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変節の宰相:馮道:2章:李嗣源時代①

〇馮道、春雷の如く政に臨む —— 後唐・明宗政権安定の頃


あらたなるあさ――明宗めいそう即位そくい馮道ふう・どう治世ちせい


建隆けんりゅう三年さんねん、すなわち西暦せいれき九二六年きゅうひゃくにじゅうろくねん


北地ほくちはなお残雪ざんせつしろさを宿やどし、洛陽らくようあさかぜつめたい。 だが、歴史れきし節目ふしめは、そうした外気がいきとは無関係むかんけいしずかにおとずれるものである。


とう滅亡めつぼうより二十年にじゅうねんちかくがぎ、五代ごだい十国じゅっこくなら時代じだい中原ちゅうげんおさえるのは、かの勇将ゆうしょう李存勗り・そんきょくおこした「後唐こうとう」というくにかれがかつて後梁こうりょうって王朝おうちょうてたとき、たみこころは久しぶり(ひさしぶり)にひとつにあつまるかにえた。


――されど、にてくにおこものぶんにてくにたもつをらず。


李存勗り・そんきょく即位後そくいご伶人れいじん宦官かんがん重用ちょうようし、軍閥ぐんばつたちの不満ふまんった。 やがて洛陽らくようにて兵変へいへんこり、かれはその混乱こんらん渦中かちゅういのちとす。これが九二六年きゅうひゃくにじゅうろくねんはるのことである。


この混乱こんらんのさなか、魏州ぎしゅう駐屯ちゅうとんしていたひとりの人物じんぶつうごいた。 李嗣源り・しげん――荘宗そうそう李存勗り・そんきょく義弟ぎていにして、宿将しゅくしょう兵士へいしたちにされて洛陽らくようへと進軍しんぐんし、無血むけつのうちに皇位こういぐ。のち明宗めいそうばれるこのあらたな君主くんしゅは、現実的げんじつてき視野しや人間味にんげんみのある治世ちせいこころざしていた。


その明宗めいそう即位そくいとともに、ある人物じんぶつふたたまつりごと表舞台おもてぶたいあらわれる。


を――馮道ふう・どうという。


もとは学問がくもん文筆ぶんぴつをもってをなした文官ぶんかん前政権ぜんせいけんでは伶人れいじんされ、かえりみられることすくなかったが、そのさい誠実せいじつさをものおおかった。


まつりごととは、刀槍とうそうあらず、たみこころはかうつわなり」


そうったかどうかはさだかでないが、かれ施策しさくにはつねに「やすんじてかす」気配けはいがあった。


九二六年きゅうひゃくにじゅうろくねんれ、明宗めいそう馮道ふう・どう宰相さいしょうに、枢密副使すうみつふくしとしても重任じゅうにんする。 このころより、後唐ごとう政治せいじは、すこしずつ、だがたしかな安定あんてい得始えはじめるのだった。


________________________________


治世ちせい本格化ほんかくか文官ぶんかん復権ふっけん


明宗めいそう治世ちせい本格化ほんかくかするのは、よく九二七年きゅうひゃくにじゅうななねんからである。 かれはまず、無理むり遠征えんせいをやめ、疲弊ひへいした国庫こっこなおしをいそいだ。


いくさにてたみやしなえずば、くにはしぼむ」


それをもっともよくっていたのは、やはり馮道ふう・どうであろう。 かれ明宗めいそう方針ほうしんしたがい、軍費ぐんぴ抑制よくせい倹約令けんやくれい布告ふこく、そして徴税ちょうぜい簡素化かんそかちからくす。


また、このころまつりごと中心ちゅうしんには文官ぶんかんたちがもどってきた。 **趙鳳ちょう・ほう**なる人物じんぶつも、しょもっ朝政ちょうせいたすけ、じゅみちまつりごとかそうとする。


いまこそがくもっらんしずむるとき」


そのこえが聞きこえてくるようである。


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るがぬ忠義ちゅうぎ歴史れきし評価ひょうか


だが、後唐ごとう支配しはいは、けっして盤石ばんじゃくではなかった。


各地かくちには節度使せつどしばれる軍閥ぐんばつり、それぞれのなか独立状態どくりつじょうたいにあった。 明宗めいそうもこれらをたばねようとしたが、ただめいくだすだけではそのこころしたがわない。


馮道ふう・どうは、強権きょうけんではなく調和ちょうわをもってかれらを懐柔かいじゅうせんとする。 とき使者ししゃつかわし、とき婚姻こんいんをもってきずなむすび、くにかぬようこころくだいた。


この九二七年きゅうひゃくにじゅうななねんから九二八年きゅうひゃくにじゅうはちねんにかけては、後唐こうとうにとって最もおだやかな時代じだいとされている。 洛陽らくよういちにはにぎわいがもどり、儒学じゅがく講堂こうどうにも若者わかものたちのこえひびいた。 かみふでとが官僚かんりょうをつくり、こくとがたみやしなう――そんな基本きほんが、ようやくこのにも根付ねづきつつあった。


馮道ふう・どうというひとは、ながくこの五代ごだい歴史れきしきることになる。 かれ後唐ごとうだけでなく、後晋ごしん後漢ごかん後周ごしゅう、そしてそうにもつかえることになるのである。


ひとはそれを「節操せっそうがない」とひょうするかもしれない。だが、**馮道ふう・どう**はうだろう。


「われ、まつりごと補佐ほさするにちゅうあれば、きみにこだわるをようせず」


その言葉ことば真意しんいを、後世こうせいものがどうとらえるかは自由じゆうである。


だがこの九二七年きゅうひゃくにじゅうななねんはるにおいては、かれたしかに、くに安定あんていをもたらすはしらひとつとなっていた。 そしてそのしずかなあゆみが、激動げきどう時代じだい一筋ひとすじやすらぎをあたえていたことも、また事実じじつであろう。




〇書簡の中の世界 —— 馮道、諸国の動きを奏上す


馮道ふう・どう外交手腕がいこうしゅわん――周辺諸国しゅうへんしょこく情勢分析じょうせいぶんせき


長興ちょうこう三年さんねん――西暦せいれき九二九年きゅうひゃくにじゅうきゅうねんなつ洛陽らくようみやこは、じんわりとした陽射ひざしのなかにあった。


この季節きせつ洛陽らくよう政庁せいちょうでは、ひとりの老宰相ろうさいしょうふではしらせていた。馮道ふう・どうという。 五代十国ごだいじゅっこくという激動げきどう時代じだいにあって、数々(かずかず)の王朝おうちょうつかえつつ、たみまつりごとまもいた稀有けう文人官僚ぶんじんかんりょうである。


このかれいていたのは、とき皇帝こうてい――李嗣源り・しげんのちに「明宗めいそう」とばれる人物じんぶつ――にてた書簡しょかん内容ないようは、中原ちゅうげん以外いがい周辺諸国しゅうへんしょこくうごきについての報告ほうこくであった。


戦火せんかれた国土こくどに、ようやく一時いちじ平穏へいおんもどってきたいま馮道ふう・どうはその安寧あんねいまもるため、とおくの情勢じょうせいにもひからせていた。


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上奏文じょうそうぶん


陛下へいかのご英明えいめいによって政務せいむ安定あんていし、たみ農作のうさくにいそしみ、都市としむらおだやかにございます。 しん馮道ふう・どうは、枢密副使すうみつふくしとして各国かっこくうごきを見守みまもっております。ここに、近年きんねん周辺諸国しゅうへんしょこく動向どうこう簡潔かんけつにご報告ほうこくもうげます。


第一だいいち【北方の(ほっぽうの)契丹きったん


きた勢力せいりょくばしている遊牧国家ゆうぼくこっか契丹きったん現在げんざいの遼〈りょう〉)は、急速きゅうそく国力こくりょくしています。 首長しゅちょう耶律徳光やりつ・とっこう。かつての耶律阿保機やりつ・あぼきで、強硬きょうこう政治家せいじかです。 去年きょねん渤海ぼっかいという東北とうほくアジアのくにほろぼし、広大こうだい領土りょうど獲得かくとくしました。 軍事力ぐんじりょくたかく、うま機動力きどうりょくかした戦術せんじゅつ油断ゆだんできません。現在げんざいはまだ中原ちゅうげんばす気配けはいせませんが、警戒けいかい必要ひつようです。


第二だいに西南せいなん後蜀こうしょく


四川盆地しせんぼんち拠点きょてん後蜀こうしょくは、もととう地方政権ちほうせいけんでしたが、現在げんざい孟知祥もう・ちしょう政権せいけんにぎっています。 みやこ成都せいとゆたかな経済けいざいやままもりにめぐまれています。 外征がいせい意図いとえませんが、財政力ざいせいりょくはあり、そなえをおこたれば一気いっき進軍しんぐんしてくる可能性かのうせいもあります。


第三だいさん南東なんとう


長江ちょうこう流域りゅういき支配しはいする「」は、形式上けいしきじょう楊溥よう・ふおうですが、実権じっけん有力ゆうりょく家臣かしん徐温じょ・おんやその養子ようし徐知誥じょ・ちこうらがにぎっています。 ゆたかな土地とち水路すいろささえられ、軍船ぐんせんおお保有ほゆう長江ちょうこうたてに、きたへの警戒けいかいおこたっていません。 いまのところ、対外進出たいがいしんしゅつうごきはえませんが、国力こくりょくあなどれません。


第四だいし荊南けいなんなどの地方政権ちほうせいけん


南部なんぶには馬殷ば・いん荊南けいなん高季興こう・きこうなど、地方ちほう有力者ゆうりょくしゃがそれぞれ独立どくりつした政権せいけん維持いじしています。 これらの勢力せいりょくは、とき後蜀こうしょく連携れんけいをとりながら、自立じりつまもっています。 中央政府ちゅうおうせいふからの直接支配ちょくせつしはいむずかしく、政治的せいじてききが今後こんご必要ひつようになるでしょう。


________________________________


馮道ふう・どうふでいた。すみかおりがふわりとただよい、まどこうのにわへとけていく。


いくさった――ようにえる。だが、それはあくまで一時いちじしずけさであり、実際じっさいには各地かくちあらたなうごきがうごめいている。 宰相さいしょうとして、馮道ふう・どうはその気配けはい見逃みのがすまいとしていた。


そとり、うちおさめること。これこそ、治世ちせいいしずえにございますな……」


そうつぶやき、書簡しょかん文箱ふばこおさめたかれかおには、年齢ねんれいかさねたものならではのきと、しずかな責任感せきにんかんかんでいた。


この馮道ふう・どう書簡しょかん皇帝こうてい明宗めいそうのもとへととどけられた。 みやこはまだおだやかにねむっていたが、国家こっか屋台骨やたいぼねは、こうしたえぬ知恵ちえ判断はんだんうえささえられていたのである。


それが、九二九年きゅうひゃくにじゅうきゅうねんなつのことであった。




〇揺れる帝座ていざ —— 馮道、静かなる憂い


明宗めいそう治世ちせい馮道ふう・どううれ


長興ちょうこう三年さんねん西暦せいれき九二九年きゅうひゃくにじゅうきゅうねん)のあき洛陽らくようそらには、がんひくれつをなしてんでいた。 かぜかれてれるすすきこう、政庁せいちょうではひとりの老宰相ろうさいしょうつくえかっていた。


その馮道ふう・どう後唐ごとう宰相さいしょう、そして枢密副使すうみつふくしという高位こういにありながら、なおおのれつつしみ、ふでとでくにつめつづけていた文人官僚ぶんじんかんりょうである。


書棚しょだなふる竹簡ちくかんすと、馮道ふう・どうひとりごちた。


「……まつりごとみずのごとし。うつわおうじてかたちえる。だが、うつわがひびれていては……みずとどまらぬ」


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らぐ政治せいじ均衡きんこう


後唐ごとうだい2だい皇帝こうてい李嗣源り・しげん――明宗めいそうは、かつて猛将もうしょうとしてせた人物じんぶつである。 先帝せんてい荘宗そうそう急死きゅうして、ぐんひきいてみやこはいり、みずか帝位ていいいた。


即位当初そくいとうしょ政務せいむは、おおむ平穏へいおんだった。いくさけ、農政のうせいととのえ、文官ぶんかんおもんじる。馮道ふう・どうのような儒臣じゅしん進言しんげんれ、朝廷ちょうていにはことわりとおっていた。


だが、ときち、まつりごと均衡きんこう次第しだいくずれていく。


________________________________


宦官かんがん軍閥ぐんばつかげ


宦官かんがんどもが、また酒宴しゅえんにかこつけて、宰相職さいしょうしょくかろんじております」


そう耳打みみうちしたのは、尚書左丞しょうしょさじょう趙鳳ちょう・ほうである。 馮道ふう・どうおなじく文官ぶんかん中核ちゅうかくにある人物じんぶつで、にがわらみをかべながら報告ほうこくていた。


近頃ちかごろ宮中きゅうちゅうでは宦官かんがん寵臣ちょうしん――とりわけ皇帝こうてい側近そっきんたち――の対立たいりつ激化げきかしていた。 ときに皇族こうぞくまでもが派閥はばつつらなり、御前ごぜん会議かいぎ陰鬱いんうつ空気くうきまりはじめていた。


明宗めいそう自身じしんも、軍閥ぐんばつ出身しゅっしんであった。かつて戦場せんじょういたものとして、地方ちほう軍人ぐんじんたちの影響力えいきょうりょく無視むしすることができなかった。 文官ぶんかん奏上そうじょうにも、しばしば「それでは地方ちほうしたがうまい」との言葉ことば却下きゃっかされるようになった。


陛下へいかは、帝位ていい安定あんていのぞんでおられる。それはようくわかる。だが、皇子こうしたちを各地かくちけて配置はいちするのは……火種ひだねをばらまくことにもなりかねぬ」


馮道ふう・どうは、趙鳳ちょう・ほうとも地図ちずひろげた。


皇子こうし李従榮り・じゅうえい河中かちゅうへ。李従厚り・じゅうこうぎょうへ。 その配置はいちは、忠誠ちゅうせいかためるどころか、むしろ諸侯しょこうとの軋轢あつれきみ、皇太子こうたいしをめぐるあらそいをまねいていた。


節度使せつどし――つまり地方軍ちほうぐんちょうたちは、しばしば自領内じりょうない独自どくじまつりごとおこなっていた。 なかには、中央ちゅうおうからのめいしたがわぬものあらわれ、ときには使者ししゃかえし、あるいは勝手かって貨幣かへい鋳造ちゅうぞうするものさえあった。


いまや、陛下へいか御座みくらまもるのは、けんよりも、言葉ことばよりも……疑心ぎしんではありますまいか」


________________________________


くにささえる覚悟かくご


まつりごとおもく、れる。


馮道ふう・どうはこの時代じだい構図こうずを、心中しんちゅうでなぞっていた。


――一方いっぽうに、皇帝こうてい文官ぶんかん、そして宦官かんがんたち。


――他方たほうに、地方ちほう軍閥ぐんばつ名目上めいもくじょう服属ふくぞくしているものの、そのじつなか独立国どくりつこくのような存在そんざい


この構図こうずはやがて、おおきなくずれをすであろう。 そのきざしはすでに、この九二九年きゅうひゃくにじゅうきゅうねん三十年さんじゅうねんあたりからはっきりとえていた。


ある馮道ふう・どう自邸じていにわで、一本いっぽんうめえだってながめていた。


「このえだのように、れぬよう、まがって……えるのみか」


かれには、明宗めいそううれいも、宦官かんがんさくも、節度使せつどしたちのあせりも、すべてうつっていた。 まつりごとおこなうとは、こうしたおおくの矛盾むじゅん不安ふあんを、だれにもづかせずにかかむことなのかもしれない。


それでも、かれふでち、明日あしたもまた、政庁せいちょうへとあしはこぶだろう。


くにささえるとは、まさしく、そういうことだった。

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