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第六章 氷冠の王女は愛されない

 翌朝、俺は宮廷魔導院へ連れていかれた。

 連れていかれた、という言い方は少し被害者ぶっているかもしれない。正確には、王城の東棟から中庭を抜け、硝子張りの回廊を通り、白い尖塔のある建物へ案内された。だが、気分としては、やはり連れていかれたに近い。

 宮廷魔導院は、思っていたよりも静かだった。

 もっとこう、煙が出ていたり、ローブの老人が水晶玉を覗いていたり、空中に魔法陣が浮かんでいたりするのかと思ったが、実際には、大きな図書館と研究所と役所を足したような場所だった。長い机。分類された書棚。壁一面の標本。薄い光を放つ石板。音もなく動く羽根ペン。床には幾何学模様が刻まれていたが、そこを歩く研究員たちはみな忙しそうで、神秘よりも締切に追われている雰囲気があった。

 異世界でも、研究機関は研究機関なのだろう。

 案内された部屋で、院長と名乗る老人が俺を見た。

 白い髭が胸まであり、いかにも魔導院長という外見だったが、目つきは老練な会計監査人に近かった。俺の手を取り、脈を見て、瞳を覗き込み、髪を一本抜いた。

「痛っ」

「異界由来の再構成反応が残っていますな」

「髪を抜かないとわからないんですか」

「わかりますが、標本があると確実です」

「事前に言ってください」

 院長はまったく悪びれなかった。

 隣でリュシエンヌが少し申し訳なさそうにしている。カイラは部屋の隅で、透明な筒に入った小さな火の精霊をじっと見ていた。火の精霊のほうもカイラを見て震えている。

「食うなよ」

 カイラが言った。

 火の精霊がさらに震えた。

「カイラさん、たぶん逆です」

「そうか」

 院長は俺の腕や肩の可動域を調べ、次に俺の持ち物を調べた。スマートフォンには非常に興味を示したが、電源がほとんど残っていないので、長く見せるのは避けた。彼は画面が光るたび、目を輝かせた。

「これは記録板ですかな」

「似たようなものです」

「通信は?」

「元の世界ならできます。こちらではできません」

「ほう。異界間の通信遮断。興味深い」

「興味深いで済む話では」

「あなたにとってはそうでしょうな」

 正直な人だった。

 それから、院長は帰還について話した。

 結論から言えば、すぐには帰れない。

 この世界には、異界から来た者の記録がいくつかある。完全な伝説ではない。ただし、来た者の大半は帰っていない。帰った可能性がある者もいるが、その方法は失われているか、そもそも記録が曖昧だった。

「異界転移は、扉を開けるというより、裂け目に落ちる現象です」

 院長はそう説明した。

「落ちた者を元の裂け目へ戻すには、落ちた場所、時刻、媒介、肉体の再構成記録、魂の座標が必要になります」

「最後のほうが急に怖いんですが」

「魂の座標なしに戻すと、肉だけ戻って中身が迷うこともあります」

「絶対に失敗しないでください」

「だから、すぐにはできぬと言っております」

 帰れない。

 少なくとも、すぐには。

 予想はしていた。

 それでも、実際に言われると胸の奥が沈んだ。

 俺は窓の外を見た。魔導院の高い窓からは、王都の屋根が見える。赤い瓦、白い壁、鐘楼、広場、水路。遠くには西区の煙が薄く上がっていた。

 元の世界の駅のホームは、もう遠い。

 帰りたい。

 その気持ちはある。

 だが、何に帰りたいのかという問いは、まだ曖昧なままだった。

 院長との面談が終わると、リュシエンヌが静かに言った。

「殿下がお待ちです」

「王女殿下が?」

「はい。西区を視察されます」

「視察」

「帰還兵たちの件です」

「昨日言っていた」

「はい」

 俺は思わずため息をついた。

「帰還方法の話を聞いた直後に、国家問題ですか」

「殿下は、時間を無駄にされません」

「でしょうね」

 カイラが火の精霊から離れ、こちらへ来た。

「兵の忠誠が折れかけている場所だったな」

「そうらしいです」

「折れたらどうなる」

 リュシエンヌが答えた。

「剣が、守るべき相手に向くことがあります」

 重い言葉だった。

 騎士である彼女にとって、それはただの比喩ではないのだろう。

 俺たちは魔導院を出て、王城の西門へ向かった。

 そこに王女イレーネが待っていた。

 昨日の執務室で見た白と青のドレスではなかった。今日は、濃紺の外套に簡素な乗馬服姿だった。銀の冠もない。髪も低くまとめている。だが、目立たない服を着ても、目立つ人は目立つ。周囲の騎士や役人たちの視線が、自然に彼女へ集まっていた。

 王女は俺を見て、少しだけ頭を下げた。

「セイジ殿。魔導院での話は聞きました」

「早いですね」

「院長から報告が来ました」

「帰れないそうです」

「すぐには、ですね」

「慰めですか」

「事実です」

 王女はそう言った。

 やはり、この人は言葉を甘くしない。

「今日は西区へ?」

「はい。帰還兵の代表と会います」

「俺が行く意味は?」

「あなたが見えるものを、私に教えてほしい」

「利用ですね」

「協力です」

「その言い換え、昨日も聞きました」

「昨日よりは気をつけています」

 王女は真顔で言った。

 それが少し可笑しくて、俺は困った。

 昨日、彼女は「あなたを国のものにします」と言った。国一つ分の重みを俺にかけた。そして、俺が重すぎると言うと、言い直した。

 この人は、誤れば直す。

 だが、直したうえで、やはり進む。

 それが怖い。

 王女の後ろには護衛が十名ほどいた。多すぎないが、少なくもない。全員が精鋭らしい。ただし、目立つ旗や儀仗兵はいない。西区へ威圧しに行くのではなく、話を聞きに行くという形を取っているのだろう。

 カイラは王女の姿を見て、鼻を鳴らした。

「今日は冠がないのか」

「西区に冠は不要です」

「王女だと隠すのか」

「隠せません。ですが、見せびらかす必要もありません」

「面倒だな」

「国とは面倒なものです」

 カイラは少し考えた。

「お前は、昨日より嫌いではない」

「それは光栄です」

 王女は平然と受けた。

 リュシエンヌは王女の横につき、俺とカイラは少し後ろを歩くことになった。

 王城を出ると、街の空気が一変した。

 貴族区から商業区へ、商業区から職人街へ、そして西区へ近づくにつれ、建物の壁は古くなり、通りは狭くなり、匂いも変わっていく。焼きたてのパンや香辛料の匂いは薄れ、代わりに湿った木材、古い酒、煙、汗、薬草、獣脂の匂いが増えた。

 西区は、王都の中でも古い地区らしい。

 元は兵舎や倉庫があった場所で、今は退役兵、職人、下級労働者、北からの避難民が混じって住んでいるという。石畳は欠け、家々は増築を重ねている。窓には布がかかり、路地には子供たちが立っていた。

 王女が来ると、人々は道を空けた。

 だが、歓声はなかった。

 頭を下げる者はいる。膝をつく者もいる。だが、そこにあるのは敬意だけではない。恐れ、期待、不信、怒り、諦め。無数の糸が王女へ向かって伸びる。

 俺はそれを見て、息を呑んだ。

 王女へ向かう糸は多い。

 驚くほど多い。

 しかし、その大半は彼女個人へ向かっていない。

 王家へ。

 国へ。

 制度へ。

 救済へ。

 補償へ。

 命令へ。

 怒りのぶつけ先へ。

 王女イレーネという一人の人間へ向かう糸は、ほとんどなかった。

 なのに、王女からは、民へ向かって太い糸が伸びていた。

 色は、白に近い金。

 冷たく澄んでいるのに、中心は温かい。

 愛情。

 そう呼ぶしかなかった。

 ただし、普通の愛情とは違う。ひとりに向かう恋や親しみではない。もっと広い。広すぎる。街全体を覆い、病人も子供も老人も兵も商人も、怒っている者も彼女を嫌っている者も、区別なく包もうとしている。

 王女は、民を愛している。

 それは疑えなかった。

 だが、その愛情は、あまりにも大きく、あまりにも個人を飛び越えていた。

 そのせいで、誰も彼女を一人の女性として愛していない。

 少なくとも、この西区の通りには、その糸がなかった。

 俺は胸が少し苦しくなった。

 人に囲まれながら、誰にも触れられていない。

 そんな人間が、目の前を歩いている。

 西区の広場には、すでに人が集まっていた。

 中央には古い井戸があり、その周りに帰還兵たちが立っている。片腕のない男。脚を引きずる男。顔に火傷の跡がある男。若い者もいる。老け込んだ者もいる。服は揃っていないが、何人かは古い軍の外套を着ていた。

 その外套の青が、俺には重く見えた。

 忠誠の青。

 だが、ところどころ黒く焦げている。

 折れかけた忠誠。

 彼らの前に、一人の男が立っていた。

 三十代半ばくらいだろうか。右目に眼帯。左腕は動くが、指が二本欠けている。背は高く、痩せている。元はかなり強い兵だったのだろう。立ち方に隙がない。だが、その胸からは黒と赤の糸が激しく絡んでいた。

 恐怖。

 怒り。

 そして、青。

 まだ国を憎みきれていない忠誠。

 それが一番重そうだった。

「ハルヴァン・ロウ」

 王女が言った。

「北境第三歩兵隊、元百人長」

 男は片膝をつかなかった。

 周囲の護衛がわずかに動く。

 王女は手で制した。

「膝は不要です」

「膝が残っている者ばかりではありませんので」

 ハルヴァンと呼ばれた男が言った。

 広場の空気が張り詰める。

 王女は表情を変えなかった。

「その通りです」

 彼女は言った。

「今日は、立ったまま話しましょう」

 男の目が少し動いた。

 予想していた反応と違ったのかもしれない。

「殿下は、我々を慰めに来たのですか」

「いいえ」

「では、黙らせに?」

「それも違います」

「補償金を?」

「すぐには出せません」

 広場にざわめきが走った。

 王女は逃げなかった。

「貴族院が今年度の追加支出を止めています。軍務省は責任範囲を争い、神殿は救済を祈祷にすり替えています。私は補償案を三度提出し、三度差し戻されました」

「それを聞いて、我々にどうしろと」

 ハルヴァンの声が低くなる。

「待てと言うのですか」

「待ってほしいとは言いません」

「では?」

「怒っている理由を、私に正確に聞かせてください」

 その言葉で、広場が静まった。

 王女は続けた。

「あなた方の怒りを、ただの暴動として処理させないために」

 ハルヴァンの胸の赤い糸が揺れた。

「処理」

「はい。暴れれば、王都警備局が出ます。軍が出る可能性もあります。その場合、あなた方は帰還兵ではなく、反乱分子として記録されます」

「脅しですか」

「現実です」

「現実はもうたくさんだ」

 ハルヴァンの声が震えた。

「我々は、現実を見てきた。北境の雪原で、仲間が凍って死ぬのを見た。黒狼の突撃で、若い兵が腹を裂かれるのを見た。命令が届かず、撤退もできず、三日間、死人の陰で息を殺していた。戻ってきたら、王都は祭りをしていた。王女殿下、あなたはご存じか」

「知っています」

「知っている?」

「北境第三歩兵隊の残存兵名簿を読みました。戦死者、行方不明者、凍傷による切断者、帰還後に自死した者。すべて」

「名簿を読んだだけで、何がわかる」

「すべてはわかりません」

 王女は言った。

「だから、聞きに来ました」

 ハルヴァンは笑った。

 笑いというより、喉の奥で何かが割れる音だった。

「殿下は民を愛しておられる。そう聞いています」

 彼は言った。

「飢饉の時は倉を開き、疫病の時は病棟へ入った。孤児院にも、兵の墓地にも、必ず花を送る。立派な方だ」

「立派ではありません」

「だが、我々は愛されたいわけではない」

 ハルヴァンの赤黒い糸が王女へ伸びた。

「覚えていてほしかった。名簿の数字としてではなく。国を守った兵としてではなく。そこにいた人間として」

 王女の表情が初めてわずかに変わった。

 痛み。

 そう見えた。

「名前を」

 王女が言った。

「言ってください」

 ハルヴァンは眼帯の奥で、彼女を見据えた。

「トルド・マイア。十九歳。麦農家の三男。歌が下手だった。凍傷で足を失い、帰還後三月で首を吊った」

 王女は目を伏せなかった。

「トルド・マイア。十九歳。麦農家の三男。歌が下手だった」

 彼女は繰り返した。

 広場が静まる。

 ハルヴァンの顔が歪んだ。

「ベイム・ロッソ。二十八歳。妻と娘がいた。黒狼に腹を裂かれた。死ぬ前に、娘の靴を買ってやってくれと言った」

「ベイム・ロッソ。二十八歳。妻と娘。娘の靴」

 王女は言った。

 声は静かだった。

 だが、白金の糸が広場へ伸びる。

「ラシュ。姓はなかった。孤児だった。寒いと言って泣いた。俺は上官なのに、抱いてやることしかできなかった」

「ラシュ。姓はない。孤児。寒いと言って泣いた」

 王女の声が、ほんの少しだけ震えた。

 ハルヴァンの胸の青い糸が、そこで大きく揺れた。

 忠誠。

 折れかけているが、まだ切れていない。

 俺は見ていた。

 彼らは王女を憎みたいのではない。

 憎みきれないから苦しいのだ。

 国を信じて戦った。

 国のために仲間を失った。

 その国に、帰ってから忘れられた。

 忠誠が報われなかった時、人は裏切りより深く傷つく。

 王女は、その名前を一つずつ聞いた。

 誰も止めなかった。

 護衛も、役人も、広場の民も。

 ハルヴァンの声は途中から掠れた。それでも彼は言った。十人。二十人。三十人。亡くなった兵の名、癖、最後の言葉、どうでもいい小さなこと。酒に弱かった。手紙の字が汚かった。いつも靴紐を結び直していた。妹の名前を寝言で呼んだ。

 王女は、それを繰り返した。

 正確に。

 一つも省略せず。

 彼女の白金の糸は、広場全体を覆っていた。

 民を愛する糸。

 国を守る糸。

 死者を記憶しようとする糸。

 だが、それは彼女から出るばかりだった。

 誰からも、彼女へ向かう柔らかい糸は伸びない。

 人々は泣いていた。

 兵たちは拳を握っていた。

 怒りは少しずつ形を変えていた。

 だが、彼らの涙は、死者へ向かっていた。仲間へ向かっていた。自分たちの失われた時間へ向かっていた。

 王女へではない。

 王女は受け止めるだけだ。

 受け止められる相手ではない。

 俺は、見ているだけで息が苦しくなった。

 民を愛している。

 なのに、誰にも愛されていない。

 正確には、愛される場所を、自分で塞いでいる。

 王女は王女であり続けるために、自分個人へ向かう糸をすべて国へ流しているのだ。

 ハルヴァンが最後の名を言い終えた時、広場には夕方の影が落ちていた。

「殿下」

 彼は言った。

「我々の名は、王城に届きますか」

「届かせます」

「また貴族院に止められたら?」

「止められない形にします」

「どうやって」

「今日、あなた方が名を語った記録を、王都全区に掲示します。名簿ではなく、証言として。貴族院が補償を止めれば、彼らは数字ではなく、トルドとベイムとラシュの顔を無視したことになる」

 役人の一人が慌てて王女を見た。

「殿下、それは貴族院への圧力に」

「そうです」

 王女は平然と言った。

「圧力です」

 広場に、かすかな笑いが起きた。

 泣き笑いのような、疲れた笑いだった。

 ハルヴァンは王女を見つめた。

「殿下は、我々を使いますか」

「使います」

 王女は答えた。

 ハルヴァンの目が険しくなる。

 だが、王女は続けた。

「あなた方の怒りを、補償を動かす力として使います。あなた方の証言を、貴族院を動かす刃として使います。ですが、暴動としては使わせません。誰にも」

「我々はまた、国の道具ですか」

「はい」

 王女は一度そう言ってから、静かに首を横に振った。

「いいえ。言葉を誤りました」

 俺は王女を見た。

 彼女は学んでいる。

 本当に。

「あなた方は、人です。人として怒り、人として証言する。その証言を、私は国を動かすために使います。あなた方を道具にするのではなく、あなた方の言葉を力にする」

 ハルヴァンの胸の青い糸が、少しだけ整った。

 折れかけた忠誠は、まだ折れていない。

 ただ、ひびの入った剣のように、慎重に持たなければならない形になっていた。

 その時、広場の端で小さな騒ぎが起きた。

 一人の若い兵が、護衛の隙間を抜けて王女へ駆け出した。

 手には短剣があった。

 速い。

 だが、リュシエンヌの動きはもっと速かった。

 白い外套が翻る。剣が抜かれる。カイラも動きかけた。尾がしなり、口元に火が灯る。

「焼かない!」

 俺は叫んだ。

 カイラが踏みとどまった。

 リュシエンヌの剣が、若い兵の短剣を弾いた。

 金属音。

 短剣が石畳に転がる。

 護衛たちが若い兵を押さえ込もうとする。

 だが、王女が言った。

「殺すな。押さえるだけです」

 若い兵は叫んでいた。

「姉を返せ!」

 姉。

 その声に、王女の白金の糸が揺れた。

 若い兵の胸からは、黒い恐怖ではなく、濃い灰色の糸が伸びていた。後悔。喪失。そこに赤い怒りが絡む。

「姉を返せ! 病棟に連れていかれて、帰ってこなかった! 殿下が救うと言ったんだ! 殿下が!」

 西の疫病。

 若い騎士が言っていた。

 王女は自ら病棟へ入った。

 だが、救えなかった人もいたのだ。

 王女は護衛を制し、若い兵の前に立った。

 危ない。

 誰もがそう思った。

 リュシエンヌも一歩出ようとした。

 王女は手で止めた。

「名は」

 王女が言った。

 若い兵は荒い息をしている。

「……ミル」

「あなたの名ではありません。お姉様の名です」

「サナ」

「サナ」

 王女はその名を口にした。

 若い兵、ミルの胸から伸びる灰色の糸が震える。

「サナは、西の疫病病棟、第七室にいました。青い布を髪に結んでいた方ですね」

 ミルの顔が変わった。

「覚えて」

「覚えています。私は、彼女に水を渡しました。彼女は弟がいると言いました。怖がりだが、本当は優しい子だと」

 ミルは崩れるように膝をついた。

「嘘だ」

「嘘ではありません」

「なら、なぜ死なせた」

「救えませんでした」

 王女は言った。

 逃げなかった。

「私は、サナを救えませんでした」

 その言葉が広場に落ちた。

 王女の白金の糸が、一瞬だけ細くなる。

 いや、違う。

 広すぎる民への愛の奥から、細い糸が出てきた。

 個人への痛み。

 サナという一人を救えなかった王女自身の後悔。

 それは今まで、国への責任の中に隠れていた。

 ミルは泣き出した。

「姉さんは、殿下を信じてた」

「はい」

「信じてたのに」

「はい」

「だったら、救ってくれよ」

「救いたかった」

 王女の声が、初めて明らかに震えた。

 その瞬間、広場の空気が変わった。

 氷冠の王女。

 誰よりも冷静な王女。

 国のためなら人を配置する王女。

 その彼女が、「救いたかった」と言った。

 王女はミルの前に膝をついた。

 護衛たちが動揺する。

 王女は気にしなかった。

「サナを救えなかったことを、私は忘れません。あなたに許せとは言いません。ですが、彼女の名を、国の記録に入れます。病で死んだ一人ではなく、弟を心配しながら死んだサナとして」

「そんなの」

 ミルは泣きながら言った。

「そんなの、何になる」

「死者は戻りません」

「なら」

「でも、忘れさせません」

 王女はそう言った。

「私にできるのは、今はそれだけです」

 ミルは王女を殴ろうとした。

 護衛が動きかけた。

 リュシエンヌも構える。

 だが、王女は動かなかった。

 ミルの拳は、王女の肩に当たる直前で止まった。

 彼は泣き崩れた。

 王女は、彼に触れなかった。

 触れたら、許しを求める形になるとわかっているのだろう。

 ただ、膝をついたまま、そこにいた。

 俺はその光景を見ていた。

 王女の白金の糸は広場全体に広がっている。

 民を愛している。

 兵を愛している。

 死者を愛している。

 病人を愛している。

 怒る者も、刃を向ける者も、彼女は愛している。

 だが、誰も彼女に「あなたが救われていい」とは言わない。

 誰も彼女の肩に手を置かない。

 王女が受け取るものは、怒り、期待、責任、嘆願、恨み、忠誠。

 好意ではない。

 愛ではない。

 彼女はそれに慣れている。

 慣れすぎている。

 俺の胸に、変な痛みが走った。

 俺はこれまで、好意を避けてきた。

 リュシエンヌの同行の約束も、カイラの竜の好意も、重い重いと言いながら、少しずつ言葉を変え、持てる形にしてきた。ありがたいと思いながらも、受け取ることは避けていた。

 受け取れば、責任になる。

 受け取れば、相手の理由になる。

 受け取れば、逃げにくくなる。

 そう思っていた。

 だが、目の前の王女は、受け取る場所そのものを失っていた。

 愛するばかりで、愛されることを自分に許していない。

 それは、強いのではない。

 危うい。

 広場の騒ぎが落ち着くと、王女はミルの短剣を拾った。

 護衛が止めようとしたが、彼女はそのままハルヴァンへ渡した。

「預かってください」

 ハルヴァンは短剣を受け取った。

「殿下」

「彼を罰する必要があります。王女に刃を向けた。法は無視できません」

 ミルの顔が青ざめる。

 広場も凍る。

「ですが、罰を決める前に、彼の証言も聞きます。姉を失った者として。帰還兵の家族として」

 ハルヴァンは黙って頷いた。

「それで、暴動は止まりますか」

 王女が尋ねた。

 ハルヴァンは周囲の兵たちを見た。

 彼らは誰も武器を取らなかった。

 怒りは消えていない。

 だが、形を変え始めている。

「今日のところは」

 ハルヴァンは言った。

「今日のところは、止めます」

「十分です」

 王女は答えた。

「明日のことは、明日また扱います」

 それは、ひどく現実的な言葉だった。

 広場を出る頃には、日が沈みかけていた。

 王女はずっと歩いていた。

 誰にも支えられず。

 王城へ戻る馬車は用意されていたが、彼女はしばらく歩くと言った。護衛たちは困惑したが、従った。

 俺たちは少し離れた水路沿いの道を歩いた。

 王女、リュシエンヌ、俺、カイラ。

 護衛は後ろに下がっている。

 西区の喧騒が遠ざかる。

 水路には夕暮れの光が揺れていた。

「セイジ殿」

 王女が言った。

「今日、何が見えましたか」

 俺は少し迷った。

「言っていいんですか」

「聞くために同行を頼みました」

「では」

 俺は彼女を見た。

「殿下から民へ伸びる糸は、とても太いです」

「色は?」

「白に近い金です。冷たいのに、中心が温かい」

「愛、でしょうか」

「たぶん」

 王女は黙った。

「殿下は、民を愛しています」

「それは、そうあるべきです」

「そうあるべき、ではなく」

 俺は言った。

「そうなんだと思います」

 王女は足を止めた。

 水路の光が、彼女の横顔に揺れる。

「では、民から私へは?」

 聞かれると思っていた。

 それでも、答えるのは重かった。

「たくさん伸びています」

「色は?」

「黒、赤、青、灰色、白。恐れ、怒り、忠誠、期待、嘆願。いろいろです」

「好意は?」

 王女は静かに尋ねた。

 俺は答えられなかった。

 沈黙で、答えは伝わったらしい。

 王女は小さく笑った。

「そうですか」

 その笑い方が、あまりにも寂しかった。

 リュシエンヌが何か言おうとした。

 だが、言葉が出なかった。

 カイラも黙っていた。

 王女は水路を見た。

「私は、民に愛されるために王女をしているわけではありません」

「わかります」

「民を愛することと、民に愛されることは違います」

「はい」

「愛されることを望めば、判断が鈍ります。好かれたい相手には、厳しい命令が出しにくくなる。恨まれたくない相手には、税を課しにくくなる。近しい者を優先すれば、遠い者が死ぬ」

「それは、そうかもしれません」

「だから、私は愛されなくてよいのです」

 それは、たぶん彼女が何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。

 その言葉の周りに、氷のような白い重みがある。

 民を守るため。

 国を守るため。

 王女であるため。

 自分個人を差し出さないため。

「でも」

 俺は言った。

「誰にも愛されなくていい、とは違う気がします」

 王女は俺を見た。

「違いますか」

「たぶん」

「あなたは、好意を受け取るのが得意には見えません」

「非常に不得意です」

「では、なぜそう言えます」

 言い返されると弱い。

 その通りだった。

 俺は好意を受け取るのが苦手だ。リュシエンヌが俺を守ろうとすると、重いと言う。カイラが俺に懐きかけると、弱めてくれと言う。村人に感謝されても、肩に来ると苦笑する。

 俺に王女を諭す資格など、たぶんない。

 それでも、見えてしまった。

 彼女の周りに、愛されないことを前提にした氷の壁があるのを。

「得意じゃないから、少しはわかるのかもしれません」

 俺は言った。

「受け取らないでいると、楽です。相手に期待されずに済む。相手を失望させずに済む。逃げ道が残る。でも、ずっと受け取らないでいると、自分が何のために歩いているのか、わからなくなる」

 王女は何も言わなかった。

「殿下は、民を愛している。でも、その愛を国の仕組みに全部変えている。だから、誰も殿下個人に触れられない」

「触れられる必要がありますか」

「あります」

 俺は自分で言って、少し驚いた。

 強く言い切っていた。

「少なくとも、人間なら」

 王女の目が揺れた。

 氷の下の水が、少し動いたようだった。

「セイジ殿」

「はい」

「私は王女です」

「はい」

「人間である前に、そうでなければなりません」

「それは違うと思います」

 リュシエンヌが息を呑んだ。

 王女は怒らなかった。

 ただ、俺を見ていた。

「人間でないものは、王女にもなれません」

 俺は言った。

 言ってから、怖くなった。

 だが、もう戻せない。

 言葉は戻せない。

 王女の白い糸が、震えた。

 国の重みではない。

 役割の重みでもない。

 もっと細く、もっと個人的なものが、彼女の胸元から伸びかけていた。

 薄い白。

 氷ではなく、雪のような白。

 それは俺のほうへ伸びて、途中で止まった。

 王女は自分で止めている。

 受け取られることを期待してはいけない、と。

 望んではいけない、と。

 俺は、その糸を見てしまった。

 好意。

 まだ小さい。

 恋ではない。

 信頼とも少し違う。

 自分を国のものではなく、一人の人間として見た相手への、かすかな好意。

 王女は、それを伸ばすことに慣れていない。

 だから、細く、震えている。

 俺はいつものように身を引こうとした。

 重くなる。

 責任になる。

 王女の好意など、受け取ったら厄介だ。

 国の問題に巻き込まれる。

 リュシエンヌも、カイラもいる。

 これ以上、背負うものを増やしてどうする。

 そう思った。

 だが、王女の糸は、これまでのどの好意よりも細かった。

 細すぎて、今にも切れそうだった。

 こんなに多くの民を愛している人が、自分から伸ばす糸は、こんなに細いのか。

 そう思った瞬間、俺は逃げられなくなった。

「殿下」

「はい」

「今、殿下から俺へ、細い白い糸が見えています」

 王女の表情が固まった。

「それは、国のものですか」

「違います」

「任務ですか」

「違います」

「期待ですか」

「少し似ています。でも、もっと個人的です」

 王女は目を伏せた。

「切ってください」

 その言葉は、あまりに静かだった。

「切る?」

「それは不要なものです。私には、個人的な好意を持つ資格がありません」

 俺の胸が、きゅっと詰まった。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 ただ、その言葉があまりにも寂しかった。

「資格の問題ではないと思います」

「では、危険の問題です」

「危険でも」

「私があなたに個人的な好意を向ければ、判断が歪みます」

「そうかもしれません」

「あなたも巻き込まれます」

「もう巻き込まれています」

「もっと深く」

「たぶん、そうでしょうね」

 王女は顔を上げた。

「なら、なぜ」

 その声は、王女ではなく、一人の若い女性の声に近かった。

「なぜ、切らないのですか」

 俺は、ゆっくり手を伸ばした。

 目に見える糸へ。

 触れる直前、リュシエンヌの気配が動いた。

 カイラも息を止めたようだった。

 俺はその細い白い糸に触れた。

 冷たいと思った。

 だが違った。

 冷たかったのは外側だけだった。

 中は温かい。

 驚くほど温かい。

 王女が民へ向ける広い愛情の、ほんの一滴。

 国という器に注がれる前の、個人としての好意。

 それが俺の手の中に乗った。

 重い。

 もちろん重い。

 だが、国一つ分ではない。

 王女一人分だった。

 それなら、持てる。

 持たなければならない、ではなく。

 持ちたいと思った。

 俺は息を吐いた。

「受け取ります」

 自分の声が、自分でも少し驚くほど静かだった。

 王女が目を見開いた。

「何を」

「殿下個人からの好意を。国のものとしてではなく、任務としてでもなく、一人分として」

「セイジ殿」

「ただし」

 俺は慌てて付け加えた。

「重くなりすぎたら言います。俺はそんなに丈夫ではありません」

 王女はしばらく俺を見ていた。

 そして、ほんの少し笑った。

 執務室で見せた政治的な微笑ではなかった。

 西区で民に向けた穏やかな笑みでもなかった。

 初めて、自分のために笑ったように見えた。

 その瞬間、白い糸が少し太くなった。

「重っ」

 俺は思わず声を漏らした。

 王女がすぐに表情を戻した。

「すみません」

「いや、謝らなくていいです。今のは、持てる重さです」

「持てる」

「はい。少し驚いただけです」

 王女は自分の胸に手を当てた。

「好意を受け取られるというのは、不思議ですね」

「俺も初めてちゃんと受け取った気がします」

「そうなのですか」

「はい」

 俺はリュシエンヌとカイラのほうを見た。

 二人とも、何とも言えない顔をしていた。

 リュシエンヌは少し寂しそうで、でも安心したようでもある。カイラは腕を組んで、明らかに不満そうだった。

「セイジ」

「はい」

「私の好意は重いと言った」

「言いました」

「王女のは受け取るのか」

「いや、カイラさんのは竜の尻尾の先で腰が砕けそうだったので」

「弱いな、人間は」

「はい」

 リュシエンヌが静かに言った。

「セイジ殿」

「はい」

「受け取る練習も、必要なのですね」

 その言葉が胸に来た。

 肩ではなく。

 俺は頷いた。

「たぶん」

「私も、言葉を選びます」

「助かります」

「でも、受け取っていただける形を、探します」

 淡い青白い糸が、少しだけ俺に伸びた。

 今までなら、重いと逃げるところだった。

 だが、俺はそれを見た。

 逃げなかった。

 少しだけ触れた。

 リュシエンヌの目が、ほんの少し潤んだように見えた。

 カイラが不機嫌そうに尾を振った。

「私も探す」

「焼かない形でお願いします」

「わかっている」

 金色の糸が、慎重に、少しだけ伸びた。

 熱い。

 重い。

 でも、今回は押し潰されない。

 カイラが本当に加減している。

 俺はその金色にも、指先で触れた。

「これなら、何とか」

 カイラの表情がぱっと明るくなった。

 その瞬間、金色の糸が太くなりかける。

「今のは抑えて」

「難しい」

「練習です」

「人間は練習が多い」

 リュシエンヌが笑った。

 王女も、少し笑った。

 水路沿いの夕暮れに、四人分の糸が一瞬だけ交差した。

 青白い同行の約束。

 金色の竜の好意。

 白い王女の好意。

 そして、俺の中から伸びる、まだ色の定まらない糸。

 俺は初めて、自分から誰かへ向かう重みを見た。

 それは薄い灰色を帯びた白だった。

 疲れと、警戒と、少しの温かさ。

 たぶん、俺自身の好意だ。

 それを見て、少し恥ずかしくなった。

 王女が静かに言った。

「セイジ殿」

「はい」

「私は、あなたに好かれたいと思っているのでしょうか」

 直球だった。

 リュシエンヌが咳き込んだ。

 カイラが目を見開いた。

 俺は頭を抱えたくなった。

「そこは、もう少し遠回しに」

「遠回しにすると、政治になります」

「それはそうかもしれませんが」

「では、言い直します」

 王女は少し考えた。

「私は、あなたに、私を国ではなく私として見てほしいと思っています」

 さっきよりは軽い。

 だが、十分に強い。

 俺は頷いた。

「それなら、見ます」

「約束ですか」

「軽めの約束で」

 王女の白い糸が、静かに俺の胸元へ結ばれた。

 肩ではない。

 背中でもない。

 胸のあたり。

 そこが一番困る。

 だが、今度は逃げなかった。

「軽めにします」

 王女は言った。

 その真面目な顔が少し可笑しくて、俺は笑ってしまった。

 王女も笑った。

 氷冠の王女が、ほんの短い時間だけ、普通の若い女性のように笑った。

 その笑いは、西区の誰にも見られなかった。

 王城の誰にも。

 民にも、貴族にも、神殿にも。

 ただ、水路沿いの薄暗がりで、俺たち三人だけが見た。

 そのことが、なぜかとても大事なことのように思えた。

 王城へ戻る頃には、完全に夜になっていた。

 西区での証言はすぐに記録され、王女の命で写しが作られることになった。ミルは拘束されたが、王女の命で尋問前に治療師と聴聞官がつけられた。ハルヴァンたちは一旦解散し、翌日正式な証言集会を開くことになった。

 王女は休まなかった。

 執務室へ戻ると、すぐに書類へ向かおうとした。

 俺は思わず言った。

「殿下」

「はい」

「少し休んだほうがいいです」

「まだ仕事が」

「民を愛しているなら、民を愛している人間の体も保守してください」

 王女はペンを持ったまま止まった。

「保守」

「元の世界の言い方です。壊れたら困るものは、壊れる前に手入れする」

 リュシエンヌが頷いた。

「賛成です」

 カイラも言った。

「壊れる前に休め。壊れてから直すのは面倒だ」

 王女は俺たち三人を見た。

 そして、小さく息を吐いた。

「では、半刻だけ休みます」

「短いですね」

「長いです」

「そこから練習しましょう」

 王女は少しだけ微笑んだ。

 その笑みに、白い糸がふわりと揺れる。

 俺の胸に、軽く重みが乗った。

 軽いのに、存在感がある。

 好意を受け取るというのは、こういうことなのかもしれない。

 逃げ道が少し狭くなる。

 でも、そのぶん、立っている場所が少し暖かくなる。

 その夜、俺は王城内の客室でなかなか眠れなかった。

 窓の外には王都の灯りが広がっている。

 西区の方角には、まだ黒と赤の糸が残っていた。帰還兵たちの怒りも恐怖も、消えたわけではない。王女が名前を聞いたからといって、補償が明日出るわけでもない。ミルの姉サナは戻らない。トルドも、ベイムも、ラシュも戻らない。

 それでも、少しだけ形が変わった。

 怒りは言葉になり、名簿は名前になり、王女は王女のまま少しだけ人間になった。

 そして俺は、初めて好意を受け取った。

 リュシエンヌでも、カイラでもなく、王女から。

 いや、正確には、それをきっかけに、三人分の好意を少しずつ受け取ってしまった。

 困ったことになった。

 かなり困ったことになった。

 でも、不思議と、昨日より息がしやすい。

 肩は相変わらず重い。

 背中も重い。

 胸には新しい白い糸がある。

 それでも、全部を拒むよりは、少し楽なのかもしれない。

 俺は寝台に横になり、天井を見上げた。

 元の世界へ帰る道は、まだ見えない。

 だが、この世界で自分に向けられたものを、全部なかったことにして帰れる気もしなくなっている。

「まずいな」

 小さく呟いた。

 翌朝、王城の鐘が鳴る前に、扉が叩かれた。

 リュシエンヌかと思った。

 だが、声は王女の侍女だった。

「セイジ様。殿下より、お目覚めになったら執務室へ、とのことです」

「何かありましたか」

「西区の証言掲示に対し、貴族院より抗議が届きました」

「早いですね」

「それと、北方軍務局より、帰還兵の一部は虚偽を述べている可能性があるとの文書が」

「もっと早いですね」

「さらに、神殿より、死者の名を公示することは魂の安寧を妨げるとの申し入れが」

 俺は寝台の上で目を閉じた。

 王都は朝から重い。

 侍女は少し間を置いてから言った。

「殿下は、半刻お休みになりました」

「それはよかった」

「ただ、その後、三刻働いておられます」

「全然よくない」

 俺は起き上がった。

 胸元の白い糸が、ほんの少し引かれた気がした。

 王女の好意。

 いや、王女からの軽めの約束。

 私は私として見てほしい。

 その重みが、朝から俺を起こしている。

 俺はため息をついた。

「今行きます」

 扉の向こうで侍女が安堵した気配がした。

 俺は服を整え、窓の外を見た。

 王都の朝は明るい。

 だが、城の上にはすでにいくつもの糸が絡み始めている。

 国は今日も重い。

 王女は今日もそれを背負うだろう。

 なら、せめて一人分くらいは、こちらへ来てもいい。

 そう思った自分に、俺は少し驚いた。

 好意を受け取ると、人は少しだけ欲が出る。

 受け取った分、返したくなる。

 それが厄介で、それがたぶん、悪くない。

 俺は部屋を出た。

 廊下の向こうから、リュシエンヌとカイラが歩いてくる。

 白い外套と、金色の鱗。

 二人とも、すでに起きていたらしい。

「セイジ殿」

 リュシエンヌが言った。

「殿下のところへ?」

「はい」

 カイラが欠伸をした。

「王女は燃やさない仕事を増やすのが上手いな」

「今日は焼かないでください」

「考える」

「そこは即答で」

 リュシエンヌが笑った。

 カイラも少し笑った。

 胸の白い糸、肩の青白い糸、背中の金色の糸が、同時に少し揺れた。

 重い。

 だが、歩ける。

 俺たちは王女の執務室へ向かった。

 氷冠の王女は、たぶん今日も誰かに愛されないまま、民を愛する。

 なら、せめて俺は、彼女を国ではなく彼女として見る。

 軽めの約束として。

 今のところは。


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