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第四章 竜娘は謝れない

 竜の匂い、というものを、俺はもちろん知らなかった。

 元の世界で竜に会ったことはない。会議室で火を噴くような上司なら何人か知っているが、あれは比喩であって、生物分類上の竜ではない。まして匂いなど、あるはずもなかった。

 だが、リュシエンヌが「竜の匂いがします」と言った直後から、俺にもそれらしいものがわかるような気がしてきた。

 乾いた熱。

 焦げた石。

 鉄を削ったような匂い。

 それに、少しだけ蜂蜜を焦がしたような甘さが混じっている。

 風は森の向こうから来ていた。木々の梢がざわめき、葉の裏が銀色に光る。そのさらに奥で、何か大きなものが動いたような気配がした。

「本当に竜なんですか」

 俺は声を潜めた。

「この匂いは、竜種です」

「竜種」

「純竜か、竜人か、竜に近い魔獣か。近づかなければ判別できません」

「近づかないという選択肢は」

「あります」

「では」

「ただし、この先が王都への街道です」

「ですよね」

 リュシエンヌは剣の柄に手を置いていた。

 昨日から思っているが、彼女の手が剣に触れるたび、俺の右肩には淡い青の重みが増す。同行の約束。護衛の責任。守ろうとする意志。ありがたい。ありがたいが、重い。

「できれば、今日くらいは何も起きないでほしかったんですが」

「昨日もそう言っていました」

「昨日より強くそう思っています」

「では、慎重に進みましょう」

「進むんですね」

「はい」

 リュシエンヌは真面目に頷いた。

 俺は小さくため息をついた。

 若返った体は、たしかに回復が早い。祠で自分の顔を見た時にはかなり驚いたが、今も足取りは以前より軽い。足首の痛みはまだ残っているものの、元の世界なら考えられないほど早く引いていた。筋肉の張りもあるが、歩けないほどではない。

 顔も、どうやら悪くないらしい。

 それは自分で言うと非常に落ち着かないことだが、水面や窓に映る姿を見る限り、俺は五十過ぎの中年男ではなく、三十代後半くらいの疲れた旅人になっている。髪の白さは減り、頬は締まり、目元だけが妙に年を食っている。

 リュシエンヌはそれを、「体は若いが、目は若くない」と評した。

 褒めているのかどうかは、いまだによくわからない。

 ただ、その後から彼女の視線が少し変わった気はする。

 前は客人を見る目だった。

 今は、もう少し長く俺を見る。

 それが何を意味するのか、考えないほうがいい。

 考えると、右肩ではなく胸のあたりに新しい重みが乗る。

 この世界では、考えないことも生存技術の一つだ。

 街道はやがて、浅い谷へ下っていった。

 谷の底には川が流れている。水は少なく、ところどころ白い石が顔を出していた。その川にかかっていたはずの橋は、半分ほど崩れていた。

 焼けている。

 石橋なのに焼けている、という言い方はおかしいかもしれない。だが、実際そう見えた。橋の欄干は黒く焦げ、石の表面は高熱で弾けたようにひび割れている。橋のたもとには、荷車の残骸が転がっていた。

 近くに小さな集落があった。

 家は十数軒。石と木でできた、谷間の宿場のような場所だ。だが、村人たちは外に出ていなかった。窓や扉の隙間からこちらを見ている気配だけがある。

「嫌な雰囲気ですね」

「竜が出る場所では、こうなります」

「頻繁に出るんですか」

「竜種の縄張りに人が入り込んだか、人の場所に竜種が入り込んだか。どちらにしても、厄介です」

 リュシエンヌは崩れた橋に近づいた。

 俺もその後ろについていく。

 橋の近くに、赤黒い糸がいくつも見えた。

 怒り。

 恐怖。

 それに、焦げた金色のような糸。

 昨日のノルの未練とも、エルナと薬師の後悔とも違う。もっと熱い。もっと硬い。金属の鎖のようだ。

「何か見えますか」

「はい。赤と黒と、金色です」

「竜のものですか」

「たぶん。橋の向こうから伸びています」

 橋の向こう岸には、古い見張り台があった。

 半分崩れた石造りの塔で、上のほうに大きな爪痕がついている。その周りの岩には、金色の鱗のようなものが数枚、落ちていた。

 俺がそれを見ていると、村のほうから扉が開く音がした。

 杖をついた老人が出てきた。背中は曲がっているが、目は鋭い。後ろから若い男が二人、心配そうについてくる。

「白鷲の騎士様か」

 老人が言った。

 リュシエンヌは軽く頭を下げた。

「白鷲騎士団、リュシエンヌ・アルヴァです。王都へ向かう途中です。ここで何がありました」

「竜娘です」

 老人は吐き捨てるように言った。

「竜娘?」

 俺が聞き返すと、老人は俺をちらりと見た。

 スーツ姿ではないとはいえ、俺の旅装はまだ不自然なのだろう。だが、彼は細かく聞かなかった。

「金鱗の娘です。角と尾を持ち、火を吐く。人の姿をしているが、人ではない」

「その竜娘が橋を?」

「ええ。昨夜、橋を焼き落としました。山賊を追い払うためだと言っておりますが、おかげで荷車は壊れ、橋は渡れず、子供が一人、火傷を負いました」

 老人の胸から、赤い糸が立ち上っていた。

 怒り。

 だが、その下に灰色が絡んでいる。

 恐れているだけではない。

 何かを言えなかった後悔がある。

「山賊が出たんですか」

 リュシエンヌが尋ねた。

「出ました。三日前から峠に潜んで、旅人や荷を狙っておりました。そこへ竜娘が現れ、火を吐いて連中を追い散らした。そこまではよかった」

「そこまでは」

「だが、橋も焼いた。見張り台も壊した。逃げ遅れた子供が火の粉を浴びた。それでもあの娘は、自分が村を救ったと言って謝らん」

 老人の声が震えた。

「強い者は、謝らんのだそうです」

 その言葉で、リュシエンヌの表情が少し険しくなった。

 俺は橋の向こう岸を見た。

 金色の糸が、そこで太く絡まっている。

 竜娘。

 強い者は謝らない。

 嫌な言葉だ。

 元の世界にも、似たような考え方はあった。責任ある立場の者は簡単に頭を下げるな。謝れば非を認めることになる。相手につけ込まれる。組織を守るためだ。そういう言葉を何度も聞いた。

 そして、たいていの場合、謝らなかった人間より、謝られなかった人間のほうに重みが残る。

「その子供は」

 俺は尋ねた。

「家で寝ています。命に別状はありません。だが、腕に火傷を」

「竜娘は今どこに?」

 老人は見張り台を指した。

「あそこです。自分がこの谷を守っているつもりでいる」

「話はできますか」

「できます。向こうが聞く気になれば」

 その時だった。

 橋の向こうで、石が砕ける音がした。

 見張り台の上から、何かが飛び降りた。

 金色の影だった。

 それは地面に着く直前、ふわりと空気を蹴るように減速し、川向こうの岩に立った。

 少女、に見えた。

 いや、少女というには背が高い。十七、八に見えるが、年齢は人間の基準ではわからない。肌は淡い褐色で、頬や首筋、腕の一部に金色の鱗が浮かんでいる。髪は燃えるような赤金色で、肩のあたりでざっくり切られていた。額からは小さな角が二本、後ろへ向かって伸びている。腰の後ろでは、しなやかな尾が揺れていた。

 瞳は金色。

 服は、革と金属を組み合わせた軽装だった。鎧というより、狩人の装備に近い。だが、肩や手甲には竜の鱗のような硬い板が重なっている。背中には翼があった。大きくはない。広げれば人を一人持ち上げられるかどうかというくらいの、金色の膜を持つ翼。

 彼女は腕を組んで、こちらを見下ろした。

「また人間が増えた」

 声は若かった。

 だが、響きに妙な圧がある。

 聞いただけで、胸の奥が熱くなるような声だった。

「白鷲か。騎士まで呼んだのか、ギル爺」

 竜娘は老人を見て鼻を鳴らした。

 老人は杖を握りしめた。

「カイラ。橋を見ろ。これで何人が困っていると思う」

「困っているから生きているんだろう」

 竜娘、カイラは言った。

「山賊に殺されていたら、困ることもできない」

「子供が火傷をした」

「死んでいない」

「謝れ」

「なぜ」

 カイラの尾が地面を叩いた。

 石が割れた。

「私は守った。弱い橋が焼けた。逃げるのが遅い子供が火を浴びた。それは不運だ。だが、私がいなければ、山賊は村を襲った」

「だから謝らんのか」

「強い者は謝らない」

 カイラは当然のように言った。

「謝るのは、負けを認めることだ。竜は負けない」

 村人たちの恐怖が、黒い糸となって震えた。

 リュシエンヌが一歩前に出た。

「カイラ殿」

「殿はいらない。私は騎士の下ではない」

「では、カイラ。山賊を追い払ったことには感謝する。だが、村人に被害が出たなら話を聞くべきです」

「話なら聞いている」

「受け止めてはいません」

 カイラの金色の目が細くなった。

「剣の女。お前、強いな」

「白鷲騎士団副長です」

「副長。なら、わかるだろう。戦いに巻き添えは出る。弱い者を一人も傷つけない戦いなどない」

「だからこそ、傷つけた者の前に立つ必要があります」

「立っている」

「謝ってはいない」

「謝らない」

 空気が熱くなった。

 物理的に温度が上がっている。

 俺は一歩下がりたくなったが、下がると話が進まない気がした。

 カイラから伸びる金色の糸は、巨大だった。

 糸というより、鎖。

 いや、翼に近い。金色の膜を持つ大きな翼が、彼女の背中から村へ、橋へ、見張り台へ、そして小さな家の一つへ伸びている。

 その先に、焦げた赤い糸が絡んでいた。

 火傷をした子供の家だろう。

 カイラは、そこを見ないようにしている。

 見ないようにしているから、余計に金色の重みがそこへ伸びている。

「カイラさん」

 俺は言った。

 彼女の視線がこちらへ向いた。

「誰だ、お前」

「秋津誠二です」

「アキツ・セイジ」

 カイラは岩から飛び降り、川を一跨ぎするようにこちらへ来た。

 近い。

 思ったより近い。

 竜娘という存在は、遠目で見る分には華やかだが、目の前に来ると圧がすごい。背は俺より少し低いくらいだが、尾と翼があるせいで大きく見える。体温が高いのか、近くに立つだけで熱を感じる。

 彼女は俺の周りをゆっくり回った。

 匂いを嗅がれている気がする。

「変な匂いがする」

「それは失礼では」

「異界の匂いだ」

 カイラは俺の顔を覗き込んだ。

 金色の目が近い。

「体は若い。だが、目が古い」

「最近よく言われます」

「弱そうだが、壊れにくそうだ」

「褒めています?」

「竜は嘘をつかない」

「褒めているかどうかを聞いたんですが」

 カイラは少し首を傾げた。

 リュシエンヌが俺とカイラの間に半歩入った。

「近すぎます」

「お前のものか」

「違います」

 即答だった。

 ただ、その瞬間、俺の右肩に淡い青白い重みがどんと乗った。

 違います、の重さではない。

 違います、と言いながら、違うと言い切れない何かが混じっている。

 やめてほしい。

 そういうのは、会話以上に肩に来る。

 カイラはリュシエンヌを見て、にやりと笑った。

「違うにしては、熱い匂いがするぞ」

「竜の感覚で人を測らないでください」

「人間は面倒だな」

「あなたも半分は人の形をしています」

「形だけだ」

 カイラは再び俺を見た。

「で、古い目の男。お前は何を言う。私に礼を言うか。村を守った竜に」

「礼は言います」

 俺は答えた。

「山賊を追い払ったことには」

「ならいい」

「でも、謝るべきだと思います」

 カイラの表情が止まった。

 次の瞬間、熱風が来た。

 彼女の尾が地面を叩く。石が跳ね、村人たちが悲鳴を上げた。

「お前も同じことを言うのか」

「言います」

「私は守った!」

「はい」

「橋が焼けたのは、山賊が火矢を持っていたからだ。私が先に焼かなければ、村の家が燃えていた」

「そうかもしれません」

「子供が火傷をしたのは、あいつが外へ出てきたからだ。隠れていればよかった」

「そうかもしれません」

「なら、なぜ謝る」

 カイラの声が低くなった。

「私が悪いのか」

 その瞬間、金色の巨大な重みが揺れた。

 怒りではない。

 そこにあったのは、怯えだった。

 自分が悪いと認めた瞬間、守ったことまで否定されるのではないかという怯え。

 謝った瞬間、自分の力の価値が消えるのではないかという怯え。

 俺には、それが見えた。

 この子は、謝り方を知らないのだ。

 強いから謝らないのではない。

 謝ると、自分のしたことが全部間違いになると思っている。

 俺は息を吸った。

「悪いかどうかと、痛かったかどうかは、別です」

 カイラの眉が動いた。

「何?」

「あなたが村を守ったことは、たぶん事実です。山賊を追い払った。村を焼かせなかった。そこは消えません」

「なら」

「でも、子供は火傷をした。怖かった。痛かった。その痛みに対して、ごめんと言うことは、あなたが村を守った事実を消すことではありません」

「同じだ」

「違います」

「同じだ!」

 カイラが一歩踏み出した。

 熱が頬に当たる。

 リュシエンヌが剣に手をかけた。

 俺は手で制した。

 制した瞬間、自分でも驚いた。

 リュシエンヌも少し驚いたようだった。

「カイラさん」

 俺は言った。

「謝るのは、負けることじゃないです」

「弱い者の理屈だ」

「いいえ。強い者にしかできないことです」

 カイラの金色の目が、細くなる。

「なぜ」

「相手の痛みを、自分の力の中に入れることだからです」

 言いながら、俺は元の世界のことを思い出していた。

 昔、部下の一人を怒鳴ったことがある。

 俺は正しかった。

 少なくとも、業務上は正しかった。ミスはミスだった。納期も迫っていた。確認を怠ったのは彼だった。だから注意した。強く言った。

 その後、彼は何も言わなくなった。

 ミスは減った。

 だが、提案もしなくなった。

 俺はしばらく、それを「改善」と思っていた。

 違った。

 ただ、彼が俺の前で失敗しないように、何もしなくなっただけだった。

 何ヶ月も後になって、俺は謝った。

 遅かった。

 それでも、謝らないよりはましだったと思いたい。

 謝ると、正しかった自分が崩れる気がした。

 でも本当は、崩れたのではない。

 自分の正しさに入れていなかった相手の痛みを、後から入れただけだった。

「あなたは強い」

 俺はカイラを見た。

「火を吐ける。橋も壊せる。山賊も追い払える。だから、子供の痛みを自分の中に入れても、壊れないはずです」

 カイラは黙った。

 尾の動きが止まる。

「弱い人間は、謝ると自分が壊れると思う。だから謝れない。強い人なら、謝っても残る。自分がした良いことも、悪かったことも、両方持てる」

「両方」

「はい」

 カイラの背中から伸びる金色の翼が、大きく震えた。

 俺の背中にも、その振動が伝わってくる。

 重い。

 まだ乗っていないのに、予感だけで重い。

「その子に会えますか」

 俺は老人に尋ねた。

 ギル爺と呼ばれた老人は、しばらく迷っていた。

 村人たちもざわめく。

「危険だ」

「また火を吐くかもしれない」

「子供が怖がる」

 カイラの顔が硬くなった。

「ほら見ろ。人間は、私を恐れる」

「火を吐けば恐れます」

 俺は言った。

「吐かなければ、少しは変わります」

「少し?」

「いきなり全部は無理です」

「弱いな、人間は」

「はい。だから、一つずつです」

 カイラは不満そうに鼻を鳴らした。

 だが、火は吐かなかった。

 老人はやがて頷いた。

「子供に聞く。無理強いはせん」

 俺たちは村の一軒の家へ向かった。

 カイラが歩くと、村人たちが道を空ける。

 恐怖の黒い糸が左右に割れる。

 彼女はそれを見えていないのだろう。いや、見えなくても感じているのかもしれない。尾の先が落ち着きなく揺れている。

 家の中には、母親らしき女性と、十歳くらいの男の子がいた。

 男の子は寝台に座っていた。右腕に包帯を巻いている。顔色は悪いが、命に関わるようには見えない。俺は少しだけ安心した。

 しかし、カイラが入口に立った瞬間、男の子の体が強張った。

 母親が彼を抱き寄せる。

 カイラもそれを見た。

 金色の目が揺れる。

「名は」

 彼女が聞いた。

 声がいつもより小さい。

 母親が答えた。

「トマ」

「トマ」

 カイラはその名を繰り返した。

 竜が名前を呼ぶと、音に熱が宿る。

 トマは母親の袖を握りしめている。

 カイラはしばらく黙っていた。

 言葉を探しているようだった。

 強い者は謝らない。

 その言葉が、彼女の喉を塞いでいる。

 俺は彼女の背中に見える金色の鎖を見た。

 鎖の先は、トマの包帯に絡んでいる。

 そこだけ赤く焦げていた。

「カイラさん」

 俺は静かに言った。

「守ったことは、消えません」

 カイラは俺を見た。

「痛かったことも、消えません」

 彼女の喉が動いた。

 それから、ゆっくり膝をついた。

 村人たちが息を呑む。

 竜娘が、人間の子供の前で膝をついた。

 カイラはトマと目の高さを合わせた。

「トマ」

 声が震えていた。

「私は、山賊を追い払った。村を守った」

 トマは何も言わない。

「だが、お前の腕を焼いた」

 カイラの拳が握られる。

「痛かったな」

 トマの目に涙が浮かんだ。

 カイラは、その涙を見て初めて、本当に痛そうな顔をした。

「怖かったな」

 トマが小さく頷いた。

「ごめん」

 たった三文字だった。

 だが、部屋の空気が変わった。

 金色の鎖が、音もなくほどけた。

 カイラの背中から伸びていた巨大な翼のような重みが、トマの包帯から離れ、彼女自身の胸元へ戻る。彼女はそれを受け止めた。顔を歪める。痛みを自分の中に入れている。

 謝る強さ。

 それは、見た目ほど美しくなかった。

 苦しそうで、ぎこちなくて、格好悪い。

 でも、強かった。

 トマが母親の袖から手を離した。

「もう、橋を燃やさない?」

 カイラは瞬きをした。

「必要がなければ」

 部屋の中の大人たちが一斉に微妙な顔をした。

 俺は慌てて言った。

「そこは、できるだけ燃やさない、で」

 カイラは少し考えた。

「できるだけ燃やさない」

 トマが少し笑った。

「なら、いい」

 それだけだった。

 許した、とは言わなかった。

 許せるほど軽い怪我ではないのかもしれない。

 でも、会話は始まった。

 それで十分なのかもしれない。

 家を出ると、村人たちは静まり返っていた。

 カイラはいつものように胸を張ろうとしたが、うまくいかなかった。視線が少し下がっている。尾も垂れている。

 ギル爺が彼女の前に立った。

「カイラ」

「何だ」

「山賊を追い払ったことには、礼を言う」

「遅い」

「橋を焼いたことには、まだ怒っている」

「だろうな」

「だが、トマに謝ったことは、覚えておく」

 カイラは顔を背けた。

「好きにしろ」

 その声は、少しだけ子供っぽかった。

 リュシエンヌが俺の隣に来た。

「セイジ殿」

「はい」

「あなたは、また斬らずに済ませました」

「今回はリュシエンヌさんも斬っていません」

「あなたが止めたからです」

「止めなかったら?」

「必要なら斬っていました」

「でしょうね」

 カイラがこちらを見た。

「おい、古い目の男」

「その呼び方は定着させないでください」

「セイジ」

「はい」

「お前、変だ」

「よく言われます」

「弱いくせに、逃げない」

「本当は逃げたいです」

「謝れと言うくせに、私のしたことを消さなかった」

「消せませんから」

「人間は、謝らせる時に、相手を全部悪者にするものだと思っていた」

「そういう人もいます」

「お前は違った」

 カイラの金色の目が、まっすぐ俺を見た。

「お前は、私の火を消さなかった」

 その瞬間だった。

 巨大な重みが、俺の背中に乗った。

 いや、乗ったというより、覆いかぶさった。

 金色の翼。

 熱い。

 重い。

 桁が違う。

「ぐっ」

 俺は膝から崩れた。

 リュシエンヌが慌てて支えようとしたが、彼女の腕だけでは足りなかった。背中に山が乗ったようだった。呼吸が詰まる。視界が揺れる。

「セイジ殿!」

「重い……」

「何が」

「竜の……好意、たぶん」

 カイラが目を丸くした。

「好意?」

「今、何かしました?」

「何もしていない」

「嘘ではなさそうですね」

「竜は嘘をつかない」

「それはもう聞きました」

 背中が熱い。

 カイラから伸びる金色の翼のような糸が、俺を包み込んでいる。忠誠や感謝や未練とは違う。もっと本能的なものだ。

 こいつは私の火を消さなかった。

 こいつは私を小さくしなかった。

 こいつは私の痛みを見た。

 だから、守る。

 竜の好意。

 それは、人間一人が受け止めるには大きすぎた。

 俺は地面に手をついた。

「カイラさん」

「何だ」

「その気持ち、少し弱めてもらえませんか」

「弱める?」

「かなり重いです」

 カイラは本気で困惑していた。

「好意を弱めるとは、どういうことだ」

「俺にもわかりませんが、今のままだと腰が砕けます」

「人間の腰は弱いな」

「はい。非常に弱いです」

 リュシエンヌが俺を支えたまま、カイラを見上げた。

「カイラ。竜の誓いは重すぎます。セイジ殿に向けるなら、言葉を選んでください」

「言葉?」

「あなたは今、セイジ殿を巣の者として扱おうとしています」

 カイラの頬に、ほんの少し赤みが差した。

「違う」

「では、何ですか」

「違う。まだ、巣ではない」

「まだ?」

 リュシエンヌの声が少し低くなった。

 俺は地面に手をついたまま、二人の会話を聞いていた。

 この状況はよくない。

 非常によくない。

 金色の重みと青白い重みが、俺の背中と肩で競い合うように増えている。

「すみません」

 俺は言った。

「本人を挟んで、重みを増やさないでください」

 リュシエンヌがはっとした顔をした。

 カイラはまだよくわかっていない顔だった。

「どうすればいい」

「まず、命に代えて守るとか、巣に入れるとか、そういう大きい言葉を使わない」

「竜にとっては普通だ」

「人間にとっては重いです」

「面倒だな」

「はい。面倒です」

 俺は何とか顔を上げた。

「カイラさん。あなたが俺に何か感じてくれたなら、それはありがたいです。でも、それをいきなり全部乗せられると、俺は潰れます」

「全部乗せてはいない」

「これで?」

「竜の好意としては、尻尾の先ほどだ」

「尻尾の先でこれですか」

 リュシエンヌが小さく息を呑んだ。

 たぶん、彼女にも少し怖くなったのだろう。

 カイラは腕を組んで考え込んだ。

「では、どう言えばいい」

「一緒に歩く、くらいでどうでしょう」

「弱い」

「弱くていいです」

「私が守る、は?」

「重いです」

「危険なら焼く、は?」

「やめてください」

「敵を砕く、は?」

「それも重い」

「なら、何をすればいい」

 カイラは本気で苛立っていた。

 だが、その苛立ちは昨日までの怒りとは違う。

 伝えたいのに伝え方がわからない。

 強すぎる手で、壊さずに触る方法がわからない。

 俺は少し笑った。

「まずは、王都まで一緒に来ますか」

「王都?」

「俺たちは王都に向かっています。俺は帰る方法を探している。リュシエンヌさんは同行してくれている。あなたは……謝る練習をする」

「謝る練習」

 カイラは露骨に嫌そうな顔をした。

「竜が?」

「はい」

「屈辱だ」

「でも、強い者にしかできないんでしょう」

 カイラは黙った。

 さっき自分に向けられた言葉を、今度は自分で持たされている。

 言葉は戻せない。

 この世界は、やはり嫌らしい。

「王都まで」

 カイラはゆっくり言った。

「私は、セイジと白鷲と共に歩く。必要なら力を貸す。だが、勝手に焼かない」

「それ、いいですね」

「そして、謝るべき時は」

 カイラの顔が苦しそうになる。

「……考える」

「考える、から始めましょう」

 金色の翼が、少し小さくなった。

 重みが消えたわけではない。

 だが、背中から押し潰される感覚は弱まった。巨大な翼が、畳まれて、外套のように俺の背にかかる。

 それでも重い。

 竜の外套。

 いや、ほとんど鎧である。

「まだ重いですが、立てそうです」

 俺は言った。

 リュシエンヌが腕を貸してくれた。カイラも反対側から俺を支えようとして、力加減を誤り、俺の体が一瞬浮いた。

「軽いな」

「人間を荷物みたいに持たないでください」

「壊れやすい」

「そうです」

 カイラは少し困った顔をした。

「壊さずに持つのは難しい」

「それも練習です」

「人間は練習が多いな」

「竜も今日から増えました」

 カイラはむっとしたが、反論はしなかった。

 村人たちは、まだ遠巻きにこちらを見ていた。

 竜娘が同行することを歓迎しているわけではない。むしろ、早く出ていってほしいと思っている者も多いだろう。だが、先ほどまでの黒い恐怖の糸は少し薄くなっていた。

 ギル爺が近づいてきた。

「カイラ」

「何だ」

「橋を直す手伝いはしていけ」

「私は王都へ行く」

「橋を壊したのはお前だ」

 カイラの眉が跳ねた。

 だが、すぐに俺を見た。

 俺は何も言わなかった。

 彼女は歯を食いしばるような顔をした。

「……手伝う」

 ギル爺は頷いた。

「よし」

「ただし、細かい作業は苦手だ」

「知っている。石を運べ。焼くな」

「焼かない」

 そのやり取りに、村人の誰かが吹き出した。

 それをきっかけに、少しだけ笑いが起きた。

 カイラは不服そうだったが、怒らなかった。

 橋の修復には半日かかった。

 正確には、完全な修復ではない。王都へ向かう旅人が一人ずつ渡れる程度に、崩れた部分へ大きな石板を渡し、荷車はしばらく迂回するという応急処置だった。

 カイラは役に立った。

 恐ろしく役に立った。

 大人四人がかりでも動かせない石を、彼女は片手で持ち上げた。しかも最初は勢い余って投げようとしたため、リュシエンヌが本気で止めた。

「置いてください。投げない」

「置くのは遅い」

「投げると壊れます」

「壊れたらまた持ってくる」

「そういう問題ではありません」

 リュシエンヌが淡々と指導し、俺が横で、

「ゆっくり。そう、ゆっくりです」

 と声をかける。

 カイラは何度も舌打ちしたが、最後には石をそっと置けるようになった。

 村の子供たちが物陰から見ていた。

 トマも包帯を巻いた腕を吊りながら出てきていた。カイラが石を置くたび、彼は少し目を丸くする。

「すごい」

 小さく言った。

 カイラの尾がぴんと立った。

 わかりやすい。

 竜娘は褒められると、かなりわかりやすい。

「この程度、竜なら当然だ」

「でも、今のは静かだった」

 トマが言った。

「焼いてないし、壊してない」

 カイラは一瞬、返事に詰まった。

「そうか」

「うん。すごい」

 カイラは顔を背けた。

 耳のあたりの鱗が赤くなっている。

 俺の背中に金色の重みがふわりと増えた。

「今の好意、こっちに来ました?」

 俺が言うと、カイラがぎくりとした。

「知らん」

「竜は嘘をつかないのでは」

「今のは嘘ではない。知らんという態度だ」

「便利ですね」

 リュシエンヌが横で小さく笑った。

 その笑いに青白い重みが乗る。

 俺の背中と肩は、今日も忙しい。

 夕方近く、橋を渡れるようになった。

 俺たちは村を出る準備をした。

 ギル爺はカイラに古い革袋を渡した。中には干し肉と硬いパン、それに小さな赤い石が入っていた。

「何だ、これは」

「火打ち石だ」

「私は火を出せる」

「人前で何でも火を吐くなという印だ」

 カイラは嫌そうな顔をした。

 だが、受け取った。

「持っていればいいのか」

「持っていろ。考える時間ができる」

「面倒だな」

「謝る練習だ」

 ギル爺がそう言うと、カイラは唸った。

 それでも、革袋を腰に結んだ。

 トマが近づいてきた。

 母親に促されたのではない。自分で歩いてきた。

「カイラ」

「何だ」

「もう山賊が来たら、橋は焼かないで」

「できるだけ焼かない」

「うん」

「お前も、火の近くに来るな」

「うん」

 それだけの会話だった。

 だが、カイラの金色の糸が少し軽くなった。

 俺にはそれが見えた。

 謝ったから、すべてが解決するわけではない。

 火傷は残る。

 橋も壊れた。

 怖かった記憶も消えない。

 でも、次の言葉を交わせる。

 それだけで、重みの形は変わる。

 俺たちは橋を渡った。

 リュシエンヌが先頭。

 俺が真ん中。

 カイラが最後。

 橋は応急処置なので、少し揺れた。俺は慎重に歩いたが、カイラは後ろで退屈そうにしている。

「飛べばいいのに」

 俺が言うと、カイラは鼻を鳴らした。

「お前たちが歩くなら、私も歩く」

「それは同行の約束ですか」

「そうだ」

 背中が重くなる。

「もう少し軽い約束でお願いします」

「では、今日は歩く」

「それで」

 少し軽くなった。

 リュシエンヌが振り返り、俺とカイラを見た。

「言葉の調整が上手くなっていますね」

「生存のために」

「私も学んでいます」

「リュシエンヌさんは、かなり上達しています」

 そう言うと、彼女の頬が少し緩んだ。

 青白い重みが増えた。

 俺はしまったと思った。

 褒め言葉も重くなる。

 この世界では、油断して人を褒めてはいけない。

 橋を渡り終えると、王都へ向かう街道が山裾へ続いていた。

 夕日が谷を赤く染めている。

 カイラの鱗が、その光を受けて金色に燃えた。

 絵になる。

 非常に絵になる。

 白い外套の女騎士と、金鱗の竜娘と、若返ったが中身は疲れたおっさんの俺。

 どう考えても、釣り合っていない。

 だが、なぜか二人とも俺の隣にいる。

 しかも二人分の重みが、本当に肩と背中に乗っている。

白い外套の女騎士と、金鱗の竜娘と、若返ったが中身は疲れたおっさんの俺。

 どう考えても、釣り合っていない。

 だが、なぜか二人とも俺の隣にいる。

 しかも二人分の重みが、本当に肩と背中に乗っている。

 若い頃の俺なら、少しは浮かれたかもしれない。

 いや、今だって、まったく浮かれていないと言えば嘘になる。

 白い外套の女騎士は、俺が歩幅を乱すたびに気づいてくれる。金色の鱗を持つ竜娘は、俺の言葉を不服そうにしながらも覚えようとしている。

 そんな状況を、都合がいいと言えば、たぶん都合がいい。

 だが、俺にはわかっている。

 都合のいい好意ほど、重い。

 実感としては、かなり腰に来る。

「セイジ」

 カイラが言った。

「はい」

「王都には強い者がいるか」

「俺に聞かれても」

 リュシエンヌが答えた。

「宮廷騎士、魔導士、貴族、神官。強さの種類はさまざまです」

「そいつらは謝るか」

 リュシエンヌは少し黙った。

「人によります」

「なら、私が教える」

「まずあなたが練習してください」

 リュシエンヌの返しは速かった。

 カイラは不満げに尾を振った。

「古い目の男」

「セイジでお願いします」

「セイジ。謝る強さというのは、王都でも通じるのか」

 俺は街道の先を見た。

 王都。

 宮廷魔導院。

 帰る方法。

 そして、たぶん面倒な人間関係。

 強い者ほど謝らない場所は、どこの世界にもある。

「通じるかどうかは、わかりません」

「何だそれは」

「でも、通じない場所ほど、必要なんだと思います」

 カイラは考え込んだ。

 リュシエンヌも黙っていた。

 二人の重みが、少しだけ変わった。

 青白い約束。

 金色の好意。

 どちらもまだ大きい。

 だが、さっきより歩きやすい形になっている。

 俺たちは夕暮れの街道を進んだ。

 背中には竜の好意。

 肩には女騎士の同行の約束。

 荷物袋には薬師の眠気覚まし。

 腰には、若返った体に似合わない疲労感。

 異世界に来て四日目。

 仲間が一人増えた。

 しかも竜娘である。

 普通なら喜ぶべきなのだろう。

 いや、実際、心のどこかでは少し浮かれているのかもしれない。金色の鱗を持つ竜娘が、自分の言葉で変わり、同行する。白い外套の女騎士は、横で静かに微笑んでいる。体は若く、顔も悪くない。

 これだけ並べれば、ずいぶん都合のいい話だ。

 だが、俺にはわかっている。

 都合のいい好意ほど、重い。

 遠くで、王都の尖塔らしきものが夕日に光った。

 その上空に、黒い鳥の群れが舞っている。

 いや、鳥ではない。

 もっと大きい。

 翼の下に、人影のようなものがある。

 リュシエンヌが足を止めた。

「飛竜便です」

「飛竜便?」

「王都からの急使です。あの数は異常です」

 カイラが鼻を鳴らした。

「血の匂いがする」

「またですか」

 俺は思わず言った。

 王都の方角から、見えない糸がいくつも伸びてきていた。

 青、赤、黒、金。

 そして、その中心に、王冠のような形をした重みがあった。

 遠いのに、重い。

 国家とか、王家とか、そういう種類の重みだろうか。

 俺は肩を押さえた。

「リュシエンヌさん」

「はい」

「王都では、もっと重いものが待っていそうです」

「そのようですね」

 カイラが笑った。

「なら、私が焼く」

「焼かない」

 俺とリュシエンヌの声が重なった。

 カイラは不満そうに尾を振った。

「では、考える」

「まずそこからです」

 俺たちは王都へ向かった。

 竜娘は謝る練習を始めたばかりで、女騎士は命に代えるという言葉を使わない練習をしている。

 そして俺は、二人分の好意を背負って歩く練習をしている。

 どれも、かなり難しい。

 だが、歩けないほどではない。

 今のところは。


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