変節の宰相:馮道:1章:李存勗時代④
〇傾く帝影――李存勗と馮道、最後の諫言
時に926年、後唐の都・洛陽。春を待つにはいささか早く、城壁の外には灰色の雲が垂れ込め、時折、細い雨が舗道を濡らしていた。石畳のすきまに溜まった雨粒は、冬の寒さに打たれてなお凍らず、どこか涙のように揺れていた。
この年、歴史の歯車は、一つの終わりへと静かに回りはじめていた。
かつて後梁を滅ぼし、中原の地に新たなる王朝・後唐を打ち立てた荘宗・李存勗は、天命を得た名将として民から崇敬されていた。 その軍略の冴えと胆力は、戦火をくぐりぬけた武将たちすら一目を置くものであり、あの猛将・李嗣源(のちの明宗)さえ、長らく彼の旗の下で戦い抜いた。
しかし――人は得ると変わる。
荘宗の心は、帝位に就いてからというもの、徐々(じょじょ)に政務から離れ、代わって宮中には伶人たちの笑い声が響くようになった。伶人とは、本来なら舞や音楽で人々(ひとびと)を慰める芸人にすぎない。だが、帝の寵愛はその枠を越え、彼らは次第に政の場に口を出すようになっていった。
その最る者が、伶人・景進である。もとより軽妙な才を持つ男ではあったが、その狡猾さは一部の廷臣たちを越え、賄賂と讒言で地位を築き、官吏の人事にすら影響を及ぼすまでに至っていた。
「まこと、これは世も末か……」
政務を司る尚書省の一角で、馮道は静かに目を伏せた。灰色の朝が窓外を包み、彼の吐息は、白く薄く、空気に溶けていった。
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筆に込める憂い
馮道――この名は、五代十国という乱世において、時の流れと共に常に政の中枢にあり続けた希有の政治家である。剛胆ではないが柔らかく、理想を掲げるより現実に寄り添う。だが、そうした彼ですら、今の後唐の腐敗には憂いを隠せなかった。
かつての戦功著しい武将たちは、政務から遠ざけられ、何かにつけて伶人たちが帝の耳を支配していた。戦乱ののちに安定を求めていた民衆は、政治の不在に不安を募らせ、都には目に見えぬ不穏が澱のように積もり始めていた。
「陛下、どうか、民の声にお耳をお貸しくだされ」
馮道は何度も、何度も、上奏文を草した。ときには直言を避け、やわらかい比喩で諫め、ときには涙ながらに進言した。
ある晩、彼は夜半の政庁にて、燈火のもと筆を取った。墨は冷たく、筆先に思いが乗るたびに震えた。
「願わくば、朝に民の声を聴き、夕に忠臣の諫を容れ、 その徳、天に通じることを願う。 讒を信ずることなかれ、讃をもて遊ぶことなかれ。 これすなわち、帝王の要道なり」
だが、これらの言葉は、帝の心に届かなかった。
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傾く国
やがて、後宮には金と酒と音楽とが溢れ、朝議は遅れ、戦功を立てた武人たちの中には謀反の噂すら立ち始める。
とある日のこと。李嗣源の陣営から、不穏な空気が漂いはじめたと聞き及んだ馮道は、帝の前に進み出て言った。
「陛下、民は水にして舟を浮かべるものでございます。しかしまた、舟を覆すものも、またこの水――民でございます。どうか、忠言をお受け入れくだされ」
しかし、荘宗は笑って取り合わなかった。
「馮公、卿は憂い過ぎじゃ。民など、舞と酒があれば満足よ。景進が新たに曲を作った。そちも一度聴いてみよ」
――帝の笑顔は、まるで幼子のように無垢であった。だが、政の中枢に立つには、あまりに無邪気すぎた。
〇揺れる旗、裂ける忠――李嗣源起兵の刻
傾く帝影――李存勗と馮道、最後の諫言
時に九百二十六年――陰暦の春まだ浅き頃。
魏州、いまの河北省邯鄲に広がるその地は、北中国を巡る戦乱の只中にあって、常に軍馬の蹄音と共に歴史の渦中を歩んできた。 かつてここは、唐末の名将・李克用が命を賭して守り抜いた地。 そしていま、その養子であり、後唐の柱石たる李嗣源が、その地を預かっていた。
李嗣源―― もと契丹系の血を引く異色の武将であり、李克用に見込まれ養子となって以来、幾度の戦乱をくぐりぬけ、剛胆と寛容を兼備えた器量で、多くの兵の心を掴んできた。 だが、時の帝・李存勗――かつての戦友、いまの君主は、変わってしまった。
都・洛陽では、伶人が幅をきかせ、朝議は遅れ、功臣たちは遠ざけられていた。 何より、嗣源に与えられた官位と責務は、彼の長年の功績にまるで見合わぬものであり、臣下であればこそ黙していたが、兵たちの中では囁かれていた。
――なぜ、我らの将軍が、京に召されぬのか。 ――なぜ、あの景進のような道化者が、政を左右するのか。
そしてある日、兵たちは、自ら嗣源の前に進み出て言った。
「将軍、帝のもとへ剣を向けよとは申しません。ただ、このままでは、国が滅びます。 どうか、お立ちあがりください。我ら、命を賭して、将軍をお支えいたします」
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馮道の苦悩
その報せが、洛陽に届いたとき―― 尚書省の奥にて、馮道は、長く筆を止めたまま、書簡を見つめていた。
「……ついに、起こったか」
馮道は、理の人である。大義を語ることも、激情に任せて行動することもない。 だが、このときばかりは、その静かな眼差しの奥で、古い傷が疼いていた。
李嗣源――彼とは旧知の間柄であった。 かつて戦場において、寒風のなか交わした言葉も、血を洗った河原の記憶も、なお胸に残っている。
そして今――彼は、叛いた。
だが、馮道にはわかっていた。 それは「謀反」ではなかった。むしろ、国家の崩壊を未然に防がんとする、苦渋の選択だったのだと。
「忠を尽くせば、友を討たねばならぬ。 友を助ければ、君を裏切ることになる。 これは……天の試練というものか」
そう呟きながら、馮道はひとり、炎の灯る蠟燭の下で、揺れる心を封じた。
彼は、李存勗に忠を誓った。 それは、臣下としての当然の筋であり、自らの政治的立場を守るためにも避けられぬことだった。 だがその一方で、李嗣源という男の清廉さを、誰よりも知っていた。
もし、天命が再び嗣源に移るのだとしたら―― それもまた、この国にとっては一つの救いであるのかもしれない。
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洛陽の空の下
洛陽の城門に近き郭外の道。
夕刻、馮道はふと馬を停め、東の空を仰いだ。 かつて主君・李存勗と共に歩んだ幾多の戦地も、今では過去の記憶となり、ただ風が吹き抜けるばかり。
「陛下……願わくば、なにゆえにここまで、忠臣たちを遠ざけられたのです」
彼の視線の先には、かすかに魏州の方角が霞んで見えた。
あちらでは、嗣源が旗を翻し、兵を整え、すでに北伐の構えを見せているという。 軍には規律があり、略奪は禁じられ、民を害する報せはなかった。
それはまるで、戦いの中にあっても秩序を重んじる、嗣源らしい軍の姿であった。
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乱世の覚悟
「わたしは、李存勗様に仕えております。しかし……」
馮道はひとり呟き、風の中にその言葉を溶かした。
「――しかして、この国に仕える者でもあります」
主君への忠と、かつての友への情。 そのどちらも嘘ではない。 だが、いま必要なのは、どちらの命がこの国を正すのかを見極めることであった。
馮道は、胸のうちに一つの覚悟を抱いた。 どちらが勝とうとも、自分は政を正し、民の安寧を第一とする――その決意を。
都の春は、まだ遠い。
だが魏州の方から吹いてくる風は、どこか優しく、まるで新たな季節の兆しを告げるかのようだった。
そして、馮道は歩み出した。 この乱世において、どんな旗が掲げられようとも、己の役目を違えぬために――。
〇雨にぬれる王城――荘宗の最期と明宗の夜明け
傾く帝影――李存勗と馮道、最後の諫言
九百二十六年、陰暦の春終わり。
都・洛陽は、かつて唐の栄華を極めた古の都でありながら、その城壁の内は、不穏と猜疑の風に満ちていた。 人々(ひとびと)は囁く――「魏州の軍が迫っている」と。 その軍を率いるは、かつて荘宗・李存勗の戦友であり、義兄弟とも言うべき将軍・李嗣源である。
嗣源の兵は、魏州を出てわずかにして諸州を次々(つぎつぎ)と降し、いまや都の喉元に迫っていた。 だが、この戦いには奇妙な静けさがあった。 各地の守将たちは、まるで待っていたかのように嗣源に呼応し、洛陽に近づくにつれて、血が流れることはなかった。
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帝の最期
李存勗――後唐の創建者、そして天下を一手に握った英主。
だが、その晩年は決して誉れ高いものではなかった。 戦場を知る将たちを遠ざけ、伶人――舞台に生きる者たち――を重用し、朝廷の機構は形ばかりとなった。
その伶人たちのひとり、**郭従謙**は、帝の寵愛を受け、兵権すらも握るほどに至る。 兵士たちの不満は、もはや堪えがたきものとなっていた。
そして、ある夜――
洛陽の北城にて火の手が上がり、混乱のなかで一隊の兵が御所を襲撃した。 それは李嗣源の兵ではなかった。 それは、長き不満の果てに、もはや何に従うべきかを見失った兵たちの、自発的な怒の噴出だった。
火の中、荘宗は、誰に看取られることもなく命を落とした。 その首を斬ったのが郭従謙であったとも、または郭従謙が兵に討たれた後のことであったとも、伝えは定かではない。
だが確かなのは、後唐を築いたその男が、志半ばにして、かくも寂しく世を去ったという事実である。
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新たな時代の到来
そして――
静かに、洛陽の城門が開かれた。 李嗣源は、血を流さぬままに都へと入った。
城内に兵の略奪はなく、民の叫びもなかった。 嗣源は、かつての同志たちと共に、かたく唇を結びながら、都の秩序を取り戻すことに専心した。
都人は、それを見て「明君来る」と囁いた。
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馮道の覚悟
尚書省の執務室。
馮道は、静かに硯の墨をすり、筆を取った。
「この日を、どのような言葉で記せばよいものか……」
彼はこの数ヶ月、政を預かる者として、沈黙を守ってきた。 忠義と現実、理と情のあわいに立ち尽くしながら。
そして今――その沈黙を破る時がきた。
かつての主、李存勗は、国を創った。 だが、国を保つことはできなかった。
李嗣源は、血ではなく秩序によって都を奪い返した。 それは馮道にとって、まぎれもない「国を守る者」の姿であった。
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国への忠誠
「私は、李嗣源様――いえ、陛下に忠を尽くします」
馮道は、ひとり声に出して誓いを立てた。 それは誰に強いられたものでもなく、彼自身の信念であり、国家を支える柱としての決意だった。
彼にとって、「忠」とは人に仕えることではなかった。 「忠」とは、天下と民とを第一に思い、変わるべきときには己を「己」を変える勇気をも含んでいた。
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洛陽の夜明け
城外の空は、雨だった。
しとしとと降るその雨の中で、洛陽はゆっくりと目を覚まし始めていた。 混乱は過ぎ、灯火が再び街道を照らし、鍛冶の音が戻り、子らの声が広がる。
馮道は、その光景を遠くから見つめ、こう呟いた。
「世が再び安んじるならば、たとえ千の非難を受けようとも、筆を捨てはせぬ」
嗣源の即位は、荘宗の死という悲劇の上に成り立っていた。 だが、それでもなお、国が動いてゆくのなら――
この政を、背負い続けることに、悔いはなかった。
雨は静かに降り続ける。
洛陽の瓦に、李嗣源の新しき朝が、少しずつ滲み始めていた。