」
「努力では困ります」
「では、なるべく」
「それも困ります」
彼女は珍しく譲らなかった。
俺は少し考え、頷いた。
「わかりました。手の届くところにいます」
青白い糸が、胸元で結ばれた。
肩ではなく、胸の近く。
王女の白い糸とは少し場所が違う。
カイラの金色も、背中で小さく熱を持つ。
そしてアデライデの銀色の裏切りの一部が、俺の手のひらに残っていた。
重い。
また増えた。
だが、これは好意ではない。
信頼でもない。
証言の重み。
俺が見たと言った責任。
王女がアデライデを完全には信用しないように、アデライデも王女を完全には信用しない。二人の間にいる俺が、裏切りの重さを見た者として立たされる。
面倒だ。
非常に面倒だ。
だが、見なかったことにはできない。
王都へ戻る馬車の中、俺は四人と一緒だった。
王女イレーネ。
リュシエンヌ。
カイラ。
そして、敵国の女将軍アデライデ。
妙な並びだった。
王女と女将軍は向かい合い、互いに沈黙している。リュシエンヌは俺の隣で警戒を解かず、カイラは窓から顔を出しかけて、王女に「火花が外へ出ます」と注意されていた。
「人間の馬車は狭い」
カイラが言った。
「竜基準では、ほとんどのものが狭いです」
俺が言うと、カイラは不満そうに尾を丸めた。
アデライデが俺を見た。
「セイジ殿」
「はい」
「あなたは、私を赦しますか」
急に難しいことを聞かれた。
「誘拐の件ですか」
「はい」
「今すぐは無理です」
「そうですか」
「でも、話は聞きました」
「十分です」
彼女は頷いた。
その反応が、少しだけ人間らしかった。
王女が静かに言った。
「黒鷹。あなたは、赦されたいのですか」
アデライデは少し考えた。
「いいえ」
「では、なぜ聞いたのです」
「私が彼を傷つけたことを、彼がどう持つのか知りたかった」
「なるほど」
王女は俺を見る。
「セイジ殿は、また重みを増やしましたね」
「殿下も増やしてます」
「否定できません」
王女は少しだけ笑った。
アデライデがその笑みを見て、ほんのわずか目を細めた。
「噂と違いますね」
「何がです」
「氷冠の王女は、笑わないと聞いていました」
「最近、少し練習しています」
「笑う練習ですか」
「人である練習です」
馬車の中が静かになった。
アデライデは、王女をしばらく見ていた。
「それは、よい練習です」
短い言葉だった。
だが、その中には敵国の将としてではない、一人の人間から一人の人間への、かすかな敬意があった。
王女の白金の糸が少し揺れた。
受け取るかどうか、迷っている。
俺は小声で言った。
「持てる重さだと思います」
王女は俺を一瞬見た。
そして、アデライデへ向かって頷いた。
「受け取ります」
アデライデも頷いた。
敵同士の間に、本当に細い糸ができた。
友情ではない。
好意でもない。
だが、戦争を止めるには、たぶんこういう細い糸が必要なのだろう。
王都の灯りが近づいてきた。
三日後の偽装襲撃。
西区の帰還兵。
王女暗殺の可能性。
ノルヴァルトの協力者。
黒鷹の裏切り。
俺の帰還方法は、また遠ざかった気がする。
だが、今度はただ遠ざかったのではない。
俺自身が、見えてしまった道の上に立っている。
馬車が王城へ入る直前、アデライデが窓の外を見ながら言った。
「セイジ殿」
「はい」
「裏切りは、忠誠より軽いと思っていました」
「違いましたか」
「重いです」
「でしょうね」
「ですが、戦争よりは軽い」
俺は何も言えなかった。
王都の門が開く。
夜の王城が、白く浮かび上がる。
その上空には、また無数の糸がかかっていた。
その中に、新しく銀色の一本が混じっている。
黒鷹の裏切り。
敵国の忠誠。
戦争を止めたいという、細い願い。
俺はそれを見上げた。
そして思った。
たぶん、明日からもっと重くなる。
そう思っているのに、逃げようとは思わなかった。
それが一番、困った変化だった。




