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第五章 王女は国で縛る

 王都は、遠くから見ても重かった。

 物理的に、という意味ではない。いや、城壁はたしかに物理的にも重そうだった。白い石で築かれた巨大な壁が、丘の上から谷の底まで弧を描き、そこからさらに内側へ、塔や尖塔や屋根が段々に積み重なっている。中心には王城があった。薄青い石で造られた城で、夕方の光を受けると、氷の塊のように光る。

 だが、俺に見えた重さは、石の重さではなかった。

 王都の上には、無数の糸がかかっていた。

 青、赤、黒、金、灰色、白。

 街の中から伸びるもの。外から流れ込むもの。城へ向かうもの。城から街へ垂れるもの。まるで巨大な織物だった。人の願い、恐怖、忠誠、怒り、義務、借金、誓約。そういうものが、目には見えないはずの空に重なっている。

 俺は思わず足を止めた。

「セイジ殿?」

 リュシエンヌが振り返る。

「見えすぎます」

「重みが?」

「はい。王都全体が、誰かの肩に乗っているみたいです」

 リュシエンヌは城を見上げた。

「王都とは、そういう場所です」

「簡単に言いますね」

「人が多く集まれば、誓約も義務も増えます。騎士団、商会、神殿、貴族院、魔導院、王家。すべてが互いに結ばれている」

「絡まっている、にも見えます」

「それも王都です」

 彼女の声には、懐かしさと警戒が混じっていた。

 白鷲騎士団の副長にとって、王都は戻る場所なのだろう。だが、安心できる場所ではないらしい。彼女の肩から伸びる青い重みも、街を見た瞬間に少し形を変えた。同行の約束だけではない。騎士としての義務が、彼女の背筋をさらにまっすぐにしている。

 カイラは、王都を見て鼻を鳴らした。

「人間は、よくこんな狭いところに集まるな」

「狭いですか」

「空が低い」

「城壁の中ですから」

「焼かれたら逃げにくい」

「焼かないでください」

「まだ焼いていない」

「その言い方がもう怖いんです」

 カイラは不満そうに尾を振った。

 金色の鱗が夕日に光る。

 この三人で王都へ入る。

 白い外套の女騎士。

 金鱗の竜娘。

 そして、異界から来た若返り気味のおっさん。

 冷静に考えれば、門で止められないほうがおかしい。

 だが、俺はできれば何事もなく入りたかった。

 王都が見えてから、街道は急に賑やかになった。荷車、旅人、巡礼者、商人、騎士見習いらしい若者たち。誰もが王都へ向かっている。逆に王都から出てくる者も多い。荷の多い商隊、疲れた顔の農民、翼のある小型の騎獣に乗った急使。

 その中で、俺たちは明らかに目立っていた。

 リュシエンヌはまだいい。白鷲騎士団の外套を見れば、人々は道を空ける。尊敬と畏れの混じった視線が彼女に向かう。

 問題は、カイラだった。

 子供は指をさす。商人は荷車を道の端へ寄せる。護衛らしい男たちは槍に手をかける。修道女らしき女性は胸元で印を切った。何人かの若者は、好奇心を隠しきれない顔でカイラの尾を見ていた。

 カイラはそれに気づいていた。

 気づいていないふりをしていた。

 尾の先が、ずっと落ち着きなく揺れている。

「見られるのは嫌ですか」

 俺が小声で聞くと、カイラは横目で睨んだ。

「嫌ではない」

「そうですか」

「竜は見られるものだ」

「なるほど」

「だが、あの商人の目は嫌いだ」

「どの人ですか」

「あそこ。腹の出た男。私の鱗を値踏みしている」

 俺が見ると、たしかに太った商人がカイラをじっと見ていた。商売人らしい目つきだった。珍しい宝石か高級毛皮でも見るように、彼女の角や尾を眺めている。

 カイラの金色の重みが熱を帯びた。

「焼きませんよ」

 俺は先に言った。

「まだ何も言っていない」

「言いそうでした」

「少し焦がすだけだ」

「やめましょう」

「面倒だな、人間の街は」

「練習です」

「何の」

「焼かない練習です」

 カイラは大きく息を吐いた。鼻から小さな火花が散った。

 近くの巡礼者が悲鳴を上げて逃げた。

「今のは吐いていない」

「出ています」

「息だ」

「息に火花が混じる時点で、門番はたぶん嫌がります」

 カイラは舌打ちした。

 リュシエンヌが振り返った。

「カイラ。王都の門では、絶対に火を出さないでください」

「絶対?」

「絶対です」

「山賊が出ても?」

「王都の門前に山賊は出ません」

「門番が襲ってきたら?」

「襲ってきません」

「襲ってきたら?」

「私が対処します」

「お前が斬るのか」

「斬らずに済ませます」

 カイラは俺を見た。

「白鷲も練習しているのか」

「してますね」

「命に代えて、とは言わなくなった」

「進歩です」

 リュシエンヌは少しだけ咳払いをした。

 その頬が、ほんのわずかに赤い。

 俺の右肩に淡い青白い重みが乗る。

 もう、この程度なら慣れてきた。

 慣れたくはないのだが。

 王都の南門には、長い列ができていた。

 門は巨大だった。高さは三階建ての建物ほどもあり、左右には丸い塔がある。門扉には銀色の金具が打たれ、上には王家の紋章らしきものが掲げられていた。王冠を戴いた鳥。翼を広げ、爪に鍵を持っている。

 列の横には検問所があり、兵士たちが通行証を確認している。商人は荷を調べられ、旅人は名前を書かされている。騎士や役人は別の通路へ案内されていた。

 俺たちは当然、別の通路へ行くことになった。

 リュシエンヌが白鷲騎士団の紋章を示すと、門番はすぐに姿勢を正した。

「白鷲騎士団、リュシエンヌ副長。ご帰還ですか」

「王都へ報告と、異界の客人の引き合わせに参りました」

「異界の」

 門番の視線が俺に向く。

 俺は軽く会釈した。

「秋津誠二です」

 門番は俺の服装を上から下まで見た。旅装はすでに少し馴染んできたが、それでも王都の人間の目には奇妙なのだろう。特に、荷物袋に入れているスーツの一部が見えていた。黒い布と元の世界のシャツ。こちらにはない織り方らしい。

 門番は何か言いかけた。

 その時、彼の視線がカイラで止まった。

 表情が変わった。

「竜種?」

 周囲の兵士たちが一斉に槍を構えた。

 早い。

 慣れている。

 それが逆に怖かった。

 リュシエンヌがすぐに前へ出た。

「同行者です。敵意はありません」

「竜種の入城には、王都防衛令に基づく拘束具、もしくは誓約書が必要です」

「拘束具?」

 カイラの声が低くなった。

 まずい。

 俺にはわかった。

 金色の重みが膨らんでいる。

 カイラの背中から、炎のような糸が立ち上った。怒りというより、誇りを傷つけられた痛みだ。彼女の尾が地面を叩く。石畳にひびが入った。

 兵士たちの槍の穂先が揺れる。

 恐怖の黒い糸が、兵士たちからカイラへ伸びる。

 カイラはその恐怖に反応する。

 恐れられれば、さらに強く出る。

 強く出れば、さらに恐れられる。

 よくある悪循環だ。

 元の世界なら、会議室で声の大きい役員と萎縮した担当者の間に発生する種類の空気である。こちらでは槍と火が混じっている分、ずっと危険だ。

「拘束など受けない」

 カイラが言った。

 門番の隊長らしい男が一歩前に出た。

 四十代くらいだろうか。鋭い目をしている。鎧には南門守備隊の紋章。腰には短剣。槍ではなく、指揮杖を持っている。

「王都の法です。竜種は炎を吐く。街を守るための決まりです」

「私は街を焼きに来たのではない」

「それを証明するための拘束具です」

「私を縛るな」

 空気がさらに熱くなる。

 カイラの口元から、かすかに煙が漏れた。

 リュシエンヌの手が剣に触れる。

 俺の肩が重くなる。

 やめてほしい。

 全員、少しずつ重くしてくる。

「カイラさん」

 俺は小声で言った。

「焼かない練習です」

「今は焼くべき場面だ」

「違います」

「私を縛ると言った」

「縛られない方法を探しましょう」

「あるのか」

「たぶん」

 俺は隊長を見た。

 彼の胸元には、黒い恐怖と赤い警戒の糸がある。だが、その奥に、灰色の小さな結び目が見えた。古いものだ。門の上に伸びている。いや、南門の塔の壁に向かっている。

 過去に何かあった。

 竜種が王都で暴れたのか。

 誰かを失ったのか。

 隊長はただ差別的に竜を嫌っているわけではない。職務と記憶で動いている。

「隊長さん」

「何だ」

「竜種の拘束具は、火を止めるためですか」

「そうだ」

「誓約書でもいいとおっしゃいましたね」

「王都防衛令では、王国公認の監督者が同行し、火気使用を制限する誓約を結べば、拘束具は免除できる」

「監督者は、リュシエンヌさんでは駄目ですか」

 隊長はリュシエンヌを見た。

「白鷲騎士団副長なら資格はある。だが、誓約は重い。竜種が火を使えば、監督者も罪を負う」

 俺の肩に、リュシエンヌの決意が乗りかけた。

 すぐにわかった。

 彼女は言うつもりだ。

 私が負います、と。

 その言葉は重い。

 彼女自身にも、俺にも。

「待ってください」

 俺は先に言った。

 リュシエンヌがこちらを見る。

「俺が保証します」

 言ってから、しまったと思った。

 門番たちが一斉に俺を見る。

 リュシエンヌも目を見開いた。

 カイラまで、驚いた顔をしている。

 隊長が眉をひそめた。

「あなたは?」

「異界の客人らしいです」

「らしい?」

「本人もまだ制度上の立場がよくわかっていません」

「なら、保証人にはなれない」

「ですよね」

 我ながら、何の役にも立たない申し出だった。

 だが、カイラの金色の重みが少しだけ揺れた。

 嬉しかったのか。

 困る。

 竜の好意は、ちょっと動くだけで背中に来る。

 リュシエンヌが静かに言った。

「私が監督者になります。ただし、誓約文はこちらで調整させてください」

「調整?」

 隊長が聞き返す。

「命をもって償う、の類は避けます」

 俺は思わずリュシエンヌを見た。

 彼女は俺を見返さなかった。

 だが、わかっている。

 彼女は学んでいる。

 命を軽く言葉に載せないことを。

「では、どう誓う」

 隊長が言った。

 リュシエンヌは少し考えた。

「白鷲騎士団副長リュシエンヌ・アルヴァは、竜種カイラが王都内で不要な火を用いぬよう助言し、制止し、必要な場合は速やかに南門守備隊および王都警備局へ報告することを誓います」

「弱い」

 隊長が言った。

 カイラも同時に言った。

「弱い」

 二人の声が重なった。

 リュシエンヌは二人を順番に見た。

「弱い誓約ほど、長く守れます」

 その言葉に、俺は少し感心した。

 いいことを言う。

 そして、やはり少し肩に乗る。

 隊長はしばらく黙っていた。

 やがて、短く息を吐いた。

「火気使用禁止の範囲を明確にする。王都内、王城、神殿区、商業区、市場、木造密集区域。緊急時は守備隊の指示に従う」

「守備隊が私を撃ったら?」

 カイラが言った。

「その場合は、撃った者を私が処罰します」

 隊長が答えた。

 カイラは少しだけ目を細めた。

「お前、嘘はついていないな」

「門を預かる者が、門前で嘘はつかん」

「気に入った」

「私は気に入られたいわけではない」

「なら、余計に気に入った」

 隊長は眉間に皺を寄せた。

 俺は慌てて割り込んだ。

「では、誓約書でお願いします。拘束具はなしで」

「リュシエンヌ副長の署名と、竜種本人の印が必要です」

「印?」

「血印です」

 カイラが自分の親指を噛もうとしたので、俺は止めた。

「待ってください。血は最小限で」

「竜の血は強い」

「だからです」

 隊長が小さな針を用意した。

 カイラは非常に不満そうに、それでも針で指先を少しだけ刺した。金色に近い赤い血がにじむ。誓約書に押された血印は、紙の上で一瞬だけ光った。

 その瞬間、俺の背中に金色の重みが少し増えた。

「カイラさん」

「何だ」

「今、ちゃんと約束しましたね」

「した」

「偉いです」

 言った瞬間、カイラの尾がぴんと立った。

 金色の重みがさらに増えた。

「今のは重いです」

「お前が褒めるからだ」

「褒められると重くなるんですね」

「知らん」

「竜は嘘を」

「それを言うな」

 リュシエンヌが横で口元を押さえていた。

 笑いをこらえている。

 門番の隊長は、こちらのやり取りを理解できないものを見る目で見ていた。

 それでも、門は開いた。

 王都に入ると、音が一気に増えた。

 馬車の車輪、商人の声、鐘の音、鍛冶場の槌、子供の笑い声、犬の吠える声、水路を流れる水。道は石畳で、両側には二階建てや三階建ての建物が並んでいる。看板には絵が描かれている。靴、パン、剣、薬瓶、羽根ペン、葡萄、魚。

 匂いも多かった。

 焼きたてのパン、肉を焼く匂い、馬糞、香辛料、汗、川の水、金属、革、花。

 王都は生きていた。

 そして、やはり重かった。

 人々の糸が、通りの上を飛び交っている。商売の約束。借金。恋。嫉妬。忠誠。嘘。祈り。いちいち見ていたら頭がおかしくなりそうだった。

 俺は目を細めた。

「大丈夫ですか」

 リュシエンヌが尋ねる。

「少し情報量が多いです」

「王都では、見すぎないほうがよいかもしれません」

「どうやって見ないようにするんですか」

「剣士は、戦場で全員の動きを見ません。自分に関わる動きだけを選びます」

「俺は剣士ではないんですが」

「同じです。全部を背負う必要はありません」

 その言葉はありがたかった。

 ありがたいが、言った本人から伸びる青白い重みは、やはり俺の肩に乗る。

 カイラは王都の通りを物珍しそうに見ていた。

 あちこちの店先で足を止める。焼き肉の屋台に近づき、鍛冶屋の炉に鼻を近づけ、香辛料の店でくしゃみをした。くしゃみと同時に小さな火花が飛び、店主が悲鳴を上げた。

「火は出していない」

「火花は出ました」

「くしゃみだ」

「次から口を押さえてください」

「人間は面倒だ」

 そう言いながら、カイラは口元を手で押さえた。

 かなり進歩している。

 俺たちはまず、白鷲騎士団の王都詰所へ向かった。

 リュシエンヌはそこで報告を提出し、俺たちの滞在許可と王城への取次ぎを頼むつもりらしい。詰所は王城へ続く坂道の途中にあった。石造りの堅牢な建物で、門には白鷲の紋章が掲げられている。

 中に入ると、若い騎士たちが一斉にリュシエンヌを見た。

「副長!」

「ご無事で」

「第三槍隊は」

 そこで声が止まった。

 リュシエンヌの表情が少しだけ固まる。

 彼女から灰色の重みが立ち上がりかけた。

 俺は何も言わなかった。

 ここで軽々しく触れるべきではない。

 リュシエンヌはまっすぐ前を見た。

「報告は後ほど正式にします。今は、異界の客人を宮廷魔導院へ引き合わせる必要があります」

 若い騎士たちの視線が俺に向く。

 そして、カイラで止まる。

「竜種?」

「入城許可は得ています」

 リュシエンヌが言った。

「火気制限誓約も結んだ」

「結んだ」

 カイラが不機嫌そうに胸を張った。

「私は必要のないものは焼かない」

 詰所の空気が凍った。

 俺は慌てて付け加えた。

「かなり大きな進歩です」

 誰も納得した顔をしなかった。

 詰所で待たされる間、俺たちは小さな応接室に通された。

 木の椅子とテーブル。壁には王都周辺の地図。窓の外には、城へ続く坂道が見える。坂の上では、貴族らしい馬車が何台も行き来していた。

 リュシエンヌは報告のため一時的に部屋を出た。

 カイラは椅子に座ろうとして、尾の置き場に困っていた。

「人間の椅子は竜を嫌っている」

「椅子に思想はないと思います」

「尾の逃げ場がない」

「横向きに座ったらどうですか」

 カイラは試してみた。

 少しだけ収まりがよくなったらしい。

「悪くない」

「よかったです」

「お前は椅子にも詳しいのか」

「椅子に詳しいというより、会議に長く座っていた経験があります」

「会議?」

「大勢で話し合って、物事がなかなか決まらない儀式です」

「なぜそんなことをする」

「俺にもわかりません」

 カイラは真剣に考え込んだ。

「人間は、戦うより難しいことをしているな」

「そうかもしれません」

 しばらくして、部屋に若い騎士が茶を持ってきた。

 その騎士はカイラを見て緊張していたが、茶を置く手は丁寧だった。彼の胸から、好奇心の薄い黄色と恐怖の黒が混じった糸が出ている。

 彼は去ろうとして、俺を見た。

「異界の方、なのですよね」

「そうらしいです」

「宮廷魔導院へ?」

「その予定です」

 若い騎士は少し迷った。

 それから、小声で言った。

「その前に、王女殿下へ召されるかもしれません」

「王女殿下」

「はい。第三王女イレーネ殿下です」

 名前が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。

 若い騎士の胸から、薄い青と灰色が同時に伸びる。

 敬意。

 畏れ。

 それに、少し疲労。

「どういう方なんですか」

 俺は尋ねた。

 若い騎士は扉のほうを確認してから言った。

「氷冠の王女、と呼ばれています」

「氷冠」

「冷たいから、ではありません。いえ、冷たいと言う者もいますが。王城が揺れた時、誰よりも先に頭を冷やす方です。昨年の北方飢饉では、貴族院を黙らせて備蓄を開かせました。西の疫病では、神殿区を封鎖し、自ら病棟へ入られた」

「有能な方なんですね」

「非常に」

 若い騎士は即答した。

「ただ」

「ただ?」

「殿下は、人を人として見てくださいます。ですが同時に、駒としても見ます」

 難しい言い方だった。

「悪い意味ですか」

「悪い方ではありません」

 若い騎士は困ったように言った。

「悪い方ではないのです。誰よりも民を思っています。ですが、国を救うためなら、誰をどこへ置けばよいかを迷わない。自分自身も含めて」

「自分自身も」

「はい。殿下にとって、王女という身分も、体も、評判も、すべて国のための道具です」

 その言葉は重かった。

 王都の上に見えた王冠のような重みを思い出す。

 国家。

 王家。

 民。

 それらを一人で背負おうとする人間がいるとしたら、どれほど重いのだろう。

「怖い人ですか」

 俺が聞くと、若い騎士は少し笑った。

「怖いです」

 素直だった。

「でも、殿下が怖いのは、自分のために怒らないからです。国のためなら、笑いながら人を配置します。泣きながらでも、切ります」

「切る」

「比喩です。たぶん」

「たぶん」

 嫌な補足だった。

 カイラが茶を覗き込みながら言った。

「その王女は強いのか」

「強いです」

 若い騎士は答えた。

「剣では?」

「剣は嗜み程度と聞きます」

「火は吐くか」

「吐きません」

「なら弱い」

「カイラさん」

 俺は止めた。

 若い騎士は苦笑した。

「ですが、殿下は竜より強いかもしれません」

 カイラの金色の目が細くなった。

「面白い。なぜだ」

「殿下は、自分が焼かれることを恐れません。焼かれた後に、誰が何をすべきかまで決めている方です」

 カイラは黙った。

 俺も黙った。

 その王女には、あまり会いたくない。

 そう思った瞬間、扉が開いた。

 リュシエンヌが戻ってきた。後ろには、白鷲騎士団の上級士官らしき女性がいる。黒髪をきっちり結い上げ、銀縁の眼鏡のようなものをかけている。こちらの世界にも眼鏡があるらしい。少し安心した。

「秋津誠二殿」

 女性士官が言った。

「第三王女イレーネ殿下が、あなたとの面会を望まれています」

 早い。

 あまりにも早い。

「宮廷魔導院の前にですか」

「はい」

「俺は帰る方法を」

「その件も含めて、殿下がお聞きになります」

 言い方が丁寧なのに、選択肢がなかった。

 俺はリュシエンヌを見た。

 彼女は小さく頷いた。

「行くしかありません」

「ですよね」

「私も同席します」

 肩が重くなる。

「ありがとう」

 さらに少し重くなる。

 言わなければいいのに、言ってしまう。

 カイラが立ち上がった。

「私も行く」

 女性士官の表情がわずかに固まった。

「竜種の方は、王城内では別室で」

「行く」

「王城内の規定で」

「私は誓約した。必要のないものは焼かない」

「王城では、その表現はかなり不安です」

 女性士官は正直だった。

 カイラの尾が床を叩きそうになったので、俺は先に言った。

「カイラさん。焼かない練習です」

「わかっている」

「あと、言葉の調整です」

 カイラは不服そうに腕を組んだ。

「私は、セイジと白鷲の同行者として、王城へ入る。火は使わない。王女が私を縛ろうとしたら、まず考える」

 女性士官は眼鏡の奥で目を瞬かせた。

「まず考える」

「そうだ」

「……それで許可を取れるか確認します」

 士官は一度部屋を出た。

 少しして戻ってきた。

「殿下が、興味深いので同席を許す、と」

「興味深い」

 俺は呟いた。

 嫌な言葉だ。

 便利な人間を見つけた上司の目と、珍しいものを見つけた研究者の目。その両方が混じった気配がする。

 俺たちは王城へ向かった。

 坂道を上るにつれて、街の音が少しずつ遠ざかる。代わりに、靴音と馬車の音、鎧の擦れる音が増えていく。王城の門は、南門とは比べものにならないほど静かだった。兵士たちは無駄口を叩かず、手順だけで動く。白い石壁は冷たく、窓には薄青い硝子がはめられていた。

 王城の中は広かった。

 広すぎた。

 廊下には絨毯が敷かれ、壁には歴代の王らしき肖像画が並んでいる。天井は高く、窓から入る光が床に長く伸びている。豪華だが、けばけばしくはない。どこか病院か裁判所のような、冷たい清潔さがあった。

 カイラは最初こそ周囲を見回していたが、やがて黙った。

 王城には、彼女の火と相性の悪い空気があるのだろう。

 リュシエンヌは慣れているようで、まっすぐ歩く。

 ただ、その肩の重みは少し増えている。彼女にとっても、王城はただの職場ではないらしい。

 俺は廊下を歩きながら、王城全体に張り巡らされた糸を見ていた。

 すごい。

 王城は糸の塊だった。

 忠誠の青、権力の金、恐怖の黒、野心の赤、義務の白、後悔の灰色。それらが幾重にも重なり、結び目を作っている。下手に触れれば、そのまま絡め取られそうだった。

 そして、その中心に、氷のような白い重みがあった。

 冷たく、硬く、澄んでいる。

 王女だ。

 見なくてもわかった。

 謁見室ではなく、私的な執務室へ通された。

 それがまた怖かった。

 広すぎない部屋だった。壁一面に書棚。大きな机。地図。複数の書類箱。窓際には白い花が一輪だけ挿してある。暖炉には火が入っていない。部屋全体がよく整えられていて、余計なものが一つもない。

 机の向こうに、王女は立っていた。

 年は二十歳前後に見えた。

 淡い金髪を後ろでまとめ、額には細い銀の冠。瞳は薄い青。肌は白く、表情は穏やかだが、笑ってはいない。白と青を基調にしたドレスは華やかではなく、むしろ軍服に近い線を持っている。胸元には王家の紋章。腰には細い短剣。

 美しい。

 それは確かだった。

 だが、美しさより先に、静かさが来る。

 氷の下を水が流れているような人だった。

「白鷲騎士団副長、リュシエンヌ・アルヴァ。ただいま戻りました」

 リュシエンヌが膝をつく。

 俺も慌ててそれに倣おうとしたが、タイミングがわからず中途半端になった。カイラは膝をつかなかった。腕を組んだまま立っている。女性士官が青ざめた。

 王女はカイラを見た。

「竜種の方ですね」

「カイラだ」

「第三王女イレーネ・ラウ・エルディアです。王都へようこそ」

「火は使わない。今は」

 王女の口元が、わずかに動いた。

「それは助かります」

 怖いくらい自然に受け流した。

 それから、王女は俺を見た。

「そして、あなたが異界より来た方」

「秋津誠二です」

「セイジ・アキツ殿」

 彼女は俺の名を正確に繰り返した。

「この国では、姓を後ろに置く習慣もありますが、あなたの世界では逆なのですね」

「そうです」

「記録しておきます」

 机の上の羽根ペンが、誰も触れていないのに動いた。

 紙に文字が書かれていく。

 魔法だ。

 俺は思わず見てしまった。

 王女はそれに気づいた。

「珍しいですか」

「はい」

「あなたの世界には、筆記魔法はありませんか」

「ないです。ただ、似たようなものはあります。機械が記録します」

「機械」

 王女の目が少しだけ光った。

 興味。

 だが、子供の好奇心ではない。

 利用可能性を見つけた目だった。

 若い騎士の言葉を思い出す。

 人を人として見てくださる。

 ですが同時に、駒としても見ます。

「座ってください」

 王女が言った。

 俺たちは促されるまま椅子に座った。カイラは椅子を少し睨んでから、横向きに座った。尾の置き場を学習している。偉い。褒めると重くなるので、言わなかった。

 王女は机の向こうではなく、俺たちの向かいに座った。

 距離を詰めてきた。

 それだけで、話の重さが変わる。

「リュシエンヌ。第三槍隊のことは、先ほど概要を聞きました」

「はい」

「隊長以下十五名の戦死。あなたは伝令として生還し、灰角狼の主討伐に成功。さらに異界の客人を保護した」

「保護、というより、助けられました」

「その点も聞いています」

 王女の視線が俺へ戻る。

「セイジ殿。あなたは、人の誓約や未練、恐怖の重みを見ることができると」

「見えるようです」

「触れることも?」

「できることがあります」

「重みを変えることも?」

「場合によります」

「恐怖で支配された魔獣の結び目をほどき、赤角獣の未練を返し、薬師の死者の言葉を生者へ渡し、竜種に謝罪を学ばせた」

 並べられると、我ながらずいぶんなことをしている。

 だが、実感としては毎回必死だっただけだ。

「結果だけ見れば、そうなります」

「結果は重要です」

 リュシエンヌも言った言葉だ。

 この世界の人は、本当に結果が好きらしい。

 王女は机の上に置かれた小さな金属板に触れた。すると、空中に王都の地図が薄く浮かび上がった。俺は驚いたが、今度は声を出さなかった。

 地図には赤い印がいくつもついている。

「王都には、見えない重みが溜まっています」

 王女は言った。

「貴族間の誓約。商会の債務。神殿の赦し。騎士団の忠誠。移民区の怒り。疫病で家族を失った者の未練。戦地から戻った兵の恐怖。王都はそれらを制度で縛っています。法、税、儀礼、軍、神殿。ですが、制度は重みを消しません。ただ、置き場所を決めるだけです」

 俺は黙って聞いた。

 王女は、俺の力をすでにかなり正確に理解している。

 怖い。

 理解の速さが怖い。

「あなたの力があれば、いくつかの結び目をほどけるかもしれません」

「いくつか、ですか」

「まずは」

「まずは」

 嫌な言葉だった。

「王都西区で、帰還兵による暴動が起こりかけています。彼らは北境戦役で恐怖を抱えたまま戻り、補償を待たされています。貴族院は予算を止め、神殿は祈りで済ませ、軍は沈黙を命じています」

 空中の地図で、西区の赤い印が光った。

「南市場では、商会の債務誓約が膨らみ、店主たちが身動きできなくなっている。東の移民区では、古い差別と新しい税が絡んでいます。王城内にも問題はあります。王位継承をめぐる誓約が、まだ表には出ない形で人を縛っている」

 リュシエンヌの表情が変わった。

 カイラは退屈そうに聞いていたが、「継承」という言葉で少し目を細めた。竜にも縄張り争いはあるのだろう。

「セイジ殿」

 王女は静かに言った。

「あなたの力を、国のために使っていただきたい」

 来た。

 俺は、来ると思っていた。

 それでも、実際に言われると重い。

 王女から白い糸が伸びてきた。

 氷のように澄んだ白。

 それは好意ではない。

 信頼でもない。

 期待、でも少し違う。

 任務。

 配置。

 人を役割として置く重み。

 その糸は俺の肩にかかろうとした。

 俺は反射的に身を引いた。

 王女はそれに気づいた。

「見えましたか」

「はい」

「どのように」

「白い糸です。冷たくて、硬い」

「そうですか」

 王女は少しだけ考えるように目を伏せた。

「私は、あなたを脅すつもりはありません」

「今のところは」

 言ってから、しまったと思った。

 リュシエンヌがわずかに息を呑む。

 女性士官の顔が青くなる。

 だが、王女は怒らなかった。

「正直で結構です。脅す必要があれば、脅すでしょう。ただし、最初にそれを選ぶほど愚かではありません」

「怖いですね」

「怖がらせるつもりも、今はありません」

 今は。

 この人は、言葉を無駄にしない。

 だから余計に怖い。

 カイラが身を乗り出した。

「おい、王女」

「はい」

「セイジを縛るのか」

「必要なら」

 即答だった。

 カイラの金色の重みが膨らむ。

 空気が熱くなる。

 リュシエンヌの青白い重みも強くなる。

 俺は頭を抱えたくなった。

「焼かないでください」

 俺はカイラに言った。

「まだ焼いていない」

「リュシエンヌさんも、剣は」

「抜いていません」

「ありがとうございます」

 二人分の重みが同時に増えた。

 なぜ礼を言うだけで重くなるのか。

 王女は三人を見ていた。

 興味深そうに。

 本当に興味深そうに。

「なるほど」

 彼女は言った。

「あなたは、すでに二つの強い誓約に支えられている」

「支えられているというか、乗っています」

「同じことです」

「かなり違う気がします」

「重みは、支えにも荷にもなる。あなた自身が一番よく知っているのでは?」

 言い返せなかった。

 王女はゆっくり立ち上がった。

 窓際へ歩き、王都を見下ろす。

「私はこの国を守らなければなりません。父王は病床にあり、兄たちは王冠を見ています。貴族院は予算を握り、神殿は民の不安を握り、軍は沈黙を握っている。誰も悪だけではありません。誰も正義だけでもありません」

 窓の外で、王都の灯りが一つずつ点き始めていた。

「国とは、無数の重みを、一つの形にしておく仕組みです。仕組みが壊れれば、人は互いの重みに潰される」

 王女は振り返った。

「セイジ殿。あなたは、その重みを見て、触れ、変えられる。ならば、私はあなたを見過ごすことはできません」

「俺は帰る方法を探しています」

「探しましょう」

 王女は即答した。

「宮廷魔導院を使い、異界転移に関するすべての記録を開きます。必要な術者も用意します。あなたの世界の知識についても、保護と記録の体制を整えましょう」

「交換条件ですか」

「協力関係です」

「便利な言葉ですね」

「便利だから使います」

 やりにくい。

 この王女は、言い換えでごまかさない。

 ごまかさないから、逆に逃げにくい。

「俺が断ったら?」

 俺は聞いた。

 王女は少しだけ沈黙した。

「断る権利はあります」

「ありますか」

「あります。ただし、私はあなたが断りにくい条件を提示します。保護、情報、帰還の可能性、同行者の安全、竜種カイラの入城許可維持、リュシエンヌの立場の保証」

 リュシエンヌが顔を上げた。

 カイラの尾が揺れる。

 王女は続けた。

「それらを一つずつ積みます。あなたが自分の意思で頷いたと思えるところまで」

「それは、ほとんど脅しでは」

「いいえ」

 王女は静かに言った。

「政治です」

 部屋が静まり返った。

 俺は王女を見た。

 氷冠の王女。

 民を思う。

 国を守る。

 有能で、冷静で、恐ろしい。

 彼女は嘘をついていない。

 そこが一番厄介だった。

「セイジ殿」

 王女が一歩、近づいた。

 彼女から伸びる白い糸が、今度はさらに太くなった。

 俺の肩に、冷たい重みが触れる。

 王女は言った。

「あなたを、国のものにします」

 その瞬間、重みが落ちた。

 肩ではない。

 背中でもない。

 全身に。

 氷の鎖のような白い重みが、俺を包もうとした。王女個人の好意ではない。王家の権威、国の必要、民の期待、制度の網。そういうものが一つの言葉になって、俺へ伸びてくる。

 息が止まった。

 リュシエンヌが立ち上がる。

「殿下」

 声が鋭かった。

 カイラの金色の翼が一気に広がる。

「縛るなと言った」

 部屋の温度が上がる。

 女性士官が魔法陣らしきものに手をかける。

 王女は動じなかった。

 ただ、俺を見ていた。

 俺は、白い重みの中で何とか息を吸った。

 そして、言った。

「王女殿下」

「はい」

「言葉が、重すぎます」

 王女の目が、ほんのわずかに揺れた。

 初めてだった。

 彼女の表情が、少しだけ崩れたのは。

「どれほどですか」

「国一つ分です」

「そうですか」

「人間一人に乗せる重さじゃありません」

 俺の声は震えていた。

 だが、言えた。

「俺は国のものにはなれません。俺は俺のものです。少なくとも、そこから始めないと、たぶん何もほどけません」

 白い糸が止まった。

 完全に消えたわけではない。

 だが、それ以上巻きつくのをやめた。

 王女は俺を見つめていた。

 長い沈黙だった。

 やがて、彼女はゆっくり頷いた。

「なるほど」

 声は静かだった。

「私は、最初の言葉を誤りましたね」

 リュシエンヌが息を呑んだ。

 カイラも少し目を見開いた。

 王女が、自分の誤りを認めた。

 それだけで、部屋の重みが変わった。

 王女は右手を胸に当てた。

「訂正します。セイジ・アキツ殿。あなたを国のものにするのではありません」

 白い糸が細くなる。

 しかし、消えない。

「この国の重みを、あなたに見ていただきたい。そして、あなたが持てる範囲で、力を貸していただきたい」

 さっきよりは軽い。

 だが、まだ重い。

 相当重い。

 俺は答えなかった。

 答えられなかった。

 王女はそれを急かさなかった。

「返答は今でなくて構いません。今夜は王城内に部屋を用意します。リュシエンヌ、あなたも同じ区画に。カイラ殿には、火気を使わずに過ごせる石造りの部屋を」

「火気を使わずに過ごせる部屋とは何だ」

 カイラが不満そうに言った。

「燃えるものを少なくした部屋です」

「私を子供扱いするな」

「では、燃やさない実績を積んでください」

 王女の返しは速かった。

 カイラは言葉に詰まった。

 俺は少し笑いそうになったが、堪えた。

 王女は俺へ視線を戻した。

「明朝、宮廷魔導院の院長と会っていただきます。その後、可能であれば西区を見てほしい」

「もう仕事が入っているんですね」

「予定です。命令ではありません」

「その違いは大きいです」

「学びます」

 王女はそう言った。

 氷冠の王女が、学びます、と。

 その言葉は、意外なほど軽かった。

 いや、軽いというより、持てる形だった。

 俺は立ち上がった。

 足元が少しふらついた。

 リュシエンヌがすぐに支えてくれる。

 カイラも反対側から手を出しかけて、途中で止めた。力加減を考えたのだろう。

 偉い。

 今度は言わなかった。

 背中がもたない。

 王女の執務室を出ると、廊下の空気が冷たく感じた。

 俺は深く息を吐いた。

「大丈夫ですか」

 リュシエンヌが聞く。

「国のものにされかけました」

「すみません」

「リュシエンヌさんが謝ることでは」

「王都へ連れてきたのは私です」

「それも違います」

 カイラが低く唸った。

「あの王女、嫌いではない」

「意外ですね」

「強い。謝った」

「そうですね」

「だが、セイジを縛るなら焼く」

「考える、から始めましょう」

「……考える」

 カイラは不満そうに言い直した。

 リュシエンヌが小さく笑った。

 俺も少し笑った。

 その瞬間、肩と背中に二人分の重みが乗った。

 青白いものと、金色のもの。

 重い。

 だが、さっきの国一つ分に比べれば、ずっと温かい。

 王城の窓から、夜の王都が見えた。

 灯りが無数に揺れている。

 その一つ一つに、人がいる。

 人の数だけ、重みがある。

 そして王女は、それを国という名で束ねようとしている。

 俺は帰りたい。

 それは変わらない。

 だが、帰る前に見てしまったものを、見なかったことにできるのか。

 それは、まだわからない。

 廊下の先で、王女の白い糸が、まだ細くこちらへ伸びていた。

 国のものではなく。

 協力者として。

 たぶん、彼女なりに言葉を直したのだろう。

 それでも重い。

 王都の夜は、静かに深くなっていく。

 俺は肩を回した。

「明日は宮廷魔導院ですか」

「はい」

 リュシエンヌが答える。

「それから西区ですか」

「予定では」

 カイラが鼻を鳴らした。

「帰還兵の暴動だったな」

「そうらしいです」

「恐怖で縛られた兵か」

 昨日の灰角狼を思い出す。

 恐怖で支配された群れ。

 今度は、人間だ。

 しかも、国に仕え、戦い、生き残り、戻ってきた人たち。

 たぶん、魔物よりずっと複雑だ。

 俺は窓の外を見た。

 西区の方角に、黒と赤の糸がゆっくり渦を巻いている。

 その中心に、古い青があった。

 忠誠。

 折れかけた忠誠。

「重そうですね」

 俺が言うと、リュシエンヌが静かに頷いた。

「兵の忠誠は、折れる時が一番重いです」

 その言葉が、夜の廊下に残った。

 王都一日目。

 俺はまだ、帰る方法を知らない。

 だが、国というものが、人にどれほど重い言葉を乗せるのかだけは、少しわかり始めていた。


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