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第二章 魔物にも未練はある

王都へ向かう道は、思っていたよりも普通だった。

 いや、異世界の道に普通という言葉を使っていいのかは、まだ判断がつかない。少なくともアスファルトではない。白っぽい土を踏み固めた街道で、両側には低い石垣と畑が続いている。遠くには森があり、その向こうには青い山が重なっていた。山の形が少し尖りすぎている気もするし、空には相変わらず月が二つ浮かんでいるが、道だけを見れば、昔のヨーロッパの田舎道と言われても納得したかもしれない。

 問題は、俺の足だった。

「痛い」

 思わず口に出た。

 リュシエンヌが隣で振り返る。

「休みますか」

「いえ、そこまででは」

「痛いと言いました」

「言いましたけど、歩けないほどではありません」

「では歩きます」

「そこはもう少し優しくても」

「痛いと言ったので、状態を確認しました。歩けるなら歩いたほうが早いです」

 正論だった。

 この人は、たぶん悪気なく人を鍛えるタイプだ。

 借り物の革靴は硬く、足首の捻挫に容赦なく当たった。元の世界でなら、湿布を貼り、しばらく安静にして、できればタクシーで帰るところだ。ところが今の俺は、異世界の街道を女騎士と二人で歩いている。人生というのは、ある日突然、労災申請の出し先がわからない状況になるものらしい。

 リュシエンヌは昨日の傷をものともせず、まっすぐ歩いていた。

 左肩には包帯を巻いているはずだが、外套の下ではほとんどわからない。腰の剣が歩くたびにかすかに揺れる。白い外套の背に、白鷲騎士団の紋章が刺繍されていた。銀髪は後ろでひとつに結ばれ、朝の光を受けて淡く光っている。

 絵になる。

 非常に絵になる。

 その隣を歩く俺は、丈の合わない旅装に、大きすぎる靴、背中にはスーツの入った袋。絵になるどころか、異世界に迷い込んだ中年の避難者である。

 いや、実際そうなのだが。

「セイジ殿」

「はい」

「肩の重みは、まだありますか」

「あります」

 俺は右肩を軽く回した。

 リュシエンヌから俺へ伸びる淡い青の帯は、朝になっても消えていなかった。忠誠ではなく同行の約束にしてもらったはずだが、それでも十分に重い。肩に布の鞄を掛けているような感覚が続いている。

「歩くのに支障は」

「今のところは」

「重ければ言ってください。誓約を改めます」

「改めると軽くなるんですか」

「言葉を変えれば、重みは変わります」

「便利ですね」

「便利ではありません。言葉は戻せませんから」

 そう言われると、急に重く聞こえた。

 元の世界でも、たしかに言葉は戻せなかった。冗談のつもりだった。酒の席だった。そんなに深い意味はなかった。そう言っても、相手の中に残った言葉は消えない。

 この世界では、それが物理的に重くなる。

 面倒だ。

 でも、わかりやすい。

「セイジ殿の世界では、誓約は軽いのですか」

「軽いものもあります。重いものもあります。でも、重くても見えないので、つい軽く扱います」

「見えない重みですか」

「はい。そっちのほうが厄介かもしれません」

 リュシエンヌは少し考え込むように目を伏せた。

 彼女の横顔を見ながら、俺は昨日のことを思い出していた。

 灰角狼。

 第三槍隊。

 生き残った副長。

 忠誠の重さ。

 そして、王都。

 宮廷魔導院に行けば、俺が元の世界へ帰る手がかりがあるかもしれないという。正直なところ、期待していいのかどうかわからない。だが他に行くあてもない以上、歩くしかなかった。

 道の先に、低い煙が見えた。

「あれは?」

「ミルヴァ村です」

「今日の宿ですか」

「その予定でした」

「でした?」

 嫌な言い方だった。

 リュシエンヌは足を止めた。

 俺もつられて止まる。

 彼女は目を細め、村のほうを見た。俺には、畑と屋根と煙しか見えない。だが、彼女には何か異変がわかるらしい。

「煙が多い」

「火事ですか」

「火事なら、もっと黒い煙になります。これは炊煙です。ただ、数が多い。村中が昼前から火を焚いている」

「祭りとか」

「この時期に祭りはありません」

 リュシエンヌの手が剣の柄に触れた。

 その瞬間、俺の右肩が少し重くなった。

「今、何か決意しました?」

「警戒しただけです」

「警戒でも重くなるんですね」

「あなたを守る約束ですので」

「なるほど。できれば、守る前から押し潰さないでください」

 彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。

 その顔が少し可笑しくて、俺は苦笑した。

 だが、村に近づくにつれ、笑っていられなくなった。

 畑の一部が踏み荒らされていた。

 麦のような作物が広い範囲で倒れ、地面には大きな蹄の跡が残っている。馬ではない。牛でもない。俺の両手を広げたくらいの大きさがある。畑の端には壊れた荷車が横倒しになり、車輪がひしゃげていた。

 村の入口には、木の柵が急ごしらえで組まれていた。尖らせた杭を並べ、隙間には古い樽や家具が詰め込まれている。柵の内側では、男たちが槍や鍬を持ち、女たちが水桶や布を運んでいた。子供の姿は見えない。

 兵士ではない。

 村人が、自分たちで守ろうとしている。

 俺たちに気づいた男が声を上げた。

「騎士だ!」

 その一声で、村の空気が変わった。

 何人もの村人が駆け寄ってくる。リュシエンヌの白い外套を見て、彼らは一斉に頭を下げた。

「白鷲の騎士様!」

「助かった!」

「どうか、どうか村をお救いください!」

 その瞬間だった。

 俺の視界に、色が増えた。

 村人たちの胸や背中から、細い糸のようなものが何本も伸びている。黄色、灰色、青、赤。昨日より見え方がはっきりしていた。恐怖は黒っぽく、願いは薄い金色に近い。怒りは赤い。後悔は灰色。俺には、なぜかそれがわかった。

 そして、それらの多くがリュシエンヌに向かって伸びた。

 助けてほしい。

 守ってほしい。

 なんとかしてほしい。

 その願いの糸が、彼女の白い外套に絡みつく。

 リュシエンヌの背が、ほんのわずかに沈んだように見えた。

 彼女は慣れているのだろう。表情は変えなかった。だが、俺には見えた。人々の願いが、彼女に乗る瞬間が。

 騎士という職業は、想像以上に重労働だ。

「状況を話してください」

 リュシエンヌの声は落ち着いていた。

 村人たちは一斉に話し始めた。

「赤角獣です」

「三日前から毎晩、畑を荒らして」

「昨夜は納屋を壊されました」

「もう食べるものが」

「子供たちは教会に隠しています」

「弓も槍も効きません」

「人を食うんですか?」

 俺が思わず口を挟むと、村人たちは一瞬だけ黙った。

 互いに顔を見合わせる。

 それから、年配の男が答えた。村長らしい。

「まだ、食われてはおりません」

「まだ?」

「怪我人は出ています。だが、殺された者はいない」

「それは不幸中の幸いですね」

 俺がそう言うと、何人かの村人が気まずそうに目を逸らした。

 リュシエンヌもそれに気づいたらしい。

「赤角獣は何を狙っています」

「畑です。納屋です。あと、村の古い厩舎を」

「厩舎?」

「今は使っておりません。壊れかけで」

 村長の声が少し硬くなった。

 その胸元から、灰色の糸が伸びている。

 後悔。

 何かを隠している。

 俺は村の奥を見た。

 柵の向こうに、古い木造の建物がある。屋根は半分落ちかけ、壁板も歪んでいる。使われていないのは本当らしい。だが、その建物から、空へ向かって赤い糸が立ち上っていた。

 昨日、道の先で見えた赤い糸。

 怒り。

 いや、それだけではない。

 赤の下に、くすんだ金色が混じっている。

 俺はリュシエンヌに小声で言った。

「あの厩舎から、何か見えます」

「重みですか」

「赤い糸と、少し金色のものが」

「赤は怒り?」

「たぶん」

「金は」

「まだ、よくわかりません」

 リュシエンヌは村長へ向き直った。

「あの厩舎について話してください」

 村長の顔が強張った。

「古い建物です。昔、荷獣を飼っておりました」

「それだけですか」

「はい」

 嘘だ。

 と、俺でもわかった。

 見える糸が、急に灰色を濃くしたからだ。

 リュシエンヌは一歩前に出た。

「村長。魔物を退けるには、正確な情報が必要です。隠し事は人を死なせます」

「隠してなど」

 そのとき、柵の内側から若い女の声がした。

「ノルです」

 村人たちが振り返った。

 教会の方から、一人の娘が歩いてきた。

 十七、八だろうか。栗色の髪を布でまとめ、腕には包帯を巻いている。パン屋か粉屋の娘のような、白い粉のついた前掛けをしていた。頬は青ざめているが、目だけが妙に強かった。

「マリカ、下がっていなさい」

 村長が叱るように言った。

 娘は首を振った。

「赤角獣は、ノルです」

「黙れ」

「騎士様に嘘をついても、どうにもならない」

 マリカと呼ばれた娘の胸から、まっすぐ金色の糸が伸びていた。

 それは、古い厩舎へ向かっている。

 そして厩舎から伸びる赤い糸と、どこかで絡まっていた。

「ノルとは?」

 リュシエンヌが尋ねた。

 マリカは唇を噛んだ。

「昔、うちで飼っていた角仔です。荷を引く魔獣の子で、母を亡くして、森で拾われました。小さくて、弱くて、私が育てました」

「それが赤角獣に?」

「四年前、赤い雨が降りました」

 リュシエンヌの表情が変わった。

「魔素雨ですか」

「はい。そのあと、ノルの角が赤くなって、体が大きくなって、夜になると暴れるようになりました。父が怪我をして、村の人たちは、ノルを森へ追いました」

「討たなかったのですか」

 村長が苦々しく言った。

「討とうとしました。だが、殺せなかった。矢も槍も通らず、逆に何人も怪我をした。あれはもう、荷獣ではありません。魔物です」

「でも、人を殺してはいません」

 マリカが言った。

「ノルは人を殺していない」

「お前の父は、あれのせいで片足を悪くした」

「それでも殺していない」

「黙れ!」

 村長の怒鳴り声に、マリカは肩を震わせた。

 だが、下がらなかった。

 俺はそのやり取りを見ながら、胸の奥が少しざわついていた。

 魔物。

 かつて飼われていた獣。

 人を殺してはいない。

 厩舎に執着している。

 村人たちは恐れている。だが、その恐怖の下に、灰色の後悔がいくつも見える。

 これは、単純な魔物退治ではない。

 たぶん。

「赤角獣は今夜も来ますか」

 リュシエンヌが尋ねた。

 村長は頷いた。

「日が沈むころに。必ず」

「村人を教会へ。柵は補強してください。弓を使える者は屋根の上へ。ただし、私が命じるまで射ないこと」

「騎士様、お一人で戦われるのですか」

「いいえ」

 リュシエンヌは俺を見た。

「セイジ殿が、重みを見ます」

 村人たちの視線が、一斉に俺へ向いた。

 やめてほしい。

 そんな期待に満ちた目で見ないでほしい。

 俺は昨日まで、OB会の帰りにホームで電車を待っていた中年男なのだ。魔物退治の専門家ではない。むしろ町内会の防災訓練でも、消火器の使い方を一度聞いただけで忘れるタイプである。

「いや、見えるだけで、何ができるかは」

「昨日、灰角狼の支配を解きました」

「あれは偶然で」

「偶然でも、できたことです」

 リュシエンヌはまっすぐ俺を見ていた。

 その目が、困るくらい信じている。

 肩が重くなった。

「今、信頼しました?」

「はい」

「しないでください」

「無理です」

「無理なんですか」

「昨日、あなたが私に言いました。後悔にするのは早いと。だから、今は信じることにしました」

 そう言われると、逃げ場がない。

 自分の言葉が戻ってきた。

 言葉は戻せない。

 この世界の仕組みは、なかなか嫌らしい。

 夕方まで、村は慌ただしく動いた。

 リュシエンヌは驚くほど手際よく指示を出した。柵の弱い場所を見つけ、村人の配置を決め、油の入った壺を安全な位置に移し、子供や老人を教会に集めさせた。左肩を怪我している人間の動きではない。

 俺はといえば、ほとんど役に立たなかった。

 せいぜい杭を運ぼうとして腰を言わせかけ、マリカに止められたくらいだ。

「無理をしないでください」

 マリカはそう言って、俺の手から杭を取り上げた。

「すみません」

「異界の方なんですよね」

「たぶん」

「たぶん?」

「まだ自分でも納得しきれていなくて」

 マリカは少し笑った。

 笑うと、年相応に見えた。

「セイジ様は、ノルを殺しますか」

 急にそう聞かれた。

「様はやめてください。落ち着かないので」

「では、セイジさん」

「それでお願いします」

「ノルを殺しますか」

 俺は答えに詰まった。

「俺は、殺せるほど強くありません」

「でも、騎士様は強いです」

「リュシエンヌさんは、村を守るためなら戦います」

「そうですよね」

 マリカは厩舎の方を見た。

 古い建物の入口には、色褪せた赤い布が結ばれていた。風に揺れている。あれから金色の糸が伸びているように見えた。

「あの布は?」

「私が結びました。ノルが小さかったころ、よく道に迷ったんです。だから、厩舎の入口に赤い布を結んで、ここが家だよって教えました」

「今も残しているんですね」

「外せませんでした」

 マリカの胸の糸が、少しだけ重くなる。

「村の人は、外せと言いました。でも、外したら、ノルが本当に帰る場所をなくす気がして」

「ノルは、それを見に来ている?」

「わかりません。でも、毎晩あの厩舎の前で暴れます。壁を壊して、中を嗅いで、それから畑を荒らして森に戻る」

「人を追いかけることは?」

「近づけば襲われます。でも、逃げる人を追いかけて殺したことはありません」

 俺は赤い布を見た。

 金色の糸。

 未練。

 たぶん、そうだ。

 怒りよりも下にあるもの。

 帰りたいという重さ。

 帰れなかったものの重さ。

「セイジさん」

「はい」

「ノルは、まだノルですか」

 それは、難しい質問だった。

 俺は魔獣の専門家ではない。動物の専門家でもない。人間についてだって、よくわかっていない。まして、魔素雨で変異した荷獣が、同じ存在かどうかなど答えられるはずがない。

 でも、見えるものはある。

「まだ、何かを覚えていると思います」

 マリカは唇を震わせた。

「それだけでも、よかったです」

 日が傾き始めた。

 村の空気が、急に硬くなる。

 子供たちは教会に入れられ、扉に太い梁がかけられた。屋根の上には弓を持った男たちが伏せる。柵の内側では、槍を持った村人たちが並んだ。誰もが怖がっていた。恐怖の黒い糸が、村全体を薄く包んでいる。

 リュシエンヌは村の入口に立っていた。

 剣を抜いてはいない。

 だが、いつでも抜ける姿勢だった。

「セイジ殿は私の後ろに」

「はい」

「危険を感じたら逃げてください」

「逃げ足にはあまり自信が」

「では、転ばないように」

「目標が低い」

「生存は高い目標です」

 それはそうだった。

 俺はリュシエンヌの斜め後ろに立った。右肩には彼女の約束の重みがある。村人たちの期待も、少しずつこちらに絡んでくる。できれば、全員に一度期待を取り下げてもらいたい。中年の肩は、そんなに丈夫ではない。

 森の方から、低い音がした。

 地鳴り。

 最初はそう思った。

 だが違った。

 足音だ。

 一歩ごとに、地面が震える。

 鳥が一斉に飛び立つ。

 村人の誰かが息を呑んだ。

 森の陰から、それは現れた。

 赤角獣。

 牛に似ていた。

 だが牛ではない。

 肩までの高さは人の二倍近い。体は黒褐色の剛毛に覆われ、背中には岩のような瘤がいくつも盛り上がっている。額から伸びる二本の角は、燃える炭のように赤く光っていた。目は濁った金色。口元からは白い息が漏れ、蹄が地面を踏むたびに土が割れる。

 怖い。

 単純に怖い。

 昨日の灰角狼も怖かったが、これはまた別の怖さだ。狼は殺意の塊だった。こいつは、もっと重い。山が歩いてくるような圧迫感がある。

 赤角獣が鼻を鳴らした。

 その体から、赤い糸が何本も噴き上がっている。

 怒り。

 痛み。

 混乱。

 そして、その奥に、金色の太い糸が一本あった。

 それはまっすぐ、古い厩舎の入口に結ばれた赤い布へ伸びていた。

「見えますか」

 リュシエンヌが小さく言った。

「見えます」

「どうです」

「怒っています。でも、それだけじゃない」

「斬りますか」

 その声は静かだった。

 村を守るためなら斬る。

 彼女はそういう人だ。

 俺は赤角獣を見た。

 化け物だ。

 危険だ。

 村を壊している。

 このまま放っておけば、いつか死人が出る。

 斬る理由はいくらでもある。

 だが、金色の糸が見えた。

 帰りたい。

 そう言っているように見えた。

「待ってください」

 俺は言った。

「まだ」

 赤角獣が前脚で地面を掻いた。

 柵の内側で村人が槍を構える。

 屋根の上の弓兵が弦を引く。

 リュシエンヌが手を上げた。

「まだ射るな!」

 赤角獣が突進した。

 柵にぶつかる。

 木が砕けた。

 ものすごい音だった。杭が折れ、樽が吹き飛び、村人たちが悲鳴を上げて後退する。リュシエンヌが前に出た。剣が抜かれる。白い刃が夕日を受けて光った。

 彼女は赤角獣の正面に立たない。

 横へ滑る。

 蹄を避け、首の動きを読み、角の軌道から外れる。傷ついた肩を庇いながら、それでも信じられないほど正確に動いていた。

 赤角獣の角が彼女の外套をかすめる。

 布が裂ける。

 俺の肩が重くなった。

 彼女の覚悟が乗る。

 やめてくれ。

 こっちの腰まで砕ける。

「セイジ殿!」

 リュシエンヌが叫んだ。

「見るなら今です!」

 見るなら今。

 簡単に言ってくれる。

 俺は息を吸い込んだ。

 赤角獣から伸びる赤い糸を見る。

 太く、熱い。

 触れたくない。

 だが、その奥にある金色の糸は、もっと深く、もっと古い。

 俺は柵の壊れた隙間から一歩前に出た。

「セイジさん!」

 マリカの声が聞こえた。

 赤角獣が俺に気づいた。

 濁った金色の目がこちらを向く。

 足がすくむ。

 当たり前だ。

 五十を過ぎてから、巨大な魔獣に睨まれる予定は人生設計に入っていなかった。

 俺は右手を伸ばした。

 赤い糸に触れる。

 熱かった。

 焼けるようだった。

 頭の中に、音が流れ込む。

 雨。

 赤い雨。

 皮膚が裂ける痛み。

 角が燃える痛み。

 人間たちの叫び声。

 槍。

 石。

 火。

 怖い。

 痛い。

 なぜ。

 なぜ。

 厩舎の扉が閉まる。

 中に入れてもらえない。

 赤い布が揺れている。

 家だ。

 そこが家だ。

 でも、誰も呼ばない。

 誰も名前を呼ばない。

 俺は膝をつきそうになった。

 赤角獣が吠える。

 いや、鳴いた。

 それは怒号ではなく、ひどく歪んだ呼び声のようだった。

「ノル」

 俺は言った。

 赤角獣の動きが止まった。

 村人たちがざわめく。

 リュシエンヌも剣を構えたまま、わずかに目を見開いた。

「ノル」

 もう一度呼んだ。

 赤角獣の赤い角が、じりじりと光を弱める。

 だが、すぐにまた赤く燃え上がった。

 痛みが強すぎる。

 怒りが深すぎる。

 名前だけでは足りない。

「マリカさん」

 俺は振り返らずに言った。

「呼んでください」

「え」

「あなたが呼ばないと、たぶん届かない」

「無理です」

 マリカの声が震えていた。

「近づいたら、また暴れます」

「近づかなくていい。名前を呼んでください」

「でも」

「お願いします」

 沈黙。

 赤角獣が前脚を踏み鳴らす。

 リュシエンヌが俺と獣の間に半歩入る。

 その背中が頼もしい。

 そして、重い。

 マリカが、柵の内側で息を吸い込む気配がした。

「ノル」

 小さな声だった。

 赤角獣が首を上げた。

「ノル、私よ」

 その瞬間、金色の糸が強く光った。

 俺の視界いっぱいに、昔の景色が広がった。

 小さな角仔。

 雨の日の厩舎。

 藁の匂い。

 少女の手。

 硬いパン。

 甘いリンゴ。

 赤い布。

 ここが家だよ、と笑う声。

 ノル。

 ノル。

 いい子ね。

 荷車を引けるようになった日。

 村の子供たちが背中に乗って笑う。

 畑から帰る夕暮れ。

 鐘の音。

 厩舎の灯り。

 帰る場所。

 帰る場所。

 帰る場所。

 俺は歯を食いしばった。

 これは、魔物の記憶だ。

 だが、魔物だけの記憶ではない。

 人間が与えたものだ。

 名前。

 家。

 帰っていい場所。

 そして、それを取り上げた。

 赤角獣が低く鳴いた。

 マリカが泣きながら叫んだ。

「ごめんね、ノル!」

 村人たちが息を呑む。

「怖かったの! あの日、あなたが変わって、怖くて、呼べなかった! 扉を開けられなかった! ごめんね!」

 赤い糸が激しく揺れた。

 怒りが暴れる。

 魔物の体が震える。

 角が再び燃え上がる。

 リュシエンヌが剣を構え直した。

「セイジ殿、下がってください。抑えきれない」

「まだです」

「危険です」

「わかってます」

「わかっている人の位置ではありません」

「それは本当にそう」

 俺は赤角獣へ近づいた。

 一歩。

 また一歩。

 巨大な鼻先から熱い息がかかる。

 怖い。

 正直に言えば、泣きたいくらい怖い。

 でも、赤い糸の奥の金色が、まだ消えていない。

 未練。

 帰りたい。

 名前を呼ばれたい。

 ただ、それだけの重さ。

「ノル」

 俺は手を伸ばした。

 今度は赤い糸ではなく、金色の糸に触れた。

 熱くはなかった。

 重かった。

 子供を背負ったような重さ。

 家財道具を運ぶような重さ。

 何年も帰れなかった荷物を、ようやく降ろす前の重さ。

 その重さが、俺の腕に乗った瞬間、胸の奥が苦しくなった。

 見えた。

 赤い雨の夜。

 厩舎の扉の前に立つノル。

 体は変わり、角は燃え、口からは白い息が漏れている。

 村人たちが叫ぶ。

 石が飛ぶ。

 槍が突き出される。

 マリカが扉の隙間から見ている。

 ノルは、彼女を見ている。

 呼んでほしい。

 ノル、と。

 でも彼女は声を出せない。

 扉が閉まる。

 赤い布だけが揺れている。

 そこで、記憶は何度も繰り返されていた。

 魔物になった獣は、同じ夜から出られずにいる。

 四年も。

 俺は息を吐いた。

「マリカさん」

「はい」

「赤い布を」

 マリカは戸惑った。

「あれを、外すんですか」

「外すんじゃない。持ってきてください」

 村長が叫んだ。

「危険だ!」

 リュシエンヌがすぐに言った。

「私が守ります」

 その一言で、村長は黙った。

 マリカが走る。

 古い厩舎の入口へ向かう。

 赤角獣が動きかける。

 リュシエンヌがその前に立った。

「待て」

 彼女の声は、静かだった。

 命令ではなく、願いに近かった。

 赤角獣は彼女を見た。

 俺には見えた。

 リュシエンヌからも、薄い青い糸が赤角獣へ伸びている。

 守る。

 村だけではない。

 今この瞬間は、魔物も守ろうとしている。

 その重さに、俺の肩がまた沈んだ。

「本当に重いな、この人は」

 思わず呟いた。

 マリカが赤い布をほどいた。

 古い布は色褪せ、端がほつれていた。

 彼女はそれを胸に抱いて戻ってくる。

 赤角獣は動かない。

 ただ、体を震わせている。

 マリカは柵の壊れたところまで来て、立ち止まった。

「ノル」

 彼女は赤い布を両手で差し出した。

「帰ってきて」

 その言葉が正しいのか、俺にはわからなかった。

 帰ってきていいのか。

 もう厩舎に入れる大きさではない。村で暮らせる体でもない。人間が恐れなくなるわけでもない。昔には戻れない。

 でも、呼ばれた。

 名前を呼ばれた。

 帰ってきて、と言われた。

 それだけで、金色の糸がほどけ始めた。

 赤角獣が一歩、前に出た。

 村人たちが後退する。

 マリカは逃げなかった。

 俺は金色の糸を両手で掴んだ。

 ほどく。

 切るのではない。

 消すのでもない。

 厩舎に縛りつけられていた重みを、マリカの手に返す。

 ノルの中に残っていた「帰れなかった夜」を、過去にする。

 今に居座らせない。

「ノル」

 マリカが泣きながら言った。

「ありがとう」

 赤角獣の角の光が、すっと弱まった。

 燃えるような赤が、暗い琥珀色に変わる。

 巨大な体が、ゆっくり膝を折った。

 地面が揺れる。

 リュシエンヌが剣を下ろした。

 村人たちは誰も動けなかった。

 赤角獣は、マリカの差し出した赤い布に鼻先を近づけた。

 布を嗅ぐ。

 それから、低く、低く鳴いた。

 もう吠え声ではなかった。

 牛の声にも似ていた。

 ただ、少し哀しかった。

 マリカが布をその角に結び直した。

 大きくなりすぎた角の根元に、色褪せた赤い布が揺れる。

 それは滑稽なくらい小さかった。

 だが、たしかに目印だった。

「ここが家だよ」

 マリカが言った。

「でも、森に帰って。あなたが生きられる場所へ」

 赤角獣は目を閉じた。

 金色の糸が、すっと軽くなる。

 消えたのではない。

 細くなった。

 持てる重さになった。

 それはマリカの胸と、ノルの角の赤い布の間で、静かに揺れていた。

 赤角獣は立ち上がった。

 村人たちが身構える。

 しかし、もう突進しなかった。

 壊れた柵をまたぎ、ゆっくり森へ向かう。

 途中で一度だけ振り返った。

 マリカが手を振った。

 赤い布が、夕暮れの風に揺れた。

 ノルは森へ消えた。

 誰も、しばらく声を出さなかった。

 最初に膝をついたのは、マリカだった。

 次に村長が崩れるように座り込んだ。

 それから、村中が息を吹き返したように騒ぎ出した。

「助かった」

「本当に退いた」

「騎士様!」

「異界の方だ」

「奇跡だ」

 やめてほしい。

 そういう言葉は、本当に肩に乗る。

 案の定、村人たちの金色の糸が一斉にこちらへ伸びた。

 感謝。

 敬意。

 畏れ。

 ちょっと待て。

 多い。

 多すぎる。

「ぐっ」

 俺はよろけた。

 リュシエンヌがすぐに支えてくれた。

「大丈夫ですか」

「村一つ分の感謝は重いです」

「それは、そうでしょう」

「そうでしょう、じゃなくて」

 彼女は少し笑っていた。

 昨日よりも、笑う頻度が増えている気がする。

 悪くない。

 いや、悪くないが、笑われると別の意味で肩が重くなるから困る。

 村長が俺たちの前に来た。

 彼は深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

「え?」

「我々は、赤角獣を魔物とだけ呼びました。ノルの名を、口にしなかった」

 村長の胸から、灰色の糸が伸びていた。

 それは厩舎の方へ向かっている。

「怖かったのです。あの夜、我々は扉を閉めた。あれがもうノルではないと言い聞かせた。そうしなければ、殺そうとした自分たちを許せなかった」

 俺は何も言えなかった。

 村長は続けた。

「だが、名を奪えば、未練まで消えるわけではなかったのですね」

「たぶん」

 俺は言った。

「呼ばなかった名前ほど、重くなるんだと思います」

 自分で言って、少し胸が痛んだ。

 元の世界にも、呼ばなかった名前がある。

 言わなかった言葉がある。

 返さなかった手紙がある。

 人間というのは、異世界に来ても、面倒なものを持ち歩く。

 村長はもう一度頭を下げた。

「今夜は、村にお泊まりください。十分なもてなしはできませんが」

「ありがたいです。正直、もう歩けません」

 俺が言うと、村人たちの何人かが笑った。

 空気が緩む。

 その緩みが、少しだけ村全体の重さを軽くしたように見えた。

 夜、俺たちは村長の家に泊めてもらうことになった。

 食卓には、焼いたパン、豆のスープ、山羊のチーズ、干し肉、それに焼きリンゴのようなものが並んだ。贅沢ではないのだろうが、村にとっては精いっぱいのもてなしだとわかった。

 リュシエンヌは最初、遠慮していた。

「私は任務中です」

 と言ったが、村長の妻に、

「任務中でも食べなければ倒れます」

 と一蹴された。

 強い。

 この世界の母親世代は、騎士より強いかもしれない。

 マリカは、焼きリンゴを俺の前に置いた。

「ノルの好物でした」

「俺が食べていいんですか」

「はい。今日は、食べてほしいです」

 俺は一口食べた。

 甘酸っぱくて、少し焦げていた。

 うまかった。

「ノルも、これが好きだったんですね」

「はい」

 マリカは泣き笑いのような顔をした。

「小さい頃は、これを見せるだけで厩舎から飛び出してきました」

「大きくなってから飛び出されたら大変ですね」

「本当に」

 彼女は笑った。

 その笑いには、まだ悲しみが混じっていた。

 でも、軽くなっていた。

 食事が終わるころ、リュシエンヌが静かに言った。

「セイジ殿」

「はい」

「今日、あなたは魔物を退けました」

「マリカさんが呼んだからです」

「それでも、あなたが見なければ、私たちは斬っていました」

「斬るしかない場面もあると思います」

「はい」

 彼女は目を伏せた。

「だからこそ、斬らずに済む場面を見逃したくありません」

 その言葉が、また重くなって俺の肩に乗った。

「リュシエンヌさん」

「はい」

「あなた、いいことを言うたびに重くなるんですよ」

「申し訳ありません」

「謝られると、それも重いです」

「では、謝りません」

「それはそれで強い」

 彼女は少し首を傾げた。

 冗談がどこまで通じているのかわからない。

 だが、ほんのわずかに口元が緩んだので、たぶん少しは通じている。

 その夜、俺は村長の家の客間で横になった。

 藁を詰めた寝台は硬かったが、砦の寝台よりは少し柔らかい。窓の外では虫が鳴いている。二つの月の光が、床に四角く落ちていた。

 右肩は、今日も重かった。

 リュシエンヌの同行の約束。

 村人たちの感謝。

 マリカの祈り。

 ノルの未練の残り香。

 見えるようになったせいで、世界はずいぶん騒がしい。

 だが、悪いことばかりではない。

 今日、俺は一つ知った。

 重みは、消すだけが救いではない。

 返すことができる。

 持てる形に変えることができる。

 人の心も、魔物の心も、たぶん同じだ。

 いや、同じと言い切るのは乱暴かもしれない。

 でも、魔物にも未練はあった。

 人間への未練が。

 名前を呼ばれたいという、あまりにも人間くさい重みが。

 俺は寝返りを打とうとして、右肩の重さに顔をしかめた。

「軽くならないかな、これ」

 小さく呟いた。

 そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。

「セイジ殿」

 リュシエンヌの声だった。

「どうぞ」

 扉が開く。

 彼女は外套を羽織ったまま入ってきた。月明かりで銀髪が青く見える。

「眠っていましたか」

「いえ、考え事を」

「では、少しだけ」

「はい」

 リュシエンヌは部屋の中に入ると、なぜか少し迷ってから、寝台から離れた椅子に座った。

 距離を取ってくれるのはありがたい。

 異世界の女騎士は距離感が近いのか遠いのか、まだよくわからない。

「今日のことで、団長に報告を書く必要があります」

「報告書ですか」

「はい」

「異世界にも報告書があるんですね」

「あります」

「そこは異世界らしくなくて残念です」

「報告がなければ、次に同じことが起きたとき困ります」

「正論ですね」

 リュシエンヌは真面目だった。

 ひどく真面目だった。

「セイジ殿の力について、書いてもよいですか」

「書かないとまずいですよね」

「はい。ただし、詳しく書きすぎれば、王都であなたを利用しようとする者が出るかもしれません」

「やっぱり出ますか」

「出ます」

 即答だった。

 俺はため息をついた。

「便利な人間は、どこの世界でも便利に使われるんですね」

「セイジ殿の世界でも?」

「ええ。よくあります。便利な人間ほど、断るのが下手だったりします」

「あなたも?」

「まあ、そこそこ」

 リュシエンヌはしばらく俺を見ていた。

「では、私が断ります」

「え」

「あなたが断れない時は、私が断ります」

 右肩が、ずしりと重くなった。

「今の、かなり重いです」

「そうですか」

「でも、助かります」

 リュシエンヌは少しだけ嬉しそうに見えた。

 その表情を見た瞬間、俺はしまったと思った。

 助かります、も重くなる。

 案の定、淡い青の帯がほんの少し太くなった。

 言葉は戻せない。

 まったく、この世界は面倒だ。

「ただし」

 俺は慌てて付け加えた。

「命に代えて断るのはやめてください」

「努力します」

「それ、また代える人の返事です」

「難しいですね」

「命は軽めに扱わないでください」

 リュシエンヌは少し考え、それから静かに頷いた。

「わかりました。あなたの前では、命に代えるという言葉を軽く使いません」

 青い帯が、今度は軽くなった。

 ほんの少し。

 だが、確かに肩が楽になった。

「今、軽くなりました」

「言葉を変えたからでしょうか」

「たぶん」

「では、覚えておきます」

 彼女はそう言って立ち上がった。

 扉へ向かう途中で、ふと足を止める。

「セイジ殿」

「はい」

「ノルは、救われたのでしょうか」

 俺はすぐには答えられなかった。

 救われた。

 そんな簡単な言葉を使っていいのか、わからない。

 ノルは村には戻れない。

 魔素で変わった体も元には戻らない。

 マリカも、四年前の少女には戻れない。

 壊れた畑も、すぐには戻らない。

 でも。

「救われたかどうかは、ノルにしかわからないと思います」

「はい」

「でも、名前は戻りました」

 リュシエンヌは静かに頷いた。

「それは、大きいですね」

「ええ」

 彼女は扉を開けた。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 扉が閉まる。

 俺はしばらく天井を見ていた。

 名前は戻った。

 それだけでいいのかもしれない。

 少なくとも、今日のところは。

 翌朝、村を出るとき、マリカが小さな包みをくれた。

 中には焼きリンゴと硬いパンが入っていた。

「道中で食べてください」

「ありがとうございます」

「ノルが森に戻る前、丘の上にいました」

「見たんですか」

「はい。赤い布が見えました。もう、村のほうへは来ませんでした」

「そうですか」

 マリカは少し迷ってから言った。

「セイジさん。ノルの未練は、消えたんでしょうか」

「たぶん、消えてはいません」

 彼女の表情が少し曇る。

 俺は続けた。

「でも、暴れなくても持っていられる形になったんだと思います」

「持っていられる形」

「はい。人間も、たぶんそうです」

 マリカは包みを握る手に力を込めた。

「私も、持っていきます」

「はい」

 俺は頷いた。

 マリカから伸びる金色の糸は、森の方へ細く続いていた。

 重そうではある。

 でも、昨日ほど苦しそうではない。

 俺たちは村を後にした。

 リュシエンヌは黙って歩いていた。

 俺も、しばらく黙っていた。

 畑の向こうに森が見える。

 あの森のどこかに、赤い布を角に結んだ大きな獣がいるのだろう。もう魔物と呼んでいいのか、ノルと呼ぶべきなのか、俺にはわからない。

 だが少なくとも、あれはただの討伐対象ではなかった。

「セイジ殿」

 リュシエンヌが言った。

「はい」

「王都に着く前に、もう一つ村を通ります」

「そこも何かありますか」

「普通なら、宿を借りるだけです」

「普通なら」

「はい」

「その言い方、昨日も聞きました」

 リュシエンヌは少しだけ視線を逸らした。

「道を選び直しますか」

「遠回りですか」

「はい」

「遠回りの先にも何かいるんでしょう」

「いるかもしれません」

「じゃあ、同じですね」

 俺はため息をついた。

「行きましょう」

 リュシエンヌが俺を見た。

 その目に、また少し信頼が増えた気がした。

 肩が重くなる前に、俺は言った。

「ただし、今日はできれば、戦わない方向で」

「努力します」

「その返事は信用できないんですよ」

 リュシエンヌが笑った。

 今度は、はっきり笑った。

 その笑顔を見た瞬間、俺の右肩にふわりと新しい重みが乗った。

 青ではない。

 淡い白に近い色だった。

 俺は思わず足を止めた。

「どうしました」

「いえ」

「何か見えましたか」

「見えましたけど、今は知らないことにします」

「なぜです」

「知ると、余計に重くなりそうなので」

 リュシエンヌは不思議そうに首を傾げた。

 俺は歩き出した。

 王都への道は、まだ遠い。

 そしてこの世界は、見えるものが多すぎる。

 その日の昼過ぎ、街道の先に小さな祠が見えた。

 祠の前に、一人の少女が倒れていた。

 草の上に薬草籠が転がり、中身が散らばっている。

 少女の胸からは、濃い緑の糸が伸びていた。

 それは森の奥へ向かっている。

 リュシエンヌが剣の柄に手を置く。

「セイジ殿」

「はい」

「普通の道ではなさそうです」

「でしょうね」

 俺は右肩の重さを感じながら、倒れている少女へ向かって歩き出した。


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