第二章 魔物にも未練はある
王都へ向かう道は、思っていたよりも普通だった。
いや、異世界の道に普通という言葉を使っていいのかは、まだ判断がつかない。少なくともアスファルトではない。白っぽい土を踏み固めた街道で、両側には低い石垣と畑が続いている。遠くには森があり、その向こうには青い山が重なっていた。山の形が少し尖りすぎている気もするし、空には相変わらず月が二つ浮かんでいるが、道だけを見れば、昔のヨーロッパの田舎道と言われても納得したかもしれない。
問題は、俺の足だった。
「痛い」
思わず口に出た。
リュシエンヌが隣で振り返る。
「休みますか」
「いえ、そこまででは」
「痛いと言いました」
「言いましたけど、歩けないほどではありません」
「では歩きます」
「そこはもう少し優しくても」
「痛いと言ったので、状態を確認しました。歩けるなら歩いたほうが早いです」
正論だった。
この人は、たぶん悪気なく人を鍛えるタイプだ。
借り物の革靴は硬く、足首の捻挫に容赦なく当たった。元の世界でなら、湿布を貼り、しばらく安静にして、できればタクシーで帰るところだ。ところが今の俺は、異世界の街道を女騎士と二人で歩いている。人生というのは、ある日突然、労災申請の出し先がわからない状況になるものらしい。
リュシエンヌは昨日の傷をものともせず、まっすぐ歩いていた。
左肩には包帯を巻いているはずだが、外套の下ではほとんどわからない。腰の剣が歩くたびにかすかに揺れる。白い外套の背に、白鷲騎士団の紋章が刺繍されていた。銀髪は後ろでひとつに結ばれ、朝の光を受けて淡く光っている。
絵になる。
非常に絵になる。
その隣を歩く俺は、丈の合わない旅装に、大きすぎる靴、背中にはスーツの入った袋。絵になるどころか、異世界に迷い込んだ中年の避難者である。
いや、実際そうなのだが。
「セイジ殿」
「はい」
「肩の重みは、まだありますか」
「あります」
俺は右肩を軽く回した。
リュシエンヌから俺へ伸びる淡い青の帯は、朝になっても消えていなかった。忠誠ではなく同行の約束にしてもらったはずだが、それでも十分に重い。肩に布の鞄を掛けているような感覚が続いている。
「歩くのに支障は」
「今のところは」
「重ければ言ってください。誓約を改めます」
「改めると軽くなるんですか」
「言葉を変えれば、重みは変わります」
「便利ですね」
「便利ではありません。言葉は戻せませんから」
そう言われると、急に重く聞こえた。
元の世界でも、たしかに言葉は戻せなかった。冗談のつもりだった。酒の席だった。そんなに深い意味はなかった。そう言っても、相手の中に残った言葉は消えない。
この世界では、それが物理的に重くなる。
面倒だ。
でも、わかりやすい。
「セイジ殿の世界では、誓約は軽いのですか」
「軽いものもあります。重いものもあります。でも、重くても見えないので、つい軽く扱います」
「見えない重みですか」
「はい。そっちのほうが厄介かもしれません」
リュシエンヌは少し考え込むように目を伏せた。
彼女の横顔を見ながら、俺は昨日のことを思い出していた。
灰角狼。
第三槍隊。
生き残った副長。
忠誠の重さ。
そして、王都。
宮廷魔導院に行けば、俺が元の世界へ帰る手がかりがあるかもしれないという。正直なところ、期待していいのかどうかわからない。だが他に行くあてもない以上、歩くしかなかった。
道の先に、低い煙が見えた。
「あれは?」
「ミルヴァ村です」
「今日の宿ですか」
「その予定でした」
「でした?」
嫌な言い方だった。
リュシエンヌは足を止めた。
俺もつられて止まる。
彼女は目を細め、村のほうを見た。俺には、畑と屋根と煙しか見えない。だが、彼女には何か異変がわかるらしい。
「煙が多い」
「火事ですか」
「火事なら、もっと黒い煙になります。これは炊煙です。ただ、数が多い。村中が昼前から火を焚いている」
「祭りとか」
「この時期に祭りはありません」
リュシエンヌの手が剣の柄に触れた。
その瞬間、俺の右肩が少し重くなった。
「今、何か決意しました?」
「警戒しただけです」
「警戒でも重くなるんですね」
「あなたを守る約束ですので」
「なるほど。できれば、守る前から押し潰さないでください」
彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。
その顔が少し可笑しくて、俺は苦笑した。
だが、村に近づくにつれ、笑っていられなくなった。
畑の一部が踏み荒らされていた。
麦のような作物が広い範囲で倒れ、地面には大きな蹄の跡が残っている。馬ではない。牛でもない。俺の両手を広げたくらいの大きさがある。畑の端には壊れた荷車が横倒しになり、車輪がひしゃげていた。
村の入口には、木の柵が急ごしらえで組まれていた。尖らせた杭を並べ、隙間には古い樽や家具が詰め込まれている。柵の内側では、男たちが槍や鍬を持ち、女たちが水桶や布を運んでいた。子供の姿は見えない。
兵士ではない。
村人が、自分たちで守ろうとしている。
俺たちに気づいた男が声を上げた。
「騎士だ!」
その一声で、村の空気が変わった。
何人もの村人が駆け寄ってくる。リュシエンヌの白い外套を見て、彼らは一斉に頭を下げた。
「白鷲の騎士様!」
「助かった!」
「どうか、どうか村をお救いください!」
その瞬間だった。
俺の視界に、色が増えた。
村人たちの胸や背中から、細い糸のようなものが何本も伸びている。黄色、灰色、青、赤。昨日より見え方がはっきりしていた。恐怖は黒っぽく、願いは薄い金色に近い。怒りは赤い。後悔は灰色。俺には、なぜかそれがわかった。
そして、それらの多くがリュシエンヌに向かって伸びた。
助けてほしい。
守ってほしい。
なんとかしてほしい。
その願いの糸が、彼女の白い外套に絡みつく。
リュシエンヌの背が、ほんのわずかに沈んだように見えた。
彼女は慣れているのだろう。表情は変えなかった。だが、俺には見えた。人々の願いが、彼女に乗る瞬間が。
騎士という職業は、想像以上に重労働だ。
「状況を話してください」
リュシエンヌの声は落ち着いていた。
村人たちは一斉に話し始めた。
「赤角獣です」
「三日前から毎晩、畑を荒らして」
「昨夜は納屋を壊されました」
「もう食べるものが」
「子供たちは教会に隠しています」
「弓も槍も効きません」
「人を食うんですか?」
俺が思わず口を挟むと、村人たちは一瞬だけ黙った。
互いに顔を見合わせる。
それから、年配の男が答えた。村長らしい。
「まだ、食われてはおりません」
「まだ?」
「怪我人は出ています。だが、殺された者はいない」
「それは不幸中の幸いですね」
俺がそう言うと、何人かの村人が気まずそうに目を逸らした。
リュシエンヌもそれに気づいたらしい。
「赤角獣は何を狙っています」
「畑です。納屋です。あと、村の古い厩舎を」
「厩舎?」
「今は使っておりません。壊れかけで」
村長の声が少し硬くなった。
その胸元から、灰色の糸が伸びている。
後悔。
何かを隠している。
俺は村の奥を見た。
柵の向こうに、古い木造の建物がある。屋根は半分落ちかけ、壁板も歪んでいる。使われていないのは本当らしい。だが、その建物から、空へ向かって赤い糸が立ち上っていた。
昨日、道の先で見えた赤い糸。
怒り。
いや、それだけではない。
赤の下に、くすんだ金色が混じっている。
俺はリュシエンヌに小声で言った。
「あの厩舎から、何か見えます」
「重みですか」
「赤い糸と、少し金色のものが」
「赤は怒り?」
「たぶん」
「金は」
「まだ、よくわかりません」
リュシエンヌは村長へ向き直った。
「あの厩舎について話してください」
村長の顔が強張った。
「古い建物です。昔、荷獣を飼っておりました」
「それだけですか」
「はい」
嘘だ。
と、俺でもわかった。
見える糸が、急に灰色を濃くしたからだ。
リュシエンヌは一歩前に出た。
「村長。魔物を退けるには、正確な情報が必要です。隠し事は人を死なせます」
「隠してなど」
そのとき、柵の内側から若い女の声がした。
「ノルです」
村人たちが振り返った。
教会の方から、一人の娘が歩いてきた。
十七、八だろうか。栗色の髪を布でまとめ、腕には包帯を巻いている。パン屋か粉屋の娘のような、白い粉のついた前掛けをしていた。頬は青ざめているが、目だけが妙に強かった。
「マリカ、下がっていなさい」
村長が叱るように言った。
娘は首を振った。
「赤角獣は、ノルです」
「黙れ」
「騎士様に嘘をついても、どうにもならない」
マリカと呼ばれた娘の胸から、まっすぐ金色の糸が伸びていた。
それは、古い厩舎へ向かっている。
そして厩舎から伸びる赤い糸と、どこかで絡まっていた。
「ノルとは?」
リュシエンヌが尋ねた。
マリカは唇を噛んだ。
「昔、うちで飼っていた角仔です。荷を引く魔獣の子で、母を亡くして、森で拾われました。小さくて、弱くて、私が育てました」
「それが赤角獣に?」
「四年前、赤い雨が降りました」
リュシエンヌの表情が変わった。
「魔素雨ですか」
「はい。そのあと、ノルの角が赤くなって、体が大きくなって、夜になると暴れるようになりました。父が怪我をして、村の人たちは、ノルを森へ追いました」
「討たなかったのですか」
村長が苦々しく言った。
「討とうとしました。だが、殺せなかった。矢も槍も通らず、逆に何人も怪我をした。あれはもう、荷獣ではありません。魔物です」
「でも、人を殺してはいません」
マリカが言った。
「ノルは人を殺していない」
「お前の父は、あれのせいで片足を悪くした」
「それでも殺していない」
「黙れ!」
村長の怒鳴り声に、マリカは肩を震わせた。
だが、下がらなかった。
俺はそのやり取りを見ながら、胸の奥が少しざわついていた。
魔物。
かつて飼われていた獣。
人を殺してはいない。
厩舎に執着している。
村人たちは恐れている。だが、その恐怖の下に、灰色の後悔がいくつも見える。
これは、単純な魔物退治ではない。
たぶん。
「赤角獣は今夜も来ますか」
リュシエンヌが尋ねた。
村長は頷いた。
「日が沈むころに。必ず」
「村人を教会へ。柵は補強してください。弓を使える者は屋根の上へ。ただし、私が命じるまで射ないこと」
「騎士様、お一人で戦われるのですか」
「いいえ」
リュシエンヌは俺を見た。
「セイジ殿が、重みを見ます」
村人たちの視線が、一斉に俺へ向いた。
やめてほしい。
そんな期待に満ちた目で見ないでほしい。
俺は昨日まで、OB会の帰りにホームで電車を待っていた中年男なのだ。魔物退治の専門家ではない。むしろ町内会の防災訓練でも、消火器の使い方を一度聞いただけで忘れるタイプである。
「いや、見えるだけで、何ができるかは」
「昨日、灰角狼の支配を解きました」
「あれは偶然で」
「偶然でも、できたことです」
リュシエンヌはまっすぐ俺を見ていた。
その目が、困るくらい信じている。
肩が重くなった。
「今、信頼しました?」
「はい」
「しないでください」
「無理です」
「無理なんですか」
「昨日、あなたが私に言いました。後悔にするのは早いと。だから、今は信じることにしました」
そう言われると、逃げ場がない。
自分の言葉が戻ってきた。
言葉は戻せない。
この世界の仕組みは、なかなか嫌らしい。
夕方まで、村は慌ただしく動いた。
リュシエンヌは驚くほど手際よく指示を出した。柵の弱い場所を見つけ、村人の配置を決め、油の入った壺を安全な位置に移し、子供や老人を教会に集めさせた。左肩を怪我している人間の動きではない。
俺はといえば、ほとんど役に立たなかった。
せいぜい杭を運ぼうとして腰を言わせかけ、マリカに止められたくらいだ。
「無理をしないでください」
マリカはそう言って、俺の手から杭を取り上げた。
「すみません」
「異界の方なんですよね」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ自分でも納得しきれていなくて」
マリカは少し笑った。
笑うと、年相応に見えた。
「セイジ様は、ノルを殺しますか」
急にそう聞かれた。
「様はやめてください。落ち着かないので」
「では、セイジさん」
「それでお願いします」
「ノルを殺しますか」
俺は答えに詰まった。
「俺は、殺せるほど強くありません」
「でも、騎士様は強いです」
「リュシエンヌさんは、村を守るためなら戦います」
「そうですよね」
マリカは厩舎の方を見た。
古い建物の入口には、色褪せた赤い布が結ばれていた。風に揺れている。あれから金色の糸が伸びているように見えた。
「あの布は?」
「私が結びました。ノルが小さかったころ、よく道に迷ったんです。だから、厩舎の入口に赤い布を結んで、ここが家だよって教えました」
「今も残しているんですね」
「外せませんでした」
マリカの胸の糸が、少しだけ重くなる。
「村の人は、外せと言いました。でも、外したら、ノルが本当に帰る場所をなくす気がして」
「ノルは、それを見に来ている?」
「わかりません。でも、毎晩あの厩舎の前で暴れます。壁を壊して、中を嗅いで、それから畑を荒らして森に戻る」
「人を追いかけることは?」
「近づけば襲われます。でも、逃げる人を追いかけて殺したことはありません」
俺は赤い布を見た。
金色の糸。
未練。
たぶん、そうだ。
怒りよりも下にあるもの。
帰りたいという重さ。
帰れなかったものの重さ。
「セイジさん」
「はい」
「ノルは、まだノルですか」
それは、難しい質問だった。
俺は魔獣の専門家ではない。動物の専門家でもない。人間についてだって、よくわかっていない。まして、魔素雨で変異した荷獣が、同じ存在かどうかなど答えられるはずがない。
でも、見えるものはある。
「まだ、何かを覚えていると思います」
マリカは唇を震わせた。
「それだけでも、よかったです」
日が傾き始めた。
村の空気が、急に硬くなる。
子供たちは教会に入れられ、扉に太い梁がかけられた。屋根の上には弓を持った男たちが伏せる。柵の内側では、槍を持った村人たちが並んだ。誰もが怖がっていた。恐怖の黒い糸が、村全体を薄く包んでいる。
リュシエンヌは村の入口に立っていた。
剣を抜いてはいない。
だが、いつでも抜ける姿勢だった。
「セイジ殿は私の後ろに」
「はい」
「危険を感じたら逃げてください」
「逃げ足にはあまり自信が」
「では、転ばないように」
「目標が低い」
「生存は高い目標です」
それはそうだった。
俺はリュシエンヌの斜め後ろに立った。右肩には彼女の約束の重みがある。村人たちの期待も、少しずつこちらに絡んでくる。できれば、全員に一度期待を取り下げてもらいたい。中年の肩は、そんなに丈夫ではない。
森の方から、低い音がした。
地鳴り。
最初はそう思った。
だが違った。
足音だ。
一歩ごとに、地面が震える。
鳥が一斉に飛び立つ。
村人の誰かが息を呑んだ。
森の陰から、それは現れた。
赤角獣。
牛に似ていた。
だが牛ではない。
肩までの高さは人の二倍近い。体は黒褐色の剛毛に覆われ、背中には岩のような瘤がいくつも盛り上がっている。額から伸びる二本の角は、燃える炭のように赤く光っていた。目は濁った金色。口元からは白い息が漏れ、蹄が地面を踏むたびに土が割れる。
怖い。
単純に怖い。
昨日の灰角狼も怖かったが、これはまた別の怖さだ。狼は殺意の塊だった。こいつは、もっと重い。山が歩いてくるような圧迫感がある。
赤角獣が鼻を鳴らした。
その体から、赤い糸が何本も噴き上がっている。
怒り。
痛み。
混乱。
そして、その奥に、金色の太い糸が一本あった。
それはまっすぐ、古い厩舎の入口に結ばれた赤い布へ伸びていた。
「見えますか」
リュシエンヌが小さく言った。
「見えます」
「どうです」
「怒っています。でも、それだけじゃない」
「斬りますか」
その声は静かだった。
村を守るためなら斬る。
彼女はそういう人だ。
俺は赤角獣を見た。
化け物だ。
危険だ。
村を壊している。
このまま放っておけば、いつか死人が出る。
斬る理由はいくらでもある。
だが、金色の糸が見えた。
帰りたい。
そう言っているように見えた。
「待ってください」
俺は言った。
「まだ」
赤角獣が前脚で地面を掻いた。
柵の内側で村人が槍を構える。
屋根の上の弓兵が弦を引く。
リュシエンヌが手を上げた。
「まだ射るな!」
赤角獣が突進した。
柵にぶつかる。
木が砕けた。
ものすごい音だった。杭が折れ、樽が吹き飛び、村人たちが悲鳴を上げて後退する。リュシエンヌが前に出た。剣が抜かれる。白い刃が夕日を受けて光った。
彼女は赤角獣の正面に立たない。
横へ滑る。
蹄を避け、首の動きを読み、角の軌道から外れる。傷ついた肩を庇いながら、それでも信じられないほど正確に動いていた。
赤角獣の角が彼女の外套をかすめる。
布が裂ける。
俺の肩が重くなった。
彼女の覚悟が乗る。
やめてくれ。
こっちの腰まで砕ける。
「セイジ殿!」
リュシエンヌが叫んだ。
「見るなら今です!」
見るなら今。
簡単に言ってくれる。
俺は息を吸い込んだ。
赤角獣から伸びる赤い糸を見る。
太く、熱い。
触れたくない。
だが、その奥にある金色の糸は、もっと深く、もっと古い。
俺は柵の壊れた隙間から一歩前に出た。
「セイジさん!」
マリカの声が聞こえた。
赤角獣が俺に気づいた。
濁った金色の目がこちらを向く。
足がすくむ。
当たり前だ。
五十を過ぎてから、巨大な魔獣に睨まれる予定は人生設計に入っていなかった。
俺は右手を伸ばした。
赤い糸に触れる。
熱かった。
焼けるようだった。
頭の中に、音が流れ込む。
雨。
赤い雨。
皮膚が裂ける痛み。
角が燃える痛み。
人間たちの叫び声。
槍。
石。
火。
怖い。
痛い。
なぜ。
なぜ。
厩舎の扉が閉まる。
中に入れてもらえない。
赤い布が揺れている。
家だ。
そこが家だ。
でも、誰も呼ばない。
誰も名前を呼ばない。
俺は膝をつきそうになった。
赤角獣が吠える。
いや、鳴いた。
それは怒号ではなく、ひどく歪んだ呼び声のようだった。
「ノル」
俺は言った。
赤角獣の動きが止まった。
村人たちがざわめく。
リュシエンヌも剣を構えたまま、わずかに目を見開いた。
「ノル」
もう一度呼んだ。
赤角獣の赤い角が、じりじりと光を弱める。
だが、すぐにまた赤く燃え上がった。
痛みが強すぎる。
怒りが深すぎる。
名前だけでは足りない。
「マリカさん」
俺は振り返らずに言った。
「呼んでください」
「え」
「あなたが呼ばないと、たぶん届かない」
「無理です」
マリカの声が震えていた。
「近づいたら、また暴れます」
「近づかなくていい。名前を呼んでください」
「でも」
「お願いします」
沈黙。
赤角獣が前脚を踏み鳴らす。
リュシエンヌが俺と獣の間に半歩入る。
その背中が頼もしい。
そして、重い。
マリカが、柵の内側で息を吸い込む気配がした。
「ノル」
小さな声だった。
赤角獣が首を上げた。
「ノル、私よ」
その瞬間、金色の糸が強く光った。
俺の視界いっぱいに、昔の景色が広がった。
小さな角仔。
雨の日の厩舎。
藁の匂い。
少女の手。
硬いパン。
甘いリンゴ。
赤い布。
ここが家だよ、と笑う声。
ノル。
ノル。
いい子ね。
荷車を引けるようになった日。
村の子供たちが背中に乗って笑う。
畑から帰る夕暮れ。
鐘の音。
厩舎の灯り。
帰る場所。
帰る場所。
帰る場所。
俺は歯を食いしばった。
これは、魔物の記憶だ。
だが、魔物だけの記憶ではない。
人間が与えたものだ。
名前。
家。
帰っていい場所。
そして、それを取り上げた。
赤角獣が低く鳴いた。
マリカが泣きながら叫んだ。
「ごめんね、ノル!」
村人たちが息を呑む。
「怖かったの! あの日、あなたが変わって、怖くて、呼べなかった! 扉を開けられなかった! ごめんね!」
赤い糸が激しく揺れた。
怒りが暴れる。
魔物の体が震える。
角が再び燃え上がる。
リュシエンヌが剣を構え直した。
「セイジ殿、下がってください。抑えきれない」
「まだです」
「危険です」
「わかってます」
「わかっている人の位置ではありません」
「それは本当にそう」
俺は赤角獣へ近づいた。
一歩。
また一歩。
巨大な鼻先から熱い息がかかる。
怖い。
正直に言えば、泣きたいくらい怖い。
でも、赤い糸の奥の金色が、まだ消えていない。
未練。
帰りたい。
名前を呼ばれたい。
ただ、それだけの重さ。
「ノル」
俺は手を伸ばした。
今度は赤い糸ではなく、金色の糸に触れた。
熱くはなかった。
重かった。
子供を背負ったような重さ。
家財道具を運ぶような重さ。
何年も帰れなかった荷物を、ようやく降ろす前の重さ。
その重さが、俺の腕に乗った瞬間、胸の奥が苦しくなった。
見えた。
赤い雨の夜。
厩舎の扉の前に立つノル。
体は変わり、角は燃え、口からは白い息が漏れている。
村人たちが叫ぶ。
石が飛ぶ。
槍が突き出される。
マリカが扉の隙間から見ている。
ノルは、彼女を見ている。
呼んでほしい。
ノル、と。
でも彼女は声を出せない。
扉が閉まる。
赤い布だけが揺れている。
そこで、記憶は何度も繰り返されていた。
魔物になった獣は、同じ夜から出られずにいる。
四年も。
俺は息を吐いた。
「マリカさん」
「はい」
「赤い布を」
マリカは戸惑った。
「あれを、外すんですか」
「外すんじゃない。持ってきてください」
村長が叫んだ。
「危険だ!」
リュシエンヌがすぐに言った。
「私が守ります」
その一言で、村長は黙った。
マリカが走る。
古い厩舎の入口へ向かう。
赤角獣が動きかける。
リュシエンヌがその前に立った。
「待て」
彼女の声は、静かだった。
命令ではなく、願いに近かった。
赤角獣は彼女を見た。
俺には見えた。
リュシエンヌからも、薄い青い糸が赤角獣へ伸びている。
守る。
村だけではない。
今この瞬間は、魔物も守ろうとしている。
その重さに、俺の肩がまた沈んだ。
「本当に重いな、この人は」
思わず呟いた。
マリカが赤い布をほどいた。
古い布は色褪せ、端がほつれていた。
彼女はそれを胸に抱いて戻ってくる。
赤角獣は動かない。
ただ、体を震わせている。
マリカは柵の壊れたところまで来て、立ち止まった。
「ノル」
彼女は赤い布を両手で差し出した。
「帰ってきて」
その言葉が正しいのか、俺にはわからなかった。
帰ってきていいのか。
もう厩舎に入れる大きさではない。村で暮らせる体でもない。人間が恐れなくなるわけでもない。昔には戻れない。
でも、呼ばれた。
名前を呼ばれた。
帰ってきて、と言われた。
それだけで、金色の糸がほどけ始めた。
赤角獣が一歩、前に出た。
村人たちが後退する。
マリカは逃げなかった。
俺は金色の糸を両手で掴んだ。
ほどく。
切るのではない。
消すのでもない。
厩舎に縛りつけられていた重みを、マリカの手に返す。
ノルの中に残っていた「帰れなかった夜」を、過去にする。
今に居座らせない。
「ノル」
マリカが泣きながら言った。
「ありがとう」
赤角獣の角の光が、すっと弱まった。
燃えるような赤が、暗い琥珀色に変わる。
巨大な体が、ゆっくり膝を折った。
地面が揺れる。
リュシエンヌが剣を下ろした。
村人たちは誰も動けなかった。
赤角獣は、マリカの差し出した赤い布に鼻先を近づけた。
布を嗅ぐ。
それから、低く、低く鳴いた。
もう吠え声ではなかった。
牛の声にも似ていた。
ただ、少し哀しかった。
マリカが布をその角に結び直した。
大きくなりすぎた角の根元に、色褪せた赤い布が揺れる。
それは滑稽なくらい小さかった。
だが、たしかに目印だった。
「ここが家だよ」
マリカが言った。
「でも、森に帰って。あなたが生きられる場所へ」
赤角獣は目を閉じた。
金色の糸が、すっと軽くなる。
消えたのではない。
細くなった。
持てる重さになった。
それはマリカの胸と、ノルの角の赤い布の間で、静かに揺れていた。
赤角獣は立ち上がった。
村人たちが身構える。
しかし、もう突進しなかった。
壊れた柵をまたぎ、ゆっくり森へ向かう。
途中で一度だけ振り返った。
マリカが手を振った。
赤い布が、夕暮れの風に揺れた。
ノルは森へ消えた。
誰も、しばらく声を出さなかった。
最初に膝をついたのは、マリカだった。
次に村長が崩れるように座り込んだ。
それから、村中が息を吹き返したように騒ぎ出した。
「助かった」
「本当に退いた」
「騎士様!」
「異界の方だ」
「奇跡だ」
やめてほしい。
そういう言葉は、本当に肩に乗る。
案の定、村人たちの金色の糸が一斉にこちらへ伸びた。
感謝。
敬意。
畏れ。
ちょっと待て。
多い。
多すぎる。
「ぐっ」
俺はよろけた。
リュシエンヌがすぐに支えてくれた。
「大丈夫ですか」
「村一つ分の感謝は重いです」
「それは、そうでしょう」
「そうでしょう、じゃなくて」
彼女は少し笑っていた。
昨日よりも、笑う頻度が増えている気がする。
悪くない。
いや、悪くないが、笑われると別の意味で肩が重くなるから困る。
村長が俺たちの前に来た。
彼は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「え?」
「我々は、赤角獣を魔物とだけ呼びました。ノルの名を、口にしなかった」
村長の胸から、灰色の糸が伸びていた。
それは厩舎の方へ向かっている。
「怖かったのです。あの夜、我々は扉を閉めた。あれがもうノルではないと言い聞かせた。そうしなければ、殺そうとした自分たちを許せなかった」
俺は何も言えなかった。
村長は続けた。
「だが、名を奪えば、未練まで消えるわけではなかったのですね」
「たぶん」
俺は言った。
「呼ばなかった名前ほど、重くなるんだと思います」
自分で言って、少し胸が痛んだ。
元の世界にも、呼ばなかった名前がある。
言わなかった言葉がある。
返さなかった手紙がある。
人間というのは、異世界に来ても、面倒なものを持ち歩く。
村長はもう一度頭を下げた。
「今夜は、村にお泊まりください。十分なもてなしはできませんが」
「ありがたいです。正直、もう歩けません」
俺が言うと、村人たちの何人かが笑った。
空気が緩む。
その緩みが、少しだけ村全体の重さを軽くしたように見えた。
夜、俺たちは村長の家に泊めてもらうことになった。
食卓には、焼いたパン、豆のスープ、山羊のチーズ、干し肉、それに焼きリンゴのようなものが並んだ。贅沢ではないのだろうが、村にとっては精いっぱいのもてなしだとわかった。
リュシエンヌは最初、遠慮していた。
「私は任務中です」
と言ったが、村長の妻に、
「任務中でも食べなければ倒れます」
と一蹴された。
強い。
この世界の母親世代は、騎士より強いかもしれない。
マリカは、焼きリンゴを俺の前に置いた。
「ノルの好物でした」
「俺が食べていいんですか」
「はい。今日は、食べてほしいです」
俺は一口食べた。
甘酸っぱくて、少し焦げていた。
うまかった。
「ノルも、これが好きだったんですね」
「はい」
マリカは泣き笑いのような顔をした。
「小さい頃は、これを見せるだけで厩舎から飛び出してきました」
「大きくなってから飛び出されたら大変ですね」
「本当に」
彼女は笑った。
その笑いには、まだ悲しみが混じっていた。
でも、軽くなっていた。
食事が終わるころ、リュシエンヌが静かに言った。
「セイジ殿」
「はい」
「今日、あなたは魔物を退けました」
「マリカさんが呼んだからです」
「それでも、あなたが見なければ、私たちは斬っていました」
「斬るしかない場面もあると思います」
「はい」
彼女は目を伏せた。
「だからこそ、斬らずに済む場面を見逃したくありません」
その言葉が、また重くなって俺の肩に乗った。
「リュシエンヌさん」
「はい」
「あなた、いいことを言うたびに重くなるんですよ」
「申し訳ありません」
「謝られると、それも重いです」
「では、謝りません」
「それはそれで強い」
彼女は少し首を傾げた。
冗談がどこまで通じているのかわからない。
だが、ほんのわずかに口元が緩んだので、たぶん少しは通じている。
その夜、俺は村長の家の客間で横になった。
藁を詰めた寝台は硬かったが、砦の寝台よりは少し柔らかい。窓の外では虫が鳴いている。二つの月の光が、床に四角く落ちていた。
右肩は、今日も重かった。
リュシエンヌの同行の約束。
村人たちの感謝。
マリカの祈り。
ノルの未練の残り香。
見えるようになったせいで、世界はずいぶん騒がしい。
だが、悪いことばかりではない。
今日、俺は一つ知った。
重みは、消すだけが救いではない。
返すことができる。
持てる形に変えることができる。
人の心も、魔物の心も、たぶん同じだ。
いや、同じと言い切るのは乱暴かもしれない。
でも、魔物にも未練はあった。
人間への未練が。
名前を呼ばれたいという、あまりにも人間くさい重みが。
俺は寝返りを打とうとして、右肩の重さに顔をしかめた。
「軽くならないかな、これ」
小さく呟いた。
そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「セイジ殿」
リュシエンヌの声だった。
「どうぞ」
扉が開く。
彼女は外套を羽織ったまま入ってきた。月明かりで銀髪が青く見える。
「眠っていましたか」
「いえ、考え事を」
「では、少しだけ」
「はい」
リュシエンヌは部屋の中に入ると、なぜか少し迷ってから、寝台から離れた椅子に座った。
距離を取ってくれるのはありがたい。
異世界の女騎士は距離感が近いのか遠いのか、まだよくわからない。
「今日のことで、団長に報告を書く必要があります」
「報告書ですか」
「はい」
「異世界にも報告書があるんですね」
「あります」
「そこは異世界らしくなくて残念です」
「報告がなければ、次に同じことが起きたとき困ります」
「正論ですね」
リュシエンヌは真面目だった。
ひどく真面目だった。
「セイジ殿の力について、書いてもよいですか」
「書かないとまずいですよね」
「はい。ただし、詳しく書きすぎれば、王都であなたを利用しようとする者が出るかもしれません」
「やっぱり出ますか」
「出ます」
即答だった。
俺はため息をついた。
「便利な人間は、どこの世界でも便利に使われるんですね」
「セイジ殿の世界でも?」
「ええ。よくあります。便利な人間ほど、断るのが下手だったりします」
「あなたも?」
「まあ、そこそこ」
リュシエンヌはしばらく俺を見ていた。
「では、私が断ります」
「え」
「あなたが断れない時は、私が断ります」
右肩が、ずしりと重くなった。
「今の、かなり重いです」
「そうですか」
「でも、助かります」
リュシエンヌは少しだけ嬉しそうに見えた。
その表情を見た瞬間、俺はしまったと思った。
助かります、も重くなる。
案の定、淡い青の帯がほんの少し太くなった。
言葉は戻せない。
まったく、この世界は面倒だ。
「ただし」
俺は慌てて付け加えた。
「命に代えて断るのはやめてください」
「努力します」
「それ、また代える人の返事です」
「難しいですね」
「命は軽めに扱わないでください」
リュシエンヌは少し考え、それから静かに頷いた。
「わかりました。あなたの前では、命に代えるという言葉を軽く使いません」
青い帯が、今度は軽くなった。
ほんの少し。
だが、確かに肩が楽になった。
「今、軽くなりました」
「言葉を変えたからでしょうか」
「たぶん」
「では、覚えておきます」
彼女はそう言って立ち上がった。
扉へ向かう途中で、ふと足を止める。
「セイジ殿」
「はい」
「ノルは、救われたのでしょうか」
俺はすぐには答えられなかった。
救われた。
そんな簡単な言葉を使っていいのか、わからない。
ノルは村には戻れない。
魔素で変わった体も元には戻らない。
マリカも、四年前の少女には戻れない。
壊れた畑も、すぐには戻らない。
でも。
「救われたかどうかは、ノルにしかわからないと思います」
「はい」
「でも、名前は戻りました」
リュシエンヌは静かに頷いた。
「それは、大きいですね」
「ええ」
彼女は扉を開けた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
扉が閉まる。
俺はしばらく天井を見ていた。
名前は戻った。
それだけでいいのかもしれない。
少なくとも、今日のところは。
翌朝、村を出るとき、マリカが小さな包みをくれた。
中には焼きリンゴと硬いパンが入っていた。
「道中で食べてください」
「ありがとうございます」
「ノルが森に戻る前、丘の上にいました」
「見たんですか」
「はい。赤い布が見えました。もう、村のほうへは来ませんでした」
「そうですか」
マリカは少し迷ってから言った。
「セイジさん。ノルの未練は、消えたんでしょうか」
「たぶん、消えてはいません」
彼女の表情が少し曇る。
俺は続けた。
「でも、暴れなくても持っていられる形になったんだと思います」
「持っていられる形」
「はい。人間も、たぶんそうです」
マリカは包みを握る手に力を込めた。
「私も、持っていきます」
「はい」
俺は頷いた。
マリカから伸びる金色の糸は、森の方へ細く続いていた。
重そうではある。
でも、昨日ほど苦しそうではない。
俺たちは村を後にした。
リュシエンヌは黙って歩いていた。
俺も、しばらく黙っていた。
畑の向こうに森が見える。
あの森のどこかに、赤い布を角に結んだ大きな獣がいるのだろう。もう魔物と呼んでいいのか、ノルと呼ぶべきなのか、俺にはわからない。
だが少なくとも、あれはただの討伐対象ではなかった。
「セイジ殿」
リュシエンヌが言った。
「はい」
「王都に着く前に、もう一つ村を通ります」
「そこも何かありますか」
「普通なら、宿を借りるだけです」
「普通なら」
「はい」
「その言い方、昨日も聞きました」
リュシエンヌは少しだけ視線を逸らした。
「道を選び直しますか」
「遠回りですか」
「はい」
「遠回りの先にも何かいるんでしょう」
「いるかもしれません」
「じゃあ、同じですね」
俺はため息をついた。
「行きましょう」
リュシエンヌが俺を見た。
その目に、また少し信頼が増えた気がした。
肩が重くなる前に、俺は言った。
「ただし、今日はできれば、戦わない方向で」
「努力します」
「その返事は信用できないんですよ」
リュシエンヌが笑った。
今度は、はっきり笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺の右肩にふわりと新しい重みが乗った。
青ではない。
淡い白に近い色だった。
俺は思わず足を止めた。
「どうしました」
「いえ」
「何か見えましたか」
「見えましたけど、今は知らないことにします」
「なぜです」
「知ると、余計に重くなりそうなので」
リュシエンヌは不思議そうに首を傾げた。
俺は歩き出した。
王都への道は、まだ遠い。
そしてこの世界は、見えるものが多すぎる。
その日の昼過ぎ、街道の先に小さな祠が見えた。
祠の前に、一人の少女が倒れていた。
草の上に薬草籠が転がり、中身が散らばっている。
少女の胸からは、濃い緑の糸が伸びていた。
それは森の奥へ向かっている。
リュシエンヌが剣の柄に手を置く。
「セイジ殿」
「はい」
「普通の道ではなさそうです」
「でしょうね」
俺は右肩の重さを感じながら、倒れている少女へ向かって歩き出した。




