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変節の宰相:馮道:1章:李存勗時代③

〇『洛陽の空の下にて――馮道記す』


都(みやこ)が落(お)ちるというのは、ただ一(ひと)つの城門(じょうもん)が破(やぶ)られることではございませぬ。 それは、国(くに)の骨(ほね)が軋(きし)み、血(ち)が止(と)まり、魂(たましい)が流(なが)れ去(さ)る音(おと)でございます。


私(わたし)がそれを目(ま)の当(あ)たりにしたのは、開封(かいほう)陥落(かんらく)のその後(ご)、洛陽(らくよう)の地(ち)に立(た)ったときのことでございました。


________________________________


後梁(こうりょう)の終焉(しゅうえん)


晋王(しんおう)・李存勗(り・そんきょく)様(さま)率(ひき)いる後唐(ごとう)軍(ぐん)が、黄河(こうが)を越(こ)えて後梁(こうりょう)の首都(しゅと)・開封(かいほう)を落(お)とされたのは、まさに戦神(せんしん)が筆(ふで)で描(えが)いたかのような電光石火(でんこうせっか)の進撃(しんげき)でございました。


この知(し)らせが洛陽(らくよう)に届(とど)いたとき、後梁(こうりょう)の末帝(まってい)・朱友貞(しゅ・ゆうてい)――諡号(しごう)では「哀帝(あいてい)」と記(しる)されることになるその方(かた)は、狼狽(ろうばい)し、身内(みうち)も重臣(じゅうしん)も置(お)き去(ざ)りにしたまま、ただ己(おのれ)の命(いのち)を保(たも)たんとして都(みやこ)を捨(す)て、洛陽(らくよう)へと逃(に)げ込(こ)まれました。


しかし、天(てん)の理(ことわり)は容赦(ようしゃ)なく、 そのお逃(に)げになった先(さき)でさえ、戦火(せんか)の風(かぜ)は容赦(ようしゃ)なく帝(みかど)を追(お)いつめたのでございます。


洛陽(らくよう)での朱氏(しゅし)の末路(まつろ)について、私(わたし)は多(おお)くを語(かた)りませぬ。 ただ、かの方(かた)が最後(さいご)に見たのが、滅(ほろ)びゆく王朝(おうちょう)の空(そら)であったことは、間違(まちが)いございませぬ。


________________________________


新(あら)たな任(にん)


そして、その報(しら)せが届(とど)いた日(ひ)――


私(わたし)は開封(かいほう)の一角(いっかく)で、帳簿(ちょうぼ)を巻(ま)き、兵站(へいたん)の確認(かくにん)を終(お)えたところでございました。 すると、思(おも)いもよらぬ勅使(ちょくし)が馬蹄(ばてい)の音(おと)を立(た)てて駆(か)け寄(よ)ってまいりました。


「馮道(ふう・どう)殿(どの)、洛陽(らくよう)へおいでいただきたい。新(あら)たな御所(ごしょ)より、正式(せいしき)な命(めい)にてございます」


――新(あら)たな御所(ごしょ)。


このたったひとことが、私(わたし)の背筋(せすじ)に、凛(りん)とした緊張(きんちょう)を走(はし)らせたのです。


________________________________


洛陽(らくよう)の再生(さいせい)


洛陽(らくよう)に入(はい)った私(わたし)が目(め)にしたものは、 都(みやこ)の門(もん)は開(ひら)かれ、街(まち)は不安(ふあん)と疲労(ひろう)の色(いろ)を滲(にじ)ませながらも、なんとかその形(かたち)を保(たも)っておりました。


兵(へい)は秩序(ちつじょ)を守(まも)り、民(たみ)は静(しず)かに息(いき)を呑(の)み、 そして、存勗様(そんきょくさま)は高台(たかだい)に立(た)って、かの旧都(きゅうと)を見渡(みわた)しておられました。


「ここを都(みやこ)とする」 そのお言葉(ことば)は、どこか静謐(せいひつ)で、しかし力強(ちからづよ)く、一(ひと)つの時代(じだい)の始(はじ)まりを告(つ)げる鐘(かね)のようでもございました。


________________________________


筆(ふで)の使命(しめい)


やがて私(わたし)は、洛陽(らくよう)の政庁(せいちょう)へと呼(よ)び出(だ)されました。 軍略(ぐんりゃく)の才(さい)ある者(もの)は数多(かずおお)くとも、政(まつりごと)をまとめる者(もの)は、まだ少(すくな)うございましょう。 ましてや、開封(かいほう)の戦(いくさ)の裏方(うらかた)として名(な)を知(し)られた私(わたし)を、使(つか)わぬ道理(どうり)はございません。


「馮道(ふう・どう)よ、今(いま)より洛陽(らくよう)の政(まつりごと)を取(と)りまとめ、我(わ)が国(くに)の根(ね)を築(きず)け」 そう仰(おお)せつかったとき、私(わたし)は再(ふたた)び、筆(ふで)を手中(しゅちゅう)にする覚悟(かくご)を新(あら)たにいたしました。


剣(けん)ではなく、策(さく)でもなく、筆(ふで)にて国(くに)を支(ささ)える―― 私(わたし)がこの地(ち)で為(な)すべきことは、ただ一(ひと)つ。 戦(いくさ)の後(あと)に、民(たみ)が生(い)き、日(ひ)が昇(のぼ)る、その地盤(じばん)を築(きず)くことでございます。


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時代(じだい)の転換(てんかん)


後梁(こうりょう)の崩壊(ほうかい)は、一(ひと)つの世(よ)の終(お)わりを示(しめ)し、 そして、後唐(ごとう)の勃興(ぼっこう)は、新たなる流(なが)れのはじまりを告(つ)げました。


洛陽(らくよう)の空(そら)の下(した)、私(わたし)は思(おも)います。 国(くに)とは、王(おう)とは、民(たみ)とは―― その問(と)いに、私(わたし)は筆(ふで)を以(もっ)て応(こた)えねばならぬのだと。


(語(かたり):馮道(ふう・どう))



〇馮道、洛陽での政(まつりごと)


――後唐(ごとう)・長興(ちょうこう)元年(がんねん)(923年)――


洛陽(らくよう)の空(そら)には、早春(そうしゅん)の淡(あわ)い霞(かすみ)がかかっていた。かつて東都(とうと)と呼(よ)ばれたこの地(ち)も、いまや度重(たびかさ)なる戦火(せんか)に焼(やか)れ、城門(じょうもん)の周囲(しゅうい)には半(なか)ば崩(くず)れかけた家屋(かおく)が並(なら)んでいる。だが、そんな荒(あ)れ果(は)てた都(みやこ)にも、ようやく新(あら)たな風(かぜ)が吹(ふ)き込(こ)みつつあった。


その風(かぜ)の名(な)は――馮道(ふう・どう)である。


馮道(ふう・どう)、字(あざな)は可道(かどう)。かつての晋陽(しんよう)に生(う)まれ、温厚(おんこう)にして才(さい)を備(そな)え、権謀(けんぼう)よりも仁徳(じんとく)を重(おも)んじる人柄(ひとがら)として知(し)られる。彼(かれ)がこのたび、後唐(ごとう)の新帝(しんてい)・荘宗(そうそう)**李存勖(り・そんきょく)**により、洛陽(らくよう)の再建(さいけん)を命(めい)じられたのであった。


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民(たみ)の暮(く)らしを第一(だいいち)に


政務(せいむ)の初日(しょにち)は、あまりに静(しず)かであった。官署(かんしょ)に集(あつ)められた書吏(しょり)たちは、皆(みな)、一様(いちよう)に疲弊(ひへい)した顔(かお)をしている。戦(いくさ)で家族(かぞく)を失(うしな)った者(もの)、逃散(とうさん)から戻(もど)った者(もの)、あるいは朝令暮改(ちょうれいぼかい)に振(ふ)り回(まわ)されてきた者(もの)も少(すく)なくない。そんな中(なか)、馮道(ふう・どう)は静(しず)かに口(くち)を開(ひら)いた。


「余(よ)がここに来(き)たのは、ただ一(ひと)つ――民(たみ)の暮(く)らしを、もとに戻(もど)すためである」


それは、決(けっ)して声高(こえだか)な言葉(ことば)ではなかった。だが、その口調(くちょう)には澱(よど)みなき確信(かくしん)が宿(やど)っていた。


まず彼(かれ)が手(て)をつけたのは、地方官吏(ちほうかんり)の選定(せんてい)であった。戦功(せんこう)や出自(しゅつじ)にこだわらず、実務(じつむ)に堪(た)える人物(じんぶつ)を一人(ひとり)ひとり抜擢(ばってき)していく。中(なか)には、先帝(せんてい)時代(じだい)に冷遇(れいぐう)されていた才人(さいじん)も含(ふく)まれていた。


「政(まつりごと)は、剣(けん)よりも筆(ふで)を重(おも)くせねばならぬ」


そう語(かた)る馮道(ふう・どう)の施政方針(しせいほうしん)は、徹底(てってい)して文治主義(ぶんちしゅぎ)に貫(つらぬ)かれていた。


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租税(そぜい)の改革(かいかく)と民(たみ)の回復(かいふく)


租税制度(そぜいせいど)も、根本(こんぽん)から見直(みなお)された。過酷(かこく)な徴発(ちょうはつ)と刑罰(けいばつ)は控(ひか)えられ、代(か)わって用意(ようい)されたのは、民(たみ)ごとの戸籍(こせき)を整(ととの)えたうえでの公正(こうせい)な課税(かぜい)体制(たいせい)である。兵(へい)を失(うしな)い、田(た)を荒(あら)らされた村々(むらむら)には、まず灌漑(かんがい)と農具(のうぐ)を支給(しきゅう)し、開墾(かいこん)の補助(ほじょ)を与(あた)えた。


「刑(けい)はやみくもに用(もち)いてはならぬ。人(ひと)は、恐(おそ)れてではなく、信(しん)じて従(したが)うべし」


その言葉(ことば)どおり、馮道(ふう・どう)は一人(ひとり)ひとりの官人(かんじん)に、刑罰(けいばつ)の執行(しっこう)を最小限(さいしょうげん)に抑(おさ)えるよう命(めい)じていた。


やがて、洛陽(らくよう)の街(まち)に、かすかに笑(わら)い声(ごえ)が戻(もど)ってきた。市(いち)では物売(ものう)りの声(こえ)が響(ひび)き、耕(たがや)されたばかりの畑(はたけ)からは若芽(わかめ)が顔(かお)を出(だ)す。民(たみ)の姿(すがた)も、次第(しだい)に力強(ちからづよ)さを取(と)り戻(もど)しつつあった。


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主君(しゅくん)への諫言(かんげん)


だが、馮道(ふう・どう)とて、ひたすらに穏(おだ)やかであったわけではない。


ある日(ひ)の政務後(せいむご)、馮道(ふう・どう)は自(みずか)らの筆(ふで)で、荘宗(そうそう)皇帝(こうてい)に上奏文(じょうそうぶん)をしたためていた。


「近時(きんじ)、征伐(せいばつ)多(おお)く、民心(みんしん)、やや疲(つか)れたり。今(いま)は戦(いくさ)よりも治(ち)を先(さき)んずべし――」


その文面(ぶんめん)には、忠誠(ちゅうせい)とともに、苦言(くげん)が添(そ)えられていた。決(けっ)して阿(おもね)らず、しかし節度(せつど)をもって、主君(しゅくん)に諫言(かんげん)するその姿勢(しせい)は、やがて多(おお)くの官吏(かんり)の尊敬(そんけい)を集(あつ)めていくこととなる。


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春(はる)の雨(あめ)のごとき政(まつりごと)


後(のち)に人々(ひとびと)は語(かた)ったという。


「馮公(ふうこう)の政(まつりごと)は、春(はる)の雨(あめ)のごとし。静(しず)かにして万物(ばんぶつ)を潤(うるお)す」


かくして、乱世(らんせ)にあって一人(ひとり)の賢人(けんじん)が、洛陽(らくよう)に再(ふたた)び人(ひと)の世(よ)の温(ぬく)もりをもたらしたのであった。




〇前蜀の終焉――激動の四川と馮道の支え


――925年(ねん)、五代十国(ごだいじゅっこく)の乱世(らんせ)――


唐王朝(とうおうちょう)の崩壊(ほうかい)から数十年(すうじゅうねん)。かつての広大(こうだい)な帝国(ていこく)の跡地(あとち)は、多(おお)くの群雄(ぐんゆう)が割拠(かっきょ)し、戦乱(せんらん)の炎(ほのお)が絶(た)え間(ま)なく燃(も)え盛(さか)っていた。中(なか)でも四川盆地(しせんぼんち)は、その豊(ゆた)かな自然(しぜん)ゆえに、古来(こらい)より「蜀(しょく)」と呼(よ)ばれ、人々(ひとびと)の暮(く)らしの場(ば)として栄(さか)えてきた。しかし、そんな土地(とち)にも時代(じだい)の波(なみ)は押(お)し寄(よ)せていた。


その地(ち)に立(た)てられた前蜀(ぜんしょく)は、わずかな期間(きかん)ながら独立(どくりつ)を果(は)たし、かつての蜀漢(しょくかん)の面影(おもかげ)を忍(しの)ばせる政治(せいじ)と文化(ぶんか)を育(はぐく)んだ。しかし、勢力(せいりょく)を伸(の)ばす後唐(ごとう)にとって、この西(にし)の国(くに)は看過(かんか)できぬ障壁(しょうへき)であった。


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四川(しせん)の戦況(せんきょう)


四川(しせん)の山河(さんが)は、常(つね)に変(か)わりやすい天候(てんこう)と険(けわ)しい地形(ちけい)が特徴(とくちょう)である。雲(くも)が低(ひく)く垂(た)れ込(こ)め、谷間(たにま)には霧(きり)が立(た)ちこめる。広大(こうだい)な盆地(ぼんち)の中(なか)に点在(てんざい)する城砦(じょうさい)は、自然(しぜん)の要塞(ようさい)でもあったが、長期間(ちょうきかん)の戦乱(せんらん)により徐々(じょじょ)に疲弊(ひへい)していた。


前線(ぜんせん)で戦(たたか)う兵(へい)たちは、幾重(いくえ)にも重(かさ)なる険(けわ)しい峠(とうげ)を越(こ)え、息(いき)を切(き)らせながら砦(とりで)の守(まも)りを固(かた)めていた。彼(かれ)らの手(て)には冷(ひ)え切(き)った剣(けん)、背(せ)には重(おも)い甲冑(かっちゅう)。疲労(ひろう)は隠(かく)せないが、その目(め)はひたすら祖国(そこく)の未来(みらい)を見据(みす)えている。


「我々(われわれ)は蜀(しょく)の民(たみ)を守(まも)る最後(さいご)の盾(たて)だ」


そんな決意(けつい)が、荒(あ)れ果(は)てた野営地(やえいち)の焚火(たきび)の中(なか)で囁(ささや)かれる。だが、後唐(ごとう)の大軍(たいぐん)は数(かず)の上(うえ)でも兵力(へいりょく)の質(しつ)でも優勢(ゆうせい)であり、徐々(じょじょ)に防衛線(ぼうえいせん)を押(お)し下(さ)げていた。


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馮道(ふう・どう)の支(ささ)え


一方(いっぽう)、遠(とお)く洛陽(らくよう)にて政務(せいむ)を執(と)る馮道(ふう・どう)の胸中(きょうちゅう)は、静(しず)かでありながら燃(も)えていた。


彼(かれ)は戦(いくさ)の指揮官(しきかん)ではない。だが、政治家(せいじか)としての手腕(しゅわん)を駆使(くし)し、前線(ぜんせん)の兵士(へいし)たちに「生(い)きるための後方支援(こうほうしえん)」を届(とど)ける使命(しめい)を帯(お)びていた。


戦火(せんか)で荒(あ)れ果(は)てた各地(かくち)の戸籍(こせき)は乱(みだ)れ、税収(ぜいしゅう)は途絶(とぜつ)え、農地(のうち)は耕(たがや)されぬまま放置(ほうち)されている。馮道(ふう・どう)はまず、これらを一つ(ひと)つ(ひと)つ丁寧(ていねい)に洗(あら)い直(なお)すことから始(はじ)めた。


「人(ひと)は、正(ただ)しく管理(かんり)され、支(ささ)えられることで初(はじ)めて国家(こっか)の礎(いしずえ)となるのだ」


役人(やくにん)たちには、戦功(せんこう)や血筋(ちすじ)よりも、誠実(せいじつ)かつ有能(ゆうのう)な者(もの)を任用(にんよう)するよう命(めい)じた。現場(げんば)の実務能力(じつむのうりょく)こそが、この混乱期(こんらんき)の復興(ふっこう)を左右(さゆう)すると信(しん)じていた。


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兵糧(ひょうろう)と献策(けんさく)


兵糧(ひょうろう)の確保(かくほ)は、馮道(ふう・どう)の最大(さいだい)の課題(かだい)の一(ひと)つであった。洛陽(らくよう)の倉庫(そうこ)には戦(いくさ)に必要(ひつよう)な米(こめ)や塩(しお)、薬品(やくひん)、武具(ぶぐ)が蓄(たくわ)えられていたが、これを遠(とお)く四川(しせん)まで運(はこ)ぶ道(みち)は危険(きけん)に満(み)ちている。何度(なんど)も輸送路(ゆそうろ)の整備(せいび)を指示(しじ)し、盗賊(とうぞく)の取(と)り締(しま)りを強化(きょうか)。物資(ぶっし)が前線(ぜんせん)に届(とど)くまでの時間(じかん)を可能(かのう)な限(かぎ)り短縮(たんしゅく)した。


そのため、彼(かれ)は現地(げんち)からの報告(ほうこく)に耳(みみ)を澄(す)ませ、前線(ぜんせん)の声(こえ)を行政(ぎょうせい)の中枢(ちゅうすう)に反映(はんえい)させた。兵士(へいし)たちの苦難(くなん)を少(すこ)しでも和(やわ)らげるため、医薬品(いやくひん)の配給(はいきゅう)や補給計画(ほきゅうけいかく)も緻密(ちみつ)に練(ね)った。


洛陽(らくよう)の政務室(せいむしつ)で書(しょ)を執(と)る馮道(ふう・どう)の姿(すがた)は、戦乱(せんらん)の中(なか)にあっても毅然(きぜん)としていた。


「戦(いくさ)とは、ただ人(ひと)を殺(あや)めるものではない。命(いのち)を守(まも)り、再(ふたた)び生(い)きる場所(ばしょ)を築(きず)く営(いとな)みだ」


その言葉(ことば)は、彼(かれ)の同僚(どうりょう)たちの胸(むね)に響(ひび)き、多(おお)くの賛同者(さんどうしゃ)を生(う)んだ。政務(せいむ)の合間(あいま)に、馮道(ふう・どう)は戦況(せんきょう)を見(み)つめ、上奏文(じょうそうぶん)に苦言(くげん)を交(まじ)えながら、主君(しゅくん)・後唐皇帝(ごとうこうてい)荘宗(そうそう)へ献策(けんさく)を重(かさ)ねていった。


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歴史(れきし)に残(のこ)る賢人(けんじん)


こうして、戦(たたか)いの前線(ぜんせん)と後方(こうほう)は表裏一体(ひょうりいったい)となって動(うご)いた。前蜀(ぜんしょく)の守(まも)る四川(しせん)の城砦(じょうさい)は徐々(じょじょ)に揺(ゆ)らぎ、最終的(さいしゅうてき)に後唐(ごとう)の勢力(せいりょく)により制圧(せいあつ)されたが、その過程(かてい)で馮道(ふう・どう)の後方支援(こうほうしえん)は多(おお)くの命(いのち)を救(すく)い、戦乱(せんらん)に疲(つか)れた民衆(みんしゅう)の生活(せいかつ)の一端(いったん)を支(ささ)えた。


「刀(かたな)が砕(くだ)けても、筆(ふで)は折(お)れぬ。政(まつりごと)の道(みち)は続(つづ)く」


その言葉(ことば)は、時代(じだい)を越(こ)え、後唐(ごとう)の復興期(ふっこうき)を支(ささ)えた賢人(けんじん)の姿(すがた)として歴史(れきし)に残(のこ)った。

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