第一話 忠誠の重さ
目を覚ましたとき、最初に思ったのは、寝違えた、だった。
首が痛い。
背中も痛い。
腰は、もっと痛い。
五十を過ぎた男が、ベッド以外の場所で寝るものではない。若い頃なら、会社の床でも、出張先の空港のベンチでも、どうにかなった。朝になれば、少し体を伸ばして、缶コーヒーを飲んで、顔だけ平気なふりをすれば一日くらいは働けた。
だが今は違う。
いったん腰に来ると、人生観まで曲がる。
俺は、うつ伏せに倒れたまま、しばらく動かなかった。いや、動けなかったというほうが正しい。頬に当たっているのは冷たい床ではない。土だった。湿っている。草の匂いもする。鳥の声が聞こえる。
鳥。
会社のビルの谷間では聞いたことのない、やけに音程の高い鳥の声だった。
俺はようやく目を開けた。
緑だった。
視界いっぱいに、草と、木と、光があった。
「……どこだ、ここ」
自分の声が、ずいぶん情けなく聞こえた。
起き上がろうとして、右手に何か硬いものが触れた。見ると、黒い革靴だった。俺の靴だ。片方だけ脱げている。スーツの膝には泥がつき、ネクタイは喉元でねじれていた。昨日の夜、確かに俺は飲み会の帰りだった。いや、飲み会というより、元勤め先のOB会だ。定年を過ぎた連中が、まだ自分たちを現役の続きだと思っている、あの妙に湿った宴席。
二次会には行かなかった。
行かなかったはずだ。
駅まで歩いて、改札を通って、ホームで電車を待っていた。
そこまでは覚えている。
それから。
それから、何か光った。
ホームの向こう側の広告看板が、異様に白く光ったような気がした。電車のヘッドライトではなかった。落雷でもなかった。あれはもっと平たい光で、紙の裏から照明を当てたような、どこにも影を作らない光だった。
そして、今。
森。
俺は立ち上がろうとして、膝から崩れた。
「痛っ」
左足首が少しひねっている。骨は折れていないと思うが、歩くには厄介そうだった。周囲を見回しても、道路はない。電柱もない。建物もない。スマートフォンを取り出す。画面は無事だった。だが、圏外という表示すら出ていない。
表示そのものが、おかしい。
時計は、九十九時九十九分を示していた。
「ふざけるなよ」
思わずそう言ったが、誰に向かって言ったのかは、自分でもわからなかった。
そのときだった。
森の奥で、金属がぶつかる音がした。
硬い音。鋭い音。続いて、獣の唸り声。
俺は息を止めた。
人がいる。
そう思った瞬間、助けを呼びたくなった。だが次の瞬間には、いや、人がいるということは、争いもあるということだ、と気づいた。五十を過ぎると、希望より先にリスクが来る。若さとは、危険の計算が遅いことなのかもしれない。
もう一度、金属音。
今度は近かった。
俺は近くの木の陰に身を寄せた。足首が痛んだが、構っていられない。木の幹に手をつき、そっと音のする方を見る。
そして、見た。
白銀の鎧を着た女が、巨大な狼と向き合っていた。
まず、狼が大きかった。馬ほどもある。灰色の毛並みは泥と血で汚れ、額からは鹿のような角が一本、斜めに生えている。いや、狼に角がある時点で、俺の知っている生物分類は役に立たない。
次に、女のほうだ。
若い。
二十代前半、いや、もう少し下かもしれない。青みがかった銀髪を後ろで束ね、白い頬に血が飛んでいる。鎧は胸当てと肩当てを中心にした実用的なもので、装飾は少ない。腰から下は動きやすそうな革と金属の組み合わせ。手には細身の剣。背筋がまっすぐで、脚の運びが美しい。
映画の撮影か。
と、思いかけた。
だが、その考えは、狼の口から飛び散った涎を見て消えた。あれは作り物ではない。生臭さがここまで届く。獣の体温が空気を濁らせている。
女騎士は、左腕をだらりと下げていた。肩をやられているらしい。足元には、折れた槍と、血を吸った草があった。彼女の呼吸は荒い。それでも剣先は下がっていない。
狼が低く身を沈めた。
来る。
俺にもわかった。
女騎士がわずかに右足を引く。だが遅い。怪我のせいだ。
俺は、反射的に地面の石を拾った。
石といっても、握りこぶしより小さい。こんなもので馬ほどの狼をどうこうできるはずがない。わかっている。わかっているが、五十を過ぎた男の人生には、わかっていてもやるしかない瞬間が、年に一度くらいはある。
「こっちだ!」
叫んで、石を投げた。
石は、狼の横腹に当たるどころか、手前の草むらに落ちた。
我ながら情けない肩だった。
しかし、声は届いた。
狼がこちらを向いた。
向いてしまった。
「あ」
女騎士もこちらを見た。
その目が、驚きで大きく開く。
狼が、俺に向かって跳んだ。
走馬灯というものは、もっと劇的なものだと思っていた。愛する家族の顔とか、若き日の思い出とか、取り返しのつかない失敗とか。だが、その瞬間の俺の頭に浮かんだのは、昨日クリーニングに出し忘れたワイシャツのことだった。
人生の最期に思い出すものとしては、かなりみみっちい。
俺は尻餅をついた。
狼の影が覆いかぶさる。
そのとき、銀色の何かが横から飛び込んだ。
女騎士だった。
彼女は俺と狼の間に身を入れ、剣を両手で握り直す。左肩が使えないはずなのに、無理やり支えている。狼の爪が彼女の肩当てを引っかき、火花が散った。女騎士の体が俺のほうに押し込まれる。背中が一瞬、俺の胸にぶつかった。
軽い。
こんな鎧を着ているのに、と思った。
同時に、奇妙なものが見えた。
彼女の背中から、何かが伸びていた。
糸、ではない。煙でもない。光でもない。半透明の帯のようなものが、彼女の肩甲骨のあたりから出て、俺の胸元に触れていた。色は淡い青。水に溶かした月光みたいな色だった。
そして、それは重かった。
物理的に、重かった。
「ぐっ」
俺は思わず声を漏らした。
何かが、右肩に乗ったのだ。
見えない荷物を置かれたような重み。米袋ほどではないが、旅行鞄くらいはある。突然の重さに体が傾く。
女騎士が叫んだ。
「伏せて!」
日本語だった。
いや、そう聞こえた。
俺は言われるままに頭を下げた。彼女の剣が俺の頭上を横切る。狼の鼻先を切ったらしい。獣が吠え、血が飛び散る。女騎士はさらに踏み込み、剣を逆手に持ち替え、狼の前脚の腱を狙った。
だが、足がもつれた。
彼女は倒れかける。
狼が口を開いた。
俺は無我夢中で、落ちていた折れた槍を掴んだ。
槍というより、棒だ。先端の刃は折れている。それでも俺はそれを両手で持ち、狼の開いた口に突っ込んだ。
狼が噛む。
木が軋む。
すさまじい力だった。俺の腕が持っていかれそうになる。だが、狼の口が塞がった。その一瞬、女騎士が動いた。
彼女の剣が、狼の喉元に入った。
深く。
獣が暴れた。俺は槍ごと吹き飛ばされ、背中から地面に落ちた。息が詰まる。視界が白くなる。しばらく、何も聞こえなかった。
やがて、重いものが倒れる音がした。
草の上に、巨大な狼が横たわっていた。
女騎士は、そのそばに膝をついていた。剣を杖のように地面に刺し、肩で息をしている。銀髪の束がほどけ、頬に張り付いていた。
俺は仰向けのまま、空を見上げた。
空は青かった。
ただし、青すぎた。
そして、雲の向こうに、月が二つあった。
「……なるほど」
俺は言った。
「これは、夢だな」
女騎士がこちらを見た。
「夢?」
「いや、すみません。独り言です」
なぜか敬語になった。鎧を着て剣を持った若い女性に対して、五十過ぎのスーツ姿の男が敬語になるのは、人類として正しい反応だと思う。
女騎士は、ゆっくり立ち上がろうとした。だが、左膝が折れた。俺は慌てて体を起こす。
「大丈夫ですか」
「あなたこそ。どこから現れたのです」
「それが、俺にもわからなくて」
彼女は眉をひそめた。
間近で見ると、目は灰色だった。曇り空のような色。若いが、目つきは甘くない。戦場で何かを失った人間の目だった。いや、戦場を知らない俺がそう言うのは傲慢かもしれないが、少なくとも、平日の会議室で資料の誤字を指摘して満足している人間の目ではなかった。
「この森は、境界の森です。民は近づきません。まして、そのような奇妙な服装で歩く場所ではない」
「俺も好きで歩いていたわけではなく」
「名は」
「秋津誠二です」
彼女は少し首を傾げた。
「アキツ・セイジ」
「はい」
「貴族名ですか」
「いえ、どちらかというと、かなり普通の名前です」
「普通」
彼女はその言葉を確かめるように繰り返した。
「私はリュシエンヌ・アルヴァ。白鷲騎士団、第三槍隊副長」
長い。
だが、名乗られた以上、こちらも何か返すべきだろう。
「ええと、秋津誠二。元、総務部長代理です」
「ソウムブチョウダイリ」
「名乗るほどのものではありません」
「役職なのですね」
「一応」
リュシエンヌは真面目な顔で頷いた。
「では、セイジ殿。助力に感謝します」
「いや、俺は石を外しただけで」
「あなたが注意を引かなければ、私は死んでいました」
「結果的に、そう見えるかもしれませんが」
「結果がすべてです」
それは、俺が元の世界で何度も言われた言葉だった。だが、こんな森の中で血まみれの女騎士に言われると、妙に重い。
重い。
そこで俺は、右肩にまだ重みがあることに気づいた。
「あの」
「はい」
「今、俺の肩に何か乗せました?」
リュシエンヌはきょとんとした。
「何か、とは」
「荷物とか、魔法とか」
「魔法は使えません。私は騎士です」
「そうですか」
俺は右肩を手で払った。何もない。だが、確かに重い。旅行鞄を肩にかけているような、持続的な重さがある。
目を凝らすと、さっきの淡い青の帯が見えた。
リュシエンヌの背中から伸び、俺の肩にかかっている。
「……見間違いじゃないのか」
「何が見えるのです」
「いや、何というか、あなたから俺に、紐みたいなものが」
その瞬間、リュシエンヌの表情が変わった。
警戒ではない。
驚きでもない。
もっと深い、畏れに近いものだった。
「色は」
「え」
「その紐の色は、何色ですか」
「薄い青です」
リュシエンヌは息を呑んだ。
「太さは」
「帯みたいです。半透明で、肩に乗ってます。重いです」
「重い」
「ええ。正直、結構重い」
彼女は剣から手を離し、俺の前に片膝をついた。
俺は反射的に後ずさった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「セイジ殿」
「はい」
「あなたは、誓約の重みを見ることができるのですね」
「誓約」
「人が人に向ける意志の重さです。忠誠、敬愛、恩義、恋慕、憎悪、悔恨。普通は見えません。感じることすらできません」
「いや、俺も今日初めてです」
「伝承にあります。異界より来たる者の中に、人の心の重さを量る者あり、と」
「伝承」
嫌な単語が出てきた。
異界。
来たる者。
心の重さ。
どれも、まともな日常生活には必要ない単語である。少なくとも、総務部長代理時代の俺なら、議事録から削除している。
「待ってください。異界というのは」
言いかけたとき、森の奥から遠吠えが聞こえた。
一匹ではない。
複数。
リュシエンヌの顔が強張った。
「血の匂いに寄ってきた」
「さっきの狼が、まだいるんですか」
「灰角狼は群れで動きます。これは斥候です」
「斥候」
俺は倒れている巨大な狼を見た。
「これが?」
「はい」
「本隊は?」
「五、六頭。多ければ十頭」
「帰りましょう」
「賛成です」
彼女は即答した。
その返事の速さに、俺は少し安心した。勇敢と無謀は違うらしい。
だが、リュシエンヌは立ち上がろうとして、またよろめいた。左肩の傷が深い。足にも裂傷がある。俺は手を貸そうとして迷った。鎧のどこを支えればいいのか、わからない。女性の体に不用意に触れるのは、元の世界でも慎重を要した。まして相手は剣を持っている。
「失礼します。肩を貸します」
「問題ありません」
「問題ありそうに見えます」
「騎士ですので」
「騎士でも血は出ます」
俺はそう言って、彼女の右側に立った。リュシエンヌは一瞬だけ俺を見たが、何も言わず、体重を預けてきた。
軽い。
やはり、驚くほど軽かった。
だが同時に、俺の右肩の重みが増した。
「うっ」
「どうしました」
「いや、今ちょっと重く」
「私の誓約が」
「たぶん」
リュシエンヌは気まずそうに目を伏せた。
「申し訳ありません。命を救われた恩義が、まだ整っていないのかもしれません」
「恩義って、整うものなんですか」
「騎士は、受けた恩を主君への忠誠に変えます。そうしなければ、心が乱れます」
「ずいぶん大変な職業ですね」
「誇りある職業です」
「すみません」
俺たちは歩き始めた。
俺の足首も痛い。リュシエンヌの体は熱を持っている。森の中は思ったより暗く、根が張り出していて歩きにくかった。どこへ向かっているのかは、リュシエンヌに任せるしかない。彼女は時折、木の幹についた傷や、苔の向きを見て進路を選んでいるようだった。
遠吠えが、少しずつ近づいてくる。
「白鷲騎士団というのは、この近くに?」
「砦があります。北へ半刻」
「半刻というのは」
「鐘半分です」
「なるほど、わからない」
リュシエンヌは一瞬だけ俺を見て、それから小さく息を漏らした。
笑ったのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「あなたは本当に、異界の方なのですね」
「俺としては、まだ認めたくないところです」
「なぜです」
「認めたら、帰れない気がするので」
リュシエンヌは答えなかった。
その沈黙だけで、俺はかなりのことを察した。
帰る方法は、簡単ではない。
あるいは、知られていない。
足元の枝が折れた。
音が、大きく響いた。
リュシエンヌが俺の腕を掴んだ。
「止まって」
低い声だった。
俺は息を殺した。
木々の間に、灰色の影が見えた。
一頭。
いや、二頭。
さっきの狼よりは少し小さいが、それでも十分に大きい。角は短く、目が黄色い。こちらを探している。鼻先が地面を嗅いでいる。
「血の跡を追われています」
「まずいですね」
「はい」
「走れますか」
「あなたは?」
「走れません」
「私もです」
「まずいですね」
「はい」
こんな時でも、彼女は真面目に返事をする。
狼が顔を上げた。
目が合った。
「あ」
「伏せて!」
リュシエンヌが俺を押し倒した。狼が跳ぶ。彼女の剣が横から入るが、力が足りない。狼の前脚が彼女の鎧を打ち、二人まとめて地面に転がった。
俺は何とか起き上がろうとした。だが、右肩が重い。忠誠だか恩義だか知らないが、非常時に肩に乗るのは勘弁してほしい。
リュシエンヌは立とうとしている。
狼が迫る。
もう一頭が回り込む。
剣は少し離れた場所に落ちていた。
俺は、ふと気づいた。
見えるのは、リュシエンヌから俺へ伸びる青い帯だけではなかった。
狼にも、何かが見えた。
黒い靄のようなものが、二頭の狼の体から伸びている。だがそれは俺ではなく、森の奥へ向かっていた。重さは感じない。代わりに、冷たい。首筋に氷を当てられたような感覚がする。
「リュシエンヌさん」
「何です」
「あの狼から、黒いものが奥に伸びてます」
彼女の目が鋭くなった。
「群れの主です」
「見えるんですか」
「いいえ。ですが、灰角狼は主に心を縛られます。群れの主を失えば、散ります」
「奥にいる」
「おそらく」
「主を倒せば?」
「群れは退く」
「倒せますか」
「今の私では無理です」
「ですよね」
俺は立ち上がった。
正直、膝は笑っていた。足首は痛い。肩は重い。呼吸は浅い。こんな状態で何か格好いいことを言えるほど、俺の人生は訓練されていない。
だが、見えてしまった。
黒い靄は、二頭の狼から奥へ伸びている。さらに、その奥から、太い束がいくつも放射状に広がっている。目を凝らすと、森の向こうに、ひときわ大きな黒い塊が見えた。姿は木々に隠れている。だが、いる。
群れの主。
そいつから伸びる黒い重みが、周囲の狼を縛っている。
俺は、思った。
これは忠誠ではない。
命令でもない。
恐怖だ。
人の会社にも、こういうものはあった。尊敬ではなく、評価でもなく、ただ逆らうのが怖いから従っている関係。会議室の空気を重くする人間。誰も何も言えなくなる沈黙。あれは目に見えなかったが、確かに重かった。
今は、それが見える。
「群れの主は、怖がらせて従わせてるんですね」
「魔獣ですから」
「魔獣でも、部下の動かし方が下手だ」
「部下?」
「いえ、こっちの話です」
狼の一頭が跳びかかってきた。
俺は逃げなかった。
いや、逃げられなかっただけかもしれない。
だが、俺は黒い靄を見ていた。狼の首から伸びるその束が、奥の主へとつながっている。まるで首輪だ。もし、あれを引けるなら。
俺は右手を伸ばした。
触れるはずがない。
そう思った。
だが、指先が黒い靄に触れた。
冷たかった。
瞬間、狼が悲鳴を上げた。
俺の頭の中に、何かが流れ込んできた。
匂い。
血。
暗い穴。
牙。
大きな影。
逆らった兄弟が喉を噛み裂かれる光景。
恐怖。
恐怖。
恐怖。
俺は吐きそうになった。膝が崩れる。だが、指先を離さなかった。黒い靄はぬるぬると震え、俺の腕に絡みつこうとする。
「セイジ殿!」
リュシエンヌの声が聞こえた。
俺は叫んだ。
「お前ら、怖いんだろ!」
誰に言ったのか、自分でもわからない。
狼か。
森の奥の主か。
それとも、かつて会議室で黙っていた自分自身か。
「怖いなら、怖いって言え!」
黒い靄を、引いた。
力ではない。
腕力では到底無理だ。
だが、見えている重さには、触り方があった。持ち上げるのではなく、ほどく。結び目を探す。恐怖で固まった部分に、言葉を差し込む。
怖い。
痛い。
逃げたい。
その感情は、従属ではない。
忠誠ではない。
俺は黒い靄の結び目に指をかけ、思い切り引き剥がした。
森の奥で、何かが吠えた。
それは怒りだった。
二頭の狼が、同時に後ずさった。黄色い目が揺れる。牙を剥いているのに、体は前へ出ない。黒い靄が薄くなっていく。
リュシエンヌが剣を拾った。
彼女は、痛む肩を無視して立ち上がった。
「今です」
俺が言うより早く、彼女は走っていた。
いや、走るというより、滑るようだった。
彼女は二頭の狼の間を抜け、奥の茂みに向かう。そこに、巨大な影が現れた。さっきの斥候よりさらに大きい。額の角は二本。目は赤黒く、背中の毛が逆立っている。
群れの主。
そいつが口を開けた。
リュシエンヌが跳んだ。
傷ついた体で、どうしてそんな動きができるのか。
剣が、二本の角の間に突き立った。
狼の主がのけぞる。
彼女は剣から手を離さず、体重をかけて深く押し込んだ。魔獣の咆哮が森を震わせる。黒い靄が四方に飛び散った。俺の視界が一瞬、真っ暗になる。
気づくと、静かだった。
二頭の狼は、いなくなっていた。
森の奥に、倒れた巨大な影がある。
リュシエンヌは、そのそばに立っていた。剣を抜き、血を振り払う。その姿は、さっきよりもずっと小さく見えた。限界なのだ。
俺は足を引きずりながら彼女に近づいた。
「大丈夫ですか」
「ええ」
そう言って、彼女は倒れた。
俺は慌てて受け止めた。
今度は、間に合った。
鎧の重さごと支えたため、腰に嫌な音がした気がした。だが、彼女を地面に落とすわけにはいかない。俺は何とか近くの木の根元に彼女を座らせた。
リュシエンヌの顔色は悪い。額に汗が浮かんでいる。
「傷を見せてください」
「あなたは治癒師なのですか」
「違います。ただ、血が出ている人を見て、何もしないよりはましです」
「布が必要です」
俺は自分のネクタイを見た。
昨日、少し高いものを締めていた。
退職祝いで後輩にもらったネクタイだ。もう締める機会も少ないだろうと思っていたが、まさか異世界の森で止血帯になるとは、後輩も想像しなかったに違いない。
「これ、使えますか」
俺はネクタイを外した。
リュシエンヌはそれを見て、少し目を見開いた。
「よいのですか。身分を示す布では」
「そこまで大した身分ではありません」
彼女は何か言いたげだったが、黙って頷いた。
俺は彼女の左肩の鎧を外すのを手伝った。もちろん、かなり気を遣った。こんな状況でも、俺はそういうことを気にしてしまう。怪我人相手に何を考えているのかと自分でも思うが、長年染みついた距離感というのは、異世界に来たくらいでは消えない。
肩の傷は深かったが、動脈ではなさそうだった。リュシエンヌの指示に従って布を巻く。彼女は痛みに眉を寄せたが、声を上げなかった。
「慣れているんですね」
「騎士ですので」
「騎士でも痛いでしょう」
「痛みはあります」
「なら、痛いと言ってもいいと思います」
リュシエンヌは、不思議そうに俺を見た。
「痛いと言えば、痛みが減るのですか」
「減りません」
「では、なぜ」
「言わないと、周りが間違えます。平気なんだと思って、もっと背負わせる」
彼女は黙った。
その沈黙の中で、俺の右肩がまた重くなった。
「うっ」
「またですか」
「はい。今、少し増えました」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいんですが、何が増えたんですか」
リュシエンヌはしばらく目を伏せていた。
「敬意だと思います」
「敬意」
「あなたは、私を騎士として扱いながら、人としても扱う」
「普通では」
「普通ではありません」
その言い方があまりに静かだったので、俺は返事ができなかった。
森の風が、血の匂いを少しだけ薄めた。遠くで鳥が鳴く。二つの月は、青い空の中で淡く光っていた。
俺は、ふと尋ねた。
「リュシエンヌさんは、なぜ一人でここに?」
彼女の表情が硬くなった。
「一人ではありませんでした」
それだけで、聞くべきではなかったとわかった。
だが彼女は続けた。
「第三槍隊は、十六名で境界の森に入りました。灰角狼の群れが南の村へ降りる兆しがあったためです。ですが、群れの規模を見誤りました。主が変異していた」
「変異」
「魔素を取り込み、通常より強くなっていました。隊長は、私に伝令を命じました。砦へ戻れ、と」
「それで」
「私は戻りました」
その言葉は、ひどく重かった。
いや、実際に重くなった。
俺の肩に乗る青い帯のほかに、灰色の何かが見えた。リュシエンヌの胸元に絡みついている。俺にはまだ触れていない。だが、見るだけで息苦しくなるような重さだった。
「後悔ですか」
俺は思わず言った。
リュシエンヌが目を上げた。
「それも見えるのですね」
「灰色のものが、あなたの胸のあたりに」
「そうですか」
彼女は小さく息を吐いた。
「戻るべきでした。命令でしたから」
「はい」
「でも、戻りたくなかった。私は副長です。隊の者を置いて逃げた」
「伝令だったんでしょう」
「命令に従いました」
「なら」
「命令に従えば、心が軽くなるわけではありません」
俺は返事に詰まった。
正しいことをしたのに、苦しい。
それは、俺にもわかる気がした。
若い頃、部下を守るためだと言いながら、結局は会社の方針に従ったことがある。異動の内示を伝えた。本人は納得していなかった。俺も納得していなかった。それでも、仕方がない、と言った。その言葉が、便利で、汚いことも知っていた。
仕方がない。
正しい。
命令だ。
組織だ。
そういう言葉は、心を軽くするためにあるようで、実際には重石になることがある。
俺は彼女の胸元に見える灰色の絡まりを見た。
「それ、少し触ってもいいですか」
「胸に、ですか」
「違います。いや、違わないのか。見えている灰色のやつにです」
リュシエンヌは少しだけ頬を赤くした。
いや、たぶん熱のせいだ。
そういうことにしておく。
「危険では」
「わかりません」
「わからないことをするのですか」
「さっきもしました」
「確かに」
彼女は、ほんの少し笑った。
「お願いします」
俺は慎重に手を伸ばした。
実際の体には触れないように、灰色の絡まりだけに指を近づける。見えているのに、実体はないはずのもの。だが、指先が触れた瞬間、ずしりと重みが来た。
見えた。
白い鎧の騎士たち。
血。
隊長らしい男の横顔。
若い兵士が笑っている。
誰かが、リュシエンヌ、と呼ぶ。
戻れ。
必ず戻れ。
あなたが戻れば、村は助かる。
戻れ。
命令だ。
そして、彼女は走った。
背中で、仲間の声が消えていく。
俺は歯を食いしばった。
これは、重い。
重すぎる。
一人で持つものではない。
俺は灰色の絡まりをほどこうとした。だが、うまくいかない。これは恐怖ではない。黒い靄とは違う。結び目が複雑だ。後悔と責任と忠義と怒りと悲しみが絡まっている。
俺は言った。
「リュシエンヌさん」
「はい」
「あなたは、逃げたんじゃない」
灰色の絡まりが、わずかに震えた。
「それは慰めです」
「かもしれません。でも、伝令は必要だった」
「はい」
「あなたが戻らなければ、村は襲われた」
「はい」
「あなたは戻ってきた。つまり、隊長の命令を果たそうとしていた」
「でも、私は砦に着いていません」
「今から行きます」
彼女は俺を見た。
「あなたが連れていきます。俺も行きます。足は痛いけど、まあ、歩けます。あなたが生きている限り、命令はまだ終わっていない。なら、後悔にするのは早い」
灰色の絡まりが、少しだけ緩んだ。
重さは消えない。
でも、形が変わった。
石ではなく、荷物になった。
持って歩けるものになった。
リュシエンヌの目が潤んでいるように見えた。だが、彼女は涙をこぼさなかった。
「あなたは、不思議な方ですね」
「元の世界では、わりと普通です」
「その世界は、さぞ優しいのでしょうね」
「いえ。そうでもないです」
俺は苦笑した。
「だから、こういうことくらいしか言えないんです」
リュシエンヌは右手を胸に当てた。
「軽くなりました」
「よかった」
「完全には消えません」
「消さなくていいと思います」
「なぜ」
「消えたら、忘れます」
リュシエンヌは目を閉じた。
「忘れたくはありません」
「なら、少し軽くして持っていきましょう」
そのとき、森の向こうから鐘の音が聞こえた。
一つ。
二つ。
低く、遠い音。
リュシエンヌが顔を上げた。
「砦の警鐘です」
「近い?」
「近いです。ですが、急がなければ」
俺たちは再び歩き出した。
今度は、さっきより少し歩きやすかった。彼女の体重はまだ俺にかかっている。俺の足首は痛む。右肩には青い帯が重く乗っている。だが、灰色の絡まりは彼女の胸元で小さくまとまり、前へ進むたびに、少しずつ揺れていた。
森を抜けると、丘の上に石造りの砦が見えた。
その向こうに、村があった。
赤い屋根が点在し、麦畑のようなものが広がっている。煙が上がっている場所もある。だが、炎ではない。煮炊きの煙だ。まだ、村は無事だった。
砦の門の上で、兵士がこちらに気づいた。
「副長だ!」
声が上がる。
「リュシエンヌ副長が戻った!」
門が開く。
兵士たちが走ってくる。彼らは血まみれのリュシエンヌを見て顔色を変え、次に俺を見て、もっと顔色を変えた。
「その男は」
「異界の方です」
リュシエンヌが言った。
兵士たちがざわめく。
俺は小さく会釈した。
「どうも。秋津誠二です」
誰も返事をしなかった。
当然だと思う。
血まみれの女騎士を支えた、泥だらけのスーツ姿の中年男。しかも片方の靴は途中で脱げたままだ。異界の方というより、宴会帰りに山で遭難した人である。
砦の中に運ばれたリュシエンヌは、すぐに治療師らしき老人の診察を受けた。俺も足首を見てもらった。老人は俺のスマートフォンを見て十字を切り、腕時計を見てさらに十字を切った。
「呪具ではないんですが」
「喋るな。余計に怖い」
治療師にそう言われたので、俺は黙った。
砦の広間では、リュシエンヌが隊長の戦死と灰角狼の主の討伐を報告した。彼女は傷を負っているのに、立ったままだった。俺は座っていろと言いたかったが、言える空気ではなかった。
砦の指揮官は、白髪の混じった大柄な男だった。彼は報告を聞き終えると、深く目を閉じた。
「第三槍隊、十六名中、生還一名」
広間が静まった。
リュシエンヌは拳を握りしめた。
「申し訳ありません」
「謝るな。隊長の命令を果たした。村は守られた」
「ですが」
「リュシエンヌ」
指揮官の声は厳しかった。
「生き残った者には、生き残った者の任がある」
その言葉で、彼女の胸元の灰色がまた重くなったのが見えた。
俺は思わず顔をしかめた。
正しい言葉だ。
正しいが、重い。
この世界の人たちは、何かを背負わせるのがうまい。いや、元の世界も大して変わらないか。
指揮官が俺を見た。
「異界の客人。名を聞こう」
「秋津誠二です」
「アキツ殿。副長の命を救い、灰角狼の主討伐に助力したと聞いた」
「助力というほどでは」
「謙遜は不要だ。この砦は恩を忘れぬ」
俺の右肩が、さらに重くなった。
「ぐっ」
思わず声が出た。
広間の全員が俺を見た。
「どうした」
「いえ、今、恩が乗りました」
「恩が」
「たぶん」
指揮官が眉をひそめる。
リュシエンヌが一歩前に出た。
「団長。この方は、誓約の重みを見ることができます」
広間がざわめいた。
「まことか」
「はい。私の忠誠と恩義を見抜き、灰角狼の支配の重みも解きました」
「支配の重みを」
指揮官の顔つきが変わった。
それは歓迎ではなかった。
利用価値を見つけた顔だった。
俺は、嫌な予感がした。
元の世界でも何度か見たことがある。便利な人間を見つけたときの上司の顔。あれに似ている。いい人であっても、組織の人間は、役に立つものを役に立つ場所へ置こうとする。
俺は半歩下がった。
その瞬間、リュシエンヌが俺の前に立った。
「団長」
「何だ」
「この方は客人です。尋問や拘束の対象ではありません」
「誰が拘束すると言った」
「念のため申し上げました」
団長は、しばらく彼女を見ていた。
広間の空気が張り詰める。
俺の肩に乗る青い帯が、急に重くなった。
ただの恩義ではない。
忠誠。
彼女は、俺を守ろうとしている。
それが、肩に乗っている。
重い。
嬉しいとか、ありがたいとか、そういう感情の前に、重い。
誰かが自分のために上司に逆らうというのは、こんなに重いことだったのか。
俺は慌てて言った。
「あの、拘束されないなら、俺はそれで」
「セイジ殿は黙っていてください」
「はい」
年下の女性に黙っていてくださいと言われて即座に従う五十過ぎの男。情けない気もするが、今はそのほうがよさそうだった。
団長は大きく息を吐いた。
「よい。客人として扱う。だが、話は聞かせてもらう」
「それは構いません」
俺は答えた。
「ただ、できれば、食事と、靴と、帰る方法についての情報を」
広間の空気が少し緩んだ。
誰かが小さく笑った。
団長も口元をわずかに動かした。
「靴は用意しよう。食事も。帰る方法は、宮廷魔導院でなければわからん」
「王都ですか」
「そうだ」
王都。
また大きな単語が出てきた。
俺は内心でため息をついた。
どうやら、駅のホームに戻るには、かなり遠回りが必要らしい。
その夜、俺は砦の客室らしき小部屋に通された。
客室といっても、石の壁に木の寝台、毛布、壺、水差しだけだ。だが、森で狼に食われかけた後では、五星ホテルに見える。靴は兵士の予備を借りた。服は、スーツのままだ。ネクタイはリュシエンヌの肩に巻かれている。
食事は、硬いパンと、豆の煮込みと、塩気の強い干し肉だった。
うまかった。
驚くほどうまかった。
命の危険の後は、豆でも感動できる。
食べ終えて水を飲んでいると、扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、リュシエンヌだった。
肩には包帯が巻かれ、鎧ではなく簡素な白い上衣を着ている。髪はほどかれていた。戦っていたときより、ずっと若く見える。いや、若いのだ。俺より二十以上は下だろう。
「傷は」
「治療師が処置しました。数日は剣を振るなと」
「振らないでください」
「努力します」
「それ、振る人の返事です」
彼女は小さく笑った。
そして、急に真面目な顔になった。
「セイジ殿。改めて、感謝を」
「もう十分です。肩が重いので」
「重いですか」
「かなり」
俺は右肩を回した。
青い帯は、まだある。昼間より少し太くなっている気がする。見えるだけならまだいい。だが、本当に重いのだ。湿った毛布を肩にかけているような、じわじわくる重さ。
リュシエンヌは、申し訳なさそうに視線を落とした。
「忠誠は、本来、主君に捧げるものです」
「はい」
「私は今日、あなたに命を救われました。隊の命令も果たせた。灰角狼の主も討てた。あなたがいなければ、私は森で死んでいました」
「でも、主を討ったのはあなたです」
「剣を届かせたのは、あなたです」
「そういう言い方をされると、断りにくいですね」
「断る?」
「いや、何となく、この流れはまずい気がして」
リュシエンヌは、俺の前に片膝をついた。
俺は椅子から立ち上がりかけた。
「待ってください。そういうのは困ります」
「まだ何も言っていません」
「言う前から困っています」
「セイジ殿」
「はい」
彼女は右手を胸に当て、まっすぐ俺を見た。
「私、リュシエンヌ・アルヴァは、白鷲の名と失われた第三槍隊の誇りにかけて、あなたを守る剣となることを誓います」
青い帯が、太くなった。
ずしん、と右肩に来た。
「重っ」
俺は思わず膝をついた。
リュシエンヌが慌てて立ち上がる。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです。今、何キロ乗りました?」
「重さの単位はわかりませんが」
「かなりです。灯油のポリタンク二つ分くらい」
「トウユ」
「たとえが悪かったです」
俺は椅子に手をついて体勢を立て直した。リュシエンヌは本気で心配そうにしている。その表情を見ると、怒る気にはなれない。
だが、言わなければならないことはある。
「リュシエンヌさん」
「はい」
「忠誠は、俺には重すぎます」
彼女の顔が、少しだけ傷ついたように見えた。
俺は慌てて続けた。
「いや、嫌だという意味ではなくて。ありがたいんです。本当に。でも、俺はあなたの主君になるような人間じゃありません。元の世界では、部長代理止まりです」
「役職の高低ではありません」
「人間の器の問題です」
「あなたは、私の後悔を軽くしました」
「偶然です」
「恐怖で縛られた魔獣を解きました」
「たぶん偶然です」
「私を人として扱いました」
「それは普通です」
「だからです」
リュシエンヌは静かに言った。
「私にとって、それは普通ではありません」
俺は黙った。
この世界のことを、俺はまだ何も知らない。騎士がどんな立場で、彼女がどんな教育を受け、何を背負ってきたのかも知らない。だから、簡単に否定するべきではないのだろう。
でも、受け取るには重すぎる。
俺は右肩の青い帯を見た。
忠誠。
恩義。
敬意。
それは美しい色をしている。
だが、美しいから軽いわけではない。
「主君じゃなくて」
俺は言った。
「同行者では駄目ですか」
「同行者」
「俺はこの世界のことを知りません。あなたは俺を王都に案内してくれる。俺は、見えるものがあれば伝える。お互い助ける。それでどうでしょう」
「それは、契約ですか」
「約束です」
「誓約ではなく」
「できれば、軽めの約束で」
リュシエンヌは、少し困ったように笑った。
「軽め」
「はい。肩に優しいやつでお願いします」
彼女はしばらく考えた。
そして、もう一度、右手を胸に当てた。
今度は片膝をつかなかった。
「では、セイジ殿。私はあなたの同行者として、王都までの道を共にします。あなたがこの世界で迷わぬよう、剣と知識を貸します」
青い帯が、少しだけ形を変えた。
太さは変わらない。
だが、肩に食い込むような重みではなくなった。鞄の紐を、少し広いものに替えたような感じだ。重いが、持てる。
「これなら何とか」
「軽くなりましたか」
「ええ。持てる重さです」
リュシエンヌは安心したように息を吐いた。
「よかった」
その顔を見て、俺は少しだけ胸が詰まった。
この子は、忠誠を捧げる先を探していたのだろうか。
隊を失い、命令だけを抱えて戻り、生き残った理由を必要としていたのだろうか。
だとすれば、俺は危ない場所に立っている。
誰かの理由になることは、重い。
とても重い。
俺は、ずっとそれから逃げてきたのかもしれない。
「セイジ殿」
「はい」
「明朝、王都へ向けて発ちます。団長の許可は得ました。道中、二つの村を経由します。魔獣の出る街道もありますが、私が守ります」
「できれば魔獣の出ない道で」
「遠回りになります」
「遠回りが好きです」
「変わった方ですね」
「年を取ると、近道の怖さがわかるんです」
リュシエンヌは、その言葉を理解したのかどうか、しばらく考えていた。
そして、小さく頷いた。
「では、できるだけ遠回りしましょう」
「助かります」
彼女は扉へ向かった。
出ていく直前、振り返る。
「セイジ殿」
「はい」
「あなたは、帰りたいのですか」
俺はすぐには答えられなかった。
帰りたい。
もちろん、帰りたい。
元の世界には、生活がある。知っている道がある。行きつけの店がある。読みかけの本がある。放っておいた用事もある。突然消えれば、困る人もいるだろう。
だが、さっきまで俺は、駅のホームにいた。
OB会の帰りで、少し酔っていて、少し疲れていて、これから先の人生が、だいたい見えてしまったような気がしていた。
帰りたい。
でも、何に帰りたいのか。
それが一瞬、わからなかった。
「帰る方法は、探します」
俺は答えた。
リュシエンヌは、その答えをどう受け取ったのか、静かに頷いた。
「わかりました。おやすみなさい、セイジ殿」
「おやすみなさい」
扉が閉まった。
部屋に一人になる。
石壁の向こうで、兵士たちの声がする。遠くで馬が鳴く。窓の外には、二つの月が浮かんでいる。俺は寝台に腰を下ろし、右肩をそっと押さえた。
青い帯は、まだそこにあった。
忠誠ではなく、同行の約束。
それでも、十分に重い。
俺は仰向けに倒れた。
天井を見上げる。
異世界。
女騎士。
魔獣。
心の重さ。
王都。
帰還方法。
どれも、昨日までの俺の人生にはなかった言葉だ。
なのに一番現実味があったのは、右肩の重みだった。
誰かに必要とされること。
誰かの期待が乗ること。
誰かが、自分を守ると言うこと。
それは、思っていたよりずっと重い。
「勘弁してくれよ」
俺は小さく呟いた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
翌朝、砦の門の前で、リュシエンヌは白い外套をまとって待っていた。鎧は簡略なものに替えられていたが、腰には剣がある。朝日を受けた銀髪が、淡く光っている。
俺には、兵士の旅装が用意されていた。スーツは荷物袋に入れられた。革靴の片方は見つからなかったらしい。代わりの靴は硬く、少し大きい。
団長が見送りに来た。
「アキツ殿。王都に着いたら、宮廷魔導院を訪ねよ。紹介状は持たせた」
「ありがとうございます」
「リュシエンヌ」
「はい」
「客人を守れ」
「命に代えても」
俺の肩が、また重くなった。
「命に代えない方向でお願いします」
俺が言うと、団長が笑った。
リュシエンヌは真面目な顔で頷いた。
「努力します」
「それ、代える人の返事です」
砦の兵士たちが笑った。
彼女も、少しだけ笑った。
門が開く。
朝の道が、森の端へ向かって続いている。
俺は足を一歩踏み出した。
右肩には、彼女の約束が乗っている。
重い。
だが、歩けないほどではない。
隣に、リュシエンヌが並ぶ。
「セイジ殿」
「はい」
「改めて、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
彼女の背中から伸びる青い帯が、朝の光の中で揺れた。
俺はそれを見て、思った。
この世界では、人の想いが見える。
そして、見えるものは、たいてい重い。
だったらせめて、落とさないように歩くしかない。
そう思った瞬間、道の先の森の奥で、別の色が見えた。
赤。
燃えるような赤い糸が、遠くの空へ向かって伸びている。
それは、誰かの怒りの重さだった。
そしてたぶん、俺たちはそこへ向かっている。
俺は、隣の女騎士を見た。
「リュシエンヌさん」
「何でしょう」
「遠回りって言いましたよね」
「はい」
「たぶん、遠回りの先にも何かいます」
彼女は剣の柄に手を置いた。
「ならば、確かめましょう」
「そうなりますよね」
「はい」
俺はため息をついた。
異世界一日目。
すでに帰り道は、かなり遠い。




