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第三章 薬師の少女は謝れない

倒れていた少女は、思ったより小さかった。

 遠目には十五、六に見えたが、近づいてみると、もう少し上かもしれない。顔立ちが幼いのは、痩せているせいだろう。肩までの栗色の髪は草と土にまみれ、頬には小さな擦り傷がある。胸元には薬草を入れるための革袋。腰には小刀。足元には籠が転がり、中から細い葉や黄色い花、乾いた根のようなものが散らばっていた。

 祠の前だった。

 石を積んだだけの小さな祠で、屋根には苔が生えている。中には人の形をした像が置かれていたが、顔は風化してよく見えない。その脇に、水を溜めた石の鉢があった。

 リュシエンヌはすぐに膝をつき、少女の首筋に指を当てた。

「息はあります」

「怪我ですか」

「目立つ外傷はありません。ですが、顔色が悪い」

 彼女は少女のまぶたをそっと上げた。灰色の目が細くなる。

「毒かもしれません」

「毒」

 異世界に来て三日目にして、魔物、騎士、薬草、毒である。ずいぶん詰め込んでくる世界だ。できれば一週間くらいは、食事と宿の確保だけで済ませてほしかった。

 少女の胸元から、濃い緑色の糸が伸びている。

 それは森の奥へ続いていた。赤角獣ノルの未練とは違う。あれは金色だった。これはもっと湿っている。雨に濡れた蔓のような色。重さはまだ俺には乗っていないが、見ているだけで背中が冷える。

「セイジ殿」

「はい」

「何か見えますか」

「緑の糸が、森の奥に伸びています」

「この子から?」

「はい」

 リュシエンヌは周囲を見回した。

「薬草採りでしょう。ひとりで森に入って、ここまで戻ってきたところで倒れたのかもしれない」

「近くに村は?」

「次の宿場村まで半刻ほどです。ただ、この祠は薬師たちがよく使います。森に入る前に水を汲み、帰りに採ったものを選り分ける場所です」

「詳しいですね」

「騎士は、道と水場を覚えます」

「なるほど」

 俺は感心した。

 この人は、ただ剣が強いだけではない。道を知っている。水を知っている。人が倒れたとき、どこを見ればいいのかも知っている。昨日から何度も思っているが、リュシエンヌは若いのに、俺よりずっと実務能力が高い。

 いや、比べる相手が悪いか。

 元総務部長代理が異世界の女騎士に実務能力で勝てるわけがない。

「水を」

 リュシエンヌが言った。

「石鉢の水を、布に含ませてください」

「はい」

 俺は慌てて祠の横へ行った。

 石鉢の水は澄んでいた。底に小さな白い石が沈んでいる。俺は借り物の上着の内側から布を取り出そうとして、ふと水面に自分の顔が映っているのに気づいた。

 そして、動きが止まった。

「……誰だ、これ」

 思わず声が出た。

 水面に映っている男は、俺だった。

 いや、俺のはずだった。

 だが、明らかに違う。

 頬が締まっている。顎の線が出ている。目元のたるみが薄い。髪には白いものがかなり減っていて、黒に近い茶色が混じっている。額の皺も浅い。鼻筋は元からこんなものだった気もするが、全体に疲れた中年から、少し無理をしている三十代後半くらいの男に戻っている。

 若返っている。

 少なくとも、そう見える。

 俺は水面に顔を近づけた。

 目は同じだ。

 そこだけは、あまり変わっていない。

 くたびれた目。

 いろいろ言い訳を覚えた目。

 なのに、顔だけが少し若い。

 これは、かなりずるい。

 異世界転移にも、福利厚生があったらしい。

「セイジ殿?」

 リュシエンヌの声がした。

「すみません」

「どうしました」

「俺、こんな顔でした?」

 リュシエンヌが一瞬、何を聞かれているのかわからない顔をした。

「顔、ですか」

「はい。俺、自分では五十を過ぎた男のつもりなんですが」

「五十?」

 リュシエンヌは本気で驚いたようだった。

「セイジ殿が?」

「はい」

「見えません」

「ですよね」

「三十を少し越えたくらいに見えます。疲れてはいますが」

「疲れてはいるんですね」

「はい」

 そこは正直だった。

 彼女は少女の額に手を当てたまま、俺を見た。灰色の目が、妙に真面目に俺の顔を観察している。

「異界から来る時に、肉体がこの世界に合わせて再構成されたのかもしれません」

「再構成」

「宮廷魔導院なら、そう説明するでしょう」

「怖い言葉ですね」

「悪い変化ではなさそうです。昨日の足首も、今朝より腫れが引いています」

「そういえば」

 俺は自分の足元を見た。

 痛みはある。

 だが、昨日よりずいぶんましだ。普通ならまだ湿布とサポーターが必要なはずなのに、歩けている。筋肉痛もあるが、思ったほどひどくない。

「回復も早いのか」

「おそらく」

「じゃあ、少しくらい無理しても」

「それは別です」

 即答だった。

「無理は傷を増やします。回復が早いからといって、傷ついてよいわけではありません」

「はい」

 俺は素直に返事をした。

 リュシエンヌは少しだけ目を伏せた。

「それに」

「それに?」

「セイジ殿が倒れると、困ります」

 その瞬間、俺の右肩に淡い青の重みが乗った。

 昨日から続く同行の約束とは別に、もう少し柔らかい重さだった。白に近い青。いや、青に近い白。名前をつけるのが難しい。

 俺は慌てて咳払いをした。

「布、濡らしますね」

「はい」

 水面の中の若返った俺が、少し赤くなったように見えた。

 気のせいだと思いたい。

 俺は布を水に浸し、少女のもとへ戻った。

 リュシエンヌは少女の首筋や手首を確かめている。少女の指先は少し黒ずんでいた。毒というより、冷えたような色だ。

「息が浅い」

「助かりますか」

「この場ではわかりません。ただ、毒なら解毒薬が必要です」

「薬師の子なのに」

「だからこそ、解毒薬を持っていないかもしれません。薬師は他人の薬を持ちます。自分のための薬は後回しにすることがある」

 嫌な言葉だった。

 他人のための薬を持ち、自分の薬を持たない。

 それはどこか、俺の知っている何かに似ていた。

 リュシエンヌは少女の革袋を開けた。中には小瓶がいくつも入っている。乾燥した葉、粉、布に包んだ根。彼女は一つずつ確認していたが、やがて首を横に振った。

「解毒薬はありません」

「村へ運びますか」

「運びます。ただ、この毒が進むなら、間に合わないかもしれない」

「何の毒ですか」

 リュシエンヌは、少女の手に握られていた小さな葉を見た。

 深い緑色で、葉脈が銀色に光っている。

「眠り蔓」

「眠り?」

「森の奥に生える蔓草です。触れただけでは毒になりませんが、花粉を吸うと体温が下がり、眠るように意識を失います。長く眠れば、そのまま戻らない」

「解毒薬は」

「月醒草の根です。ただ、眠り蔓の近くにしか生えない」

「つまり」

「この子は解毒薬を取りに行って、毒にやられた可能性があります」

 俺は少女の胸から伸びる緑の糸を見た。

 森の奥へ。

 そこに、月醒草がある。

 そしてたぶん、何か別のものもある。

「取りに戻るしかないですか」

「危険です」

「ですよね」

「ですが、必要です」

「ですよね」

 リュシエンヌは俺を見た。

「私が行きます。セイジ殿はこの子を見ていてください」

「俺が見ていて、何かできると思いますか」

「危険に巻き込まれずに済みます」

「それは魅力的ですが」

 俺は緑の糸を見た。

 少女の胸から伸びるそれは、ただの毒の痕跡ではないように思えた。もっと重い。もっと絡まっている。

「たぶん、俺も行ったほうがいい」

 リュシエンヌの眉が動いた。

「危険です」

「さっき聞きました」

「眠り蔓は、心の弱いところに入り込みます。見たいものを見せ、聞きたい声を聞かせる。剣で斬れる相手ではありません」

「なおさら、俺の出番かもしれません」

「セイジ殿」

「はい」

「ご自分を軽く扱わないでください」

 その言葉が、まっすぐ来た。

 肩ではなく、胸に。

 俺は返事に困った。

 リュシエンヌの目は真剣だった。昨日までの忠誠や同行の約束とは違う重さが、そこにある。彼女は俺を客人として守ろうとしている。それはわかる。だが、少しずつそれだけではなくなっている気もする。

 困る。

 非常に困る。

 困るが、嫌ではないところがもっと困る。

「軽く扱っているつもりはありません」

 俺は言った。

「ただ、見えるものを見なかったことにすると、あとで重くなりそうなので」

 リュシエンヌはしばらく黙っていた。

 やがて、短く頷いた。

「では、共に行きます。ただし、私の指示に従ってください」

「はい」

「危険を感じたら下がってください」

「はい」

「眠り蔓が見せるものに、返事をしないでください」

「返事?」

「亡くした者や、会いたい者の声で呼ばれることがあります。答えると、糸をかけられます」

「それは嫌ですね」

「はい」

 俺は少女を見た。

 薄い唇が、小さく動いている。

 何かを呟いている。

 耳を近づけると、かすかな声が聞こえた。

「先生……ごめんなさい……」

 先生。

 少女の胸から伸びる緑の糸が、少し震えた。

 リュシエンヌも聞こえたらしい。

「この子には、師がいたようですね」

「森の奥にいるのは、その先生ですか」

「生きているとは限りません」

「ですよね」

 俺は息を吐いた。

 また、未練だ。

 この世界は、道を歩くだけで未練にぶつかる。

 俺たちは少女を祠の影に寝かせ、外套をかけた。リュシエンヌは自分の水筒から少しずつ水を含ませ、額に濡れ布を置いた。

「時間はあまりありません」

「行きましょう」

 俺たちは緑の糸を追って森に入った。

 森は昼間なのに薄暗かった。

 木々の枝が高く絡み、光を細く切っている。足元には柔らかい苔が広がり、踏むと水が滲む。ところどころに白い小さな花が咲いていた。甘い匂いがする。いい匂いなのに、どこか危ない。

「布で口を覆ってください」

 リュシエンヌが言った。

 俺は言われるままに、首に巻いていた布を口元へ上げた。彼女も同じように覆う。

「眠り蔓の花粉は?」

「匂いが甘くなったら近いです」

「もう十分甘いです」

「なら、近いです」

「早く言ってください」

「言いました」

 リュシエンヌは相変わらず真面目だった。

 緑の糸は、森の奥へ続いている。

 その周囲に、細い灰色の糸が絡みついていた。後悔だ。少女のものだろう。だが、それだけではない。もっと古い、擦り切れた糸がある。色は薄い緑。苔の下に沈んだような色。誰かの未練が、何年もそこに残っている。

 歩くうちに、背中が重くなってきた。

 右肩のリュシエンヌの約束とは別に、背中全体に湿った荷物が乗る。まるで濡れた布団を背負っているようだった。

「セイジ殿」

 リュシエンヌが振り返った。

「顔色が悪い」

「背中に来ています」

「重みですか」

「はい。たぶん、あの子の後悔と、もう一人分」

「もう一人」

「先生、でしょうね」

 リュシエンヌの表情が険しくなった。

「無理なら戻ります」

「戻ったら、あの子が危ない」

「あなたも危ない」

「そう言われると、少し嬉しいのが困りますね」

「嬉しい?」

「いや、言葉の綾です」

 また変なことを言った。

 リュシエンヌは不思議そうに俺を見たが、追及しなかった。ありがたい。

 森の奥から、声がした。

 老人の声だった。

「エルナ」

 俺たちは足を止めた。

「聞こえましたか」

「はい」

「返事をしないでください」

「俺の名前じゃないので大丈夫です」

 リュシエンヌは剣の柄に手をかけた。

 声はまた聞こえた。

「エルナ、そっちの葉ではない。銀の葉脈を見ろと言っただろう」

 優しい声だった。

 少し呆れたような、でも笑っている声。

 少女の名はエルナというらしい。

 緑の糸が強く光る。

 俺の背中がさらに重くなった。

 見えた。

 小さな薬房。

 棚に並ぶ瓶。

 天井から吊るされた乾燥草。

 白髪まじりの老人が、少女の手元を覗き込んでいる。

 違う。

 それでは毒が強すぎる。

 薬は効けばいいものではない。

 効きすぎる薬は、毒と同じだ。

 少女がむくれる。

 わかってます。

 わかっているなら、手を止めろ。

 先生は細かすぎます。

 細かいから人が死なずに済む。

 そんな会話。

 それは温かかった。

 温かいから、重かった。

 森の奥に、小さな開けた場所があった。

 木々の間に、古い薬師小屋のようなものが半分崩れて残っている。壁は蔓に覆われ、屋根は落ちかけている。その前に、銀色の葉脈を持つ草が群れていた。根元に小さな白い花をつけている。

「月醒草」

 リュシエンヌが言った。

「これを採れば」

「待ってください」

 俺は手を上げた。

 月醒草の周りに、眠り蔓が絡んでいる。細い蔓が地面を這い、白い花粉を吐く花をつけている。見た目は美しい。だが、そこから伸びる緑の糸が、まるで罠のように空中を漂っていた。

 小屋の前に、老人が立っていた。

 いや、立っているように見えた。

 白髪の薬師。痩せた体。古い前掛け。腰には薬草鋏。

 透けている。

 亡霊、という言葉が頭に浮かんだ。

 だが、恐怖はなかった。

 むしろ、申し訳なさそうに見えた。

「セイジ殿」

 リュシエンヌが低く言った。

「何か見えていますね」

「薬師の先生らしき人が」

「私には見えません」

「でしょうね」

 老人は俺を見ていた。

 そして言った。

「エルナは来たのか」

 俺は返事をしそうになって、リュシエンヌの注意を思い出した。

 返事をしてはいけない。

 亡くした者や、会いたい者の声に答えると、糸をかけられる。

 だが、この老人は俺の亡くした者ではない。

 それでも、声は危うかった。

 返事をしたくなる声だった。

「エルナは、まだ間違える」

 老人は続けた。

「葉を見ているようで、効き目ばかり見ている。早く治したい。早く認められたい。だから強い薬を作る。強い薬は、病を叩くが、体も叩く」

 俺は黙って聞いた。

 背中が重い。

 老人の未練が、俺に乗ってきている。

 エルナの後悔と、老人の言い残し。

 二人分。

 これはきつい。

 昨日の村ひとつ分の感謝とは別種の重さだった。感謝は外から乗る。これは内側に入り込んでくる。背骨に沿って、誰かの人生が貼りつく感じがする。

 リュシエンヌが俺の肩に手を置いた。

「下がりますか」

「いいえ」

「震えています」

「年のせいです」

「見た目は若いです」

「中身はおっさんです」

「オッサン」

「元の世界の言葉で、疲れた成人男性という意味です」

「セイジ殿は疲れているのですか」

「かなり」

「では、なおさら無理は」

「でも、ここで聞かないと、この重さを持ち帰ることになります」

 リュシエンヌの手に力が入った。

 彼女から伸びる淡い青の糸が、俺の肩を支えるように広がる。

 不思議だった。

 重いはずなのに、少し楽になる。

 誰かの心は、乗れば重い。

 でも、支えにもなる。

 面倒な仕組みだ。

 老人が、小屋の中を指した。

「あの子に、薬箱を渡していない」

 俺は小屋を見た。

 崩れた棚の下に、小さな木箱がある。蔓に半分覆われていた。

「薬箱?」

 思わず声が漏れた。

 その瞬間、眠り蔓が揺れた。

 白い花粉がふわりと舞う。

 リュシエンヌが俺の前に出た。

「答えましたね」

「すみません」

「下がってください」

 眠り蔓が生き物のように伸びてきた。

 細い蔓が地面を滑り、俺たちの足元へ絡もうとする。リュシエンヌが剣を抜いた。白い刃が弧を描き、蔓を切る。切られた蔓から甘い匂いが噴き出した。

「息を止めて!」

 言われるまでもなく、俺は息を止めた。

 だが、少し吸ってしまった。

 頭がぼんやりする。

 森の景色が揺れた。

 声が聞こえた。

 今度は老人ではない。

 元の世界の声だった。

 あきつさん。

 懐かしい声。

 名前を呼ぶ声。

 もう何年も聞いていない声。

 いや、聞いてはいけない。

 俺は歯を食いしばった。

 返事をするな。

 返事をすれば、糸をかけられる。

 わかっている。

 だが、声は近かった。

 ずっと言えなかった言葉を、今なら言えるような気がした。

 あの時は、ごめん。

 いや。

 違う。

 これは眠り蔓だ。

 見たいものを見せ、聞きたい声を聞かせる。

 俺は目を閉じた。

 すると、余計に声が近くなる。

「セイジ殿!」

 リュシエンヌの声が、強く割り込んだ。

 その瞬間、右肩の青い重みがぐっと増した。

 痛いほどだった。

 だが、その痛みで目が覚めた。

 俺は咳き込んだ。

「大丈夫ですか!」

「大丈夫です。今の重さは助かりました」

「何が見えました」

「見ないほうがいいものです」

「そうですか」

 リュシエンヌはそれ以上聞かなかった。

 ありがたかった。

 彼女は蔓を切りながら、月醒草へ近づこうとしている。しかし眠り蔓は切っても切っても伸びてくる。剣で押し切るには時間がかかる。花粉が増えれば、彼女も危ない。

 俺は老人を見た。

 薬師の未練。

 薬箱。

 エルナに渡していない。

 つまり、月醒草だけではない。

「リュシエンヌさん、小屋の中の木箱です」

「木箱?」

「薬師の先生が、それを渡していないと言っています」

「月醒草は?」

「必要です。でも、たぶん調合が必要です。エルナさんだけでは迷う」

 老人が少し頷いたように見えた。

 俺は近づこうとした。

 だが、足に蔓が絡んだ。

「うわっ」

 情けない声が出た。

 蔓は細いのに、驚くほど力が強い。足首を締めつけ、膝裏へ這い上がってくる。そこから、また声が流れ込んだ。

 帰らなくていい。

 ここで眠ればいい。

 もう疲れただろう。

 誰かに期待されるのも、誰かの重さを背負うのも、全部置いて眠ればいい。

 それは、少し魅力的だった。

 恥ずかしい話だが、本当に少し魅力的だった。

 五十を過ぎると、疲れというものは心の隙間に居座る。若返った体になっても、中身に染みついた疲れは消えない。もう十分やったじゃないか。もう何かを引き受けなくてもいいじゃないか。そういう声は、元の世界でも時々聞こえていた。

 眠り蔓は、それを知っている。

 俺の背中に、エルナの後悔と老人の未練が乗っている。

 重い。

 そこへ、俺自身の疲れまで乗りそうになる。

 無理だ。

 これは無理だ。

 その時、リュシエンヌが俺の腕を掴んだ。

 強かった。

 驚くほど強かった。

「セイジ殿」

 彼女の声は、低く、近かった。

「眠らないでください」

「命令ですか」

「お願いです」

 肩の重みが変わった。

 命令ではない。

 忠誠でもない。

 願い。

 俺に眠らないでほしいという、個人的な願い。

 それは軽くはなかった。

 だが、温かかった。

 俺は目を開けた。

「わかりました」

 そう言って、蔓を掴んだ。

 緑の糸に触れる。

 冷たい。

 湿っている。

 頭の中に、エルナの声が流れ込んだ。

 先生なんかいなくてもできます。

 いつまでも子供扱いしないでください。

 私はもう、一人で薬を作れます。

 老人の声。

 なら、今日の採取は一人で行け。

 ただし、月醒草には触るな。あれはまだ早い。

 少女の怒った足音。

 扉の閉まる音。

 翌朝、老人は一人で森に入った。

 月醒草を採りに。

 エルナが作りかけていた強すぎる薬を、穏やかなものに直すために。

 そして戻らなかった。

 エルナはそれを、自分のせいだと思っている。

 老人もまた、言いすぎたと思っている。

 あの子には、任せ方を教えるべきだった。

 止めるだけではなく、間違えた後に戻る道を教えるべきだった。

 薬箱を渡していない。

 あの中に、月醒草の扱い方を書いた札がある。

 あの子なら読める。

 あの子なら、できる。

 俺は息を吐いた。

「リュシエンヌさん」

「はい」

「木箱を取ってください。月醒草も少し。根です。葉じゃなくて根」

「了解しました」

 彼女は蔓を切り払い、小屋へ踏み込んだ。

 眠り蔓が激しく動く。

 俺は緑の糸を掴んだまま、引いた。

 ほどく。

 今回も切るのではない。

 エルナの後悔と、老人の未練を、同じ場所に結び直す。

 ごめんなさい。

 言いすぎた。

 私が悪かった。

 いや、私も悪かった。

 そういう言葉は、どちらかが生きているうちに言えれば軽い。

 死んでからでは、重くなる。

 重くなりすぎて、森の蔓に絡め取られる。

 俺はその絡まりに指を入れた。

「エルナさんは、まだ薬師をやめていない」

 緑の糸が震えた。

「先生も、まだ教えるのをやめていない」

 老人の影が、こちらを見た。

 俺は続けた。

「なら、謝る前に、渡すものを渡しましょう」

 リュシエンヌが小屋から飛び出してきた。

 左腕に木箱を抱え、右手に月醒草の根を握っている。眠り蔓が彼女の外套に絡んでいた。俺は思わず手を伸ばし、その蔓の緑の糸に触れた。

「返します」

 誰に言ったのかわからない。

 エルナにか。

 老人にか。

 森にか。

 眠り蔓にか。

 俺は掴んでいた重みを、木箱へ向けて押し戻した。

 背中に乗っていた二人分の重さが、一瞬、さらに増した。

 膝が落ちる。

 目の前が暗くなる。

 リュシエンヌが俺を支えた。

 彼女の腕が背中に回る。

 近い。

 近いが、今はそれどころではない。

 俺は木箱を見た。

 蓋に、古い文字が刻まれている。

 読めないはずなのに、意味だけが胸に入ってきた。

 エルナへ。

 俺は、その文字を声に出した。

「エルナへ」

 森が静まった。

 眠り蔓の動きが止まる。

 白い花粉が、雪のように落ちていく。

 老人の影が、少しだけ笑ったように見えた。

 そして、消えた。

 完全に消えたわけではない。

 ただ、森に溶けた。

 湿った重みが、俺の背中から少しずつ剥がれていく。

 だが、全部は消えなかった。

 木箱と、月醒草と、エルナへという言葉。

 その三つが、俺の背中に残った。

「セイジ殿」

 リュシエンヌの声がした。

「立てますか」

「たぶん」

「たぶんでは困ります」

「じゃあ、少し支えてください」

「もちろんです」

 その「もちろん」が、また重かった。

 だが、今度は文句を言わなかった。

 祠に戻ると、エルナの呼吸はさらに浅くなっていた。

 リュシエンヌはすぐに木箱を開けた。中には小さな瓶、乾いた紙束、薬匙、細い金属の乳鉢、そして木札が入っていた。木札には細かい文字が刻まれている。

 俺には読めない。

 だが、エルナなら読める。

「起こせますか」

 俺が尋ねると、リュシエンヌは首を横に振った。

「意識がありません」

「でも、読ませないと」

「この状態では」

 俺はエルナの胸元から伸びる緑の糸を見た。

 まだ繋がっている。

 森ではなく、今は木箱へ。

 俺はその糸に触れた。

 冷たい。

 だが、森の中ほどではない。

「エルナさん」

 俺は言った。

「先生からです」

 少女のまぶたが震えた。

 リュシエンヌが驚いたように俺を見た。

「エルナさん。月醒草の根を採ってきました。木箱もあります。先生が、あなたなら読めると言っています」

 エルナの唇が動いた。

「……先生」

「はい」

「……また、怒ってる?」

 細い声だった。

 俺は少し迷った。

 嘘は言いたくない。

 だが、老人の顔を思い出した。

「怒ってはいないと思います」

「……嘘」

「少し呆れてはいるかもしれません」

 エルナの口元が、ほんのわずかに動いた。

 笑ったのかもしれない。

「……木札」

「あります」

「……読んで」

「俺は読めません」

「……じゃあ、見せて」

 リュシエンヌが木札をエルナの顔のそばへ持っていった。

 エルナは薄く目を開けた。

 焦点が合わない。

 だが、文字を追っている。

 薬師の目になっていた。

「……根を、削る。白い芯は、捨てる。青い皮だけ……水三杯に、皮一つ……煮立てない……火から離して……銀葉を一枚」

 リュシエンヌが素早く動いた。

 祠の近くにあった古い土器を使い、水を汲み、小さな火を起こす。俺も手伝おうとしたが、正直、邪魔だった。火加減などわからない。異世界の薬の調合などもっとわからない。

 エルナはかすかな声で指示を出した。

「違う……それは葉じゃない……裏を見る……銀の筋が三本……そう……それ」

 さっきまで死にかけていた少女が、薬のことになると急に厳しくなる。

 薬師だ。

 この子は、もう薬師なのだ。

 先生がいなくても。

 いや、先生がいたから。

 しばらくして、薄い青色の薬液ができた。

 リュシエンヌが慎重にそれを冷まし、エルナの口元へ運ぶ。エルナは少しずつ飲んだ。喉が動くたびに、緑の糸が淡くなっていく。

 俺の背中から、湿った重みが抜けていった。

 完全にではない。

 でも、背骨が少し楽になる。

 エルナは目を閉じた。

「……苦い」

「薬ですから」

 リュシエンヌが言うと、エルナは弱々しく眉を寄せた。

「先生と……同じこと言う」

 その声は、少しだけ生きている人間の声に戻っていた。

 夕方、俺たちはエルナを次の宿場村まで運んだ。

 運んだ、といっても、主にリュシエンヌが背負った。俺も交代を申し出たが、彼女に一度見られて、

「セイジ殿は荷物を持ってください」

 と言われた。

 反論できなかった。

 ただ、以前の俺なら、少女ひとり分の荷物を持って半刻歩くのもきつかっただろう。今は疲れるが、歩ける。息も上がりにくい。体は確かに変わっている。

 中身はおっさん。

 体は少し若い。

 顔も、多少は見られるようになった。

 それが嬉しくないと言えば嘘になる。

 しかし、若返ったからといって、人生の扱いがうまくなるわけではない。むしろ厄介かもしれない。若い顔に、おっさんの迷いが乗っている。これはこれで、かなり危ない組み合わせだ。

 宿場村に着くと、エルナの薬房はすぐに見つかった。

 小さな店だった。

 扉の上に乾いた薬草が束ねて吊るされ、窓辺には瓶が並んでいる。中へ入ると、森で見た記憶と同じ匂いがした。乾燥草、油、酒精、蜂蜜、古い紙。

 エルナを寝台に寝かせると、村の女たちが集まってきた。

「エルナ!」

「また無茶をして」

「先生がいないからって、一人で森へ行くなんて」

 叱られている。

 だが、誰も本気で怒ってはいなかった。

 みんな心配していたのだ。

 エルナは目を閉じたまま、小さく言った。

「……うるさい」

 その一言で、薬房の空気が緩んだ。

 村の女たちが笑い、泣き、湯を沸かし始める。

 リュシエンヌは壁際でその様子を見ていた。

 俺は薬箱を寝台の横に置いた。

 エルナの目が、それに向く。

「それ」

「先生から」

 俺は言った。

 エルナの唇が震えた。

「先生は……何か言ってた?」

 難しい質問だった。

 死者の言葉を、生者に渡す。

 これほど重い仕事はない。

 俺は少し考えてから答えた。

「薬箱を渡していない、と」

「それだけ?」

「それと、あなたなら読める、と」

 エルナの目から涙がこぼれた。

「……ひどい」

「はい」

「謝ってくれないんだ」

「たぶん、謝りたかったと思います」

「私も、謝りたかった」

「それも、知っていたと思います」

 エルナは泣いた。

 大きな声ではなかった。

 ただ、涙が止まらないという泣き方だった。

 俺の背中に残っていた二人分の重さが、ゆっくり形を変えた。

 エルナの後悔は、消えない。

 先生の未練も、完全には消えない。

 でも、薬箱を挟んで、二つの重さが向かい合った。

 一人で背負うものではなくなった。

 それだけで、ずいぶん軽くなる。

 夜、俺たちは薬房の二階に泊めてもらうことになった。

 リュシエンヌは階下で村の者たちと今後の森の扱いについて話をしていた。眠り蔓は危険だが、月醒草も必要だ。薬師が一人で入らないよう、村で採取日を決めるべきだ、と彼女は提案している。

 本当に実務能力が高い。

 異世界で総務部長をやるなら、俺より彼女のほうが向いている。

 俺は二階の小窓から外を眺めていた。

 窓硝子ではなく、磨いた薄い石のようなものがはめられている。そこに、ぼんやり自分の顔が映った。

 やはり、若い。

 三十代後半。

 せいぜい四十手前。

 少し彫りが深くなったようにも見える。元の世界の俺より、頬の陰影がはっきりしている。目元は疲れているが、その疲れが若い顔に乗ると、妙にそれらしく見える。

 困ったことに、悪くない。

 スーツが泥だらけで、借り物の旅装が似合っていないことを差し引いても、まあ、主人公として許される程度の顔ではある。

 異世界は、こういうところだけ妙にサービスがいい。

 その時、階段がきしんだ。

 リュシエンヌが上がってきた。

「セイジ殿」

「はい」

「まだ起きていましたか」

「自分の顔を見ていました」

 言ってから、しまったと思った。

 変な男である。

 リュシエンヌは小窓のほうへ来て、映った俺の顔を少し見た。

「気になりますか」

「そりゃあ、まあ。朝起きたら若返っていたようなものなので」

「セイジ殿の世界では、若返ることは珍しいのですか」

「珍しいどころか、だいたい不可能です」

「そうですか」

 彼女は俺の横顔を見た。

 その視線が少し長い。

「何か?」

「いいえ」

「今、観察しました?」

「しました」

「正直ですね」

「セイジ殿は、年を重ねたと言いますが」

「はい」

「顔だけを見ると、若い。ですが、目は若くありません」

「嫌な言い方ですね」

「悪い意味ではありません」

「どういう意味ですか」

 リュシエンヌは少し考えた。

「若い兵は、痛みを知らない顔をしています。年を取った兵は、痛みを知っている顔をしています。セイジ殿は、体は前者に近い。目は後者に近い」

「褒めています?」

「はい」

「本当に?」

「はい。私は、その目を信じています」

 右肩が重くなった。

 いや、今度は肩だけではない。

 背中にも、胸にも、淡い白の重みがふわりと広がった。

 信頼。

 好意。

 まだ名前をつけたくない何か。

 俺は反射的に窓から目を逸らした。

「そういうことを言うと、また重くなるんですが」

「重くしてしまいましたか」

「はい」

「では、言い直します」

「言い直せるんですか」

「あなたの目を信じています。ですが、あなた一人に背負わせるつもりはありません」

 少し軽くなった。

 不思議なくらい、楽になった。

 俺は笑ってしまった。

「言葉って、本当に重さが変わるんですね」

「セイジ殿が教えてくれました」

「俺は何も」

「いいえ。あなたは、忠誠を同行の約束に変えました」

 リュシエンヌはまっすぐ俺を見ていた。

「私も、変えたいのです」

「何を」

「誰かを守るということを、命に代えることではなく、共に歩くことに」

 その言葉は、軽くはなかった。

 でも、耐えられる重さだった。

 俺は頷いた。

「それなら、俺にも少しわかります」

 階下で、エルナの声がした。

 かすれているが、起き上がったらしい。

「先生の字、汚い!」

 続いて、村の女たちの笑い声。

 リュシエンヌが小さく笑った。

「元気そうですね」

「ええ」

 俺は窓の外を見た。

 夜の森の方へ、薄い緑の糸がまだ続いている。

 だが、それはもう湿った蔓ではなかった。

 薬草を干す紐のように、細く、実用的で、どこか温かい。

 エルナは、先生に謝れなかった。

 先生も、エルナに謝れなかった。

 でも、薬箱は届いた。

 薬は作られた。

 人は、謝れないままでも、次の薬を作ることができるのかもしれない。

 翌朝、薬房を出る前に、エルナが俺たちを呼び止めた。

 顔色はまだ悪いが、昨日よりずっとしっかりしている。寝台の上に座り、膝の上に薬箱を置いていた。

「セイジさん」

「はい」

「これを持っていってください」

 彼女が差し出したのは、小さな青い瓶だった。

「何ですか」

「眠気覚ましです。眠り蔓の花粉を吸った後に飲むと、頭がはっきりします。味は最悪です」

「最悪なんですか」

「先生の処方なので」

「信頼できますね」

 エルナは少し笑った。

「それと、リュシエンヌ様」

「様は不要です」

「じゃあ、リュシエンヌさん」

「はい」

「森に入るときは、薬師を連れていってください。騎士だけでは、薬草を踏みます」

 リュシエンヌは真面目に頷いた。

「覚えておきます」

「それから、セイジさん」

「はい」

「先生が、本当に私なら読めるって言ったんですか」

 俺は少しだけ考えた。

 老人の影。

 薬箱。

 エルナへ。

 あの子なら読める。

「言いました」

 エルナは目を伏せた。

「じゃあ、読みます」

「はい」

「全部。字が汚くても」

「頑張ってください」

 彼女は薬箱を抱きしめた。

 その胸から伸びる緑の糸が、俺ではなく薬箱へ向かっていた。

 よかった。

 俺の背中から、最後の重みが少し離れた。

 完全に消えたわけではない。

 でも、それはもう俺が背負うものではなかった。

 薬房を出ると、朝の空気が冷たかった。

 リュシエンヌは白い外套をまとい、剣を腰に戻している。俺は青い瓶を荷物袋に入れ、借り物の靴の紐を結び直した。

「セイジ殿」

「はい」

「今日は王都へ近づけるはずです」

「はず」

「道が平穏なら」

「その言い方は、もう信用していません」

 リュシエンヌは少し笑った。

 その笑顔に、また淡い白の重みが乗る。

 俺は右肩を押さえた。

「本当に、最近よく笑いますね」

「そうでしょうか」

「はい」

「それは、悪いことですか」

「いいえ」

 俺は答えた。

「たぶん、いいことです」

 その瞬間、彼女の背中から伸びる白い糸が、ほんの少し太くなった。

 しまった。

 また余計なことを言った。

 だが、もう言葉は戻せない。

 俺たちは街道を歩き出した。

 王都への道は、まだ続いている。

 体は少し若返った。

 足も治りかけている。

 顔も、まあ、前よりは悪くない。

 けれど、背負うものは減るどころか増えていく。

 忠誠。

 同行の約束。

 村の感謝。

 魔物の未練。

 薬師の後悔。

 師匠の言い残し。

 そして、女騎士の、まだ名前をつけないほうがよさそうな白い重み。

 若返ったくらいでは、人生は軽くならないらしい。

 街道の先で、風が変わった。

 乾いた熱を含んだ風だった。

 リュシエンヌが足を止める。

「どうしました」

「竜の匂いがします」

「竜」

 できれば、聞き間違いであってほしかった。

 だが、森の向こうの空に、金色の鱗のような光がひとつ、きらりと揺れた。

 俺の背中に、今までで一番大きな重みの予感が乗った。

「リュシエンヌさん」

「はい」

「今日は、平穏な道の予定でしたよね」

「そのはずでした」

「予定変更が多い世界ですね」

 リュシエンヌは剣の柄に手を置いた。

「行きましょう」

「やっぱりそうなりますよね」

 俺はため息をつき、青い瓶が割れないよう荷物袋を抱え直した。

 王都は、まだ遠い。

 そして今度は、竜である。

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